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第六章 君が呼ぶ

「姫様……!」

 好い人でもできたのかと思った。

 こっそり付けた先は逢引きには不似合いで、人の気配はない。

 けれど。

 まるで、誰かいるように振舞い、笑う彼女の姿に、肌が粟立った。

「姫様」

 嫌だ、嫌だ、

 連れていかれてしまう。

 だから、名を呼んで。

 彼女の大切な場所を、壊した。


** *


 嘘のように、身体が軽い。

「姫様! 病み上がりでいらっしゃるのですから、無茶はなさらないで下さい! そもそも、回復したことが奇跡と言われておりますのに、」

「奇跡が起こったから、大丈夫なのよ。じゃあ、行ってくるわね」

「あ、姫様!」

 淡色の花びらが舞う風に背中を押されて、少女は走り出す。三歩下がってついてきていた三舟(みふね)は、咄嗟のことに追いつけない。

 一刻も早く、確かめねばならないことがあった。

 『奇跡』の代償を。



「ここ、よね」

 久しぶりに来る川辺は以前とほぼ変わらず、しかしただ一つだけ、はっきりと異なる点があった。

「柳が、」

 その上にいるスイの姿を、数えきれないくらい見た。そこに消えるスイの姿も見た。スイの宿っているはずの、柳の木。

 春になり、青々とした葉を茂らせているはずのそれは、しかし茶色く立ち枯れていた。

 当たり前だ。その生命力は、今は、ここにあるのだから。

 少女は胸を押さえて蹲った。予想はできていたはずなのに、どこかでまだ期待していたのかもしれない。変えられない現実を突き付けられ、心が殴りつけられたように痛む。

「スイ……」

 呻くような声に。

 応えるみたいに、水音が鳴った。


 振り返ると、二度と見ることはできないと思っていた姿が、そこにあった。

「スイ! 嘘、消えたのではなかったの?!」

 初めて樹上以外の場所からの登場を果たしたスイに、少女は駆け寄る。小川から上がったスイは、大人しく抱き締められたまま、絡げていた着物の裾を落とした。

小さくて、折れそうに細く、あまり柔らかくはない。腕の中の感触は、本物だ。

「柳を『中心に』、と言ったはず。わたしに『水』の名を与えたのは、あなた」

 真っ直ぐに少女を見つめる瞳は、深い青に澄んでいた。

 柳は枯れていて、スイは消えていなくて。柳はスイだけど、スイが柳なわけじゃなくて。

 混乱と嬉しさでぐちゃぐちゃになった少女の頬を、スイが優しく撫でる。

「元気になったみたいで、良かった」

「私も……私も、またスイに会えて良かったわ。ねえ、これからもずっと会えるのよね? 前みたいに、一緒にいられるのよね?」

 麻の衣を掴み、必死で縋る少女の声が、泣きそうに震える。スイは申し訳なさそうに睫毛を伏せると、柔らかく、しかしきっぱりと首を振った。

「それは、無理。依り代となる柳がない以上、わたしの力はごく弱いもの。この姿を保つほどの力は、もうほとんど残ってない」

 きつく抱き締める少女の腕を、丁寧に解く。宥めるように背中を二、三度叩いて、少女を仰いだまま身体を離す。跳ねた髪に光が差して、青色に透けた。

「そんな……そんなの、あんまりだわ。お前は私の、ただ一人の友達なのに……!」

「そんなことない」

 少女の頬から落ちた涙が、スイの頬を濡らす。スイはそっと手を伸ばして少女の目元を拭うと、口を開いた。

「今日は、訊きたかったことがあったから来た」

「何、かしら」

「何故、自らを妖と言ったの?」

「それは……」

 端的な切り込みに思わず目を逸らしそうになるが、頬に添えられた手がそれを許さない。

「――お前も、逃げるかと思ったから」

 少女は、諦めたように嘆息した。

「遠巻きにして目を伏せる人、腫れ物に触るみたいに扱う人。扇の陰で笑いながら、蹴落とそうと機会を窺っている人。都にいたのは、そんな人達ばかりだったわ」

