20話‐4 天上のしずく
ムシュフシュの頼みで、春日居先生が膨大な数の手記から選んで取り出したそれは、ただでさえ歴史ある書物の中でもとびきり古びたものだった。
「これって、スケッチブックか?」
この場にいる面子で唯一、この家の事情を知らない豊が口にする。彼の言うとおり、これは文章を残したノートではない。ハードカバーのように重厚なノートが並ぶこの家の本棚に、スケッチブックばかり並んでいる一角あるのが気になって、俺は二日前の晩にそれらを手に取り内容を確認していた。
「アクアマリンに移住した、春日居家の最初のひとりは水墨画をたしなんでいてね。彼は当時のアクアマリンを、文章だけでなく形ある絵として残してくれたんだよ」
かたくしっかりした紙を使っているのは表紙だけで、めくるとスケッチブックというよりクロッキー帳のようなぺらいページになっている。白い紙に黒い墨の濃淡で当時のアクアマリンの風景や魔物達の表情が生き生きと描かれている。白黒しかないのにまるで色彩があるかのように鮮やかで、眺めていてもちっとも飽きが来なくて、俺は次から次へとページをめくってしまっていた。残念ながら今はそれらを楽し んでいる場合ではないので、春日居先生はムシュフシュの望むページをあっさりと提示する。
「三百年前のアクアマリンの地図だ。もっとも、現在と比べても大きな変化はほとんどないのだけどね。しいていえば港の設備くらいは時代にそって進化してはいるけれど」
「必要なのはアクアマリンの町並みではありません。エルトロン領の人間の科学者達によってフェニックスが作られた、その当時から変わらないもの。それが何かおわかりになりますか」
「それは、井戸だよ。そしてそれらを地下で結んでいる水路、かな」
さすがに、その質問に何の疑問もなく答えられるのは、春日居先生だけだった。
「そうです。アクアマリンでは当時から水が貴重でした。限られた水をアクアマリン全体に効率よく行き届かせるために作られた水路。それはこの地を魔物達が支配するようになってからも、そのまま利用されました。魔物達は今も気付かずにいますが、それは科学者達の予測の範疇でした。いくら忌まわしき人間の遺物であろうと、この島の生命線である水路を魔物達が損ねることはない。手つかずで再利用するだろう、というのは想像に難くないことでした」
こうして地図を見ていると、アクアマリンは井戸がやたらと多い。多くて困るものではないので、普段ここで暮らしていても疑問には思わないのだろう。
「さっき、フェニックスが言っていたよね。アクアマリンでしか彼らの儀式は行えないって。ということは、この水路……」
細く、女の子らしいカリンの指先が、地図上に点々と描かれた井戸のポイントをつつく。
「ご明察です。水路は魔術式の形をとり、アクアマリン全体に張り巡らせているのです。不死なる炎を疑似太陽にまで進化させる、そのためにはそれなりに巨大、かつ複雑な魔術式を構成する必要がありました」
「てーことは、この水路をどっかしら壊しちゃえば、ツヴァイクとシュゼットの儀式は止められるんだな!?」
「そんなんで済むなら、千年以上ももったいぶる必要はないだろ……」
目を輝かせる梓を、豊がうろんにいさめると、そっかぁ、などとつぶやき梓は肩を落とす。かと思ったら、
「部分的に壊してもダメってことだったら、丸ごと埋めちまえばいいのか!?」
「それだって、時間をかければ出来なくはないんだから同じだよ。ムシュフシュが今日まで放置させておいたってことは、それだけじゃダメなんだろ」
めげない梓に、今度は俺がツッコミを入れる羽目になる。同じパターンで二度落ち込みはしない、とでもいうのか、梓は肩をすくめるだけだった。
「水路を破損すれば、フェニックスが太陽として覚醒することは止められます。しかし、私達はそうするわけにはいかなかった。彼らの本当の望みは、元の、人間の体に戻ることだったから」
表情のうかがえないキメラの顔は、基本的にはまっすぐ俺に視線を向けていて、正直ちょっと反応に困る。とはいえこちらから疑問を投げる分には都合がよくもある。
「戻れるのか? 人間に」
「ええ。フェニックスの開発者の中にただひとり、幼い少年少女に、疑似太陽という科学者達のおろかな願望を背負わせることに、罪悪感を覚えた方がいらしたのです。彼は、フェニックスが太陽へと変わる魔術式、それを逆回しして人間へと戻る式を組み込んだのです」
