21.再生
「……ねえ、ヒナ。この手紙って――」
「あ! ユウ! 時計!」
「へ?」
ベッド脇の目覚まし時計に目をやる。
「……あ」
さっきまで真下を指し示していた時計の短針が、いつの間にか8の文字盤の上にのしかかっていた。
それは即ち始業の時間がすぐ目の前にまで迫っているということだった。
「ヒナは先に教室に行ってて。僕も着替えたらすぐに行くから」
「ヤダ」
「なにも二人揃って遅刻する必要はないよ」
「ううん。だって私たちってもう、共犯者でしょ?」
遅刻が確定して開き直った僕たちは、いつも以上にゆっくり歩いて登園した。
そうして教室の前までやってきた時、廊下の向こう側から大きな体を上下左右に揺らしながら走ってくる担任教師の姿が見えた。
すでにショートホームルームの開始時刻は過ぎているので、彼も遅刻ということになる。
安上先生には昨日のことで申し訳ない思いがあった。
なので、遅刻を咎められることで少しでも相殺しようと、敢えてカジュアルに話し掛ける。
「おはようございます。すいません、朝比奈さんとお喋りをしていたら遅刻しました」
「はいはい、おはようございます。さあさあ二人とも、はやく席に着いてください」
その浅はかな目論見は、温厚な教師の前で呆気なく崩れ去った。
僕たちが席に着いたのとほぼ同時に教卓の前までやってきた先生は、少し毛深い両手を教卓の上に置き、教室中をぐるりと見渡してから口を開いた。
「おはようございます。明日の八月十三日から十五日までの三日間は、皆さんお待ちかねのお盆休みです」
夏休みがないこの学園にも、短いながらも盆休みは存在していた。
希望する生徒は自分の家に帰ることもできるそうだが、僕は当然のようにこの学園に残る選択をした。
それはヒナもまた同じだと、何日か前に聞いて知っていた。
「今日は午後の授業はありませんが、そのかわりに学園内の大掃除をやってもらいます。二人一組で場所を割り当てるので、昼休みが終わるまでにペアを組んでおいてください」
くじ引きでも出席番号順でもなく、生徒の自主性に任せるのが安上先生らしかった。
その寛容さを自身の子にも適用していれば、新聞記事に載るようなこともなかっただろうに。
そんな無責任な考えは、僕と先生が他人だから思いついたことだった。
彼はここでは僕たちの先生だが、家に帰ればその肩書きは父親に上書きされる。
それは教師ほど楽な仕事ではないのかもしれない。
昼食が終わったあと、十四組のペアに分かれた面々は、各々に割り当てられた現場へと向かう手筈となった。
「俺と杉卜は視聴覚室みたいだな」
僕の目と同じ高さにある関の口が動く。
「視聴覚室? この学園って、そんなものまであるんだ」
「俺もどこにあるかは知らないけどな。まあ、十中八九B棟の二階か三階だろ」
「じゃあ、とりあえずそっちのほうに行ってみよっか」
「そうだな」
清々しいほどのノープランで教室を出ていこうとした、その時だった。
「あ、ちょっと関くん」
どこからともなくヒナが現れ関を連れ去ってしまう。
ややして一人で戻ってきた彼女は、「ユウ、行くよ」と言い、僕の手を握り歩き出す。
「へ? 関は?」
「私の持ち場と変わってもらった」
だったら最初から僕と二人で組めばよかったのに。
そう口に出そうとした時、「妨害が入るかもしれないと思ったから、ギリギリまで偽装してたの」と、まるで諜報部員のようなことを彼女が言い出す。
「妨害って?」
「私、宗方先生に目を付けられてるから。あ、ユウもか」
残念ながら昨日からそうなった可能性が高い。
視聴覚室は思った通りB棟の三階にあった。
同じ階にある家庭科室では、二組のペア計四人による大掃除がすでに開始されていた。
「視聴覚室は僕たちだけなのかな?」
「うん。ここは動かせるものがほとんどないから。床のモップ掛けと机の水拭きだけでいいみたい」
彼女はスカートのポケットから木札の付いた鍵を取り出すと、分厚いドアの鍵穴に差し込み回した。
ガチャリという乾いた音が廊下に響き渡る。
視聴覚室の作りは音楽室のそれとよく似ていた。
壁にたくさん空けられた小さな穴は防音のためのものだろう。
窓には黒いカーテンが引かれており、その隙間から僅かに差し込む陽の光が床に細い光の線を落としている。
視聴覚室に入室した彼女は、いの一番にドアに鍵を掛けた。
次に手にしていたモップを部屋の入口近くの壁に立てかけ、そしてなにを思ったのか自らの胸元に手を突っ込んだ。
「……よいしょっと」
掛け声とともに彼女が服の中から取り出したのは、黒くて薄い箱のような物だった。
「なにそれ?」
「ビデオテープ。見たことない?」
「うん、初めてみた。ビデオって、なんの?」
彼女は僕の質問には答えず、巨大なラックが置かれた部屋の隅へと歩いていく。
「これかな? あ、ビンゴ。ユウ、どこでもいいから席に座って」
指示された通りに三十ほどある座席の中央付近に腰を下ろす。
