13話‐1 銀のかけら
朝の水汲みで水源までの道を歩いていた時のことだった――以前、単身で無事に水源までたどり着いたことが評価され、毎朝の日課に一人で行動することが正式に認められた。だから俺は今、ひとりきりでここにいる――この数日は立ち上がることさえ少なくなってしまったヴァニッシュが、道の先に立っていた。
だが、それは狼の姿で。人間の姿でいても獣の耳としっぽを隠せなくなってからというもの、彼は狼の姿に戻るのを避けているようだったから、その姿でしかもこんな場所にいることに違和感を覚えた。
「ヴァニッシュ!」
そう声をかけると、ヴァニッシュはこちらに向かって駆けてきた。しかし、俺の横をあっさりとすり抜けていずこかへ姿を消した。
「それは……ドッペルゲンガーかも」
あのヴァニッシュが人の呼びかけを無視するなんておよそ考えられない行動なので、セレナートに心当たりを訊ねてみると、そんな答えが返ってきた。
「自分と同じ顔した幽霊に会ったら死ぬとかいう噂のあれか?」
噂というより都市伝説だろうか。聞くところによると、自分と全く同じ姿をした幻に出会うと、その人は近い内に死んでしまうとか何とか。
「合ってるような合ってないような……生き物が死を迎える直前にはね、魔力が少しずつ肉体から離れていくの。肉体が完全に滅びるまで、その魔力は本人と同じ姿かたちをとって、あてもなく周囲をさまよう……そして最後、本人の目の前に現れる。自分のドッペルゲンガーを目の当たりにした魔物は覚悟を決めて、死に場所を求めて旅立つんだって」
要するに……俺の見たヴァニッシュがドッペルゲンガーだとしたら、彼の死はもはや疑いようのない目前まで迫っているということなのか。
「あなた、ヴァニッシュが……ううん、ワ―・ウルフの寿命のこと、もう知っているよね?」
「ああ……同じワ―・ウルフであるティアーも、そう遠くない未来、確実に死んでしまう。そう言いたいんだろ?」
ティアーがワ―・ウルフになったのは、俺が八歳の時だったはずだ。そして、現在の俺は十六歳で、あと数カ月もすれば十七歳になる。ワー・ウルフの平均寿命は十年、ということは、ティアーはあと一年足らずで死んでしまうかもしれないのだ。
「ライトがね、言ってたの……セレナートもみんなも、ティアーから、寿命のことはあなたにだけは絶対に教えないでって口止めされてたんだけど……でもヴァニッシュのことについては、ティアーは何も言わなかったからって」
ライトらしい屁理屈ではあるが、今の俺にはありがたい采配だ。
「どうしてティアーは、俺にだけ、そんな大切なことを話してくれないんだろう……」
ナウルが言っていたような、秘密主義とやらが関係しているのだろうか。
「あなたにだから……言えないんだよ」
気づけばうつむき加減になっていた視線を、セレナートに向ける。すると、彼女はやや不服そうに、頬の内を抗議にふくらませていた。
「ティアーは、あなたのこと、他の誰より大切だから……あなたの悲しむ顔なんて、見たくなかったんだよ。残された時間が短いなら、そのひとときを楽しく……幸せに過ごしたかったんだよ」
最後の時だから、大切な人と、何の気兼ねもなく過ごしたい……そう言われると、よくわかった。過去に友人との死別を経験した俺は、死期が近いなんて誰かに告白されたら、その人に気を使いすぎてしまうかもしれない。いわゆる、腫れ物を触るというような。そんなやりとりは、とても日常的とは言えない。
「でも、俺ももう、知ってしまった……一点の曇りもなく、ティアーやヴァニッシュの前で笑える自信なんて、俺にはないよ。おまけに泣くことさえ許されないなんて」
