16話‐5 進路
何年か前にこの店で新人歓迎会をしたことがあるという俺の父いわく、どのメニューを頼んでも塩気が強すぎて同じような味に思えて、と、印象は実に微妙なところだった。この一帯の店では改築が流行っていたようで、どこの店も真新しくきらびやかだが、この店だけはおそらく創業以来手を加えてませんとありありと物語っていて、哀愁が漂う。他の店と違って二階部分が自宅になっているのがそれに拍車をかける。
「うちは五時になんないと開かないよ。あと、ペットは禁止」
やけに冷めた目をした小学生くらいの子供に、声をかけられた――少しの癖もないさらさらの髪が頬を撫でている。髪型も長すぎず短すぎず、実に清潔な感じだ――今日は土曜日で学校はないから、この時間に帰ってくるってことは友達か誰かと遊んでたんだろうか。着ているシャツもジーンズもサイズが大きすぎてぶかぶかで、うっすらと土に汚れている。
自分の家がやってる居酒屋の前に高校生が猫を乗せて突っ立っているんだから不審にも思うだろう。そして、声をかけた、と。
「ごめん、俺達、客じゃないんだ。君、海月 望さんって知ってる?」
「ぼーちゃんのこと?」
「ぼーちゃん?」
「うちのおにいがつけたんだ。望って、ぼうって読めるし、いつもぼーっとしてるから」
思わず吹き出しそうになる。いつもぼーっとしてるって、確かに見ようによってはそうだったかもしれないが。
「おにいってこの店の人?」
「そう。今はうちの店長さん。ぼくのお兄ちゃん。……もしかして、ぼーちゃん死んじゃったの」
「知ってるの? あいつの事情を」
「おにいやぼくに隠し事はしたくないって、ぼーちゃん、言ってたから。教えてくれたんだ。ぼーちゃんと妹さんは体が悪くて、たぶん長生きできないって」
隠し事をしたくない、とは言ったものの、魔物であるってところまでカミングアウトしたわけじゃないようだ。自分が今すぐにでも、死んでもおかしくない肉体で生まれたのだと伝えたかっただけかもしれない。
「妹さんに会ったことある?」
「ううん。うちに来たことがないし」
彼らがティアーと会っていようがいまいが、冷静に考えればどうでもいいことなんだけど、勝手に口をついて出てしまった。
すっと、少年が両手を差し出す。
「おにいと話すんでしょ? その猫、あずかっててあげる」
魔物の聴覚は人間よりも遙かに優れている。予定では、俺がヴァニッシュの職場の人と話す間、豊は店の前なり屋根の上なりで待機して、聞き耳を立てている予定だった。
彼がどこにいてくれるのかわからないのでどうしようかと思った矢先、豊が自ら、俺の肩からひと跳びして少年の腕の中におさまった。こうなると、俺は素直に礼を言うべきだろうと思い、
「ありがとう。豊のこと頼むな」
「ゆたか、だね」
言いながら、少年が猫の顎の下あたりを指先でくすぐる。動物の扱いに手慣れた様子だ。しかし、猫の姿自体は別に豊の望むところではなく不可抗力だ。おそらく気持ち良いんだろうに、不服そうに顔をしかめる猫に、俺は笑いをこらえるのに苦労した。
からからと音の立つガラス戸を横に滑らせて、店内に入る。左手側にカウンター、その内側に焼き鳥の機械、右手側にテーブルひとつに椅子四つが縦に三セット並んでいる。おかげで通路になるスペースが圧迫されて狭苦しい。白熱電球のオレンジの光が全体を染めて、暖かな雰囲気の滲む店内。カウンターの上の戸棚から、メニューとその値段を書いた札が並んでぶら下がっている。
有り体に言えば、オーソドックスで突出したところは何もない、ありふれた居酒屋風だった――当然、この手の店に未成年の俺に馴染みはない。テレビ番組から与えられた印象に過ぎないのだが。
「ごめんよお客さん、うちは五時からなんでさー。って、しかも未成年じゃん。僕は子供に酒は出さないよ! 弟に悪影響でもあったら困る!」
軽快で、嫌みを感じさせずまくし立てる男の人は、その調子にそぐわず外見が至ってシンプルだ。店の前で出会った、弟さんと思われる子供をそのまま大人にしたような感じ。身につけているティーシャツが何故だか体格に合っておらずだぶついている点まで同じときた。年齢以外でただひとつ、茶色いフレームが太くて目立つ眼鏡をかけている。失礼な話だが、最近はフレームなしの眼鏡が流行っているので、それだけでどこか古臭さを感じる。
「すいません、客じゃないんです。海月望のことでお話ししたくて」
