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摂州水江村始末~元国際協力機構の隊員が戦国の大飢饉を生き延びたい ~  作者: ゴロリ
蛇足編

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越水の水

 門が開いた。

 ギィ、と軋みが石垣の間に尾を引いて消える。

 朔は敷居をまたいだ。

 背後に玄斎の足音。引きずる右足が砂利を擦る。その半歩あとを、荷を負うた宗治が、音もなく従いてくる。


 ――この男が松永の目である。


 朔はそれを知っていた。知っていて、供に連れてきた。断ることができなかったのではない。断らぬほうが得だと、計算したのだ。

(見られて困るものはもう村には置いておらぬ)


 そう考える己を、朔はもう厭わなくなっていた。

 門の内は騒がしかった。

 普請の槌音。兵糧を運ぶ荷駄の列。人の口が運ぶ飢饉の噂。

 八月の日は門の内でも容赦がなかった。首筋が焼ける。


 この越水城(こしみずじょう)は、三好長慶(みよしながよし)が城主となって、まだ日が浅い。城のあちこちに、新しい木の匂いがした。

 名を告げるまでもなく小姓が待っていた。


「奥へ、と」

 案内されるまま、廊下を進む。

 奇妙なことに、奥へ行くほど、音が減った。

 槌音が遠のく。人声が消える。しまいには蝉の声さえ聞こえなくなった。


 代わりに匂いがした。

 (こう)である。伽羅(きゃら)か、白檀(びゃくだん)か、朔には判じかねた。ただ、その匂いは、心を鎮めるというよりも、背筋を冷やした。

 ――外の暑さも、死臭も、ここには入ってこられぬ。


 そういう匂いであった。

「どうぞ」


 小姓が(ふすま)を開ける。

 四畳半の茶室であった。

 畳の青い匂い。床の間には白い木槿(むくげ)が一輪。

 そして点前座(てまえざ)に、一人の男が座している。

 痩身である。戦場に立つ武人というよりは、文机に向かう者の躰つきをしていた。日に焼けていない白い肌。


 男は、朔たちが入っても、顔を上げなかった。


 柄杓(ひしゃく)で釜の湯を汲む。茶碗に注ぐ。とろり、と湯の落ちる音が、静寂の底に沈んだ。


 その所作に淀みがない。


 指の先まで神経が通っていて、それでいて、水が流れるように自然である。


(――これが)


 朔は息を詰めた。


 松永久秀。

 朔の知る限りにおいて、この男は「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれる。主を殺し、将軍を弑し、大仏を焼いた男。――後の世がそう語り継いでいる。

