よい知らせと悪い知らせ
平和な後宮。
夏の終わりは、晴れやかな青空が広がっている。
紫釉様は、午睡の前に後宮の中に造られた川で足をつけて寛ぎの時間を過ごし、そばにつく麗孝様らも水をかけられて少々濡れている。
私は静蕾様と屋根のある場所で待機し、手拭きや着替えの準備が終わった状況で楽しそうな紫釉様を見守っていた。
「蒼蓮様から夕餉をご一緒に、とは初めてですね」
紫釉様の予定を確認していると、朝には入っていなかった会食予定を見つけた。
静蕾様は柔らかく微笑み、急遽加わった予定について説明してくれる。
「紫釉様にお会いできぬまま、もう五日が経とうとしていますからね。蒼蓮様がしびれを切らしたのでしょう。会食なんて大層な名目をつけ、皇帝陛下への報告の場を設けるという理由でそのご予定を入れられたのです。ふふっ、紫釉様より我慢の利かぬお方とは思いませんでした」
なるほど、報告も兼ねての会食ならば忙しい合間に公務として紫釉様に会えるということか……。
蒼蓮様が無理を言って予定をねじ込み、兄があたふたと各所へ連絡して調整する姿が目に浮かぶ。
「贈り物のお礼の品を用意しましたので、事前に執政宮へ運ばせますわ」
叔父と甥であっても、皇帝と臣下である以上は贈り物一つでも返礼品を用意する必要がある。何もしなくても蒼蓮様は気にしないだろうけれど、皇帝としての紫釉様の威厳や体裁にかかわるからと静蕾様は言う。
「紫釉様の生誕記念の宴には、およそ500もの返礼品が必要になります。来年のことではありますが、女官は総出で宛名書きや返礼品の確認作業をしますので、凜風にも手伝ってもらうことになるでしょう。あなたは字がきれいですから」
私は静蕾様にそう褒められ、はにかみながら頷いた。
女官は基本的に読み書きができるが、得手不得手は当然ある。適材適所に仕事を振り分けるのも、女官長である静蕾様の役目となっている。
全員の顔や名前を覚えることも、私にはまだ達成できていない。
護衛や女官だけでなく側用人、各係の者、下働きまで合わせると、後宮に勤める者は500人以上いるのではないかしら?
その全員を把握するのは、想像を絶するむずかしさだ。
静蕾様は「長年ここにいるからよ」と笑ったが、毎年入れ替わりもあるので、長年いたからといって簡単なことではないと思う。
出来る限り、女官や側用人の女性たちには自分から声をかけるようにしているが、道のりは遠い。
とはいえ、楽しそうに遊ぶ紫釉様を見ているとすべてがこの方のためになるのだと納得できるので、そこまで気分が落ち込むことはない。
「楽しそうですが、そろそろお戻りいただきましょうか」
静蕾様の言葉に従い、私は庭へ出て紫釉様のもとへ歩いていく。
私が近づいてきたことに気づいた紫釉様は、もう時間なのかとしゅんと落ち込んだ。
気の済むまで遊ばせてあげたいけれど、少年皇帝の予定は毎日ぎっしり詰まっている。
今日は夕方から大臣らとの協議会があり、その後は蒼蓮様との会食があり、しっかりと午睡の時間を確保して元気に出席しなくてはならない。
「紫釉様、本殿へお戻りください。お時間となりました」
声をかけると、紫釉様は拗ねた顔つきになりつつもおとなしく川から上がる。
私はそばへ寄ってしゃがみ込み、手にしていた手拭きでその小さな足を軽く拭きながら言った。
「夕餉は蒼蓮様とご一緒ですよ。急遽ご予定が変わりました」
「真か?蒼蓮が来るのか?」
紫釉様は驚きで目を丸くする。そしてすぐにうれしそうな笑みを浮かべる。
私もその表情を見ると、安堵で微笑んだ。
「本日は、紫釉様が執政宮へ向かいます。たまには気晴らしに、後宮から出てみてもよいかと」
「わかった!蒼蓮のところへ行く!」
裸足で駆け出した紫釉様は、静蕾様の方へ一目散に走っていく。きっと、蒼蓮様との夕餉について報告するのだろう。
「紫釉様!裸足はいけません!」
慌てて後を追った私だったが、すでに紫釉様は本殿の軒下に到着していて、静蕾様は「裸足で駆けてくるなど、はしたないですよ」と笑っていた。
私も少しだけ笑うと、お召し替えの手伝いをしようと後に続く。
ところが、本殿から薄桃色の衣を着た女の子が歩いてくるのが見える。
「桜綾、何かありましたか?」
側用人の娘たちがこうしてわざわざやってくるのは、何か用事があるときや伝令を承ったときだ。
私が声をかけると、桜綾はまっすぐにこちらへ向かってくる。
そして、きょとんとしている私に少々おびえた様子で用件を告げた。
「あの、右丞相様が凜風様に取次ぎをと、さきほど参られました」
「父上が?」
文のやりとりはこれまで何度かあったけれど、直接出向いてくるなんて────
嫌な予感しかしない。
露骨に顔を顰めた私に、麗孝様が声をかける。
「無視はできないな」
当然、そんなことはできない。
私は諦めて桜綾に尋ねる。
「今、父はどこに?」
「湘殿にて、お待ちいただいております」
紫釉様の住まいである采和殿のすぐ隣で、父は私を待っているという。そこはかつて皇妃様が住んでいた離れで、本来であれば皇妃様方の個人的な来客や女官の親族らを迎える場所だ。
私は静蕾様に報告し、紫釉様が午睡の間を使って父に会うことに。
「二人きりにして大丈夫か?」
麗孝様が心配そうにそんなことを尋ねる。
盛大な父娘喧嘩でもすると思われているのかしら?さすがにそんな大ごとにはならないと思うんだけれど……。
麗孝様には「大丈夫です」と苦笑いで伝える。
ただし、武官の伝令係の手を借りることにした。
「すみませんが、兄に知らせをお願いできますか?父が私に会いに来たことを、兄は知らぬと思いますので」
兄は嫡子という立場もあり、私と父が争っていてもどっちつかずになるので、援護は期待していない。ただ、本当に困ったときは何かしらの知恵を貸してくれると思うので、念のために父の訪問を知らせておくことにした。
何も起こらないことを願うばかりだけれど、父がわざわざやってきて何もないとは思えない。
麗孝様は快く伝令係を貸してくれて、「がんばれよ」と哀れみの目で応援してくれた。
紫釉様がお召し替えに向かうのを見送って、私は一人で采和殿へと向かうのだった。
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