慰めと励ましと【前】
李左丞相が問責され、裁可されたその日の夜。
紫釉様のそばにつく私は、夕餉のあとに二胡を弾いていた。
なるべく心穏やかに眠りにつけるように……と思ったけれど、紫釉様にとってあの場は負担が大きかったようで、湯あみのときから落ち着きがなくいつもと様子が違うように見える。
「杏鈴、甘いものが欲しい」
突然、紫釉様が側用人にそう命じ、彼女は急いで厨房へと走っていく。ほかの者は片づけなどに手を取られているため、今この寝所には紫釉様と私だけになる。
紫釉様はしばらくじっと座って二胡を聞いていたけれど、ぴょんと勢いよく椅子から下りて廊下へ出て行こうとした。
「紫釉様!?」
私は慌てて二胡を置き、そのお姿を追う。
「どうなさいました?何かご入用ならば、わたくしが」
そう声をかけると、振り返った紫釉様は私の腰に抱き着く。
驚きつつもその細い身体を両手で支えると、顔を上げた彼は今にも泣きそうな顔で訴えかけた。
「静蕾はどこだ?連れてまいれ、今すぐに」
「静蕾様でございますか?」
彼女は今、麗孝様と一緒に見回りと戸締りの確認に向かっている。
その後は休息を挟んで、再びここへ戻ってくると聞いていた。
「紫釉様、静蕾様は今しばらく戻りませぬ。凜風がそばにおるのではいけませんか?」
床に膝をつき、抱えるようにして抱き締めても、紫釉様は嫌だと何度も首を横に振る。
「静蕾がいい!静蕾を呼べ!」
「紫釉様……」
いつもと違う裁可の場に出たことで、あの恐ろしい空気に怯え、心細くなっているのだろうなと思った。
紫釉様が静蕾様を求めるのも無理はない。
悲しいかな、やってきて2ヶ月ちょっとの私に静蕾様の代わりはできなかった。
とことん不機嫌になってしまった紫釉様を宥められるのは、静蕾様しかいない。
「わかりました、静蕾様を呼び戻しますので、寝所で共に待ちましょう」
「うん……。すぐだぞ?約束ぞ?」
「はい。静蕾様が来てくれますからね?」
私は近くにいた武官に静蕾様を連れてくるように頼み、夏とはいえ少し冷える廊下から寝所へ引き返す。
紫釉様は私が抱きかかえると抵抗せず、しがみつくようにして寝台までおとなしく連れ戻されてくれた。
「大丈夫ですよ、何も怖いことはございません」
そばに腰を下ろし、その小さな手を握ってどうにか宥める。
涙目の紫釉様は、静蕾様が戻ってくるまでずっと私の手を掴んだままだった。
******
静蕾様と入れ替わり、紫釉様の寝所から出て数分。
いつになく身体が重く感じるのは、心がどんより曇っているからだわ。
ため息が出そうになるのを堪えながら、二胡の筒を持ち白夜の庭を一人で歩く。
愛らしい紫釉様。
屈託のない笑顔、私の名を呼び駆け寄る姿、楽しそうに遊ぶ子どもらしいところ。この2ヶ月で随分と色々な表情を見せてくれるようになった。
でも────
「はぁ……」
池のほとりにやってくると、二胡を抱きかかえるようにしてしゃがみ込む。
私は今、自分の不甲斐なさに打ちひしがれていた。
静蕾様が戻ってきた瞬間、紫釉様は寝台から飛び降りて抱き着いた。
つらいときそばで慰めることができるのは私じゃなくて静蕾様なのだと、目の当たりにして落ち込んでしまっている。
わかってますよ!?
静蕾様は生まれたときから一緒にいて、紫釉様のことを一番わかっていて、強い絆があるってことは!
たかが2ヶ月程度の世話役に完全に懐いたら、それこそ静蕾様の方が傷つくでしょう!
わかってる!
わかってます!!
でも、紫釉様があれほどつらそうになさっているのに、私は何もできなかった。
余裕のあるふりをしても、おとなぶってみても、子を産んだこともなければ誰かの世話をしたこともないただの娘で……。
どうしようもなく気分が落ち込む。
──これからがんばればいい。
──何年もかけて、信頼関係を築いていけばいいじゃない。
そんなことを何度も胸の中で繰り返すけれど、このもやもやは晴れない。
ぎゅうっと二胡の筒を抱き締めると、頬に当たるそれはひんやりとしていた。
瞼を閉じると、じんわり涙が滲んでくる。
こんなことではいけない。
柳家の娘として、紫釉様の世話係として、情けない姿は人に見せたくない。
どこかで気分を落ち着かせなければ、そう思った私は顔を上げる。
周囲を見回すと、池の中央にある四阿が目に入った。
あそこなら、二胡を弾いても後宮の建物には音が届かない。それに白夜だから、誰かが近づいてきたらすぐに見えるだろう。
引き寄せられるように、そちらに足が向いた。
石橋を歩いていると、少し強い風にあおられ、淡い紫色の裾がひらひらと揺れる。
そういえば、紫釉様とお散歩のときになんどもここへ来たな……と思い出した。
水面に魚影を見つけては興味津々といった様子で覗き込み、落ちる直前で麗孝様に捕まえられていた紫釉様の姿は私の記憶に鮮明に残っている。
とぼとぼと肩を落として歩いていくと、八角形の赤い屋根の四阿の中で、丸い机の陰に大きな荷が置いてあるのが見えた。
「?」
誰かの忘れ物か、それとも……?