 だが、目の前にある男からは、血の匂いがしなかった。粗野なものも、暴力の気配も、ない。

 あるのは、研ぎ澄まされた刃物のような、冷たく美しい何かであった。

 久秀が茶筅(ちゃせん)を振る。


 しゃか、しゃか、しゃか。

 その音が、朔の胸の鼓動と重なった。


「――飲め」

 はじめて声を聞いた。

 低くもなく、高くもない。人を斬るような声ではなかった。

 朔は膝を進め、茶碗を取った。掌が湿っている。


 一口含む。


 苦い。舌の奥に痺れが残る。

「どうだ」

 久秀が言った。


「苦いか。それとも甘いか」

「……目が覚めるようです」

 久秀の口の端がわずかに動いた。笑ったのだ、と朔は気づいた。


「そうであろう」

 久秀は、己の分の茶を点てはじめた。手を動かしながら、独り言のように言う。


「僧どもは茶を禅だと申す。無だの、空だのとな。……私は、そうは思わぬ」

 しゃか、しゃか。


「茶は覚醒よ」

 音が止まった。


「己の欲が輪郭までくっきりと見える。そういう水鏡だ」


 久秀が顔を上げた。

 朔は、はじめてその目を正面から見た。

 ――この男、こういうところがある。

 人の欲を、あたかも品書きでも読むように眺めるのだ。値踏みをしているのではない。ただ、面白がっている。

 久秀という男の恐ろしさは、そこにあった。

 朔は茶碗を静かに畳へ戻した。


「して――」

 久秀は、己の茶を一口で干した。


「そなたは何が欲しい」

 朔は膝の上で手を重ねた。


「……私の欲しいものは、一つにございます。誰も飢えぬ、安全。それだけにございます」

「ほう」

 とん、と茶碗の置かれる音がした。


「欲のない申しようだの」

「欲に、ございます。私には、これで精一杯の」

「そうか」

 それきり久秀は黙った。


 沈黙が長い。香の匂いだけが、濃くなった気がした。


「妙な話よな」

 やがて久秀が言った。


「そなたは、目立ちたくないと申す。名を出すな、村の名も伏せよと、念を押したそうな」

「……はい」

「だが、な。そなたの村のことを聞くほどに、分からなくなる。田の作りようを変え、蔵を建て、堀を掘り、壁を立てた。飢えるはずの年に、そなたの村だけは、誰も飢えなんだ」

(――数えられている)


「目立ちたくない者の所業ではないわ。あれはな、朔」

 久秀は、閉じた扇子で、とん、と掌を打った。


「己の目の届くかぎりを、隅々まで思うがままにしたい――という欲よ。人ひとりが抱くには、途方もない欲だ」

 言葉が出なかった。

 膝の上の手に力がこもる。違う、と言いたかった。言えなかった。


「僧どもなら、(ごう)と呼ぶであろうな。私は、そうは呼ばぬ」

 久秀の声は静かであった。


煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)、と申す。欲は、磨けば願いになる。恥じることはない。――恥じて隠すから、歪むのよ」

 釜の湯が細く鳴っている。

 それが茶室で唯一の音になるまで、久秀は朔を眺めていた。それから、ふと思い出したように言った。


「――時に」

 湯の音が遠くなった。


「あの、権六玉(ごんろくだま)とか申す焙烙(ほうろく)。それに、硝石(しょうせき)づくり。あれは、どこの知恵だ」

 朔は動かなかった。


「唐か。それとも――天竺か」

「……さる旅の御坊から、聞き覚えましてございます」

 声は据わっていた。据わっていたことに、朔は自分で驚いた。

 だが、目が一度だけ、床の木槿へ泳いだ。膝の上の指が、一拍遅れて組み直された。

 久秀はその一拍を見ていた。


「そうか」

 咎めなかった。口の端が、また、わずかに動いた。


「今日でなくともよい」

 そう言って柄杓を取り、何事もなかったかのように次の湯を汲んだ。

「茶は、また点ててやろう。欲の見える水鏡だ。――何度も覗けば、そのうち、底まで見えるようになる」


 下がってよい、と手が動いた。

 廊下を戻る。

 音が少しずつ世に戻ってくる。人声。槌音。蝉。

 玄斎は何も訊かなかった。宗治は荷を負ったまま、半歩後ろを歩いている。

 坂を下りながら、朔は一度だけ、城を振り返った。

 八月の日は、変わらずに首筋を焼いている。

 だが、背中の汗だけが、冷たかった。


(――逃げられなかったのでは、ない)

(逃げ道をくれたのだ)


 罠の口を開けたまま、追わずに待つ。逃げ道をくれる猟師がいちばん恐ろしいことを、朔は、山の民から聞いて知っていた。


大変おまたせしてすみません。

続編となる「茶器好きの下剋上」が難産で、半年以上が経過してしまいました。

こちらを含めて2話、蛇足編をやりましたら、松永久秀を主人公とした話をスタートしたいと思います。


■用語解説

伽羅きゃら…香木の最高級品。沈香のうち特に香りの優れたものを指し、同じ重さの金にも比された。

白檀びゃくだん…天竺渡りの香木。甘く清涼な香りを放ち、仏具や扇の材にも使われた。

木槿むくげ…夏から秋にかけて咲く花木。朝に開いて夕には萎む花は儚さの喩えとされ、茶席の花としても好まれた。

茶筅ちゃせん…抹茶を点てるために竹の先を細かく割って作った道具。

点前座てまえざ…茶室で亭主が茶を点てるために座る定めの席。

煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい…煩悩と悟りは別のものではなく、迷いの心こそが悟りへ至る種であるとする仏教の教え。


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