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夜明けの晩に屋上で  作者: 青空野光
かささぎ学園
5/30

5.円盤

 かささぎ学園に転入して一週間。

 ようやく新しい生活に――というか、自身が置かれた環境に慣れてきた。

 それは二十九人いるクラスメイトが皆、同じ病状を抱える仲間だという安心感による部分が大きく、友達と呼べる存在も自然とできた。


「杉卜は自分ちの親に電話とかしてる?」

 右肩をくいくいと回しながら近づいてきたクラスメイトは、その名を渡辺(わたなべ)という。

「ううん。まだ思い出せていないんだ。その……家の人のこと」

 あの家には母親しかいないことだけわかっていた。

 だが、病気を発症してからこの学園に来るまでの一週間を自宅で過ごしていたにもかかわらず、僕はついに母親を母親だと認識することができなかった。

 それもこれもすべて病気のせいだということは、医者に説明を受けたし頭では理解している。

 それでもなお母親には、家族どころか見知らぬ他人に近い距離を感じていた。

「ん? 杉卜、どしたん?」

「……ごめん。それで、なんだっけ?」

「杉卜も一度、家族と電話で話してみたらどうかなって思って。それきっかけで良くなったやつも前にいたから」

「そっか……。じゃあ、今日の放課後にでも挑戦してみるよ」

「なんだよ挑戦って。大げさなやつだな」

 渡辺はケタケタと笑いながら、右肩をくいくいと回しながら自分の席へと戻っていった。


 放課後。

 生徒が使うことのできる電話はB棟の一階にある職員室に設置されている。

 コンクリートの渡り廊下を通り、B棟に足を踏み入れた時だった。

 保健室のドアが音もなく開くと、その狭い隙間から生えた白い手が、おいでおいでと手招きをした。


「杉卜くん、学園にはもう慣れた?」

 おそらくは母親と同世代の校医は、ふくよかな体を灰色の事務椅子に預けながらそう言った。

「はい。多少はですけど」

「そう。だったらよかったわ」

 彼女は机の引き出しの中から黒いファイルを取り出し、それをパラパラとめくりながら言葉を続けた。

「少しだけ質問をさせてもらってもいいかしら?」

「……質問、ですか?」

「そんなに緊張しなくてもいいわよ。べつにたいしたことじゃないから」

 白鳥先生は椅子の上で組んでいた足を下ろすと、膝をまっすぐこちらへと向けた。

「ここにきてから一週間になるけど、何か思い出したことは?」

「それが、まだなにも……」

「そう。でも焦らなくても大丈夫。症状には個人差があるけど、ほとんどの場合で予後が良いことは確認されているから」

 医者でカウンセラーでもある白鳥先生のその言葉に、僅かにではあったが肩の荷が軽くなった気がした。

「今なにか困っていることはある?」

「それは……特にないです。担任の安上先生もクラスのみんなも、とっても優しいので」

「あら。安上先生にあなたがそう言ってたことを伝えておくわね」

 それは恥ずかしいのでやめてほしい。

「じゃあ、生徒指導の宗方先生とは、あのあとなにか話をした?」

「宗方先生ですか? えっと、生徒手帳と寮の鍵を貰って……たぶんそれだけです」

「そう。……あの人は熱心で良い先生なんだけど、少し冷たいところがあるでしょう?」

 その問いに答えられるほど、僕は彼との交流をもっていなかった。

「宗方先生になにか言われたら、私のところに相談にきなさい。それ以外でも、なにかあったらここにくればいいからね」

「……はあ」

「それと最後に、もうひとつだけいいかしら?」

 白鳥先生は椅子を軋ませながら立ち上がった。

「あなたは記憶を取り戻したら、元いた場所に帰りたい? それとも、どこか別の場所に行きたい?」

「別の場所って……そんな選択肢があるんですか?」

「なかにはそういう生徒もいるのよ。まだ研究が進んでいないから憶測の域を出ないんだけど、発症の原因に記憶を失う前にあった出来事が関係してるかもしれないの」

