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摂州水江村始末~元国際協力機構の隊員が戦国の大飢饉を生き延びたい ~  作者: ゴロリ
蛇足編

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蜘蛛の帳面

 翌日も、召し出しは来た。

 空は薄く曇っていた。昨日ほどの暑さはない。

 供は、玄斎ひとりである。

 宗治は呼ばれなかった。その理由は茶室で知れることになる。

 同じ廊下を、同じように奥へ進む。音が消えてゆくのも、同じであった。

 違うものが、一つだけあった。

 香の匂いが薄い。


「どうぞ」


 襖が開く。

 四畳半に、久秀は昨日と同じ場所に座していた。

 だが釜が鳴っていない。

 火が入っていないのである。


 ――茶は、また点ててやろう。


 昨日、そう言った男が、火を落としている。

 茶は出ない。

 それが答えであった。


「座れ」


 畳の上に、一冊の帳面が置いてある。

 見覚えのない帳面であった。だが何が書いてあるのかは見当がついた。

 宗治が供にいない理由も。


「読んでみよと言いたいところだがな」


 久秀は帳面を取り上げ、繰りはじめた。細かい字が、糸を張るように連なっている。


「長いのだ、これが。――一年分ある」


 頁を繰る、乾いた音。釜の鳴らない茶室では、それだけが音であった。


「冬の麦。塩水での種選び。暗渠とか申す、隠し溝。緑豆に里芋。……飢えるより先に打たれた、蓄えの指図」


 頁がめくれる。


「硝石の丘。焙烙に仕込む鉄の欠片。漆で塗り固めた、火を導く縄」


 頁がめくれる。


「飢饉の備えは、飢饉の来る前に。戦の備えは、戦の来る前に。――どれも、来る前よ。朔」


 帳面が閉じられた。


「一つ一つはな、工夫で説明がつく。利発な童が、年寄りどもの知恵を上手に拾い集めた、とも読める。……だが」


 久秀は帳面を畳に戻した。


「全部が揃うのは、説明がつかぬ」


 朔は動かなかった。動けなかった、というのが正しい。


「工夫とはな、失敗の積み重ねの果てにあるものだ。焼き物師は千の器を割って、ようやく一つの(うわぐすり)を覚える。……そなたの工夫には、失敗がない」


 久秀の目は笑っていなかった。


「最初から答えを知っている者の、手つきよ」


 傍らの玄斎は目を伏せたまま動かない。

 昨日から、この老人は一言も発していない。膝の上に、拳が静かに置かれている。

 どう答えても共に沈む――そう決めた者の、静けさであった。


「私はな、朔。そなたを殺したくない」


 久秀の声は、昨日と変わらず、静かである。


「殺せば、知恵が消える。惜しい。……だが得体の知れぬものを手元に置いておく気もない」


 とん、と扇子が掌を打った。


「朔。そなたは――何を、知っている」


 逃げ道はなかった。

 昨日はあった。今日はない。猟師は罠の口を静かに閉じたのである。


(ならば――逃げるのを、やめよう)


 朔は、顔を上げた。


「私は――この時代の者では、ございませぬ」


 声は己でも驚くほど静かに出た。


「遥か先の世の記憶を持ったまま、この身に生まれた者に、ございます」


 玄斎は動かなかった。

 久秀も眉一つ動かさなかった。


「……ほう」


 それだけ言って、しばらく朔を眺めていた。それから、問いが来た。


「飢饉の始まりは」


「天文八年の、冬より」


(いなご)は」


「……九年の、夏に」


「伊丹の家は、どうなると読んでいた」


 一拍、間があった。


「……本来は、断絶せぬはず――でした」


 どれも、当たっていた。

 当たっていることは、久秀が誰より知っている。――ことに、最後の一つは。

 潰れるはずのなかった家を潰したのが、誰であるのか。それを知る者は、この茶室の外にはいない。


 ――試されているのは、知恵ではない。

 嘘をつくかどうかである。


 沈黙が落ちた。

 釜の鳴らない茶室は、底が抜けたように静かであった。


 やがて。

 低い声が聞こえた。

 笑い声だと気づくまでに少しかかった。


 久秀は、肩を揺らしていた。


「愉快なり。道理で――道理で、辻褄が合うわけだ」


 膝が一つ前へ出た。

 その目を、朔は昨日も見ている。人の欲を品書きのように読む目――ではない。

 欲しくてたまらぬものを前にした、数寄者の目であった。


「残らず、話せ」


 朔は、ゆっくりと息を吸った。


 ――売り方を間違えてはならない。

 この乱世で、知恵は銭よりも高く、命よりも安い。


 蜘蛛の糸の上で少年の商いが始まろうとしていた。

これにて、摂州水江村始末の蛇足編完結です。

続編、茶器好きの下剋上をぜひご覧いただけると嬉しいです。

https://ncode.syosetu.com/n8754mm/


■用語解説

うわぐすり…焼き物の表面に掛けるガラス質の膜。窯の火加減ひとつで色艶が変わり、焼き物師の腕の見せどころとされた。

数寄者すきしゃ…茶の湯や名物の道具に心を奪われた風流人。戦国の武将の間では茶道具への執心が権威の証ともなった。

焙烙ほうろく…素焼きの浅い土鍋。豆や塩を炒る日用の器だが、火薬を詰めて敵に投げる武器の器にも転用された。

帳面ちょうめん…紙を綴じて記録をつける冊子。商いの元帳や役所の台帳として使われ、時に人ひとりの動きを丸ごと写し取る「目」ともなった。


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