第1話:瘴気濃度、基準超過
倒す英雄の物語ではありません。これは、英雄が間に合わなかった時に、誰にも気づかれず数万人を生かす「止める者たち」の物語です。
――魔王を倒すな。被害を止めろ。
午前五時十二分。観測室のアラームが鳴る前に、宮野アキラは目を覚ましていた。
空気の味が違ったからだ。鉄錆のような、湿った金属の匂い。瘴気が薄く流れ込んでいる。窓の外、王都第三区の方角に、いつもより一段昏い靄がかかっていた。
「——基準超過だ」
誰もいない宿直室で、彼は呟いた。机に投げ出された手が、わずかに震えている。三年前から治らない。剣を握ろうとすると、もっとひどくなる。だから彼はもう、剣を握らない。
代わりに無線機を握って、本部へ駆けた。
王都災害対策局ダンジョン本部。気象庁が天候を読み、消防が火を消し、軍が国を守るように——この国では迷宮を読み、封じ、人を逃がす役所がある。迷宮は富を生む資源であり、同時に予測可能な災害だ。噴火する火山と同じように、迷宮にも前兆がある。それを読めるのが、アキラのたった一つの取り柄だった。
「第三迷宮、瘴気濃度が警戒値を超えています。前兆パターンはスタンピード型。私の読みでは、七十二時間以内」
観測フロアで、アキラは数字の羅列を指で追いながら言った。壁一面の巨大な王都迷宮地図に、第三区が赤く点滅している。
避難計画官の花村ユイは、彼の差し出した観測記録を一瞥して、眉をひそめた。
「前兆の相関係数は? 封鎖を発令すれば、第三区の商業活動は三日止まる。損害は概算で金貨四万枚。あなたの『勘』に、その数字を背負わせられるの」
「勘じゃない。データだ。瘴気の上昇曲線が、二年前の第七迷宮と同じ形をしている」
「二年前は外れた」
「あの時は規格内だった。今回は——」アキラは地図の一点を指で叩いた。「等級が、読めない」
ユイの表情が、初めて動いた。等級が読めない。それは規格外という意味だ。災対局の手順書に、想定のない事態。
そこへ、本部長付の事務官が割り込んできた。
「冒険者ギルドから正式回答です。第三迷宮の封鎖要請は——却下。『英雄が討つので不要』とのことで」
フロアの空気が、すっと冷えた。
ギルドは英雄を売る民間だ。スタンピードの前に英雄が迷宮へ突入し、湧き出る魔物を派手に討ち取る。観衆は熱狂し、英雄の名は売れ、ギルドは儲かる。封鎖などされては、興行にならない。
「討伐ショーをやる気だ」アキラは吐き捨てた。「英雄が間に合わなかったら、その瓦礫の下に何万人が埋まると思ってる」
「宮野」ユイが低く言った。「上は、ギルドの顔を立てる方針よ。警報は出さない。正式には、ね」
正式には。
その三文字に、アキラは全てを理解した。上層部はギルドの利権と繋がっている。警報を出して興行を潰せば、誰かの懐が痛む。だから——誰も警報を握らない。被害が出るまで、誰も。
彼は無線機を握り直した。今度は、手が震えていなかった。
「花村さん。あんたのデータ至上主義、信じる。だから一つだけ計算してくれ。第三区の住民を全員逃がすのに、何時間かかる」
「……正規の手順なら、四十八時間」
「七十二時間以内に来る。間に合う」
「宮野、何を——」
「規定違反だ」アキラは立ち上がった。「災対局の現場権限で、第三区に自主避難を勧告する。上の決裁は待たない。処分されたら、その時は辞める」
「あなた一人の判断で、四万枚の損害を——」
「人が死ぬよりは安い」
フロアが静まり返る中、ユイは長い沈黙のあと、観測記録をもう一度めくった。瘴気の上昇曲線。二年前と同じ形。そして、読めない等級。
彼女は、避難計画書のフォーマットを開いた。
「……勧告じゃ人は動かない。命令にするわ。指揮系統は私が組む。あなたは現場で経路を確保して」
「いいのか。あんたも処分対象になる」
「データが正しいなら、処分されるのは握り潰した連中の方よ」ユイは羽ペンを取った。「私は、数字を信じてるだけ」
——七十一時間後。
第三迷宮が、吼えた。
瘴気が間欠泉のように噴き上がり、地響きとともに無数の魔物が地表へ溢れ出す。スタンピード。等級判定不能の、規格外。ギルドの英雄たちは果敢に斬り込み、そして次々に呑まれていった。派手に、華々しく、無力に。
だが、第三区に人はいなかった。
アキラの読んだ避難経路だけが、唯一、魔物の濁流を逸れていた。鉄扉が下り、誘導灯が灯り、数万の住民が静かに、誰一人欠けることなく外周へと流れていく。英雄譚にはならない。名も残らない。ただ、全員が生きていた。
濁流の手前で、アキラは無線機を握りしめて立っていた。剣はない。手は、震えていなかった。
「……もう、誰も瓦礫の下に置かない」
無線の向こうで、ユイの声がした。「全区画、避難完了。死者ゼロ」
その夜、本部から呼び出しがかかった。
机の向こうの本部長ヴェルナーは、書類を二枚、アキラの前に滑らせた。一枚は懲戒処分の通知。もう一枚は——現場観測班への正式配属辞令。
「処分か、配属か。宮野アキラ」本部長は静かに言った。「選べ」
はじめまして、真神律です。倒す英雄の物語ではなく、「英雄が間に合わなかった時に、誰にも気づかれず数万人を生かす者たち」の物語を書きたくて、この連載を始めました。
剣を捨てた男が握ったのは、無線機でした。次話、アキラはどちらの書類に判を押すのか——そして「現場観測班」とは何をする場所なのか。
面白いと思っていただけたら、ブックマークと評価で背中を押してもらえると嬉しいです。被害ゼロは、英雄の死より地味で重い。その地味さを、最後まで書き切ります。




