5.開戦
現地時間12月6日の深夜、伊23は予定より5日遅れてオアフ島南西の哨戒区に到達した。
修理で出航が遅れた上に嵐に叩かれ、さらには艦長を失うというまさに艱難辛苦を乗り越えての航海だった。乗組員の中には今までの苦労を思い返して涙を拭う者もいる。
艦橋に立てば遠くにオアフ島の島影を望むことができる。島影に点々と浮かぶ集落の灯の中で一際明るい光の塊はホノルルのものだろうか。
波は穏やかだが夜間のため南国特有の深い青色の海面を見ることはできない。
その代わり星空は美しい。空気が澄んでいるのか星の数は日本で見るよりも断然多く、光も強いように感じられる。見張員の中には満天の星空の美しさに思わず目を奪われる者さえいた。
ラジオをつければ英語のニュース放送がはっきりと聴き取れて、本当にアメリカのすぐ近くまで来たことが実感できた。
ニュースではドイツ軍がモスクワ前面に押し寄せてソ連の命運が旦夕に迫っていることを報じている。
「露助もいよいよ危なくなってきたみたいだな」
原が海図に艦の現在位置を記録しながら言った。
「でもモスクワが落ちても戦は終わらないんじゃないですか」
内藤が指摘すると土屋も話に乗ってきた。
「軍医長の言う通りです。実際、南京が落ちても支那は手を上げなかったですし」
「それならどうすれば戦は終わると思うんだ」
原の問いに内藤と土屋が顔を見合わせた。
「スターリンが参ったと思うまで、ですかね」
土屋が答えると、今まで黙っていた秋山がぽつりと言った。
「どちらかが完全に滅びるまでじゃないですか」
ニュースが終わると、艶っぽい前奏に続いて低く響く男の歌声が流れ始めた。
「ナット・キング・コールですか」
内藤が懐かしそうに言った。
「医大の近くの喫茶店でよく掛かっていた曲ですよ」
そう言うと小さく鼻歌を歌い始めた。
内藤は医大出なだけあって時折こういった娑婆っ気に溢れた言動をとることがある。
「敵国の歌手を好むとは軍医長には大和魂が足りんようだな。まったくけしからん」
原が肩をそびやかした妙に尊大な態度で言った。端から見ると内藤を糾弾しているように見えるのだが、原がこんな態度の時は大体何かを狙っているのは乗組員の間では常識になっている。内藤もそのことを心得ているので笑って切り返した。
「なら愛国心と大和魂に溢れる航海長はどんな歌手がお好みなんですか」
すると原はまじめくさった顔で即答した。
「ディック・ミネだ」
ディックと言っても昨今の英語排除の風潮から芸名を日本名に改めた、純粋な日本人歌手だ。原がこの歌手の旧芸名をあえて持ち出したことに皆は一斉に吹き出した。潜舵手にいたっては肩を震わせて笑いをこらえている。
「航海長は今日も絶好調だな」
艦橋から降りてきた武田がやれやれと言いたげな表情を作ると、発令所は笑いに包まれた。
「さて馬鹿話はこのくらいにして、そろそろ潜航するぞ」
「充電も空気も問題ありません。艦内の換気も終わってますからいつでも潜れます」
瞬時に表情を切り替えた原が報告した。
「よし、機関停止。潜航」
伊23は海面に僅かな波を残して潜航した。
ハワイの近海は南国だけあって海水温が高いため、艦内も蒸し暑くなっている。しかも潜航中は電池の節約と騒音を抑えるために通風は弱く抑えられているから、艦内の温度はすぐに30度を超えた。
そのため乗組員は防暑服の上衣を脱いで下着だけになり、汗止めの鉢巻を巻いている者が多い。中には頭に鉢巻を巻いただけであとは裸に褌というどこぞの原住民のような格好をした剛の者もいる。
当直の者は各自の配置で、非直の者はベッドで体を休めながら静かにその時を待った。
そして日本時間12月8日0345時、現地時間12月7日0815時、伊23は周辺の情報を収集するために潜望鏡深度まで浮上した。
武田が潜望鏡で周囲を確認すると周囲に船影はないものの、オアフ島から黒煙が何本も立ち上っているのが確認できた。
「始まった」
武田の微かな呟きはあっと言う間に艦内に広まった。
「アメさんの通信がとんでもないことになっています」
通信室で敵信を傍受していた土屋が司令塔に上がってきて報告した。
「何を言っているかわかるか?」
「大体が平文で『ワレ空襲ヲ受ク』『戦闘機ハマダカ』あとは『コレハ演習ニアラズ』なんてのもありましたね。他にも色々です。とにかく混乱しているようで、物凄い量の無電が飛び交っていますよ」
「いよいよですね」
興奮気味に原が言うと武田は頷いた。
「この様子だとこちらの攻撃は成功か。あとは何隻やれるかな」
「我々の取り分は残っていますかね」
「どのみち湾内には手出しできないからな。逃げ出してくるフネがいればいいんだが」
武田は帽子を脱いで頭を掻いた後、深く被り直した。
「あとはのこのこ入港してくるフネがいたらもっといいな」




