20話‐3 天上のしずく
爆発音のような響きは、想定していたよりよほど遠くから聞こえてきた。比較するなら、人間の島で、シュゼットが目前で不死鳥の姿に成り変わるのを見せられたあの時の方がよほど破壊的だったように思える。
がやがやと、状況に対してやけに能天気なざわめきがアクアマリンの住宅街から流れてくる。遙か頭上から、荒れた海の大波めいた音が降り注いでいる。
瞼を上げて、かざしている手の脇から天を伺う。相変わらず白んだ空の真ん中で、ふたつの、巨大な火の固まりが踊っていた。赤い鳥、青い鳥の形をしたそれらは舞うように、お互いの炎をくちばしでついばんで、またはそれをかわそうとして、近付いては離れる動作を延々と繰り返す。
落ちてくる火の粉は地上へ着く前、空高くに塵と消える。魔術壁の意味もなさそうなので、俺は脳裏に描いていた式を頭を振りつつ消し去ってしまう。多少なりと気を張っていたのだろうか、瞬間、体がよろめく。すぐ傍らの、ベランダの柵に手をついた。
体を落ち着かせても、あえぐような息が勝手に漏れ出すのは何故だろう。ひとつには、熱気だ。空々しく冷たい空気が常のアクアマリンらしからぬ、あるいは熱帯のエメラードとも異なる、炎に煽り立てられた不快なな熱気。アクアマリンは今、疑似太陽に成れる人工の灼熱に覆われている。
また、呼吸を妨げるのはおそらく物理的な問題だけではないのだろう。涙を隠すことも出来ない、心底から打ちのめされたようなシュゼットを引き留められず。人の姿を捨て空へ還ろうとしている彼女を、こうして見上げているしか出来ない自分の無力に……何度後悔しても同じ過ちを繰り返してしまう自分の無能さに、絶望しているんだ。
「始まったのね」
春日居先生と一緒に屋内にいたエリスがベランダに出てくると、極めて無感動に解説する。
「神話時代からの伝承によると、不死鳥が疑似太陽として覚醒するために、ブルー・フェニックス=フォボスとレッド・フェニックス=ディモスは死闘を繰り広げる。力で勝ったどちらかが、もう片方を喰らうことで二羽の不死鳥は一体に、完全体となる」
「そして、勝ち残るのがどちらなのかは、『火を見るより明らか』……」
なんとなく名残惜しい心持ちで、赤い炎の鳥、青い炎の鳥から目を離し、声のした方を見る。春日居の家の、ドーム状のまあるい屋根の上にしっかと足をつける四足の獣。鳥から獅子からは虫類から、でたらめに複数の種を混ぜた、まがまがしいキメラ――ムシュフシュは、いつかのように、まっすぐ俺を 見つめていた。
「ムシュフシュ、あなた……言葉が」
怪訝に首を傾げ、カリンがつぶやく。俺もムシュフシュが声を発するのを最初に耳にした時は、全く同じ感想だった。奴は完全に獣の姿をしているし、シュゼットに無言でついてまわる腰巾着のようなもの、としか認識していなかったから。
「言葉を用いる必要がなかったまでのことです。今日、この時を迎えるまでは」
この回答もまた、俺の時と大きな違いはない。そうして俺は知った。願いを果たせる時機をみはからい、それを実現するために自分は存在している。そう言ったムシュフシュが、いかなる「時」を待っていたというのか。
「ブルー・フェニックス=フォボス。レッド・フェニックス=ディモス。二対の不死鳥は、生まれと存在の大部分を共有していながら、必ずしも対等ではありま せん。言い換えれば、フォボス……ツヴァイクは男性体であり、シュゼットは女性体。肉体的にも火力としても、ツヴァイクはシュゼットを圧倒します。それでもしばらくは互角に戦うでしょうが……」
太く、青いうろこの生えた首を空へ向ける。潮騒のような動きと音を振りまく、青い炎と赤い炎に埋め尽くされた空。混乱にあった意識が冷めつつあるのか、 急激に、アクアマリンというちっぽけな島を覆う炎の暑さを全身に感じ始める。つぅっと最初の汗が首筋を滑り落ちる感触におぞけが走った。