「へえ、ぼーちゃんの! よく来てくれたな、座って座って!」
弟さんとはまるで正反対の反応だ。弟さんの言う通りなら、この人もヴァニッシュの体のことは知っているはずだが。
明るくにこやかに、たぶん俺のものであろうお茶と焼き鳥をいそいそと準備し始める。そんな様子とこれまでの流れ、それだけで……ヴァニッシュは「勤め先にいた人」と言っただけだが、彼が特別な感情を抱いたのはやっぱりこの人なんだろうなぁと思った。
「僕は環というんだ。是非是非タマちゃんと呼んでくれ。うちのお客さんはみんなそうしてくれてるんだ」
言いながら、彼は――素直にタマちゃんと呼ばせてもらおう――俺にカウンター席を勧める。
「もしかして、望もそうしてました?」
「ああ。あいつ面白いよなー。『そうしてくれ』っていうとな~んでも言う通りにしちゃって逆らわないんだもん。からかいがいがあるよな、って、ちゃんと限度はわきまえてるから安心するように」
そうやってヴァニッシュが困ったような……嬉しいような、どっちともとれる顔をするのを楽しんでたんだな。まるっきりどこかのライトやベルのような行動だ。
「俺は……アーチって呼んでください。仲間がつけてくれたあだ名で、最近知り合った人はみんなこう呼んでくれるから」
少し迷って、俺は魔物名を伝えた。何となく、この人はこれが魔物名かどうかなんて気にしなさそうな気がした。
「わかった、アーチね。それで? ぼーちゃんは元気にしてるかい」
……つい、首を傾げる。言葉と口調の印象が一致しない。まるで、ヴァニッシュが無事でないと知っているみたいな。それだけなら先程の弟さんと同じ反応だけど、タマちゃんの明るすぎる態度にはそぐわない。
「君がこうして入ってきた時の顔を見てりゃあわかるって! ぼーちゃんとも約束したんでさ。自分が死んでも悲しまないで欲しいって」
俺の疑問をふたつとも先読みして、タマちゃんは朗らかに笑った。
開店前ということもあって、「お近付きのしるしに」焼き鳥をご馳走してもらえることになった。その焼き鳥の準備をしながら、タマちゃんはほんの少し顔をしかめて何か思い出そうとしながら話し続ける。
「ありゃあ確か、ゴールデンウィークの初日だったかな。仕事中、何の断りもなく、ぼーちゃんが店を飛び出したんだ。その二日後に、このまま店を辞めるって謝りに来た。あの時、なんとなくだけど思った。こいつとはこれが最後になるんだろうな、ってさ」
ゴールデンウィークの初日……四月二十九日は特別な一日だった。俺が見知らぬヴァンパイアに襲われて、豊が殺された日。時間は、すっかり日も暮れた午後七時過ぎ。居酒屋にとってはまさにかきいれ時だったろう。ヴァニッシュはここで働いている最中に俺達の危機を察知し、あの場に駆けつけてくれていた のか。
こんなことをしでかしたなら、解雇を言い渡されても文句は言えない。店側に非は全くない。だけど、この人のことだから、それだけでヴァニッシュをクビにするなんて考えもしなかっただろうな……。
「妹さんも、もう?」
「……はい。望と一緒に」
何の根拠もないが嘘ではない、と思う。ヴァニッシュが森に還ると言い残して去った、その日の夜にティアーは姿を消した。今にして思えば、あれは、ヴァニッシュの後を追ったんだろう。偶然だとしたらあまりにもタイミングが良すぎる。
「わざわざ伝えに来てくれてありがとうな。アーチ」
「あの……いくら約束したからって、そう簡単に割り切れるものですか」
彼の話を聞いている中で、じっくり考えて、俺はついにそう口にした。当初の予定では、さくっと事実だけを伝えて、余計なことを言わずに帰るはずだったのに。
しかも、自分から振っておいて言葉が続かない。どうしようもないことだってわかっていても、俺はやっぱり、ふたりが生きていた日々を諦められない。時が戻せたなら、あるいは時を止められたなら、……先立った人を生き返らせることが出来たなら。そんな思いが、頭を離れないんだ。
「ははーん、わかったぞ」
うんうんと大きく頷いて、納得した様子のタマちゃん。
「君、まだ思う存分泣いていないんだろ?」
「え?」
どうしてか、体がこわばると同時に、心はぎくりと反応した。