不思議に思って近づいていくと、荷に見えたそれが人であることに気づく。
床に座り、机に背を預けたその人は、艶やかな黒髪がさらさらとときおり風に揺れていた。
白銀色の衣に藍色の羽織を纏った姿は、見覚えがありすぎる。
「蒼蓮様……?」
なぜ床に座って、ぼんやりと池を眺めているの?
しかもこんな時間に、後宮の一角で?
思わず声をかけると、彼はゆっくりとこちらを見た。
そのけだるげな目は少し淋しげで、投げやりなようにも思える。
「そなた、なぜここへ?」
驚いたようにそう尋ねられ、私は思わず苦笑した。
「それは私の方が伺いたいことです」
「…………」
少し手前で立ち止まっていると、蒼蓮様が小さな声で「こちらへ来い」と言う。
邪魔ではないのだろうかと思いつつも、私はゆっくりとそばへ歩み寄る。
そして蒼蓮様の位置から近い椅子に座ると、同じように水面を黙って眺めることにした。
その雰囲気から「あぁ、この人も落ち込んでいるんだな」と何となく察する。
この人が落ち込むとしたら、私と同じく紫釉様絡みのことだろう。
沈黙が気まずくて、私は何気なく口を開く。
「すみません、声をかけてしまって。もしや泣いておられましたか?」
彼はちょっとだけ眉を顰め、呆れたように答える。
「私のことをいくつだと思うておるのだ。誰かを泣かせることはあっても己が泣くことはない」
「それは失礼を」
「かまわぬ」
ふっと笑ったその顔は、確かに泣いてはいないみたいだったけれど何だか淋しそうだった。
朝餉の時間などで毎日そのお顔を見ていれば、蒼蓮様が今どんなお気持ちなのかは何となくわかるようになっている。
でも、こんな風に様子の違う彼は初めてだ。
私はどうしていいものかと戸惑い、何か言おうとしては言葉を飲み込む。
李家のことは、いつから知っていたのか?
紫釉様を守るために、どれほど策を練り、用意周到に事を進めたのか?
それに、私と静蕾様が狙われたことも気になる。
聞きたいけれど、今この雰囲気でそれを私から尋ねる勇気はなかった。
すると、長い沈黙の後に蒼蓮様がぽつりと言う。
「────此度のことは、致し方なかった」
「はい」
私は、蒼蓮様の横顔をじっと見つめた。
長い髪を緩やかな風が撫で、蒼蓮様は頬にかかった髪を指で掬い耳にかける。
「皇帝として、紫釉陛下があの場におらねば裁可は行えぬ。すべては仕方のないことだ」
裁可の場で公にできないようなことも、きっとたくさんあったのだろう。
それに、紫釉様の怯えた様子に蒼蓮様も気づいていたと思う。
仕方のないことだと言いつつも、その声にはかすかな迷いや後悔が滲んでいた。
「近頃は随分と打ち解けてきたと思うたのだがな……。今日のことで見せたくない姿を見せてしまった。紫釉陛下を怖がらせてしまった」
今の蒼蓮様は、李左丞相に対しあれほど冷酷な目で処断した執政官と同じ人物とは思えない。
儚げで、見ていると胸が切なくなった。
私はためらいつつも、少しでもこの人を励ましたくて必死で伝える。
「今日のことがあったとしても、蒼蓮様と紫釉様が過ごした時間はなくなりません。大切に想うお心は、伝わっているはず……。それに此度のこと、何も間違ってなどおりません」
皇族として生きるからには、きれいごとだけではやっていけないだろう。
まして、紫釉様がまだ5歳と幼い今の状況では、蒼蓮様が背負っているものは相当に大きいはず。
真剣な目で訴えかけると、蒼蓮様は「そうか」とだけ言った。
私はお腹の前で手を組み合わせ、さらに言葉を続ける。
「それに厨房でのこと、自ら動かれる必要はないはずなのに、わざわざご自身で真偽を確かめてくださったんですよね?私をあの後ご自身の宮へ連れて行ったのも、何か理由があったのでございましょう?」
茶を選ぶためと言っていたが、それは翌日に後宮でもできたはずで。
違和感が残る行動には、やはり理由があったらしい。
蒼蓮様は遠くを見たまま、事情を説明してくれた。
「あのとき、麗孝たち護衛の者にそなたと静蕾の部屋をあらためよと命じた。すでに何か仕掛けられていてはいないかと、調べるために。そなたが知れば、怯えるかもしれんと思ってな。せっかくの世話係が辞めたくなっては困る」
まったく気づかなかった。
まさか自分が蒼蓮様の宮で夜食を食べ、茶を選んでいるうちにそんなことが行われていたなんて……。
「ありがとうございます。知らぬ間に守られていたのですね」
そう告げると、蒼蓮様は少しいじわるく口角を上げた。
「そなたに何かあって、右丞相に反乱を起こされたらかなわぬ」
「まぁ……。父なら反乱よりも交渉で手堅く利を得ようとしそうですが?」
「ははっ、そうだな。そうならないよう今後も善処したいところだ」
私もつられてくすりと笑う。
すると蒼蓮様は、突然に話題を変えた。
「で、そなたはなぜここへ来たのだ?秀英じゃあるまいし、私を探しにきたわけではなかろう?」
あぁ、それを聞きますか?