「てことは、水路の魔術式は、フェニックスを太陽にするか人間にするか、どっちにも使えるんだな」
「ですが、それだけでは足りません。そのために必要なのが、あなたなのです」
俺、っていうかソースの魔力なんだろうけどな、どうせ。
「だけど、島全体を巡るほど巨大にしなきゃならなかった魔術式なんか、けっこう複雑に出来てるんじゃないのか? そう簡単に発動させられるのかよ」
一昼夜の空の旅がこたえているのか、それとも単純に精神的な問題か。テーブルにひじをつく豊の態度は気だるそうだ。
「おおよその構成は私が理解しています。カリンやエリスのように魔術に通じた方がいるのなら、それは問題にならないでしょう」
「だってさ。楓はどうするんだ?」
まだ、彼女をアクアマリンから避難させることを諦めていないらしい梓は、どことなくぶっきらぼうにそう訊ねる。
「わかった。あたしはあなたに協力するわ、ムシュフシュ」
口を尖らせてそう宣言すると、カリンはスケッチブックの地図を両手でひっつかみ、顔に近付けて凝視する。井戸の位置から、水路、ひいては魔術式のおおまかな形を推測しようとしているのか。
そんな彼女の目が自分に向いていないのをいいことに、梓は眉を下げ、いかにも悲しげな顔を見せる。まったく、このふたりのすれ違いは心に痛くて、とても見ちゃいられない。
「それは問題にならない……他には何か問題でもあるのか」
特に根拠はなかったが――しいていえば、ムシュフシュ達が待ちこがれた歳月に対して、話があっさり進みすぎているような気がしただけで――その問いにムシュフシュは頷いた。
「現在、こうして完成している魔術式が発動しないのは、アクアマリンのウンディーネが水路の流れを操り、式を封印しているからなのです。したがって、我々が動くには彼女の許可が必要になります」
「そういえば、この島のウンディーネってまだ会ったことがないわ。エメラードのセレナートには会ったことがあるけど」
カリンがティアーと知り合ったのはエメラードでの出来事なのだから、セレナートと面識があっても不思議ではない。しかしアクアマリンのウンディーネの顔も見たことがない、っていうのはちょっと不思議だ。エメラードでは魔物はもちろん野生の獣だって、水源に敬意を払い、彼女のもとへ挨拶に訪れるなんて当た り前なのに。
「アクアマリンの水源は、地下深くにあります。盟主の塔、あの地下牢をさらに下ったその下に。アクアマリンで彼女と面識があるのは歴代の盟主くらいのものでしょう」
「となると、まずあの盟主ハイリアのお許しももらって、ウンディーネに会わなきゃならないってことか」
うげぇ、と思わずこぼれたうめき声に、梓は不思議そうに俺を見る。そりゃ梓はあいつと兄弟弟子の関係で気心も知れているのかもしれないが、俺はあいつに散々な思いをさせられたんだ。叶うことなら二度とお目通りなんかしたくなかったんだって。
「また、ふたりのフェニックスを人間に戻すためには、ただ魔術式を発動させただけでは足りません。あの式は本来、彼らを疑似太陽として覚醒させるもので、人間へ戻るための式は隠された機能でしかありません。その手順としては、水路から二対の水流を手に取り、空へ投げ放ち、ツヴァイク、シュゼットの核をほぼ同時に貫かなければならないのです」
核というのは、例えばゴーレムであるトールの胸の中にある石版のような、魔術によって生かされている魔物の心臓部のことだ。
「そんなまねが出来るのは、体のどっかしらに砲撃の式でも持ってて、ある程度使いこなせる奴だけ。しかも二対ってことは最低でもふたり、術者が必要ってことか」
砲撃の式というのは、戦闘用の魔術としては割と知られたものらしい。魔術によって具現化した炎だったり水だったり、何を用いるのかは個人の自由だがともかく、そういったものを相手に直接投げ放って攻撃する魔術のこと。
「砲撃の式だったらオレ、使えるぞ。もうひとりの当てもある。あいつもアクアマリンの危機となれば、協力しないなんてことはないはずだし」
「だけど、砲撃の式だけじゃあ核を正確に撃ち抜くなんて無理でしょう?」
心なしか胸を張って、梓は主張する。その隣でカリンは、いまいち釈然としない顔だ。
「それを果たすのが、私の役目です」
これまでと何ら変わらず、無表情、淡々と話すムシュフシュ……そのはずなのに、どこかものがなしい空気が流れたような気が、した。そんな虫の知らせが気のせいでないことは次の瞬間にもう知れた。