「悲しまないで欲しいなんていうのは、言い方は悪いが向こうの都合なわけだ。結局のところ、優先されるべきなのは生きてる方の都合だろ? あいつらもう死んでいるんだ。いくら、僕や君が彼らのことで泣こうが悲しもうが、あいつらにはわかりっこないんだ。だから……
一度だけ、心の底から泣けばいい。僕はさ、あいつが出ていった夜に先にそれを済ませておいたんだ。もう二度と会えないんだろうってわかってたからね。ほら、僕ってあんがい義理堅いからさぁ、これなら約束を破ったことになんないだろ? おかげで今、こうして平静でいられるってわけだ」
ふわふわと軽い言葉。彼の弁を信じるなら、それは重苦しい心情をすでに処理出来たから、ということなのか。
「俺……泣いてもいいのかな」
「誤解されるとあれだから念を押しておくけど、あくまで一度だけな。泣くのは、もう戻らないものを惜しんだり留めたりするためじゃない。先に進んでいくためにすることなんだから」
「……そっか」
そうだったんだ……俺が何より欲しかった言葉を、与えて貰えたような気がした。
お礼を言いたいと思った。だけど、その時にはすでに、今までせき止めてきた何かが決壊するように溢れてきて、言葉にならなかった。
タマちゃんが出してくれた、焼き鳥をのせる予定の皿を挟むように、握りしめた両の拳をカウンターに押しつける。首を九十度近く前にうつむけて、俺は泣いた。ぼたぼたと、涙、鼻水が垂れて、皿を叩く音が響く。
ここまで情けない姿をさらしておきながら、何故だか俺は声を上げて泣くのが嫌で、必死に歯を食いしばった。努力むなしく聞き苦しい嗚咽がもれまくるわ、無理をしたせいで喉がひきつれるわで最悪だった。
それでも……どんなに苦しくても、俺はこの涙と向き合わなければならない。
こうして泣くのは、ティアーやヴァニッシュを困らせることじゃない。悲しい気持ちを流しきって、また前を向いて歩き出すことを、きっとふたりも望んでくれている。そう信じて。
ひとしきり泣いて落ち着いたところで、タマちゃんは俺が汚した皿を下げた。新しく出した皿に焼き鳥を五本のせる。全部、種類が異なるが、俺は焼き鳥に詳しくないのでわからない。ぼやけた目で壁にぶら下がったメニューを眺めると、どうやら五本一セットのメニューらしい。
泣いた後の食事というのは、正直、あまり美味しくない。だけど、父が言っていたような「どのメニューも塩が強すぎる」という印象はない。
失礼とは思いつつも、気になって訊ねてみた。タマちゃんは明るく笑い飛ばし、彼のお母さんが経営していたこの店を受け継いだ時に、味の問題点を察し改善したんだそうな。
「――すみません、みっともないことをして」
カウンター席を立つ。吐き出しきって平静に戻ってしまえば、こんなにも恥ずかしいことはない。
「何がみっともないもんか。人間だったら当たり前のことだって。それにさ、実を言うと、悲しい時ここに泣きに来るお客さんだっているから慣れっこなのさ」
確かに、俺だってきっと、ここ以外でこんな風に泣けたとは思えない。特に仲間の前では決して泣けなかっただろう。ティアーとヴァニッシュの死を悲しんでいるのは、みんな同じなんだから。
「それじゃ、俺はこれで。……あなたに会いに来て良かったです」
「ん? それは何より……ちょい待ち」
俺の態度か言葉かに引っかかるものでも感じたのか、タマちゃんに呼び止められる。
「アーチさ、一度進んだらもう引き返せない、とか思ってないか」
「どうしてですか」
「そりゃあ、さ。君が今、ぼーちゃんがここを出た時と同じような顔をしてるからだよ」
大切な友人がいるこの店へ、二度と帰らないという決意を抱いてここを出たヴァニッシュ。その彼と同じ、ということは。
「一度決めたことから引き返すっていうのは、確かにあんまり良くないよ。だけど、ちょっとだけなら寄り道をしたっていいんだ。ひたすらに前だけ見て全力疾走なんかしたら疲れるだろ?
……だから、大人になったらまたおいで。その時はお客さんとして、うちのメニュー何でもご馳走してやれっからさ。そだ、親父さんもご一緒にどうだ? 今度は塩っぽいなんて言わせないぜ」
「それって約束ですか?」
「いやいや、未来の有望顧客に対するセールストークさ」
ふと時計を確認すると、もうじきこの店を開けなければいけない時間だ。これで、彼に甘えていられた時間も終わり。
改めて、タマちゃんにありがとうと伝えて。
俺は扉を開き、外へ第一歩を踏み出した。
16話終了。17話に続きます。




