父娘喧嘩の末【前】
ひっそりと静まり返った湘殿には、給仕や清掃係のほかに誰もいない。
贅を尽くしたこの内装はどの宮にも勝ると言われていたが、後宮に妃がいない今、ほとんど使用されておらず閑散としている。
私は広い広い客間にて、父と久しぶりの対面をした。
父娘二人を隔てる楕円形の机はとても大きく、二十人は着席できるサイズだ。
先にここで待っていた父を見て「あ、これはまずい」と直感で悟った私は、あえて遠い位置に座っている。この他人行儀な距離は、心の距離とも言えるかもしれない。
右丞相である父は、緑褐色の長衣に黒い羽織を纏った姿でやってきて、相変わらず厳しい顔つきだ。頑固さが滲み出ている。
気軽に娘に会いに来るような人ではないので、どう考えても今回の訪問はよくない話だろうなと感じた。
「「………………」」
給仕係が淹れてくれた茶はすでに冷めていて、長い沈黙は終わりそうにない。
基本的に、父が何か言ってくれなければ娘の私から声をかけるのは非礼になるのだけれど、こんなに無言を貫かれるとさすがに対応に困るわ……。
こうなったら仕方ない。
私は諦めて自分から口を開く。
「本日は何用でございましょう?」
口に出してみると、想像以上に冷えた声が出た。そんなつもりじゃなかったんだけれど、黙っていた時間が長かったんだから仕方ない。
父はぴくりと反応し、かすかにムッとしたような空気を放つ。
苦言を呈されるかと身構えたけれど、父は咳ばらいをしてから声を発した。
「────が、──────と」
「は?」
再び沈黙が二人の間に横たわる。
父の低い声は少し聞き取りにくく、私はつい前のめりになって顔を顰めた。
しまった。
離れて座り過ぎて、普通の声量では話がきちんと聞こえないんだわ。
かといって近づくのも憚られ、どうしたものかと戸惑う。
すると父は、あてつけのように大声で話し始めた。
「いいかげん、帰ってきたらどうだ!紫釉陛下もおまえがそばにおっては、心が休まらんだろう!」
「──!?」
いきなり何を言うの!?
苛立った私は、かなり大声で言い返す。
「私は!帰りませんっ!紫釉様も、そばにいてよいと申されましたぁっ!」
必要以上の大声を出したので、父は眉間にシワを寄せて不満げに睨む。
後宮で父娘喧嘩をすることになるとは思わなかった……。父と会って早々、麗孝様が心配していた通りになってしまっている。
少しおとなげなかったな、と反省して私は姿勢を正した。
父も己の立場を思い出したのか、さきほどよりは落ち着いた声で「こっちへ来い」と告げる。
長年、父を見続けてきた私は、父が自分からそう言うなんてかなり譲歩してくれたんだなと思った。怒ってそのまま出て行ってもおかしくない、と思うから。
意地を張っても仕方がないので、私は静々と席を移動する。
それでも椅子を3つ空けた位置に座り、これ以上は近づかないという意思を態度で伝える。
父はそんな私に、諭すように言った。
「今回の騒動でわかっただろう?後宮がいかに危険な場所であるか。おまえだって命を狙われかねないのだ。柳家の護衛を入れられない以上、またいつ何があるかわからぬ。2年は様子を見てやるつもりだったが、折を見て近いうちに戻ってまいれ」
ため息をつく父は、顔に疲労が窺える。きっと蒼蓮様だけでなく、政に携わる者すべてが李家の起こした事態の後始末に追われているのだろう。
その最中にこうして来てくれたということは、それだけ私の状況が父にとって芳しくなかったのだと思われる。
「それは心配してくださっているのですか?それとも、どこか性急に嫁がせたい家でも見つかりましたか?」
「…………」
見つめ合うというよりは、睨み合う私たち。
互いに腹の探り合いが続く。
父は何も言わず、否定も肯定もしなかった。
つまりは、どっちもということだろう。
私は拳をぎゅっと固く握り締め、父に疑問を投げかける。
「後宮が危険だなんて、私を皇后候補にと言い出したのは父上ですよね?」
あの選定の儀にさえ出なければ、私が世話係に任命されることもなかった。
皇后にしようとしていたのに、後宮が危険だなんて今さらどういう手のひら返しなのかと私は父を睨む。
