20話‐7 天上のしずく
ふら~り、危うげに揺れた隣の彼女を、とっさに無事な方の腕を引いてつなぎ止める。
「大丈夫?」
「ご、ごめ……大丈夫」
「だから、エリスと一緒に休んでていいって言ったのに」
カリンは、エリスとムシュムシュと共に、フェニックスを人間へ戻す魔術式の解読にあたり、二晩の完全徹夜を断行した。睡眠の足りない体、薄暗くじめじめした、人ひとりがやっとの細い空間、均一でない段差……悪条件を幾重にも重ねて、体がふらつくのも予想通りだ。
さらにカリンは、アクアマリンの法にのっとった刑罰によって半月ほど前に腕を折られたばかりだ。三角巾こそ外れたもののギプスをはめた状態で、完治にはまだ遠い状態にある。
「だって、アクアマリンのウンディーネに会えるなんて、これが最初で最後の機会かもしれないもの」
二日分の休息をとるためひと眠りついたエリスと、砲撃の式の特訓をすでに開始している梓達と別行動して、俺とカリンはウンディーネのセリオールへ挨拶に赴くことにした。今回の儀式には彼女の協力が不可欠で、同郷のよしみであるエリスがすでに話をつけてはいるのだけど、あらためてお礼を伝えておきたかった。
ハイリアはしぶることなく了承をくれ、ムシュフシュの先導に従って俺達は歩いてきた。俺達が立ち止まったので足を止めていたムシュフシュは、一瞥をくれてまた歩き出す。
アクアマリンのウンディーネがいるのは、盟主の塔の地下。俺も収監された地下牢の最下層だ。あの時の恐怖が思い出されてぞっとすると同時、こんな閉ざされた場所にいてひたすら水源を守り続けるウンディーネという存在を思う。
長い道のりに飽きて、胃のあたりが重たくなってきた頃に、空間は開けた。同時、最後の一段を降りて足が着いた地面は砂浜のようで、さくっと足跡を残す。
エメラードの水源のように、太陽光を濾過したように鮮やかな明るさではない。これは、夜明けを間近にして水平線のすぐ向こうまで太陽の控えた、そんな洋上の明るさに似ていた。
ここが地下であることが疑わしく、見回せば薄紫がかった果てのなさそうな空間が広がり、見上げれば空に続いていそうな開放感がある。しかしそこは空ではなく、やはり水面のように見えた。ごくごくささやかだけどさざ波のような動きが見られる。
周囲との物理的な関係を一切無視した不思議な空間。現象のひとつひとつはエメラードのそれと似通っているが、水源というのはどこもこんな感じなのだろうか。
天井の水面に、やや目立つ波が起こった。既思感があって、目前の湖へと視線をやると、そこにはやはりウンディーネらしき人影があった。
水面から数センチほど宙にふわふわと浮かぶ少女は、膝を抱え丸まって、眠るように穏やかに瞼を下ろしている。癖のないセミロングの髪は、ごくごく薄い、儚すぎる桃色で、毛先になるにつれて満月のように強い黄色に変化している。髪の毛と似た色のワンピースは膝下までの長さで、ほっそりとした手足の、手は人間と同じ肌色を、足はワンピースの延長線上のような色をして、水に溶けそうにうっすらと透明がかっている。
瞼を上げ、ちらり、こちらを一瞥する。俺が不随意にしたまばたきの一瞬で、湖の波打ち際まで移動したらしい。適当に会釈と挨拶を交えつつ、俺達は彼女へと歩み寄る。
「こちらはセリオール。その名のままに呼んでいいの」
ぱっちりと大きな瞳は、湖とまったく同じ色とゆらぎを抱えていた。果てのないかのように透んでとらえどころのない。感情の一切見えない声色といい、彼女はいわゆる、「水源の役目を果たすため心を持たないウンディーネ」の典型なのだろう。
ひとたび感情を得て以降、天真爛漫で豊かな心を持つエメラードの水源のセレナートとは対局の印象だが、面立ちは彼女とセリオールはうり二つだった。髪と、身にまとう服の長さは違うけど。
「ウンディーネの髪と衣服は、魔力容量と水源としての力を表しているの。セリオールは、セレナートほどには強い力を持っていないから」
「もしかして、人が何を考えてるのか読めるとか?」
あまりにも、俺の考えていたことに対して的確すぎる発言なので、思わず不躾に訊ねてしまう。
「水は、水面に映るものの心を映すの。セレナートはそれを口外しないで楽しんでいるようだけど」
なるほど、お茶目なセレナートらしい。何も知らない素振りで、時には対面する相手の心を読んでいたわけか。……時々、妙に思慮深く他人の心配をしていたのも、そのせいなのだろうか。ティアーと俺との関係を気にしていたのも、彼女が知っていたなにがしかの真実が、そうさせたのだろうか。