故人を惜しむ気持ちが強すぎると、その相手を亡霊として現世に縛りつけることになってしまう。だから魔物は、たとえ同胞であっても死に対して過剰反応はしない。……そういった事実を聞かされたところで、俺はやっぱり人間でしかない。いきなり、魔物と同じように、愛しい人の喪失を嘆かないなんて……。
ツリーハウスへ戻ると、大樹に背中を預けてぐったりと座り込んでいるヴァニッシュの前に、ティアーがいた。しばらく遠目に観察してみると、ふたり揃っ て、その姿勢のまま身じろぎひとつしない。いや、覚えている限り、ヴァニッシュは昨日の朝方からその場所を動いていなかった。
ため息を吐きつつ立ち上がると、ティアーは重たい足取りでこちらへ向かってくる。
「ヴァニッシュ、もう長いことあんなだけど、大丈夫なのか?」
「うんと……大丈夫、とは、言えないんだけど……」
俺がワー・ウルフの寿命について知ってしまったことは、ティアーには伏せてある。そのため、ティアーはヴァニッシュの体調不良を、ワー・ウルフと いう種としての寿命だとは明言しなかった。嘘をつくのは嫌いだという彼女のこと、病気だ何だと具体的な虚偽をするのではなく、俺には言葉を濁して伝えるだけだ。
ライトは朝食を調達しに出かけ、豊は小屋で眠っている――本来、朝食は豊が夜起きているついでの仕事なのだが、今はベルが不在で俺達の就寝中、小屋を守る者がいなくなってしまうので、豊がその役を担っている――そしてエリスは、今朝の船で帰ってくるというベルを出迎えるため、昨日の内からオルンの小屋に厄介になっている。
アクアマリンからの船は本来、夜に出航し、エメラードに着くのも翌日の夜になる。しかし運悪く、今回は海の調子が危なかったとかで時間帯がずれてしまったそうだ。太陽光に弱いヴァンパイアであるベルが、たいそう気分を害しているであろうことは想像に難くない。
「――あれ?」
ヴァニッシュを心配し、沈んでいた表情が一瞬だけ、別の感情に反応した。その表情は、単純な疑問符だ。
「どうかした?」
「ベル達が戻ってきてるみたい。ベルとエリスと……とても弱い、もうひとりの魔力が近づいてくる」
懸案事項は多々あれど、自分の仕事分担はこなさなければならない。とりあえず俺は朝の食材を焼くたき火を用意することにした。その火おこしが完全に終わったかという時に、ベル達が姿を現した。
おかえりー、と言いつつティアーが彼女達の元へ駆けていったので、俺も後を追う。天気の良い午前中、きっと不機嫌にしているだろうと思っていたベル は、意外なことに至って真面目な顔をしていた。彼女の背に、見慣れない人影がある……おそらくここまで、ベルがおぶってきたのだろう。
「もしかして、お客さんとか?」
「ええ、実は……」
「あれ、ヴァニッシュ?」
すっとんきょうなティアーの声につられて、ヴァニッシュのいるはずの方向へ目を向ける。ヴァニッシュは、木の幹に爪を立て、それを頼りに立ち上がろうとしていた。そしてこちらを目指そうというのか、一歩を踏み出すが、つまづいて膝から着地してしまう。
状況をいち早く察したらしいベルが、何者かを背負ったままヴァニッシュの元へ急ぐ。
「……ま、さか」
ベルの背負っていた誰かを見るや、ヴァニッシュは言葉を失った。
背負われていた人影は、ベルよりずっと大柄で、しかしかなり細身の男性だった。たぶん、直立すればヴァニッシュよりやや背が低いくらいだろうか。下はぶかぶかの黒いハーフパンツだが、上は女性ものの白いワンピースで、いくら細身と言っても上半身をピチピチに締め付けている。
どこかくすんだ金色の髪はうなじより長く伸び、前髪も目を隠すほどに伸びすぎていて、あまり清潔感はない。頬がうっすらとやつれていて、全体的に、あまり健康的には見えない姿だった。
「……なぜ、彼がここに、いる?」
ヴァニッシュの声、そして表情は、畏怖と、歓喜によって震えていた。それが何を意味するのか、俺の知るはずもない。