すぐに隣にやってきた彼女が手にしたリモコンのボタンを押すと、黒板の上から畳サイズのスクリーンが降りてくる。
「掃除はしないの?」
「時間があったらね」
一応きいてはみたが、彼女が関に成り代わったその時点で、何か企みがあることはわかりきっていた。
「それで、それってなんなの?」
改めて問い訊ねてみる。
「さっきの手紙と一緒に輪ゴムで留められてたの」
なぜそんな物が――と口に出しそうになるが、答えは今から見る影像の中にあるはずだ。
「じゃあ、再生するね」
巨大なスクリーンに映し出されたのは、細かなノイズが乗った黒い背景だった。
右下に白い字で八桁の数字が表示されている。
最初の2002が西暦だとすれば、この映像は随分と昔のものらしい。
どうやら音声は記録されていないようだ。
次にスクリーンに映し出されたのは、縦長の白い看板に墨で書かれた『南家葬儀会場』という文字だった。
カメラを手にした人物が黙礼したのか、アスファルトの黒い地面に男物の革靴の先が映る。
シーンが替わり、たくさんの花で飾られた祭壇が映し出された。
中央には若い女性の写真が置かれている。
その正面で焼香を行う撮影者のものと思しき手は、気の毒なほどに震えていた。
再びシーンが転換する。
黒いスーツに身を包み険しい顔をした中年の男性と、同じく黒の留め袖を着た痩せた中年女性が、最初に映った看板の前に立ち撮影者を真っ直ぐに見据えている。
カメラが突然ぐらつき、足元の地面を数センチの距離で接写する。
「自主制作映画とか……なのかな?」
「待って。まだ続きがあるみたい」
彼女に制され口を噤みながらスクリーンに視線を戻すと、またしてもシーンが替わっていた。
真っ暗な夜道をふらふらと歩く撮影者は、高い場所に架かる橋の欄干に手を置いた。
『……すまない。本当に……すまなかった』
思わず声が出そうになる。
それは予告もなく映像に音声が乗ったからではなく、その声に聞き覚えがあったからだった。
『いまさら赦してほしいなどとは言わない。ただ……』
そして次の瞬間、真っ白な強い光がスクリーンを埋め尽くした。
思わず背けた視線の先には、魔法使いの杖のようにリモコンを水平に構えたヒナの姿があった。
「……やっぱり」
彼女はそう言うと、小さくため息をつきながらこちらに顔を向ける。
「ねえ、ユウ。私は今から行かなければいけないところがあるの」
「僕も行くよ」
彼女は即座に首を左右に振っていやいやをする。
「ダメ。ユウは掃除が終わったら教室に帰って」
今度は僕が首を振る番だった。
「いやだ。ヒナも一緒に帰ってくれるなら話は別だけど」
「ねえユウ、聞いて? 私はあなたに帰ってもらいたいの」
「だから帰らな――」
「そうじゃなくって!」
彼女の怒声は吸音性の高い壁と天井に吸い込まれ、すぐに耳が痛くなるような静寂が戻って来る。
「ユウには……ユウにはちゃんと、笑顔でこの学園から出て自分の家に帰ってほしい。渡辺くんやあの子みたいに、消えてほしくない。私が言っているのはそういうことなの」
いつの間にかヒナの大きな瞳に涙が浮かんでいた。
僕はこの時になりようやく、彼女のついていた嘘を見破ることができた。
「本当はヒナはもう、知っているんじゃないの?」
この学園が僕たちについているという、嘘の正体を。
「……」
彼女は僕の問い掛けに応じなかったが、逆にいえばそれが答えだった。
「ヒナ、行こう」
彼女の手を強引に取り指を絡ませる。
「僕も知りたいんだ」
ヒナが導き出した、答案の答えを。
「ちゃんと確かめたいんだ」
僕という存在の在処を。
たとえ今から向かおうとしているその場所が、この学園での生活の終着点になるとしても。
生徒指導室の前までやってくると、ヒナはノックをせずにドアを開けた。
そして次の瞬間にはズカズカと部屋の中へと分け入ってゆく。
こちらに背を向けて窓際に立っていた先生は、ゆっくりと振り返り僕たちの姿を認めると、「二度でも三度でも構わない。次からはノックをしてから入ってきなさい」と素っ気なく言い捨てると、再び窓の方に体を向けた。
「返し忘れていたものがあったので持ってきました」
先生は振り返って確認することすらせずに、「そうか。机の上にでも置いておいてくれ」と、なんの感情も無く言った。
ヒナは言われた通りに机の上にビデオテープを置く。
「すみませんでした。失礼します」
彼女はそう言うと、回れ右をして部屋を出ていこうとする。
事前の申し合わせでは、ビデオの映像について先生に聞くことになっていた。
「……ヒナ、ちょっと」
小声で呼び止めながら手を伸ばそうとした、その時だった。
「それは昔、私が受け持っていた生徒の葬儀の時の映像だ」
先生はいつの間にかこちらを向いて立っていた。
ヒナはその場で足を止め、背を向けたままで先生に話し掛けた。
「その子はなんで死んだんですか?」
先生は胸の前で組んでいた手をぶらりと下ろすと、口角をややあげながら言った。
「彼女は殺された。……いや。私が彼女を殺した」