……今は過去のことを気に病んでいる場合じゃない、か。ため息ひとつで気を取り直すと、あらためて向き直ったセリオールが首を傾げ、こんなことを言った。
「あなた、何も知らないのね。本当にいいの?」
「ん?」
「何も知らないで、命懸けの儀式に挑もうとしているようだけど、それでいいの?」
何を言われているのだか、よくわからない。セリオールが言葉少なだとか、そういう問題ではなく。単純に、俺の知らない事実があるから、ということなのだろうか。
それもウンディーネの力で察したのかな、なんて場違いなことを考えていると、
「それくらいなら、あなたの顔を見ただけでわかるの」
眉ひとつ動かさない無表情で、辛辣なことを言われてしまう。
「あたしも……ずっと、おかしいって思ってた」
セリオールの言葉に、深く思考に沈んでいたカリンが顔を上げると、そこには確信と不安をない交ぜにした表情が浮かんでいる。
「ソースと、砲撃手がふたりと、魔術式。儀式に必要な魔術式の解読と再構成は、もちろん楽じゃなかったけど、あたしみたいな半人前でも三日もかければ完成した。ゼロから魔術式を作り上げるんじゃなくて、基礎はムシュフシュが持っていて、それを応用するだけなんだもの」
魔術式を発動させるだけなら、その仕組みは「魔術式を読む」という単純明快なもので、読み方さえ教われば誰にでも出来ることだ。しかし、いくら魔術式の 仕組みを知っていても、それだけでゼロから魔術式を創作するのは簡単じゃない。まさしく、数学の式と同じだ。学べば誰だって計算式を解けるが、ちょっと聞きかじったくらいでは、人に解かせるための高難易度の計算式を創り出すなんて、素人にそうそう出来ることではない。
カリンとエリスが取り組んだ作業はまず、ムシュフシュに教えられた「フェニックスを人間に戻す魔術式」の構成を理解すること。そこに、実際に儀式に取り組む俺と、砲撃手を務める梓とマージャの式を組み込むこと――今回の儀式のように、特定の対象に命中させる用途の魔術式は、術の実行者と対象者の式を組み込むことで発動条件を満たす――そもそも人の式を魔術式に組み込むことさえ、この分野を学んで日の浅い俺には理解の及ばない話だった。
「たったこれだけで済むことなら、ムシュフシュもフェニックス達も、何のために神話時代から今日まで待ち続けたの? 何のリスクもないのなら、どの時代のソースに依頼をしたって断られるようなこととは思えない。フェニックスによるエメラードとアクアマリンへの監視は、魔物達にとっては疎ましいものだった。ソースは何もしなくたって魔物達から敵視されるんだもの。敦君がやったみたいに、フェニックスを無力化させることは、魔物達へ恩を売るまたとない機会じゃない」
なるほど。セリオールとカリンの発言から想像出来るのは、
「つまり、今回の儀式をしきることで、俺には何らかのリスクがあるってことかな」
「そう簡単に言っちゃって……。もし、本当にそうだったらどうするのよ」
そうだとしても、今更引き返す気はこれっぽっちもない。見殺しにするくらいなら……っと、これを口にするのはよくない予感がするので、肩をすくめてごまかしておく。カリンは頬を膨らませて抗議の意を示すが、すぐに諦めたらしく、やれやれと肩の力を抜く。……なんとなく、梓に付き合っててこの諦めの良さが身に付いたんだろうなと思う。あいつもあれで聞き分けのないところがあるし。
ここは事の発端であるムシュフシュに、きれいに解説などしてまとめて欲しいところだな。
「フェニックスを人間へ戻すためには、魔術式を発動させるだけでは足りないのです。術の中心となる者は、ふたりのフェニックスを制すべく莫大な魔力を消費するだけでなく、術の発動と同時、人間の遺伝子情報を彼らへ分け与えなければなりません。ソースであれば前者は問題なく、この世界で最も適した役と言えるでしょう。しかし……」
言いづらそうに、なんてかわいげはこれっぽっちもない。ムシュフシュはまっすぐ俺を見つめ、淡々と語り聞かせる。どんな事実があったって、俺が引き返したりはしないと確信しているのだろう。
「ひとりの人間から、ふたり分を人の姿へ戻すだけの遺伝子情報が流れ込むのです。理論上、必ずしも命を落とすとは限らないとは言われています。ただし命の危険がない、ともまた断言は出来ません」
「……なーんだ。別に、必ず死ぬってわけじゃないんじゃないか。俺はやるよ。少なくとも、ここをしのげば魔物達から命を狙われる生活とおさらば出来るんだ。シュゼット達のためなんかじゃなくて、俺自身のためにリスクを背負う意味はあるよ」