「私の核はブルー・フェニックス及びレッド・フェニックスの式を掛け合わせ、複製したものです。加えて水路の魔術式と同じものも刻まれています。すなわち、私はフェニックスの儀式のために作られた、儀式の核でもあるのです。この私の式を砲撃の式と掛け合わせれば、ふたりの魂の式を追尾するように、彼らの核を撃ち抜くことが出来るはず」
「……それをしたら、ムシュフシュはどうなるんだよ」
おそるおそる、といった様子で梓が問いかける。
「フェニックスが疑似太陽として進化するか、人間として退行するか。どちらになるかの違いはあっても、私は元より、儀式の完遂と同時に消滅する定めなのです。もちろん、それで構いません。私はただ、ふたりのフェニックスを守り、彼らの願いを叶えたい。それだけを心の支柱として生きてきたのですから」
それでいいのか、と条件反射のごとく口をついて出そうになったのは、ムシュフシュに先回りされ妨げられた。
「ソース、あなたには、水流を空へ放つための魔力を提供して頂きたい。砲撃の式の威力は術者の魔力容量に影響を受けるもので、並大抵の術者のそれではフェニックスの炎に守られた核を貫くことは出来ないでしょう」
「そんな都合のいいことが出来るものなのか? 梓とか、他の誰かが放つ攻撃に俺の……ソースの魔力を使うなんて」
「あたしがやるよ。あと七日あるんでしょう?」
ムシュフシュの前へ身を乗り出し、胸を叩いてカリンは名乗り上げる。ぶつぶつ、俺にはよくわからない、魔術式の理論みたいなものを口にして、さっそく計算を始めているらしい。
「あたしにそれが出来るんなら、梓もあたしを邪魔者扱いするわけにはいかないだろうからね」
梓に対してこんな顔を見せることはほとんどないだろう――真っ向から挑むように、カリンは梓にすごみをきかせる。梓は小さく、落胆の吐息をこぼした。
「梓の砲撃の式は体に刻んである。そこに敦君の魔力との流れをつなぐ式を重ねて刻めば、理論上は可能なはず。だけど、今回っきりの魔術のために、砲撃の式に上書きするなんてもったいないことしたくない。敦君、ソースは頭に式を思い浮かべるだけで、魔術を発動させられるんでしょう? だったらむしろ、敦君に、梓の砲撃の式とあなたの式とを組み合わせた式を覚えてもらって、発動させてもらうのが得策だと思う」
一瞬にしてここまで理論展開するのか、と、思わず呆けていると、敦君? とカリンは答えを急いてくる。あわあわと慌てながら答えを返す。
「俺に出来ることなら何だってやるよ」
答えと言っても、こんなつまらない一言でしかないのだけど。
「でも、砲台になるのはふたりなんだぜ? しかもほぼ同時に発動させなきゃいけないなんてけっこう骨だ。敦、まだそういうのには慣れてないんじゃないのか」
「慣れてるとまでは言わないけど、最近は魔術壁で防御ばっかしてるのもまずいからって、魔術壁を出したまま攻撃の魔術を展開出来るように、エリスと訓練してた。やろうと思えばやれないこともないと思う」
豊は心配してくれたようだが、そういえば豊はこの一ヶ月、失った手指の治療とリハビリのために俺と離れて暮らしてたから、俺の訓練の内容を知らないんだったな。
「そんで、今まで挙げたぜ~んぶのこと、これから七日以内に済ませなきゃいけないってことだな」
さすがに梓も楽観はしていないのだろう、そう話しながらどこか表情に虚勢を張っている。
「そんじゃあ、まずは盟主の塔に行って、ハイリアと話をつけるのが最初かな!」
どこから聞いていたんだか定かではないが、ちょうど外出から帰ったマージャが、脳天気な声を割り込ませる。あちぃあちぃと言いながら、タオルで額からだらだらと流れる汗をぬぐっている。連れ立って帰ってきたエリスはどこ吹く風だが、外は世界最大の炎が二対、羽を広げて大空を飛び回っているんだ。エリスの涼しい反応こそが異様なんだろう。
「おかえりー! どうだったよ、アクアマリンのみんなは」
梓はそう訊ねるが、カリンはその返事を待たずにマージャとエリスへ、彼らの留守中に話し合われた内容、及び今後の作戦を説明する。
「オレ、ハイリアのとこへ行ってくるから、みんなは他のことを先に進めててくれ」
「あ、待てよ梓」
意気揚々と出ていこうとした彼を、引き留める。
「俺に考えがある。ここは俺達、みんなで行こう」




