13.消灯
「おしまい」
ヒナは膝の上で本をパタンと閉じると、真っ白な裏表紙に視線を落としたまま口を開いた。
「つまらないお話だったね」
思ってもみなかった彼女のその感想を聞いた瞬間、頭の中心がカッと熱くなる。
それが怒りの感情に由来するものだとすぐにわかった。
「つまらなくないよ」
可能な限り語気を強めて抗議すると、勢いよく立ち上がり出口へと向かう。
直後に背後から聞こえた「ユウ! 待って!」という声を完全に無視して図書室から出た。
階段を一段とばしで降りながら、なぜ彼女の言葉にあれほど過剰に反応してしまったのかを考えた。
確かにあの本の内容は、高校生が読んで楽しいようなものではない。
小さな子供に向けられて書かれた本なのだから、それは当たり前のことだ。
そこに土足のままで勝手に立ち入っておいて、あの言いようはなんだというのだろう?
僕はきっと、それが許せなかったのだ。
寮に戻るといつものように着替えを済ませ、食堂で食事をとってから風呂へと向かった。
寮の風呂は十九時から二十一時までの間なら、好きな時間に入ることができた。
普段は食後のこの時間がいちばん混み合っていたが、今日はどういうわけか脱衣所のカゴは一つしか使われていない。
曇りガラスの引き戸を開けると、壁際の洗い場で頭を洗う先客の姿があった。
ひとつ空けた場所に座り、洗面器に湯を溜めながら横に目を向ける。
「あれ、関?」
「ああ、杉卜か」
関と二人になるのは渡辺の件があった、あの夜以来だった。
彼は頭についた泡をシャワーで流すと浴槽のほうを振り返り、人がいないことを確認してから隣の洗い場に移動してくる。
「なあ、杉卜。一つ聞いてもいいか?」
いつになく神妙な面持ちをした関は、「あ、やっぱ二つだった」と言い直して指を二本立てる。
「なに?」
「一つ目は渡辺このことなんだけど」
心のなかで”やっぱりか”と独りごちる。
「俺、あのあともう一度、宗方のところに行ったんだよ。そうしたら宗方がさ」
『よろしい。君に電話番号を教えることはできないが、私が彼の家に電話をするのは規則の違反にはあたらない。ただしこれは例外中の例外だから、決して口外しないように』
「って言って、その場で渡辺の家に電話を掛けてくれたんだよ」
彼は口外することを禁じられていたその内容を、あまり似ていないモノマネまでして話した。
「それで? 渡辺と話すことはできたの?」
「わからない」
「え? わからないって?」
「宗方が電話を掛けて、それで受話器を俺に渡してくれた……んだけどさ」
そのとき僕は、この話の結末が予想できてしまった。
「……ねえ、関。その電話って、黒くて丸い円盤のついたのじゃなかった?」
「ああ。受話器がやけに重くてさ。一瞬、落としそうになって、それで慌てて両手で持って顔のところに持っていったんだ」
関の喉が大きく動き、彼が生唾を飲み込んだのだとわかった。
「叫び声と怒鳴り声、それに悲鳴や泣き声がごちゃ混ぜで聞こえてきて、遊園地のジェットコースターかホラーハウスにでも繋がってるのかと思った」
それは僕が聞いたものと同じだった。
しかしだとすれば、あの古めかしい電話が故障しているだけだという、そんな可能性が浮上してきた。
「それって、その電話機が壊れて――」
「それはない」
食い気味にそう断言した彼の顔は、怒っているようにも泣いているようにも見えた。
「俺が落としそうになった受話器を取り上げながら、宗方が俺の耳元で言ったんだ」
『君も消されたくなかったら、もう渡辺のことを詮索するのはやめろ』
「普通じゃないだろ? 消されたくなかったら、だなんてさ」
宗方先生のその言いようは、渡辺が平和裏にこの学園を去ったわけではないことを証明していた。
「俺は笑いながらここから出ていきたいんだよ。町田みたいにさ。だからもう渡辺の件には関わらないことにした。杉卜、お前もだからな? もう渡辺のことは忘れろ。そんでもって、一緒にもとの生活に戻ろうぜ」
「……うん」
この場においてはそう返事をするしかなかった。
「それで、もう一つなにかあるって言ってなかった?」
「ああ、そうだった。その町田のことなんだけど、少し前だけどお前ら、手を繋いで歩いてたんだって?」
その言い様からして、たぶん誰か――ヒナにでも聞いたのだろう。
「散歩をしている途中で偶然会って、それで寮まで送っていっただけだよ。彼女、目が悪いみたいだし。女子寮の前の階段に手摺りがなかったから、危ないと思って」
「おいおい杉卜君。嘘はよくないよ?」
ほんのさっきまで思い詰めたような顔をしていた男と同一人物だとは思えないような、いつもの明るくひょうきんな関に戻っていた。
「ウソじゃないし。そもそも彼女とまともに話したのって、その日が初めてたっだんだから」
今にして思えば、そんな相手とカジュアルに手を繋いだ僕も僕だ。
あの日の僕はどうかしていたのかもしれない。
「いや、だって町田は別に目なんか悪くないぜ? 席だって最後列じゃん」
「……あ」
言われてみれば確かにその通りだった。
もちろん普段はコンタクトレンズを使っていて、あの日に限っては何らかの理由で裸眼だったのかもしれない。
だが、それでは説明がつかないことがあった。
花壇の真ん中で花に水をやっていた彼女は、足元に植えられた花を軽やかに避けながら僕の目の前にまでやってきていた。
視力に問題のある状態であの動きをするのは、いくらなんでも無理な話だろう。
「……あ、悪い。俺、お前の……いや、お前らのプライバシーってやつに踏み込みすぎたか?」
ごめん、そこは本当にどうでもいい。
関が続けざまに口にする”あることないこと”に答えているうちに、すっかり長湯になってしまった。
その間に入って来ては出ていったクラスメイトたちは皆、僕たちの話に聞き耳を立てていたような気がする。
そんなこんなで風呂に入る前よりも疲労の色をより濃くし、ようやく部屋に戻った頃には時計の針は二十一時を少し回っていた。
消灯時間をまもなく迎える頃になって、ふとあることを思い出した。
そのあることとは、町田さんが僕にくれた眼鏡のことだった。
ケースの中身はほとんど一瞬しか見ていなかったが、桃色のフレームには確かにレンズが嵌め込まれていた。
それは度のついたレンズなのか?
はたまた、ただの透明なプラスチックなのか?
それを調べてみようと思った。
眼鏡ケースは机の引き出しの中段に入れておいたはずだ。
一度は布団の上に横たえていた体を起こして部屋の電気の紐を引っ張ると、灯った明かりが擦りガラスに反射する。
どうやらカーテンを閉め忘れていたようだ。
机に向かう前に寄り道をし、カーテンを結んでいた帯を解こうとした、その時だった。
白く霞んだガラスに小さな手形がペタペタと二つ張り付いているのが見えた。
「ひっ!」
その二つの手形が窓から離れると、同じ場所に今度は人の顔と思しきシルエットが浮かび上がる。
そして、その口の部分が赤く開いた。




