閑話:数学教師は悲しまない
玖奈目一輝は哀しめない
がららら、と戸を閉めると、途端に外のざわめきが耳に飛び込んできた。じっとりとした梅雨特有の空気が体を包む。
ああ、いつか彼女と紫陽花を見た日も、こんな風に湿った日だった。
ぺたぺた、とスリッパの音が廊下に響く。この学校は金を持っているから言えば靴なんて幾らでも買ってくれるけど、俺はこのぺたぺたと音のなるスリッパが好きだ。
「……っはぁ…」
空き部屋から離れると、途端に口からため息が漏れた。汗がどっと噴き出て、やっとまともに息ができる。
『謝らないでください』
あの、黒い瞳に見つめられて。どうしようもなく重ねてしまう自分が、恐ろしく憎い。自分の指先が震えてることが分かった。
『謝らないでください』
『あやまら、ないで……。あの、子を……おねがいね…?』
謝らないで、といった二人の顔が重なって、思わず嫌悪の笑みが漏れる。あまりにも、似ている。
ぎり、と握った拳が痛い。
ニュー朔とやらは手ごわそうだ。決して悟られるな、仮面をかぶれ。今度こそ守らないと。彼女が笑えるならばそれでいい、そのためなら俺は――。
俺にそんな資格が無いことは、分かってるけど。
『ねえ、この世の中は楽しいことだらけよ。あなたはきっと、楽しいと思えないから楽しくないのよ。ねえ、楽しんで、一輝さん』
彼女の言葉を忘れないように心に刻みつけて焼き付けて、俺はどんな喜劇も悲劇も楽しんで見せよう。それが、例え、愛する誰かの哀しみであっても。
『紫陽花の花言葉はねぇ、『元気な女性』や『家族の結びつき』…。――どれも、私にはないもの』
「分かっとる…。わかっとるよ、花乃」
お前の代わりに、今度こそ俺が朔を護るから。
ぺったんぺったん、という安っぽいスリッパの音が、初夏の風に混じってどこかへ飛んでいった。