「妃と世話係では、護衛の数も警備の質も違う。妃の命は、世話係よりも重い」
まぁ、それはわかるけれど……。
正論で返され、私は不満げな顔になった。
「なれど、私の世話係については柳家にどうこうできませんよね?蒼蓮様が直々に任命してくださったお役目なので、今さら家に戻るなど柳家の名誉にかかわります」
それらしいことを述べるが、こんなことで引き下がる父ではなかった。
「蒼蓮様は、おまえの気持ち次第と言うておっただろう?つまり、おまえが一言『辞めたい』と言えばそれを叶えてくれよう」
やはりしっかりと覚えていたか。
蒼蓮様を言い訳にできないとなれば、もう本音をぶつけるしかない。
「私次第でしたら、世話係を辞めることはございません。私は紫釉様のおそばで、ずっと仕えたいと心より思うておるのですから」
父は露骨に苦い顔をした。
私が辞職を言い出さぬ限り、蒼蓮様は世話係の職を解かない。今のところ父にできることは説得以外にはないからだ。
「確かに私は、柳家ただ一人の娘です。他家と縁を結び、生まれに応じた働きをするのが道理でございましょう。なれど、陛下のおそばで仕えるのもまた、大事なお役目だと思います。父上にとっても、多少なりとも利のあることなのではないですか?」
どこかで遊んでいるわけではなく、この国で最も高貴な方にお仕えするのだから、柳家としても名誉なことであるのは父もわかっているはずだ。
まぁ、私だってこんな理屈が父に通用するとは思っていない。
兄が来るまでの時間稼ぎになればいいと、それくらいの気持ちだった。
しかしここで、思わぬ援軍が現れる。
──パタパタパタパタ……。
小さく軽い足音が近づいてきて、私も父も思わず扉の方に目を向けた。
そのタイミングで扉が一言もなく開き、そこには午睡のための寝衣を着た紫釉様がいた。
その後ろには、麗孝様が気まずそうな顔で控えている。
「凜風!」
「「紫釉様!?」」
驚いて目を瞠っていると、紫釉様は中へずんずんと入ってきて、座っていた私の腰に巻きつくようにして手を回す。
そして、私の父を振り返って言った。
「右丞相、ダメぞ?凜風は我のそばにおると言うた。柳家になど帰さぬ」
「紫釉様ぁ」
私は感動のあまり、思わず情けない声を上げる。
その背に手を回し、ぎゅっと抱き締め合うと幸せ過ぎて泣きそうになった。
父は紫釉様が現れたことで、迂闊なことは言えなくなり絶句している。
「父上、紫釉様がこのようにおっしゃってくださるのに、それを無下にするおつもりですか?」
「ぐっ……!」
いくら睨まれても怖くはない。
だって紫釉様が私を引き留めてくださったのだから、いくら父の命令でも家に帰るわけにはいかない。
ぐっと押し黙っていた父だったが、苦悶の表情を浮かべつつも紫釉様の説得を試みた。
「陛下。凜風には世話係であると同時に、柳家の娘としての役目もございます。人にはそれぞれ、事情がございますゆえ」
しかし幼子に理屈は通じない。
いくら聡明とはいえ、5歳の紫釉様に5大家の事情など通用するはずはない。
「事情?申してみよ」
一縷の澱みもない純真な目で見つめられ、父が困り果てているのがわかる。
「それは……」
言えませんよね?
『柳家が権力を拡大するべく、娘を嫁にやりたいです』なんて。
「その、凜風は嫁にやるのが一番よいかと、後宮におるよりもよいかと……」
口ごもる臣下を前に、紫釉様は淋しげな顔つきで言った。
「我は凜風とおりたい……」
それを見た私は、あまりの愛らしさに息が止まりそうになる。
私の衣をぎゅうっと握る小さな手がいじらしく思え、さらに力強く抱き締めた。
「父上、私はここにいたいのです!せめて紫釉様が大きくなられるまでお待ちくださいませんか?」
今すぐ色よい返事がもらえるなんて思っていない。
けれど、紫釉様に心労をかけたくないから、とにかく今日は父に引いてもらいたかった。
父も紫釉様の前でこれ以上の話し合いは不可能だと判断したのか、渋面で視線を落とす。
後は兄がここへ来て、父を連れて帰ってくれれば────
ところがこの場に現れたのは、執政宮で最も忙しいはずの美丈夫だった。




