12.絵本
かささぎ学園に転入してから一ヶ月が経った。
この学園では週に一度、金曜日の六時限目にグループカウンセリングが行われる。
それは言わば、症状の回復を互いに発表する場だった。
『今週は親友のことを思い出しました』
『私は小さい頃に飼っていた猫の名前を思い出しました』
そんなやり取りが交わされる中、僕だけは発病してから今日に至るまでの間で、自身のことを何ひとつ思い出せていなかった。
そして悪いことに、それを隠すために嘘をつくようになってしまっていた。
『塾の帰りに見た夕焼け空の色が好きだった』
『母親に買ってもらった青い靴がお気に入りだった』
そんなような虚言ばかりを口にしているうちに、『本当に過去と呼ばれる時間が存在していたのだろうか?』などという、一見すると哲学的とも言えなくもなく、実際のところはくだらないことこの上ない思考に囚われ始めていた。
もしこのまま一切の記憶が戻らなかった場合、僕はいったいどうなってしまうのだろう?
帰りの支度をしていると、ふいに後ろの席から声を掛けられた。
「ねえ、ユウ。このあとって暇?」
「もちろん暇だけど」
ネットもテレビもなく、娯楽といえば寮の談話室にある石が三つ足りないオセロくらいなのだから、この学園の生徒はいわば暇人の集まりでもあった。
「よかった。じゃあこのあと、ちょっとだけ付き合ってくれない?」
「いいけど、付き合うってどこに?」
「図書室。探してる本があるの」
目的の場所は職員室や保健室があるB棟の二階にあるらしい。
校舎の構造はA棟もB棟も同じだったので、階段がある場所はわかりきっていた。
保健室の前を通り、職員室の奥にあるはずの階段を目指していると、横を歩いていたヒナが突然足を止める。
「どうしたの?」
「図書室の鍵。職員室に寄ってから行くよ」
職員室のドアの前に立つと引き戸が勝手に開き、開口部から黒いスーツの男性教師――宗方先生が現れる。
「朝比奈と杉卜か。職員室になにか用事でも?」
口調は極めて穏やかだが、その視線は刃物のように光ってみえた。
「安上先生が教室に忘れ物をしていったので届けにきました」
彼女はポケットから黒色の万年筆を取り出して宗方先生に見せた。
「そうか。安上先生なら奥にいるはずだ」
宗方先生はドアを開けたままで身を翻し、自分の机へと戻っていった。
「……なんで嘘ついたの? その万年筆って本当に安上先生のやつなの?」
転入初日に彼女から教わった、『知りたいことは積極的に聞け』を矢継早に実践する。
「別にウソをついたわけじゃないよ。安上先生に万年筆を返す目的もあったから。万年筆はホントに安上先生のだよ」
「じゃあ、鍵は? そもそも図書室の鍵を借りに来たんじゃないの? だったら宗方先生に頼めばよかったんじゃ?」
「その宗方先生に頼むわけにはいかないから、だからこんなに遠回りをしてるの」
「何がなんだか……」
さっぱりだった。
安上先生は職員室の一番奥の席で黒いファイルに目を通していた。
「先生」
ヒナが後ろから近づき声を掛けると、先生は椅子に座ったままで10センチも飛び上がり、「ギャア!」と大袈裟に声を上げた。
「あ、ごめんなさい」
「……驚かさないでくださいよ。なにか用事ですか?」
「はい。教室で万年筆を落としませんでしたか?」
彼女が手にした黒い万年筆に目を向けた先生は、先ほどと同じかそれよりも大きく、「おおっ」と声を上げて万年筆を受け取った。
「いや、探してたんだ。これはとても大切なもので……。助かったよ、本当にありがとう」
先生は万年筆を引き出しの中にそっと入れると、同じ場所から一枚の写真を取り出した。
それには今よりも少しだけ若く見える先生と、その隣に立つ男の子が写っている。
「私にひとり息子で賢人といってね。ちょうど君らと同じくらいの年齢で、この万年筆は私が彼に贈ったものなんだよ」
「大事なものだったならお返しできてよかったです。あの、それで先生」
ヒナは笑顔を浮かべたままで言葉を続けた。
「図書室で読みたい本があるんです。鍵を貸してもらうことはできますか?」
「ああ……うん。本当は教員の同伴なしに図書室を使ってはいけないんだけど、生憎このあと職員会議があってね。十六時には終わるから、それまでだったら構わないよ。……ただし、宗方先生には内緒にしておいてくださいね」