「決まってるじゃない。アンタに会いに来たのよ、お馬鹿ちゃん」
お馬鹿ちゃんというのは、この場に限ったことではない、ベルのヴァニッシュに対する呼称だ。随分と失礼な言い様だが、ヴァニッシュは納得済みのことらしい。過去にあったやりとりが起因だというから、俺が口を出すことでもないだろう。
「……エリス」
ひざまづいたまま、ヴァニッシュのすがるような視線がエリスへ向けられる。それを受けて、エリスはひるむように半歩ほど後ずさった。
――ああ、たぶん俺は、彼女と全く持って同感だった。そんな彼の顔を見て、湧き上がってくるのはただひたすらに、嫌な予感ばかりだったから。
「ヴァニッシュの魔力を彼へ? 賛成できるはずがないでしょう、そんなこと」
ヴァニッシュの息も絶え絶えながら熱のこもった願い出を、エリスは極めて冷静に却下した。
「魔力を他人に分け与えるなんて、そんなことが出来るのか? ていうか、それをしたらどうなるんだ?」
「方法論としては可能だけど、そんなお馬鹿なこと誰もしないってことよ。自分の命を削って相手に施ししようなんて酔狂な魔物はそこのお馬鹿ちゃんだけ。今回の場合でいえば、そこに倒れてるのは寿命でなくて魔力不足なの。だから無理やりにでも魔力を補給しちゃえば、もういっぺん目を覚ますかもしれないわねー、というお話なわけ」
太陽の下で活動し、さらに人ひとり背負って随分歩いてきたらしいベルは、常以上の疲れをにじませつつそうぼやいた。彼女が連れてきた金髪の男性は、地面に仰向けに横たわらせたきりぴくりとも動かない。
「単なる魔力不足ならともかく、彼は肉体的な寿命だって差し迫っている。ヴァニッシュ、ただでさえ死にかかりのあなたから、雀の涙ほどの魔力を分けたところで、終わりはすぐに訪れるのよ」
「だったら俺の、ソースの魔力を分ければいいんじゃないの? どうせ有り余ってるんだし」
「……駄目だ、俺のでないとっ」
倒れている青年の、いっそ脳天気ともとれる安らかな寝顔を一心に見つめながらヴァニッシュは叫ぶ。
「……意味が、ない。償いにならないんだ」
「ヴァニッシュ……」
たまらず、ティアーが膝をつき、右の側からヴァニッシュを抱きしめる。
「だからアンタはお馬鹿だっていうのよ」
不快を隠そうともせず、そして思いっきりヴァニッシュを見下げるようにしてベルは言った。
「コイツが、アンタにそんなことして欲しくて遠路はるばるエメラードまでやって来たとでも思ってんの? アンタに会うために来たに決まってるじゃない。それでアンタが死んでたら、こいつの苦労は水の泡ね。お弟子ちゃんじゃないけど、エメラードまでわざわざ死にに来たようなものだわ」
そういえば、かなり前に豊がどっかでそんなことを言ってたっけ。ベルも意外と物覚えがいいものだ。
「……それでも俺は、このまま、見ているなんて出来ない」
「それが馬鹿げた自己満足だと知った上で、そうしたいっていうのね?」
「……そうだ」
「だってさ、エリスちゃん。おかわいそうに、アンタの想いも報われそうにないわ」
「――わかったわ。そうしましょうヴァニッシュ」
覚悟を決めたのだろう、険しい顔でいたエリスの表情が一気に柔らかなものへと変じた。そんな彼女の表情を見上げ、ヴァニッシュは満足げな、しかしやはり迷いも捨てきれないでいるような、あいまいな笑みを見せる。
「そーだ、お馬鹿ちゃん。アンタもう目覚めないかもしれないから教えといてあげる。コイツの名はね、フェイドっていうのよ」
「……フェイド」
ゆるりと、すっかり力を失ったヴァニッシュの左手が動く。それは青年の顔先を目指していたようだが、そこで止まる。ヴァニッシュは銀の力を持ち、同胞――魔物に触れることは出来ないのだ。
そんな彼の心情を察したのか、ティアーが横から手を伸ばし、横たわる青年の長い前髪をかきあげた。




