11.眼鏡
町田さんと初めて話をした放課後の出来事から三日後の、帰りのショートホームルームでのことだった。
教壇の横に立った童顔の女子生徒は、長い黒髪を手で押さえながら頭を下げる。
「短い間でしたが本当にありがとうございました。みなさんと過ごした時間を、私はもう、きっと忘れたりはしません」
「それでは町田さん。おうちの方が迎えに来られたら呼びに来るので、それまでこの学園での最後の時間を過ごしてください」
娘の晴れ姿を前にした父親のような笑顔でそう言った安上先生は、邪魔者は退散だとばかりに小走りで教室を出ていく。
すぐ町田さんの周りには人だかりができ、背の小さな彼女の姿はたちまちに見えなくなる。
彼女の症状が改善していたことは、事前に本人から聞いて知っていたので、この急な転出にも驚くことはなかった。
それでもやはり、クラスメイトがひとり減る寂しさと、取り残される者の焦りにも似た感情はあった。
自分の席に座ったままで黒板前の賑わいを眺めていると、街の雑踏のように騒がしかった教室が突如として水を打ったように静まり返った。
そして次の瞬間、黒山の人だかりが真っ二つに割れ、その中心を町田さんがゆっくりとこちらへと歩いて来る。
彼女は僕の机の正面まで来ると、その小柄な体を前に屈ませ、顔をぐっと近づけてから口を開いた。
「杉卜くん、本当にありがとう」
たしか三日前の別れ際にも似たようなことを言われた覚えがあった。
「別に僕は感謝されるようなことなんて」
「ううん、手を繋いでくれた。あれでやっとぜんぶ思い出せたの」
「……そっか」
「それでね、杉卜くん。これなんだけど」
彼女はスカートのポケットから筆入れのような水色のケースを取り出す。
「これ、杉卜くんにもらってほしいの」
蓋が開かれたケースの中には、薄桃色のフレームのメガネが入っていた。
ただ僕は彼女がそれを着けているのを見た記憶がない。
「メガネ、持ってたんだ。だったらなんで掛けないの?」
「うん。このメガネ、ちょっとだけよく見えすぎるから」
だったら作り直せばいいのにと、そう思ったが口にはしなかった。
彼女には彼女にしか知り得ない事情があるのだろう。
「それとね、杉卜くん。もうひとつだけ。今度はお願いなんだけど」
「お願い? なんだろう?」
「お花にね。私のかわりに花壇のお花に一日に一回、お水をあげてほしいの」
「……わかった。そのくらいのことならお安い御用だよ」
我ながら器用な方ではない僕であっても、花に水をやることくらいは人並みにできるだろう。
それに暇なことに関してだけは、ちょっとした自信があった。
「杉卜くんはペチュニアってお花はわかる?」
その名前は初めて聞くものだった。
「ううん。どんな花なの?」
「花壇の隅の方に咲いている、アサガオみたいな小さなお花。私の一番のお気に入りなの」
「じゃあ、その花はいちばん最初に水をあげるよ」
「……うん。ありがとう」
しばらくして教室に戻ってきた安上先生の傍らには、町田さんの母親と思しき優しそうな女性の姿があった。
町田さんは母親が差し出した手をそっと掴むと、とても小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。
前庭で一列に並んだクラスメイトの前を、彼女とその母親が乗った白色の軽自動車が通り過ぎてゆく。
残されたクラスメイトの口数が少なかったのは、各々に思うところがあるのだろう。
それは僕も同じだった。
誤解を恐れずにいえば、僕は彼女のことが好きだった。
僕もいずれ記憶障害が改善されれば、この学園から元いた場所へと戻ることになる。
その時に今日の彼女と同じように、笑顔で手を振りながら去ることができればいいなと、心からそう思った。
見送りを終えたクラスメイト一同は一旦教室に戻り、そのほとんどが無言のままで寮に戻っていった。
そのなかに二人だけの例外がいた。
町田さんとの約束を果たすために花壇に足を運ぶ予定の僕と、後ろの席で難しい顔をしているヒナという女子生徒だった。
「ヒナは帰らないの?」
「……うん。ちょっとだけ考えたいことがあるから」
思いの外に弱々しい声量に、なにか悩み事でもあるのかと心配になる。
だが、たとえその通りだったとしても、ここは僕の出る幕ではない気がした。
「それじゃヒナ、また明日」
柄にもなく小さく手も振ってみたが、彼女は「うん」と一言いっただけで、視線すら合わせてくれなかった。
花壇のある校舎の裏までやってくる。
そこには三日前にもそうであったように、銀色のじょうろを手にして花に水をやる女性の姿があった。
もっとも、その佇まいは大きくかけ離れており、年齢も母と子ほども違った。
「あら、杉卜くんじゃない。どうしたの?」
「花壇の水やりです。町田さんにお願いされて」
「……あら。君っておとなしそうな顔して、案外やり手だったのね」
白衣を着た大柄な校医はにこやかに笑うと、水がたっぷり入ったじょうろを手渡してくる。
校舎の中では純白にさえ見えた白衣は、ところどころ赤茶色の染みができており、長いあいだ着ているものだということがわかった。
この学園ができてからの年数を考えると、それ以前に勤めていた学校で使っていたのかもしれない。
「それじゃ、今日から花壇委員は君にお任せするわね」
「はい。どうせ暇だし」
もっともそれは僕だけでなく、この学校のすべての生徒にいえることだった。
