8話‐2 孤独の先
「その声……ディーヴ?」
「エリス、知り合いなのか?」
「何十年か前に、ライトに紹介されたきりなんだけれど。南の沼近くに住みついてる、メスの鳥精霊よ。虫を育てる趣味があったとは知らなかったわね」
さすがエリス、何十年か前に会っただけの相手の声をよく覚えているもんだ。
「知り合いだからってわけじゃないだろうけど、随分とご挨拶なことね。わざわざ、魔力を察知させない虫を使った癖して姿を見せるなんて。余程、自信がおありなのかしらぁ?」
「どうしてもお伝えしたい用がありますの……」
ベルの挑発にひるむ様子はなく、虫は続ける。
「ソース、あなたのことはこの数日、ほんの少し調べさせて頂きました。今のあなたが最も大切に想う方の姿を、思い浮かべて……彼女の身柄は、わたくしの虫が確保いたします」
思い当たるのは、ティアーしかいなかった。思わず力が抜けて、尻餅をつきそうになるのを、エリスが支えてくれた。
「ユイノ、お願い」
「いいけど、ここが手薄にならないか」
「確かに、この状況であの子に何かあるよりはマシよね。ここでおチビが魔物に悪印象を持って、後年人間を率いて魔物にケンカ売る立派な指導者になりましたぁ、なんて展開、笑えないもの」
それは飛躍しすぎだろうと頭のほんの片隅で思うものの、それ以上の不安で塗り潰され、笑い飛ばすことが出来なかった。
「ここはエリスとベルで凌ぐわ。ヴァニッシュとライトも異変に気が付くかもしれないし……ああ、そういうこと」
何か合点がいったようで、エリスは静かに虫を睨み付ける。
「あちらのふたりにも、いくらか虫を送り込んでいるわね。ヴァニッシュは魔物にはめっぽう強いけれど、魔力に頼らない虫に銀の力は効かないから、十分な時間稼ぎになるでしょう。そうして、ソースが体調を崩して、ティアーが単独行動して、ここの守りが手薄になっている……今日という日に全てを賭けた。一体何年前から計画して、虫を量産してきたのかしらね?」
エリスの解説が終わると同時に、豊は隣の大木の枝へ跳び移り、それを繰り返しどこかへ移動した。ティアーの所へ向かったのだろう。
「ソース、あなたに恨みはないけれど、わたくしはこの日のために百年を費やしました。申し訳ないけれど、一切手は抜きません。覚悟なさってください」
エリスの言葉を聞き流すようで部分的に回答しながら、虫は宣戦布告をする……と思ったら、虫は体を破裂させ、欠片となって地上へ落下していった。
「とは言ったものの……どうしよっか、エリスちゃん」
「さすがにあなたとエリス、ふたりきりというのは厳しいわね。サクルドを数に入れるのは無理があるでしょうし」
「ですよねぇ」
いつの間にか姿を現していたサクルドは、俺の肩に腰をかけ腕組みをしている。
「とりあえず、あそこの連中はアタシが何とかするしかないわよね」
「ええ、お願いするわ」
「まっかせっなさーい」
何とも頼もしい笑顔を付けて断言するベルだが、言いながらすでに右手の指先が変化していく。左手で髪の長い部分をひと房つかむと、鋭利に伸びた右手の爪で切断する。
「そんじゃ、そっちも気を付けてねぇ」
ひらひらと気楽に右手を振りながら、ベルは何の抵抗もなく地上へ飛び降りた。
何をするでもなく呆然と成り行きを眺めている俺を――エリスは黙って、手首を引いて小屋の裏側へ誘導する。
「拡散の防御壁を展開しなさい。一瞬たりとも途切れさせては駄目よ」
「……」
「あなたはまだ、反射させる方向まで操れるほどてだれていない。下手を打てば、エリスを殺すことになるわ」
「敦さま?」
「わかった……」
「――これから下へ飛び降りるけど、怖じ気づかないでね。躊躇されると、しくじってしまうかもしれない」
飛び降り……どういうことか確認する暇もなく、エリスは実行していた。
一瞬の、俺の手首を握る彼女の握力を除き、頼れるもののない浮遊感。その直後、ひやりと冷たいようで生温かいような、柔らかな何かに体をくるまれた。
水だ。セレナートの水源に飛んだ時に似た感触だ。出所を確かめようとあちらこちらへ目をやると、エリスの足元にたどり着く。足の指の先に、水晶玉のように球体となった水があり、そこから渦を巻いて水が溢れだして俺達をとりまいていた。
落下速度は衰えることなく、地上へ着くまではあっという間――着地の感触は、深く掘った穴に雨上がりの泥を詰め込んだ中にぐちゃりと音を立てて沈むような。あまり気分のいいものではなかった。それもまた、その瞬間に限ってのことで、気がついたら俺は固い地面に膝をついている。勢いで倒れかかるのをとっさに両手を地面に立てて支えた。エリスが手を離したんだろう。
飛び降りるというその言葉が出た時点で、俺が速やかに言われていることを理解していたら。躊躇して足に力がこもり、エリスの懸念するような事態になっていたかもしれない。
「あなたの体も、つらそうね」
声をかけられ、顔を上げる。エリスは苦味に耐えるような顔をして、眉間に皺を寄せていた。
「敦は自分の身を守ることだけ、考えなさい。ティアーは虫ごときに遅れをとるほどやわじゃない」
「相手が魔物でもありませんから、今ごろ、難なく戦っているかもしれませんよ」
エリスもサクルドも、楽観的なことを言いながら声は緊張感を隠さなかった。
「来たわね、ディーヴ」
「敦さま、魔術壁を」
サクルドに促され、頭の中で魔術式を構築する。サクルドの助けを借りているのか、初めてヴァンパイアに襲われた夜に見たのと同じ鮮やかな緑色の光に包まれる。
体を起こしているのがつらくて、尻餅をついた……けど、このままだともしもの時に反応して避けることさえ出来ないだろうと思い直す。せめて片膝を立てる格好で耐えることにする。
「どういう了見です? この状況で待ち伏せだなんて……」
「あなたにだけは言われたくないわね、まったく」
足取りは重く、上体をふらつかせるようにして、距離があっても呼吸の荒れているのがわかる。そんな状態で現れたのは、女の子だった。
……それも、ごく普通の人間みたいな。中学生になるかならないか、くらいの年頃で。フェナサイトの街中のどこにでもいるような、平凡な黒いシャツとジー ンズを着て。髪は濃密な茶色で肩にかかる程度のセミロング。癖があるのか先端だけ統一感なく跳ねている。大きめで柔らかそうなファーの白い帽子をかぶっているのだが、エメラードの気候に不釣合いで暑苦しい。
目は霞がかった薄い藍色でどこかうつろ。目に限らず、肌に艶がなく一気に汗をかいた時のようにごくわずか頬がこけていて――余裕が感じられなかった。
これまでに俺を狙って現れた魔物は、決まって余裕たっぷりだった。ソースの魔力を持っていようが、使いこなせない今はただの人間、簡単に殺せる……そんなもくろみが透けて見えて、ただ憎らしいばかりだった。
それが、今。目の前にいる魔物はか細くやつれていて、すぐにでも倒れてきそうな有様だ。それでいて、愉快犯のようにも見えたこれまでの魔物達になかった全力の悪意を、こちらに向けてくる。
面識のない俺の命を狙ったり、ティアーを危険な目に遭わせたりするような相手なのに……その必死さは、どうしようもなく胸に迫るものがあった。