 本当に記憶が戻るのであれば、たぶん僕は元いた場所に戻るべきなのだろう。

 なぜかはわからないが、そのことだけははっきりと感じていた。


 保健室を出て左に進めば、当初の目的地の職員室はすぐだった。

 ただこの時になって、数時間前に渡辺に宣言した”挑戦”の気持ちはだいぶ薄れてしまっていた。

 このまま踵を返して寮に戻ろうか。

 一瞬そう考えたが、先ほど白鳥先生とした会話を思い出す。

 たとえほんの少しでも、記憶を取り戻すヒントや手助けになる可能性があるのなら、それを試さない手はない。


 職員室の扉は開け放たれていた。

 一礼してから「失礼します」と声を出し、近くにいた教員――宗方先生に電話を使用する許可を求める。

「たしか君の家はお母さんと二人だったか?」

「はい。それで、用事があるわけではないんですけど、母と話せばなにか思い出せるかもしれないって思って」

「……よろしい。お母さんに元気な声を聞かせてさしあげなさい。ところで君は、電話の使い方はわかるか?」

「それは、はい。もちろん――」

 先生が視線を向けていた先に目をやりながらそう言い掛け、喉元まで出かけていた言葉を思わず飲み込んでしまう。

 そこにあったのは穴の空いたディスクが付いた”黒電話”というやつだった。

 存在そのものは知ってはいたが、実物を目にするのは初めてだ。

「……これって、番号のところを押せばいいんですか?」

 宗方先生は首を小さく横に振ってから、「残念ながらそうではない。これは所謂(いわゆる)黒電話というもので、昭和の時代にはどこの家庭にもあったものだ。現在おもに使用されているプッシュボタン式のそれとは発信の原理そのものが異なり、数字の書かれた円盤を回すことで電話線に信号が――」


「――というのが、この電話の基本的な使い方になる。なにか質問は?」

「……特には」

「よろしい」

 気が遠くなるような長い説明を終えた先生は満足げに小さく頷くと職員室から去っていった。

 スーツ姿のその背を見送ったあと、恐る恐る黒電話とやらに手を伸ばす。

 電話番号は事前に安上先生に問い合わせてメモしてあった。

 10個の穴が空いた透明なディスクに指を差し込み、半月型の金具が当たるまで回してから指を離す。

 そうすることで――非常に難儀ではあったが――十桁の番号を入力することができた。


 やけに重い受話器を顔に当てると、呼び出し音が鳴っているのが聞こえた。

 しばらくして、ガチャリという小さな音がし、そして。

『あああああああああああああああああああああああああああ』

「うわっ!」

 突然の出来事に思わず受話器を取り落としてしまう。

 本体の黒電話とカールした黒い線で繋がれた受話器は中空に投げ出されると、そのまま宙吊りになって左右にぶらぶらと揺れる。

 その間にも受話器のスピーカーからは、泣き声とも悲鳴ともとれない複数人の絶叫が吐き出されていた。

 急いで受話器を本体の上に戻すと、何事もなかったかのような静寂が戻って来る。

「いまのって……」

 もしかしたら番号を間違えてしまったのかもしれない。

 ただもしそうだとしても、あれはなんだったというのだ……。


 すっかりと興を削がれてしまい、無言のままで職員室をあとにする。

 いつの間にか曇りガラスの向こうの世界は赤みを帯び始めていた。

 人の気配のまったくない校舎の廊下は、やがて確実にやってくる夜を前にして、すでに少々薄暗い。

 リノリウムの床に擦れる上履きのキュっという音が、やけに大きく耳元で聞こえた。

 その時、上の階へと繋がる階段からピアノの音が聞こえた気がした。

 それは先ほどの耳障りな叫び声とは真逆の、とても心地の良い音色だった。

 たった数秒だけ立ち止まり、上の階へと続く階段の暗がりに目をやる。

「音楽室……かな」


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