「フェニックスは死と同時に再び燃え上がり、復活する。お互いを喰らい合う二対のフェニックスは、ほぼ同時に力尽き、また再生するように見えるでしょう。しかし、実際はわずかずつレッド・フェニックスが先に倒れるのです。その時間差は徐々に広がり、このまま死闘が続くなら必ず、ツヴァイクがシュゼットを喰らい吸収するでしょう。そこへ至るのに推定されたのが、七日間という時間です」
言い終えると、ムシュフシュは丸みのある屋根からベランダへ降り立つ。
「たったの七日しか、猶予がないの……?」
言いながら、カリンは震える手を口元に添える。
「何とか、ならないのか!? シュゼットを助ける手だて、何かあるんだろ、ムシュフシュ! おまえの目的っていうのは……っ」
「敦っ!」
荒げられた声に驚き、背後を振り返る。失望と、ほんのわずかに怒りさえ含ませて、梓が俺を睨み据えていた。
「勝手に話、進めんなよっ。オレだって、ツヴァイクを助けたいんだぞっ! ツヴァイクは、このアクアマリンでずっと一緒に過ごしてきた、大切な友達なんだから!」
その言い分は、胸の内へすっと染み込むように納得出来た――知っていた、はずなのに。俺がシュゼットを仲間だと思うのと同じに、梓とツヴァイクが友達だってことくらい――
ふっ、と、かすかな息が漏れるのを聞いた気がして、俺はまた後ろへ体を向ける。眼下の獣は、口元にはっきりと笑みを浮かべていた。
「だから、私はこの時を待っていたのです。ソース、あなたは事実を知れば、きっとシュゼットを助けようとなさるでしょう。しかし、ツヴァイクのことまで気にかけていただけるとまではとても望めませんでした」
そのためにあんな回りくどいことをして、俺に、梓やツヴァイクとの面識を持たせたっていうのか。何というか……端的に言うなら、なんて利己的なことを言いやがるんだろう、こいつは。
エメラードの全ての命の糧であるセレナートを脅し、俺をアクアマリンへ拉致し、俺自身も幽閉と命の危機に晒し、結果的にはマージャに死線をさまよわせるほどの重傷を負わせた。これだけのことをしでかされたというのに、俺はやっぱりシュゼットを見殺しには出来ない。何もかも、この迷惑なキメラの思惑通りになってしまったじゃないか。
「私は、ふたりのフェニックスを使命から解放するため……本来あるべき姿へ戻す、そのためだけに生きてきました。どちらか一方だけでなく、ふたり共を救わせる。そんな出会いを待ち続けました。酷い目に遭わせてしまったこと、お詫びのしようもありません。許して欲しいなどとも思いません。 あなた達は、私の非道を恨みに、その報復にシュゼットもツヴァイクも……そして、このアクアマリンを見捨てることもしないでしょう」
「だから、おまえから頭を下げることもないってか? どれだけ人を馬鹿にしたら気が済むんだよ」
五指の先を失った利き手に拳をつくり、豊は歯噛みしてムシュフシュに詰め寄る。
「ユイノ、あなたの封滅の式は、私達にとっていつだって気がかりでした。現に、あなたはすでに、シュゼットに『後を託されている』……ふたりの死闘 の後、フェニックスが疑似太陽として覚醒するその前に、あなたが封滅の式を用いて彼らを封印すること。それがアクアマリンを破滅からすくいあげる、最も簡潔で確実な手順だから」
「……ああ、そうさ。シュゼットとはそう約束した。だってしょうがないじゃないか。それ以外に、あの不死鳥をどうにかする手段なんかないんだから。ユイノは、こういう時のためにいるんだから」
「おい、ゆた……」
「ですが」