「杉卜くん。暇ついでにもうひとつだけお願いしてもいいかしら?」
「はい? 別にかまわないですけど」
「あなたのクラスメイトの朝比奈さんに、これを渡しておいてほしいのだけど」
白鳥先生は白衣のポケットから茶封筒を取り出した。
片手で受け取ったそれは見た目よりも少し重くて、中には細い棒状の物が入っているようだった。
「水やりが終わってからでもいいですか?」
「ええ、もちろん。渡してもらえばわかると思うから。それじゃ、頼むわね」
先生はクルリと背中を向け、大きな手を小さく振りながら校舎の方へと戻っていった。
バスケットコート半面ほどの面積の花壇に水をやり終え、じょうろを片付けてからカバンを取りに教室へと向かう。
日暮れ前の薄暗い昇降口で靴を脱いでいると、白い灯りが等間隔に灯った廊下の向こうからセーラー服の少女がやってくるのが見えた。
「あ、ヒナ。ちょうどよかった」
僕の目の前までやってきた彼女は、「どうしたの?」と言いながら上履きを靴箱に仕舞い、黒い革靴をコンクリートの三和土の上に置きながら顔を上げた。
「これ、白鳥先生から預かったんだけど」
彼女は茶色い封筒をしばらく眺めたあと、「あ!」と声を出してそれを受け取った。
「先生、本当に手に入れてくれたんだ。あ、ユウもありがとね」
その封筒の中身はなに? と聞こうとしてすぐにやめた。
どうやら僕は、浮かんだ疑問をすぐに質問してしまう癖があるようだった。
それは記憶をなくす以前からなのか、それとも、この学園にやってきてから身についたものなのかはわからないが、褒められるようなことであるはずがない。
「僕は教室にカバンを取りに行かないといけないから、それじゃまた明日」
そう言って上履きに履き替えると、一目散に教室を目指して走り出した。
往路とは真逆にゆっくりと歩きながら昇降口に戻ってくると、そこにはまだヒナの姿があった。
「あれ? 帰らないの?」
「帰るに決まってるでしょ」
それはそうなのだが、退屈そうに立ち尽くしているように見えたのでそう聞いただけだ。
「じゃあ、僕は帰るから。お先に」
放課後の教室でも同じようなやりとりをした覚えがあった。
だが、今度はその時とは違い、彼女はうんともすんとも言わずに靴を履くと、黙って僕の後ろについてきた。
「え? けっきょく帰るの?」
「うん。ユウが戻って来るの待ってただけだから。ずいぶん遅かったけど、教室でなにかしてたの?」
「ああ、黒板が中途半端に消されてたから」
「ユウって今日、日直さんだったんだっけ?」
「ううん。でも明日の日直の人が大変だろうし」
「……私にプリント渡す時、いつもきれいほうをくれてたでしょ?」
「え。なんで知ってるの?」
「私が一番うしろの席だから。回収する時にみて、それで気付いたの」
「……」
そこで会話が終わってしまう。
西の山間に沈みかけた太陽が、真っ白な校舎を赤く染めていた。
その赤は煉瓦の赤よりもよほど赤くて、絵の具の赤よりはほんの少し赤くない、夕焼けだけが作り出すことのできる赤だった。
「世界が赤いね」
彼女の言葉に頷きながら、「でも、ほら。影はこんなにも黒いよ」と左手で足元を指さす。
二つの影が東向きに長く引き伸ばされ、その一部が腰の高さで繋がっている。
その一部というのは、僕の右手と彼女の左手で、すなわち僕たちはいま仲の良い姉弟よろしく手と手を繋ぎ歩いていた。
「なんで?」
「なんでって、なにが?」
「手。僕たちってなんで手を繋いで歩いてるの?」
「千夏とも繋いでたじゃない」
千夏というのは町田さんのことだろう。
「……なんで?」
「なんでって、なにが?」
「なんで僕と町田さんが手を繋いでいたのを知ってるの?」
ほんのさっき自分の質問癖を反省したばりなのに、たった十秒のあいだに二度も『なんで?』を繰り返してしまった。
「屋上から見てたから。視聴覚室に用事があったんだけど鍵が開いてなかったから、だからそのまま屋上に行って風に当たってたの」
あの時の人影は彼女だったのか。
「千夏がユウの服を掴んで歩いてて、それで寮の階段で手、繋いでたでしょ?」
どうやらすべて見られていたようだった。
プリントの件といい、どうやら彼女に隠し事はできなさそうだ。
「それは……」
「エスコートしてあげたの?」
「……うん」
飼い主にいたずらを見咎められた犬のような返事になってしまった。
それはそうと、町田さんと僕が手を繋いでいたことと、いま僕たちが手を繋いでいることの因果関係は依然不明なままだ。
「で、それとこれとはなんの関係があるの?」
「ちょっとだけ興味があったから。あの時の千夏、ものすごく幸せそうな顔してた。だから私もユウと手を繋いで、それで歩いてみたかったの」
高校生にもなった男女が手を繋ぎ歩くなどという行為は、そんなお試し感覚でするようなことなのだろうか?
「それで、どうだった?」
せっかくなので感想を求めてみる。
「うーん……。思っていたのとはちょっと違ったけど、でも少しだけ千夏の気持ちがわかったような気がする」
だったらまあ僕としても甲斐があったというものだ。
「あの、ところでそろそろ離してもらってもいいかな? もうすぐ寮だし、誰かに見られでもしたら面倒だし」
「ああ。それもう手遅れじゃない? だって、ほら」
彼女の繋がっていないほうの手が真っ直ぐ前に向けられる。
そこには寮の前でたむろする、数名のクラスメイトたちの姿があった。
「明日の朝、噂になっちゃってるかもね」