スイは黙ったまま、先を促す。

「ここでなら違うかもしれない。そう思って、村の方に行ってみたこともあるのよ。けれど、この姿で村に溶け込めるわけなんてなかったのだわ」

 山菜や薪を取り落として平伏する大人。遠巻きにして、ひそひそと噂話をする若者。天女様だ、と囁きながら、少し近づくと蜘蛛の子を散らすように逃げていく子供。

「だから、逃げられる前に追い払ってしまおうと思ったのよ。その方が、傷付かないもの。それにね、」

 少女は言葉を切った。スイが逃げないと分かっても、嘘をつき続けていた理由。今更言い出せなかった、騙していると思われたくなかった、色々とあるが、多分一番は、

「つまらない私を、知られたくなかった。『淡雪(あわゆき)』でない私に、なりたかったのかもしれないわ」

 ――私は、『アサギ』になりたかった。

「あなたはいつも、そんな風にしているの」

「え?」

「相容れないのだと思い込んで、逃げられる前に逃げてるの。あなたを大切に思う人はいるのに、自ら遠ざけてるの」

 スイが手を離し、目線を横に走らせる。そこに息を切らせた三舟の姿を見つけ、少女は目を瞠った。

「どうして……」

「心配したからに、決まっているじゃないですか!」

 それはそうだろう。三舟は少女の父親から少女を預かっている身だ。何かあったら首が飛ぶかもしれない。

 そう思っていると、スイが静かに首を振った。

「今までは、姫様が望むならと思い、目を瞑っておりました。しかしあのようなことがあった以上、お一人での外出を許すわけには参りません。次から外出なさる際には、わたくしもお供させて頂きます!」

 憤然とまくし立てる三舟に、呆気に取られる。そんな少女の様子に気付き、三舟は慌てて目を伏せて三歩下がった。

「申し訳ありません、出過ぎた真似を……」

「構わないわ」

 嫌々世話をしているのだと思っていた。面倒だから放置しているのだと思っていた。

 けれど、もしかして。

 グルグルと思考していた少女の視界に、クスリと笑って歩き去ろうとする影が映る。

「待って!」

 伸ばした手は届かなかったけれど、スイは立ち止まる。振り返らないまま。

「私達、また会えるかしら?」

「さあ」

 端的な答えは、相変わらず素っ気ない。それがあまりにいつも通りで、少女は思わず微笑んだ。

「もし、また会えたなら。今度こそ、一緒に紅葉を見に行きましょうね」

 水面がさざめく。柔らかな陽光がきらきらと乱反射して、少女とお揃いの浅葱色の袖を照らす。

「……いつになるかは分からない。だから、それまで生きていて」

 紡がれた言葉が、光と波音に溶けて。小さな姿が、薄れていく。

「行きましょうか、三舟」

 少女はくるりと踵を返した。

『さよなら、淡雪』

 頭の中に直接響く声の余韻を、噛み締めながら。


「そうして下さるのでしたら、わたくしも嬉しい限りですが……あら?」

 おずおずとしながらも不審を露わにした声に、不意に驚きが混じる。

「今、そこに誰かいたような……いえ、やはり見間違いでしょうか……」

 後ろを歩く三舟が、しきりに背後を気にして振り返る。

「いたかもしれないわね。――ねえ、三舟。お願いがあるのだけれど」

「はい。何でしょうか?」

 春風が花びらを舞い上げて、歩み去る二人の背中を川辺から隔てる。

 それでいい。もう、振り返らない。

「後ろではなくて、隣に来てくれないかしら?」

「ひ、姫様……、何を仰って、」

「良いから」

 俯いたまま、三舟がおどおどと歩を進める。

 淡雪は楽しげに微笑んだ。

 優しい約束と、相反する別れの言葉。どちらが真実なのかは分からない。それでも、構わない。

 どちらだとしても、きっと私は生きていける。そんな気がしたから。


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