うつむき、ムシュフシュはおろかここにいる誰とも目を合わせずまくし立てる豊は、思い詰めている様子だった。たまらず制止しようとするのを、ムシュフシュは強引に遮る。
「あなたが封滅の式によって犠牲となることさえ、そこのソース=アーチ殿が許さないでしょう」
きっぱりと言い放った言葉に、いよいよもって呆れるしかない。用意周到にしたって、ここまで極められるといっそ不愉快だろう。
「あ~あ、このやるせない感じ、むかつく気分、一体どこへぶつけたらいいんだ……」
「う~ん……ひとつ、提案があるんだけど」
脱力した俺の肩をぽんと叩き、至極まじめに梓は言った。
「とりあえず、そこのムシュフシュが知ってるっていう、ふたりを助ける方法ってのを聞いちゃおうぜ。納得いかない! ってことでも、ちょっくら時間が過ぎちゃうとどーでもよくなったりすることあるだろ?」
「あ~……ま、いいや。それでもう。もし、それで怒りがおさまらないようだったら、さすがに一、二発くらい殴らせてもらおう。そーしよう」
「そうそう、それだ、それでいーじゃん!」
とりあえずゆっくり話すには室内へ入ろうということになり、一同ぞろぞろと動こうとした矢先にそれは目に入った。
「お? あれはなんだろ」
「あー、あれな。非常召集の伝達に使う、小鳥のガーゴイルだよ」
すっかり気が抜けて軽く口をついて出た疑問に、梓がこれまた気楽に答えを返す。
アクアマリンの中心、盟主の塔のてっぺんから、遠目には虫のような小粒の黒い影が飛び出し、アクアマリン中へ飛び散っていく。ガーゴイルといえばエメラードでも非常事態における戦闘要員として普段は船着き場に控えている、魔力で動く彫像のことだ。基本的には戦闘用なので空中戦線にも立てるよう、羽をつけた造形で作られる。この家を目指してきた一羽がベランダに降り立つと、それはやはり鳥の形をしていたことがわかる。
「で、これどーすんだ?」
「アクアマリンに住んでるのは基本的に同盟の一員だし、召集には応じないと」
「そんならおまえら、ムシュフシュの話を聞くどころじゃないじゃん」
言いながら、豊は梓とカリンへ順に視線を向ける。あ、そーか、などという梓は、しかしその召集に応じるつもりはなさそうな顔だ。実りのある話になるのかわからない同盟の召集より、友人の危機の方が重要なのだろう。違反と知りながらそれに付き合うのであろうカリンもため息をつく。
「なあー、とりあえず俺が代表で出てこようかあ?」
「あ、そういやおまえもいたっけ」
「いたって! こっからじゃちっとも話に入れなかったけどさあ! 寂しかったんだけどー!?」
ベランダの下、草木の生えない殺風景な庭に佇むマージャが抗議の声を上げる。蚊帳の外で寂しかった、というのはマジなんだろうと切実な声色によって察する。
「いや、学だって一応は賞金首なんだぞ? ひとりでなんて無理だろ」
「マージャも?」
「ゴブリン族の負ってるまじないの効果でね。同胞に対して危険度の高い能力持ちは、それだけで処罰の対象になるんだよ。アクアマリンの法律では」
「つくづく排他的なことやってんなぁ」
自由気ままに生きてるエメラードの連中と、このアクアマリンで生きる連中が、同じ「魔物」というカテゴリの生物とはとても思えない。
「こんな非常時に俺にかまっていられる奴なんかいないって、大丈夫だよ」
「でもさー」
言い募るマージャの顔はゴーグルに隠されてうかがえないが、梓は困ったように眉を寄せる。
「それなら、このエリスがお供をしましょうか?」
「もうそれでいいんじゃね?」
あまり希望の見えない状況下、すっかり投げやりに豊がぼやく。エリスは、手にかければ決して振り払えない死のまじないを相手に負わせることの出来る、エルフ族の生まれだ。彼女が側にいればうかつな争いなど起きようがない、盾としてはこの上なく適役だった。
