8話‐1 孤独の先
エメラードに来て、今日で十日になる。手の指で数えてきて、全部使ってしまったのが今日だから間違いないはずだ。明日からは数え方もいい加減で、どんどん曖昧になっていくんだろうなぁ。
この十日間、食事は肉続きだった。ときたま、川魚の場合もあった。海辺を見てみれば、ちょっぴり嬉しくなるようなおかずもあるのかもしれないけれど、海が見えるまで半日近く歩くことになると思うとその気も失せた。
人間の島の基準で言えば、おそらく栄養なんて偏りまくってるんだろう。人間らしい食生活として、五大栄養素に一日カロリーいくらぶんの野菜を摂らなければならない、なんてよく聞いた話だったけど。
「十日か。まぁ、よくもった方と思えば悪いこたぁないぞー。これまでは三日そこらでダウンする奴も多かったからなぁ」
なんてことを熱に浮かされた頭で小屋の天井を眺めながら考えていると、今日も今日とて仲間内で1番元気なライトの慰めの声が降ってくる。
「あなたの鍛え方が悪いなんて次元じゃなく、人間の体は脆いからね。フェナサイトと生活様式も違うのだから、どうしても感染症のひとつやふたつは避けられないわ。気負うことはないのよ、敦。人間の医者もいないことだし、念のため完治するまではおとなしくしているしかないわね」
相も変わらず、エリスの説明は簡潔で助かる。
昨日までの俺のスケジュールは、起きて水汲み、朝食から昼まではライトに体術を習う。昼食から夕食まではエリスから魔術や魔物について教わる。夕食を済ませてからが唯一の自由時間なのだが、何もすることがないのでおそらく一、二時間もしないでさっさと寝てしまう。
疲れ知らずの巨人を相手にとっくみあいの喧嘩をしなけりゃならないんだから午前中には俺はもう疲れ果てている。午後は、ある意味で冗談半分のライトよりも真剣で厳格なエリスの指導に頭の回転が追いつかず、精神的な疲れが大きくのしかかるのだった。
もちろん、俺がいくら体術を身に付けたところで人間の体では魔物にかなわないし、無制限に湧き続ける魔力があるのだから魔術の量で魔物を圧倒すれば済む話だ。けど、突然の奇襲や万が一の場面で体が動かないようだと為す術もなく殺されるしかない。
それに、これからエメラードに住み続ける可能性もなきにしもあらず。ひとりで森歩きや狩りが出来るくらいには人間離れしていた方が進路選択の幅も広がるというわけだ。
昨日までに俺が会得出来たのは、一通りの受け身と体力のわずかな底上げ。魔術では、防御の基礎である魔術壁だけだ。
魔術壁には主に反射系と拡散系がある。反射の魔術壁は相手から放たれた魔術を反射して返す。拡散の魔術壁は放たれた魔術を受け流して消滅させる。反射系は拡散系よりも多く魔術を消費してしまう為、現存の魔物で扱える者は限られ、そう多くはないという。
魔術壁が機能するかは相手との魔力量に影響される。いくら術を発動しても、相手の魔力量が自分より格上だったら意味を為さない。
その点、ソースの魔力は無限大だから、どんな魔物と対峙しても魔術壁の機能を疑う余地はない。恐ろしいことに――というのはエリスの弁で、俺に実感はないのだが――本来ありえない、物理攻撃さえ魔術壁で防ぐことが出来る。
言ってしまえば、攻撃の手段をひとつも持たなくても、魔術壁さえ心得ていれば魔物の襲撃に耐えられるということだ。
「そろそろメシ獲りに出るぞー、ヴァニッシュー」
「……わかった。敦、安静にしていてくれ」
「あいよー……」
心残りとやる気に満ちたこれまた複雑な表情でじっと俺を見ていたヴァニッシュも――あの性格からして、俺の容体が心配なのと、だからこそ自分がしっかりしなければなんて気負いでもあるんだろう――昼食の食糧確保の為に出かけていった。
「エリス、あたし、薬草でも探しに行っちゃっていいかな」
「ええ、助かるわ。……いいんだけど、調子に乗って山奥まで行ったりしたら駄目よ」
「わかってるって! 敦、待っててね」
「おー……ありがと……」
入り口近くのやり取りのようで、身を起こす元気もない俺にはティアーの表情はうかがえなかった。声を聴く限りでは元気そうで何よりだと思う。
「これ、ほんとに心配ないのか?」
言いながら俺の額にぺたりと触れる豊の手のひらは、氷嚢もびっくりの冷たさだった。ヴァンパイアには体温がないからだ。
「毒の類でないことは確かよ」
「ま、人間は風邪で死ぬことだってあるんだから、何にせよ油断は禁物だよな」
「つーかさ、豊、眠くないのか?」
ベルは小屋の隅の定位置で、背中を壁に預けて眠っている。みんなが朝食を済ませたような時間なんだ――俺は食欲なんて皆無だったが、食べなきゃ治らないとかで半ば無理やり、肉を口に詰められたりした――いつもならベルと同じように豊も眠っている時間のはずだ。
「正直、ちょっと眠いんだけど……何だか落ち着かないんだよな」
眠気を隠しきれない表情で、たまに目をこすったりしている豊だが、俺に気を遣っているだけというわけでもなさそうだ。
