Ex.1 インタビュー 医師たちの大平洋戦争
私の実家は宇都宮で病院をやってましてね、ええ、この病院です。だから親の跡を継ぐつもりで医大に進んだんですよ。でもどうせなら何か他の人と違ったことをやってみたくて海軍軍医委託学生を志願したんです。まあ子供の頃からスマートな海軍さんには憧れてましたしね。親父は不満そうでしたけど、最後には海軍なら仕方がないかって感じで諦めましたね。これが陸軍だったら大反対されたかもしれません。
それで医大を卒業した後、海軍軍医中尉の階級を貰って正式に海軍軍人になったわけです。軍医学校を出て最初に乗ったのは戦艦金剛でした。大きなフネで軍医長を始め軍医科と衛生科の皆さんは本当に良くしてくれましたよ。
ここで2年ほど腕を磨きました。もっとも腕を磨くと言っても軍医の出番なんて、訓練中の怪我に盲腸くらいなものでしたけどね。
ああ、あとはプラムだのアールなんてのもありましたね。プラムは梅毒、アールは淋病のことですよ。軍隊とは切っても切れない病気ですね(笑)。だから上陸前に各分隊を回っては衛生具の使用を徹底させました。でもね、上陸前の兵隊さんは陸のことが気になって仕方がないから真面目に聞いちゃいない(笑)。それで出航から少しするとこそこそと医務室にやってくるんです。
そうそう、金剛は新兵への制裁がとんでもなく厳しいフネでした。「地獄の金剛」だの「鬼の金剛」でしたか。直接見たことはありませんが話にはよく聞きましたね。でも制裁を喰らった兵は自分からは絶対に医務室には来ないんです。1回だけ腰と尻が腫れ上がって歩けなくなった水兵が担ぎ込まれたことがありましたが、ラッタルから落ちたの一点ばりなんです。こっちだって医者の端くれですから、一目見れば嘘だってわかるんですがね。結局その水兵は腰骨が折れているのがわかって退艦しました。ひどいもんでしたよ。
次に乗ったのは潜水艦でした。また違う世界が見たくて志願したんです。希望が通って完成したばかりの伊23の軍医長になりました。でも軍医長と言っても軍医は私一人だけ。あとは看護長が一人。以上です。
そりゃ早まったなって思いましたよ。それにあの艦内の狭さと臭さ。狭いのもさることながらあの臭さには本当に参りました。
でもね艦長から水兵まで皆いい人ばかりで和気藹々としたフネでした。下士官と水兵も兄貴と弟みたいな感じで金剛とは全然違うんですよ。結局私は潜水艦向きだったみたいで狭いのも臭いのもすぐに慣れましたね。
ああ、潜水艦に乗っている時には白癬は随分診ましたよ。白癬は足にできれば水虫で股間にできればいんきんたむしです(笑)。艦内は暑くてじめじめしますし、真水が貴重で体を拭くくらいしかできないから皮膚疾患は本当に多かった。私?もちろん私もです。この水虫は潜水艦土産ですよ(笑)。
このフネに乗っている時に戦争が始まりました。伊23は真珠湾を攻撃する機動部隊に先だってハワイ周辺を偵察するのが任務でした。ですがひどい嵐に遭ったり事故で艦長が亡くなったりして散々な目に遭いました。温厚で腕利きと評判の艦長さんでしたが、腕を振るう前にこんなことになってさぞかし無念だったと思いますよ。
それで先任将校が指揮を執ることになったわけです。この方がまた「千万人といえども我征かん」を地でいくような元気のいい方で、気落ちしている乗組員に気合いを入れてあっと言う間に掌握しちゃった。まあ見事なものでしたね。
戦後になって戦友会でお会いした時には謙遜しておられたけど、あれは天性のものだったと思いますよ。
あとは航海長がまた面白い人でしてね、口を開けば冗談かヘル談ばかり。ヘル談とはいわゆる助平話のことです。ヘル談を嗜まぬ者は海軍士官にあらず、なんて大真面目に話していましたね。だから皆からヘル談長なんて言われてましたね。でも本人の名誉のために言いますけど、本業の航法は上手かったですよ。
さてハワイ沖でのことに話を戻しますが…
(以下続)
(月刊メディカル・ニュース 1995年4月号 終戦50周年特集「インタビュー 医師たちの大平洋戦争 第4回 医療法人和信会宇都宮綜合病院長 医学博士 内藤和夫氏」より抜粋)