ベランダから、下で待つマージャのもとへ飛び降りたエリスは、一寸の躊躇もなく片腕を差し出した。何のことやらわからないらしいマージャがぽかんと呆けていると、こともなげに言う。
「こちらへ腕を絡めなさい。まだ歩くのだって耐えがたいのでしょう、マージャは。それに、エリスと密着していればうかつに手出しはされないはず」
「あ、そういうことか……うん、ありがとう」
おずおずと、遠慮がちにエリスへ手を伸ばし、腕を組む。まだ体がしんどいのは事実なのだろう、余裕のない、すがるような調子だった。
俺達の目の前にそんな光景をさらしているのに、あくまでマージャは、
「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ」
去り際にへらへらと口元を歪めた顔を見せ、「いつも通り」をアピールしていくのに余念がなかった。
すぐにでも、ムシュフシュから今後のことを聞き出さないと。そう、思っていたはずなのに。
「あいつ、今……」
普段、マージャとは馬が合わない豊でさえ、哀れみのこもった目でふたりを見送っている。
「手が、震えてたな」
俺も、この目でみたものを確認のため口にする。この場にいるみんなの反応からして、やはり目の錯覚ではなかったようだ。
「無理もないよ……アクアマリンには、あいつのこと受け入れる場所、この家以外にはないんだから」
マージャとそれに連れ添うエリスを見送る梓のまなざしは、同情というよりはただただ寂しげで……。アクアマリンで生まれ育ち、戦士として帰属意識はあっても、同盟のやり方全てに心から納得出来ているわけじゃない。そんな葛藤が、そこに滲んでいる気がした。
「そういや俺達、三人揃っておたずね者だな」
「さすがに笑えないぞ、それ」
半笑いでそんなことを言ってみると、豊はげんなり、心底嫌そうに肩を落とす。悲しみではなく、理不尽で一方的な扱われ方が本当にわずらわしいのだ。俺だって別に、俺達の置かれている現状を笑い飛ばせるほどタフじゃないんだけど。
「……俺達って、アクアマリンの連中にうとまれるようなこと、何かしたんだっけ?」
ふぅ、と、心の内にため込んだ澱を吐き出すように、そんな本音が――あるいは、弱音がこぼれ落ちる。
「そりゃあ、おまえはソースに生まれたってだけでうとまれるて不条理だろうな。俺はヴァンパイアに、マージャはゴブリン族に、きっちり前科があるんだからしょうがないだろ?」
「それは、豊達だってそうじゃないか。歴代のソースがアクアマリンにどれだけ害をなしてようが俺には関係ない。ヴァンパイアやゴブリンって種がどれだけ悪行重ねていようが、豊やマージャがやったわけじゃないのに」
「それは……」
そうかもしれないけど、と言いたげで、しかし豊はそこに行き着かない。試すつもりはないが、おそらくマージャに同じことを言ったら豊と大差ない反応をしそうな気がする。
ふたり共、自分が同胞からさえ忌み嫌われる種として生まれたことに、罪悪感でいっぱいなんだ。そんな自分に対してもすっかり諦観してしまっているものだから……俺が、豊もマージャも悪くないんだって、いくら説いたとしたって彼らの心に届かない。
……だけど、俺は。ふたりみたいに現状を受け入れることも、そんな二人を納得させることも。諦めるつもりはなかった。
室内に入るその前に、もう一度だけ空を見上げる。味気ない白い空の中、燃え盛る青い鳥と赤い鳥。降りしきる火の粉は、空とアクアマリンの町並みとの真ん中で、儚く消えていく。その火力の凄まじさは疑うまでもないのに、その炎は何故か――その正体が、俺達と大差ない、ちっぽけな少年少女であることを知っているせいなのだろう――雄々しくなんて見えなかった。