妹ができました
日暮れより少し早い時間、そろそろ柳家を出て後宮へ戻ろうかという時間帯になって、私はもう一つ驚きの事実を蒼蓮様から知らされた。
「凜風は、明後日までここで過ごすがいい。もうしばらくは戻れぬからな」
「え?」
すでに話はついているらしく、ここにきてまさかの休暇を頂戴することになる。静蕾様は、当然ご存じだった。陛下の後ろに控えている彼女は、私に向かって笑顔で頷く。
「凜風、またすぐに戻ってくるのだぞ?」
別れ際、紫釉様が少し淋しげにそんなことをおっしゃるから、私は感極まって「今すぐ一緒に後宮へ行きます!」と言いそうになった。
ぐっと堪え、手を握って「必ずや戻ります」と紫釉様に告げる。
それを見た兄が、「戦場にでもいくのか?」と呆れていた。けれど私にとって、この愛らしい陛下とお別れするのは一時でも悲しい。
紫釉様は、私の目をじっと見つめて心配そうにこうも告げた。
「よいか、寝るときは温かくして寝るのだぞ?」
いつもご自身が言われていることを真似るところが、堪らなくかわいい。
「帰りは一人で寂しくないか?麗孝を迎えにやろうか?」
「紫釉様、私は大丈夫でございますよ」
これには、麗孝様も苦笑いだ。
五大家の娘とはいえ、今は陛下の世話係として仕える身の私を、後宮護衛の長がわざわざ迎えに来るなんてどう考えてもおかしい。
この半年ほど、私は毎日紫釉様を見守ってきたと思っていた。
けれど、紫釉様からすれば自分が私を見守って来たのかもしれない。何となくそんな気がして、私はふっと笑った。
「柳家の護衛がおりますので、ご心配なく。戻ったら二胡を弾きましょう…………紫釉様?」
なぜか紫釉様は、私の下衣の裾を握ったまま放そうとしない。
初めて私が家に戻るから、もう後宮へ戻って来ないと不安になっている?
父が私を連れ戻そうとしていたこともわかっているから、紫釉様は心配しているようだった。
「凜風は、必ず紫釉様の元へ戻ります」
「真か?」
「ええ、真にございます。後宮で待っていてくださいませ」
裾を掴む小さな手を両手で包み込み、安心させるよういつものように笑顔を作る。
紫釉様はようやく納得してくれて、静蕾様と共に牛車に乗り込んだ。
「では、またな」
「はい。どうかご無事で」
馬に跨った蒼蓮様にもお別れをする。
そういえば、紫釉様と蒼蓮様が一緒に朝餉を召し上がるようになってから、この方のお顔も毎日のように見ていた。
明日は会えないのだ、と思うと妙にしんみりしてしまう。
「秀英、おまえも明日は休め」
蒼蓮様は、私と同じく邸に留まる兄に向かってそう告げるも、兄はため息交じりに首を振る。
「そうしたいところですが、私は明日もいつも通り宮廷へ行きますよ。やるべきことが山積みですから」
「そうか」
さらりと受け入れた蒼蓮様は、兄がそう言うとわかっていたようだ。
私たちは家族揃って彼らを見送り、その姿が見えなくなるまで門の前で立っていた。
****
「お姉様、お邪魔してもよろしいでしょうか?」
夕餉の少し前、翠蘭姫がひょっこりと扉の陰から顔を覗かせてそう言った。
大きな目に愛らしい丸いほっぺ、私はその様子を見て胸がきゅうんとなる。
「どうぞ、こちらへ」
久しぶりに戻ってきた柳家の邸は、何一つ変わっていないがすでに懐かしい。自室にて二胡を弾こうかと思っていたところ、翠蘭姫はやってきた。
花模様の長い裾をひらひらと揺らし、彼女は私の隣に腰かける。
「もうこの柳家には慣れましたか?」
そう尋ねると、彼女は笑顔で頷く。
「とても楽しゅうございますの。飛龍様が毎日遊んでくださいますし、書の先生が優しくて好きです」
純真無垢な笑みを見て、私はホッとした。
この子をいじめるような人間は柳家にいないと信じているけれど、環境が変わったことで気落ちしていたら……と気になっていたから。
「もう少し大きくなったら、二胡も習えるように母に頼みましょう。私の師がきっと来てくださいますよ」
「お姉様の先生?私も、上手になれますか?」
「ええ、練習すればきっと上手になれるわ」
今、私が持っているのはあのとき翠蘭姫が壊してしまった二胡だ。職人に直してもらい、また弾けるようにしてもらった。
翠蘭姫は気づいていないので、あえて言うことでもないので口には出さないでおく。
「そうだ、飛龍がこども用の二胡を持っているかも。それを借りれば、すぐにでも練習できるんじゃないかしら?」
あの子は多分、二胡をやらないだろう。走り回るのが好きな性分だから、座っておとなしく楽器を奏でている姿がまるで想像できない。
ところが、翠蘭姫が少し言いにくそうに言った。
「あの、飛龍様は……折ったと聞きました」
「折った!?」
何がどうなってそんなことに!?
私はぎょっと目を見開く。
「木剣みたいに素振りしたら折れちゃった、と」
あああ、容易にその姿が想像できる。
私は遠い目をして、その折れたという二胡の冥福を心の中で祈った。
「義母上が翠蘭には翠蘭用の二胡を作ってくださると、それで、今は、えーっと」
「あぁ、魏工房ね?そこで作ってもらってるから、まだ手元にないと」
「はい。そのように聞きました」
目を合わせて笑い合うと、とても和やかな空気が流れる。
「ねぇ、これをちょっと弾いてみる?私が押さえるから、ここを……」
「よいのですか?」
喜ぶ翠蘭姫は、目をキラキラと輝かせて私を見つめる。
まだ夕餉の時間まではもう少しあるから、一緒に演奏できるならぎりぎりまで演奏したい。
「では、お祝いの席で弾く歌にしましょうか」
私は彼女を膝の上に乗せ、後ろから抱き込むようにしてその小さな手を取り、二胡に触れさせる。最初は遠慮がちに弓を持っていたものの、弾きはじめると楽しくなってきたようで、翠蘭姫は興奮気味に声を発する。
「すごい……!鳴りました!」
「ええ、上手よ」
初心者用であれば弓毛をもっと強く張ってあるものの、これは私用なのでやや弾きにくいはず。とはいえ、不安定な音色もたどたどしくてかわいらしく感じ、何より翠蘭姫が楽しそうなことが私はうれしかった。
静かな部屋に、二胡の音色が伸びやかに漂う。
それからしばらくの間、私たちは姉妹のように仲良く二胡を楽しむのだった。




