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夜明けの晩に屋上で  作者: 青空野光
学園の嘘
22/30

22.重心

 昇降口から外に出ると寮のある東とは真逆の、夕方のオレンジがより濃い西の方角へと足を向けた。


 高さ幅ともに1メートルにも満たない小さな園芸倉庫には、じょうろとホースリールが並べて仕舞われている。

 町田さんからこの仕事を引き継いだ次の日にそれを知った僕は、彼女と同じように青色のホースではなく、銀色のじょうろを選んだ。

 花壇はそれほど広くはないが、3リットルしか水の入らないじょうろはすぐに(から)になってしまう。

 そのたびに、30メートルも離れた場所にある水道まで行かなければならなかった。


「ねえ、ユウ。私も園芸委員に入れてもらってもいい?」

「うん、いいよ。園芸委員じゃなくて花壇委員だけどね」

 たっぷりと水の入ったじょうろを彼女に手渡す。

「わっ、意外と重いねこれ」

「倉庫にホースもあるよ」

「あ、そうなの? ……でも、こっちのがいいかな」

 赤ん坊を抱き抱えるかのようにじょうろを持ち上げた彼女は、「たんとお上がりなさいね」と、花たちに優しく声を掛けながら水を浴びせ掛ける。

「ねえ、ユウ。このお花って、なんて名前か知ってる?」

 足元に向けられていた彼女の視線の先には、アサガオによく似た小さな花が咲いていた。

「ペチュニアだよ」

「へえ。あなたたちって、お名前もかわいいのね。花言葉ってあるのかな?」

「……さあ。そこまではわからないけど」


 ようやく花壇の花たちに水をやり終えた頃、校舎の壁を赤く照らしていた太陽は西の山並みの向こう側に、その丸い体を隠してしまっていた。


 寮へと続く道のりを並んで歩いていた時だった。

「……宗方先生って」

 彼女がポツリと口を開く。

 その教師の名前を耳にしたのは、生徒指導室を退出してから初めてのことだった。

「宗方先生って、今と昔とでは全然ちがったんだね」


 今から二時間前。


「私が彼女を殺した」

 あまりに唐突な告白に僕たちは顔を見合わせることすらできずに、その場で立ち尽くしたままで息を呑んだ。

 曇りガラスの窓を背にした先生は、机の上に置かれたビデオテープに目を落とすと、まるで独りごちるように喋り始めた。

「私はこの学園に赴任するより以前、別の学校で教鞭を執っていた。そこは至って普通の公立高校で、彼女は私のクラスの生徒の一人だった」


 私が担任を務めた一年二組は、男女の比率が等しい四十名のクラスだった。

 大学を卒業して母校の高校に赴任してから三年目で、初めて受け持ったクラスでもあった。

 その頃の私は生徒の信頼を得るための手段として、気さくで気の置けない教師を演じていた。

 ……いや。

 今にして思えば私が得ようとしていたのは、生徒の信頼などではなく生徒からの人気だった。

 文化祭の準備では子供らに混じって教室の飾り付けをし、副顧問だった男子テニス部ではバスを逃した部員を車で送ったりもした。

 類いまれな頭脳を持った秀才もいなければ、目も当てられぬ落ちこぼれもいない。

 表彰を受けるような優等生もいなければ、手に負えない問題児もいない。

 それは当時の私にとって理想に近いクラスだった。


 夏休みが終わり、そして二学期が始まった頃だった。

 男女の比率が等しかった私のクラスの重心が、ほんの少しだけ男子側に傾いた。

 一人の女子生徒が学校を休むようになったからだ。

 もっとも文部科学省が定義するところの不登校には至っておらず、当初は本人が申告していた通りに、体調不良がその原因だとばかり思っていた。

 黒板の前に立つと、自然と窓際の空席が視界の隅に映る。

 そのたびに短く溜め息が漏れ出た。


 九月も半ばを過ぎた頃。

 二週間分の授業の要点をノートにまとめて彼女の家を訪ねた。

 玄関で出迎えてくれた彼女は学校の制服を着用していた。

 もし保健室登校をしていたのなら、私の耳に入ってこないはずなどない。

 その時になり私は初めて、彼女が体調以外に問題を抱えていることを知った。

 しかし私は彼女の服装には一切触れずに、『もうすぐ中間テストだね』だとか、『クラスのみんなも心配してるよ』だとか、早口で一方的に語り掛け続けた。

 彼女はただ黙って、どうしようもなく下らない私の話を聞いていた。

 その顔はどこか遠い場所を見つめているようで、捉えどころがなかった。

 私が彼女の家に留まったのは、ほんの十分ほどでしかなかった。

 見送りに家の前まで出てきてくれた彼女に、『大丈夫だから』と、無責任も(はなは)だしい言葉を残して私は家路に就いた。


 彼女はなぜ制服を着ていたのか。

 その問いの答えは喉元まで出かかっていた。

 だが、どうしてもそれを口から吐き出すことができなかった。

 彼女が抱え込んでいる問題が私の想像を遥かに超えるものだという、静かで恐ろしい予感があった。


 九月の終わり。

 長かった残暑もようやく鳴りを潜め、すぐ目の前に秋の背中が見えてきた頃。

 教室で教鞭を振るう私のところにやってきた学年主任が、手で口元を隠しながらそっと耳打ちした。

 その瞬間、私の目の前の景色から色彩が失われた。


 通夜は彼女の自宅で執り行われていた。

 受付を済ませて家の敷居を(くぐ)る。

 すぐ左手の和室に大きな祭壇と、その正面に安置された白い棺が目に入った。

 他の弔問客の後ろに並び、やがて祭壇の正面までやってくる。

 焼香台に伸ばした右手が震えていた。

 棺の小窓から見えた彼女の横顔は、まるで眠っているかのように穏やかだった。

 彼女の前髪には水色のヘアクリップが付けられていた。

 それは彼女のトレードマークともいえる物だった。


『ねえ、先生。これって校則違反になるのかな?』


 いつだったか彼女にそう聞かれ、『大丈夫だよ』と答えたことがあった。

 彼女はコロコロと笑いながら、『よかった!』と言い、ヘアクリップの付いた前髪をゆらゆらと揺らした。

 私はこの期に及んで彼女の笑顔を思い出していた。

 それは許されないことだった。

 (せき)を切ったように涙が溢れ出した。

 それも許されないことだった。


 彼女のご両親は私のことを責めなかった。

 その代わりに一通の封筒を手渡された。

 中にはパステルカラーの便箋が入っていた。

 その上半分に書かれた丸い文字は、間違いなく彼女のものだった。

 私は次の瞬間には、地面に額と両掌を擦り付けていた。


 残暑が去ったばかりの十月の夜風はとても肌寒く感じられた。

 鋼鉄製の橋の欄干に至っては、氷でできているのではないかと思えるほどに冷たかった。

 赤錆の浮いた欄干に手を掛け、平均台のようなその上に直立する。

 あとはただ、ほんの少しだけ重心を前に傾けるだけだ。

 疲れ切った体が枯れ葉のように宙を舞い、やがて硬い地面に叩きつけられる。

 河川敷のコンクリートは、氷でできているのではないかと思えるほどに冷たかった。

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