私は気まずさから目を伏せる。
「えーっと、ちょっと二胡を弾きに?」
「ここで?紫釉陛下に聴かせて差し上げればよいのに」
不思議そうにそう言われ、言葉に詰まった私は観念して白状した。
寝所で二胡を弾いていたら、紫釉様に『静蕾がいい!』と言われたこと。
静蕾様から「ここは大丈夫だからもう休みなさい」と言われたこと。
自分の不甲斐なさに落ち込んで、ふらふらとこうして四阿へ来てしまったことを……。
「わかっているのです、今の私では紫釉様の力になれないことは。時間が解決してくれることもわかっているのですが」
この虚しさや苦しさは、何と表現すれば?
こんな感情はこれまで知らなかった。適当な言葉が見つからない。
唇を引き結んで下を向いていると、蒼蓮様がなぜか納得したように言った。
「そうか、泣いていたか」
まさかの言葉に、私は思わず顔を上げる。
「泣いていませんよ、誰かさんとは違いますので」
しれっとそう返すと、彼はすぐに反論した。
「いや、私も泣いておらぬと申したぞ」
「あら、そうでしたか?」
少しばかり笑い合うと、スッと立ち上がった蒼蓮様は私の隣にやってきて腰を下ろした。
袖が触れる距離に、どきりと心臓が跳ねる。
「そう焦るな。そなたが紫釉陛下を想う気持ちは伝わっておると思うぞ」
「そうだとよろしいのですが」
少しでも、紫釉様の淋しさを埋めてあげたい。
あの小さな手が届く場所で、ずっと見守っていたい。
でも、必要とされていないかもしれない。
そんな不安が胸に巣食う。
「今、役に立ちたいって思ってしまうんです。今、紫釉様の力になれないことが悔しいのです。信頼されていないんだなって実感して、それが情けなくて」
こんな泣き言を漏らしてどうなるのか。
涙こそ流れていないが、心の中でわんわん泣いてしまっている。
必要とされたいだなんて、自己満足に過ぎないのに。
俯いていると、視界の端に大きな手が近づいてきて、そして肩に触れる直前でその動きを止めるのが見えた。
一体何なのかと横目で蒼蓮様を見ると、彼も自分の手を見つめて考え込んでいる。
「どうなさいました?」
戸惑いながら尋ねると、彼は深刻な声色で答えた。
「女人を励ますときは肩を抱いてやればそれでいいと思っていたが、凛風にそれは違うのではないかと迷っていた」
「はぁ……?」
私は顔を上げ、訝しげに首を傾げる。
見つめると、彼は気まずそうな空気を醸し出す。
「気にするな。なかったことにせよ」
「えええ」
それはさすがに無理というものでは?
蒼蓮様はふいっと顔を逸らし、失敗を見つかった子どものような顔つきになる。
もしかして、うまく慰められなかったことを気にしてる?
意外に繊細なんだなと思うと、ちょっとかわいらしく思えてきた。
「ありがとうございます。励まそうとしてくださった、お気持ちはありがたいです」
私がそう言うと、彼はまた水面をぼんやりと見つめて言った。
「案じることはない、紫釉陛下もそのうち落ち着かれよう。毎日そばでついておると、信頼も次第に深まるはずだ」
「はい」
「第一、信頼だ何だと申すが、生まれたときからそばにいても何の信頼も得られていない男がここにおる」
「あ」
しまった。
ここにも、ある意味でお仲間がいた。
どうしよう、何て励ませばいいの!?
冷や汗が背中を伝うような感覚になる。
「だ、大丈夫です。これからです」
悩んだ結果、私の口から出たのはそんな低レベルな励ましだった。
蒼蓮様は、半分投げやりになって答える。
「そうだな。共に励もう」
「そうですね。一緒にがんばりましょう」
何をがんばるのか。そこは触れてはいけない。
「──好かれたいな。紫釉陛下に」
「──好かれたいですね。紫釉様に」
何も解決してはいないけれど、ここには妙な一体感が生まれていた。