「敦君……また、見え見えの嘘を言っちゃって」
ねぇ、と、投げやりの勢いでカリンがセリオールへ同意を求めると、彼女は無言で頷いた。心を読める存在にそうされては形無しってものだ。
ふと、目をいくらか細めて、セリオールは細くひと息ついたようだった。
「まぁいいの。その時になったら、セリオールもあなたが生き延びるよう、ちょっとは力を分けてあげるの」
「え? 君にそういう力があるのか?」
「水は生命の源なの。あなたがフェニックス達へ命を分け与えると同時、セリオールの水の流れをあなたへ分けてあげる。助かる可能性はぐっと高くなるはず」
「けど、今会ったばかりの俺のために?」
「セレナートが、あなたがこの島へ来てからずっとめそめそめそめそ、騒がしいの。大人しくさせるためにやむをえないだけ」
おまけのように。だから別にあなたのためじゃないの、と付け加える。俺もよく使う言い分ではあるけれど、他者から同じことを言われると、こうも嘘くさい台詞もないもんだなと思わされた。
ウンディーネの水源を去って地上へ出ると、ちょうど目撃してしまったのは、フェニックスの死の瞬間だった。
甲高いようで、その巨体に似つかわしい断末魔――嵐の夜の、苦しげな風の唸りのようなそれを空いっぱいに響かせながら、赤い炎の不死鳥が全身を突っ張らせる。見る間に炎がちぎれて地上へ降り注ぎ、収束した一点に小柄な少女のシルエットが見えたが、その瞬間にはすでに巨大な炎と鳥の形を再生していた。それと同じ流れを、後を追うように青い炎の不死鳥も再現してみせる。
「あ……」
別に俺達に口出し手出し出来ることではないのだが、それでもどうしようもない無力感から、口をついて出るのは意味のない呟き。
七日七晩、戦い続ける二羽のフェニックスは、その間に何度も死と再生を繰り返す。その全てをこの目にしたわけではないが、想像するだけで彼らの心情の悲痛を思い、胸が痛む。
「シュゼットもツヴァイクも、今頃どんな気持ちであそこにいるんだろうな……」
せめてこんな時くらい、強がらないで、素直に「助けて欲しい」って思っていてくれたらいいな。そんなことを思う。
「ねぇ、敦君……あたしね。本当は、ソースもユイノも、この島に来ないで欲しい――来なければいいって、ずっと思ってたの」
傍らにいたカリンは、俺の名前を呼びはしたが、続く言葉はどこか独り言のようだった。
「それだけじゃなくて、梓がマナ君を助けようとした時も、今も、ツヴァイクを助けようと必死なことも。梓は自分を省みないから、誰かを助けようとして……あるいは、支竜アースの使命に引っ張られて、ソースやユイノが……あたしの前から、梓を連れて行ってしまうんじゃないかって思ってた」
彼女の目は、天上を舞うフェニックスを見上げながら、涙の粒を盛り上がらせていく。
「馬鹿よね。こんな風にしか考えられないあたしのことを知ったらそれこそ、梓があたしに愛想をつかしたって、文句を言えた筋合いないじゃない」
ぐすり、一度だけ鼻を鳴らし、黒い服の袖に涙をこすりつける。そうしてから俺に向き直ったカリンは、目元は赤いが毅然とした眼差しで、
「こんな状況になったって、あたしの気持ちは、敦君や梓みたいに、ただフェニックスを助けたいって方には向いてない。だけど、儀式に必要な魔術式は、必ず完璧な形で仕上げてみせるわ。そこに敦君や梓が、フェニックスへの想いを乗せてくれるから……今回のことが解決したら、あたしももっと素直に、みんなと向き合っていけるような気がするの」
少しだけ鼻声だったが、至って真剣にそう言った。
「敦君……きっと、フェニックスを助けてあげて。そしてあなたも生きて帰ってきてね」
「もちろん、そのつもりだよ」
フェニックスを人間へ戻す儀式には、ソースの魔力と同時に、俺の命が彼らへ吸い込まれる。俺自身の命にも関わる、そうだとしても。
「シュゼットは、まだ助けられる。絶対に助けてみせる。俺はもう……」
ヴァニッシュの寿命は、覆せるものではなかったかもしれないけど。ティアーの傷に気が付かず、黙って見送ってしまった……あの時とは、違う。
「あんな間違いを繰り返したら、今度こそ、立ち直れる自信がないよ。ほら、俺だって、自分本位には変わりないだろう?」
カリンは自分を卑下したが、何て事はない。俺だって似たようなものじゃないか。シュゼットを助けたいと思うのは、あの時の代償行為だろうか? そうだとしても……
「だとしても、ティアーはあなたのそういうところが、好きだったんだよ」
今は、そんなカリンの言葉を信じたかった。