とりあえずみんなの厚意に甘えて眠らせて貰おう……そう決めて、目を閉じた瞬間。
ぱちん、と強く手を叩く音に、反射的にまぶたが持ち上がる。
「わざわざ潰すなんて珍しいわね。何かあるの、ベル」
ベルに限らず魔物達は、蚊だろうが蝿だろうが、周りを飛んでいてうっとおしくても虫を殺したりはしない。森の中で生活していたら、いちいちそんなことを 気にしていたらキリがない。とはいえ、俺はどうしても気になってしまって、ついつい手を出してしまうことが今でもあるんだけど。
「エリスちゃん、いやな感じがするわ」
「敦達がエメラードに来て、まだ十日よ? 大規模な襲撃はないと思うけれど」
「そういうの、関係あるんだ……」
確かにこの十日間、エメラードの魔物達がちょくちょく、ソースの状態をうかがいにきたらしいのだけど。誰もかれもライトやヴァニッシュが顔を出すと退散していった。
「俺達の乗ってきた船に、魔物は乗ってこなかっただろ?」
「そう……だっけ」
「そうだよ。アクアマリンじゃあソースの身柄に賞金がかかってるから、きちんと計画立てて人数揃えてからエメラードに乗り込んでくるんだ」
「アクアマリンからエメラードの船は三十日おきに一度だけ。だから、こっちへ来る船に魔物の同乗者がいない場合、最も警戒するべきなのはひと月後になるわ。二カ月の特訓を受けたソースに太刀打ちできるかといえば、賭けになるからね」
一ヵ月しか猶予がないなんて、ソースを狙う連中も意外と悠々自適ってわけにはいかないんだな。
俺自身、ダウンするような熱にさいなまれているわけだが、それにしたって今日はえらく蒸し暑い。安静にしていろと言われるので眠ろうとしても、暑さですぐに目が覚めてしまう。
人間の島から持ってきた荷物は、衣類が数点。エメラードじゃあそう頻繁に服を着替える習慣はないとわかっていたけど――せいぜいが、川の水で汗を流すつ いでに着ているものを水にさらして、乾くまで川辺で昼寝をするという適当な光景を目撃できるくらいだ――わがままを言って、最低限の着替えだけは持たせて もらった。特に下着と靴下は数が欲しかったから、上着やズボンの類を二着ずつに妥協して多めに詰め込んできた。
熱を出して寝込んでいるんだから、せめて汗だくのシャツを替えたいと思い、俺はけだるい体を起こして脱いだ。室内にはベルと豊もいるが、ベル は定位置で、豊は寝相が悪くもぞもぞと左右に動きながら眠っている。エリスは多分、下で火の番でもしているんだろう……と、思っていたんだけど。
「ベル、ユイノ……あら、敦も起きているのね。丁度良かった」
焦った風ではないが、声色を常より深刻にしたエリスが小屋の戸を開ける。二人共、寝起きに強いわけでなく、むしろ昼に起きている場合だるそうにしていることが多いのに、すんなり目覚めて立ち上がる。
「手間のかかりそうなのがお出ましよ」
「何だったの、エリスちゃん」
「虫よ」
「虫……?」
俺も立ち上がるが、眉間から広がるようなめまいに体がよろめく。豊が左腕を強く引いて立たせてくれるが、今度は視界がゆらゆらと霞んでいるような気がする。
「虫と言っても、害のない普通の虫ではないのよ」
「魔力を与え意図的にしつけて、巨大化させたそれはそれは面倒なシロモノなのよねぇ。おまけに腹の足しにはならないし、もうサイアク!」
「それにしても、虫使いなんて珍しいな。今時、あんなしちめんどくさいことやる奴もいるんだ」
勝手知ったる様子で話す豊の様子にももう慣れたが、話についていけない。
「説明は後よ。とにかく、外へ出ましょう」
エリスにうながされ、俺達は小屋を出る。このツリーハウスは小屋周りの足場が広く設けられている為、すぐ下の広場の様子はここからはあまり見えない。縁のぎりぎりまで近付き、身を乗り出してようやく、下が見える。ベルと豊がそうしているのに俺もならうと……。
木々の隙間から、うぞうぞとうごめいている黒い影。むかでをでっかくしたような、まぁ虫だよなと理解できるものが二体――虫なんだから二匹とするべきな のかもしれないが、十分に成長した豚のようなサイズだから抵抗がある――二足歩行の人間の全身像からところどころ太い節足が突き出したようなもの、牛を直 立させて人間のような体格に改造したような茶色の生き物……見える範囲では、この四体だ。
率直に言えば、グロテスクな生き物で、思わず目を反らせたくなってしまう。
俺達が顔を見せるのを待っていたのか、頭部が牛に似た虫が右手をかざすと、手のひらの内に収まっていた小さな虫がこちらを目指して飛んでくる。セミの姿をした、見た目はごく普通の虫だった。
「こんにちわ、エリス。あとの皆さんとの面識はありませんでしたね……ソース、あなたの身柄を頂きにまいりました」
他に発生源も考えられないし、おそらく目の前を飛ぶ虫が喋ったのだろう。低く澄んだ声……性別はわかりにくいが、時折思い出したように甲高い音が混じったりするから、とりあえず女だろうと思うことにする。




