後始末その1
後宮に面した池のほとりを、大柄の男がゆっくりとした足取りで歩いていた。
視線の先には、龍の飾り細工が光る四阿がある。
「蒼蓮様。貴方様からお呼び出しとは、珍しいこともあるものですね」
人好きのする笑みを浮かべ、左丞相・黎松華は四阿の入り口で立ち止まった。
先に中で待っていた蒼蓮は、視線だけ彼に向けると正面に座るように促す。
「心当たりがあるのでは?」
何かもわかっているだろう?と、その瞳は語る。
そんな蒼蓮の様子に、黎はクッと笑って腰を下ろした。
宮女は花茶を用意するとすぐに下がり、声の聞こえる範囲では二人きりとなる。
「よいのですか?私などとこうして茶を飲んでいても」
「あぁ、面倒事は官吏たちに押し付けてきた」
「それはそれは……、頼もしい部下がいて何よりです」
黎はそう言うと、美しい所作で茶に口をつけた。
そして懐かしい味がするとわかると、少しだけ目を細めて口角を上げる。
「……お咎めはあるのでしょうか?」
「ない。おまえがしたのは、朱哉嵐に少々の情報を流しただけであろう?世間話が何の罪になる」
あっさりとそう告げた蒼蓮を見て、黎はしばし考えてからポツリと漏らす。
「それならばもっと色々とやればよかったですかね」
「今ここで斬り捨てることもできるが?」
「冗談ですよ」
鋭く睨まれ、彼は困ったように笑った。
蒼蓮は、無表情で彼を睨み続ける。
「私もまさか、朱哉嵐があれほど無謀なことをするとは思いませんでした。せいぜい、柳右丞相にたてついて左遷されるくらいかと」
「愚か者ほど、ときに加減を見誤る。陛下に危険が及んだらどうするつもりだったのだ」
叱責とも取れる蒼蓮の言葉に、黎は素直に謝罪した。
「それは申し訳ございません。以後気をつけます」
この男が紫釉を傷つけることはないとはいえ、投げた小石がどう波紋を広げるかはわからない。行動には注意しろ、そう言外に告げる蒼蓮に対し彼は言う。
「まさか貴方様が、柳凜風殿に本気でご執心とは思いませんでした。なれど、あの簪を見たときは『これは面白いことが起こっている』と思うたのです」
「そなたを面白がらせるために、凜風と添うのではない」
「わかっていますよ。此度のことも、朱哉嵐が異国の薬に詳しいとのことで、その内部を探ってみただけのこと。私の目的はあくまで国を蝕む薬の流通経路を調べることで、柳家を乱すことではございませぬ」
蒼蓮は、胡散臭いものを見る目を彼に向ける。
(どう見ても楽しんでいるようにしか見えぬが?)
何食わぬ顔で茶を飲む黎は、もうこの話題は飽きたとばかりに変えた。
「ところで、納采はもう済ませたと解釈してよろしいので?おめでとうございます、といつ申し上げればよろしいのやら」
彼は、凜風がつけている簪を、蒼蓮が贈った婚約の儀の第一段階として捉えたらしい。
「まだ何もしておらぬ。陛下が成人の儀を迎えるまでは、当面何もできぬであろうな」
「おや、それはまた遠い話ですな。五年ですか」
「私もあれも忙しい。陛下の世話係をずっと続けたいと言うておるくらいだ」
淡々と話す蒼蓮だが、わずかにその表情は和らいでいる。それを見た黎は、しばらくの間を空けてから諭すように言った。
「蒼蓮様、本当に大切ならば今すぐ懐の奥深くへ忍ばせ、誰にも見せぬようにするべきです。皇族も我らも、好いた女と生涯を共にできるほど易い道ではございませんから」
長い袖が机に擦れ、しゃらりと音がする。
彼は茶器に浮かぶ花を見つめ、淋しげに笑った。
(雪梅妃か……。あの頃は黎のことなど知りたくもないと思うておったが、想う者が主君の妃になるというのはさぞ複雑であろうな)
蒼蓮の兄である先帝・燈雲の側近だったこの男が、主君とその妃が笑い合う様をいつも柔らかな表情で見つめていたことは知っていた。そして、そこには並々ならぬ思い入れがあったことも。
「昔、貴方様は私にお尋ねになりました。『人を好きになって何の意味があるのだ』と。覚えていらっしゃいますか?」
「あぁ、そのようなことを言ったな」
「理屈ではないのですよ。今の貴方様にならおわかりでしょう?」
蒼蓮は、少しだけバツが悪そうな顔をする。
結婚は国のためになるならば受け入れ、その逆であれば生涯ひとり身を貫く。そう決心していた自分が、凜風を何としてもそばに置こうとしている今、一人の女人に執心し続けるこの男の気持ちが嫌というほどわかる気がした。
「恨んでいるか?雪梅妃を泉国へ帰したことを」
問いかけに、黎は静かに首を振る。
「いいえ、大局の前では臣下の恋情など些事でございます。それに私は、燈雲様と雪梅妃のお二人が揃っているのが好きだったのです。己が燈雲様に成り代わろうと思うたことは、ただの一度もございませぬ」
わかりきった答え。蒼蓮は、酷なことを聞いたとわずかに悔やむ。
「──薬は、国を滅ぼします。この光燕は、燈雲様と雪梅妃が愛した国。遺された紫釉様の治世を守るためならば、私は喜んで手を汚します」
それは国のために尽くすという宣誓でもあり、蒼蓮が道を踏み外せばいつでも反旗を翻すとの忠告でもあった。
「それでは、私はこれで」
立ち上がった黎は、明るい髪をなびかせながら四阿を去る。護衛たちが一斉に頭を下げ、その背を見送った。
すでに冷めきった茶を一口飲んだ蒼蓮は、透き通った池を見て思った。
(本気で権力を欲するなら、右丞相を口説き落として凜風を妻にし、後ろ盾を得ることもできるであろうに……)
簪が思いのほか抑制となったらしい。誰からも忘れられた皇子として育った自分に、せめてもの情けのつもりなのかと、蒼蓮は自嘲めいた笑みを漏らす。
鳥の囀りを聞きながらしばしの休息をとっていると、一人の上級官吏が四阿へとやってきた。
「失礼いたします。柳右丞相が、面会を願い出ております」
「わかった。湘殿にて待つと伝えよ」
後始末の報告だろう。予想より早い動きを意外に思いつつも、蒼蓮は立ち上がり後宮の奥へと向かった。