安上先生はそう言うと、宗方先生が座る窓際の席に一瞬だけ目をやり、そして短い首をすくめてみせた。
どうやら宗方先生は同僚教師にとっても難しい存在のようだった。
「ありがとうございます。そのくらいの時間にまた鍵を持ってきます」
「うん。あ、それと」
「はい?」
「すまないが、次からは後ろ声を掛けるのはやめてくれないかな?」
最初はただ単に、驚かせるようなことをしないでほしいとか、そういう意味かと思った。
しかし彼の目は真剣そのもので、それ以外の理由があることがはっきりとわかった。
そういえばここにきたばかりの頃にも、先生は僕を先に歩かせた。
あの時はあまり深く考えはしなかったが、今になって考えるとどこか不自然だった。
図書館は職員室の脇にある階段を上ってすぐのところにあった。
木札の付いた鍵を鍵穴に差し込んで左に回すと、ガチャっという大きな音が無人の廊下に響き渡った。
教室を二つ繋げたくらいの広い空間に、何十という本棚と、何千何万という本が所狭しと並べられている。
「ヒナが探してる本ってどんなやつなの? 手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。場所はわかってるから。それよりせっかくだから、ユウも何か面白そうな本がないか探してみなよ」
彼女はそれだけ言い残すと、本の林をすり抜けてどこかに行ってしまった。
仕方なく近くにあった本棚の前に移動する。
大小さまざまな本が並ぶそこは、絵本や児童書のコーナーだった。
信号機のようにカラフルな背表紙を眺めていると、一番下の棚の一番隅に置かれた一冊の絵本に目が止まった。
「……かささぎの橋?」
かささぎとは、この学園の名称にも使われている、確か鳥の種類だったはずだ。
腰を屈めて本を手に取ると、窓際に置かれた長椅子に腰掛けてページを開く。
「……」
――子どもだった頃、僕はこの絵本を読んだことがある。
それはこの学園に来て初めて覚えた感慨だった。
浅く掛けていた腰を一旦あげてから、少しだけ姿勢を正して再び本に目を向ける。
それと同時に、開いていたページの上に薄い影が落ちた。
「……その本。ユウは絵本が好きなの?」
見上げるといつの間にか戻ってきたヒナが、僕と本とを交互に覗き込んでいた。
彼女の胸元には大きなサイズの茶色い封筒が抱かれている。
ここに来るまでは、そんなものは持っていなかったはずだ。
彼女は茶封筒を近くの机の上に置くと、僕のすぐとなりに腰を下ろた。
そして僕の手から取り上げた本を自分の膝の上に載せ、こう言った。
「読んであげよっか?」
唐突な申し出に僕が返事をせずにいると、彼女はクスリと笑いながら軽く咳払いをする。
「じゃあ、読むね。むかしむかし――」
むかしむかし、空のずっと遠いところに、ひとりの男の子がいました。
男の子には、どうしても会いたい人がいました。
でもその男の子の住む場所から会いたい人がいる場所までは、星の川を渡って行かなければなりません。
男の子は毎日、川の前に立って大きな声でさけびました。
「会いたいよ! ここにいるよ!」
けれども返事はありません。
星の川の向こうはいつも静かでした。
ある夜のこと、空のいちばん明るいお星さまがやってきて男の子にそっと言いました。
「君の声はちゃんと届いているよ。
でも、声だけじゃ橋はかからないから。
だから会いたいという君のきもちをツバサにして、
それで川を渡るんだよ」
それからも男の子は星の川を見上げては、まいにちまいにち思いつづけました。
一日も休まずに、一日も忘れずに、ずっとずっと思いつづけました。
ある日の夜、男の子の目からひとしずくの涙がこぼれました。
こぼれた涙は流れ星になって星の川に落ちました。
それを見ていたかささぎたちが、空から舞いおりてきました。
「どうしたの? かなしいことがあったの?」
「この川の向こうに会いたい人がいるの」
「だったら、ぼくたちにまかせておいて」
何百羽、何千羽ものかささぎが星の川の上にあつまって、空に大きな橋をかけてくれました。
「さあ、ぼくたちの上を渡ってごらん」
男の子はかささぎたちがかけてくれた橋を、一歩ずつ渡っていきました。
星の川を渡りきったその場所に、ずっとずっと会いたかった人が立っていました。
「ずっと会いたかったよ」
「うん、やっと会えたね」




