第九話『小沛の劉備、再起の炎』
下邳の堅牢な城と広大な徐州の地を、一夜にして呂布に奪われ、劉備玄徳は、僅か数百の手勢と共に、辛うじて豫州との境に近い小沛という小さな城へと逃げ延びていた。その境遇は、かつて一州の主として民に慕われた栄華から比べれば、まさに奈落の底、風前の灯火と言えたであろう。城は小さく、兵も乏しい。いつ来るか知れぬ敵の襲来に、人々は不安を隠せない。
しかし、劉備は、決してその胸中に絶望を宿すことはなかった。彼は、この小沛の地にあって、来るべき再起の時を、嵐に耐える大木のように、静かに、しかし揺るぎない確固たる意志をもって待っていたのである。彼は、偉ぶることなく、自ら粗末な衣服をまとい、城下の、荒れ果てた畑を民と共に耕し、鍬を握るその手に、泥まみれになって汗を流した。人々の顔を一人ひとり見つめ、その苦労に耳を傾け、共にため息をつき、共にわずかな収穫を喜んだ。彼の飾り気のない、偽りのない人柄と、身分や出自に関わらず、誰に対しても分け隔てなく、真心をもって接する「仁徳」は、たとえ逆境にあっても、周囲の多くの人々を惹きつけ、小沛のわずかな民衆は、心から彼を慕い、彼に未来への希望を見出していた。彼らは知っていた。この苦境でも、劉備だけは、自分たちを見捨てない、ということを。
その劉備の傍らには、常に二人の、鋼のような忠誠心で結ばれた義兄弟の姿があった。一人は、豊かな美髯を蓄え、いかなる逆境にあっても泰然自若とした威風堂々たる関羽雲長。彼は、刀の手入れを怠らず、そして黙々と書を読み(特に『春秋左氏伝』を好んだという)、乱世において武人として、そして人間として己を磨きながら、来るべき兄の再起を、誰よりも深く信じ、静かに力を蓄えていた。もう一人は、虎のような勇猛果敢さにして、やや酒癖に難はあるものの、兄への、そして義への忠誠心は、この乱世において比類なき強さを持つ張飛翼徳。彼は、下邳を奪われたあの夜の屈辱を肌身離さず、それを猛烈なエネルギーに変え、来るべき雪辱のために、日夜、城の僅かな兵士たちの訓練に、鬼のような形相で励んでいた。この三人の、遠い桃園の誓いで結ばれた、肉親以上の固い絆こそが、全てを失った劉備にとって最大の財産であり、いかなる苦境をも耐え抜き、再起を成し遂げんとする力の源泉であった。
一方、下邳にあって徐州を治める(というよりは力で押さえつけている)呂布と、その傍らで疲弊している陳宮にとって、この小沛の劉備の存在は、足元の、常に気になって仕方ない憂いであった。特に、陳宮は、劉備が持つ武力や兵力ではなく、彼が逆境にあっても失わない、独特の、そして根源的な「人望」にこそ、測り知れぬ潜在的な脅威を感じていた。力で押さえつけても、民の心は劉備に向かっている。それは、いつか小さな火種が大火となり、呂布政権を内側から崩壊させる危険を孕んでいた。
「呂布様」陳宮は、劉備の動向を探る情報網からの報告を受け、再び呂布に進言した。「劉備は、今は小沛という小城にておとなしくしておりますが、決して侮ってはなりませぬ。彼の周りには、関羽、張飛といった一騎当千の猛将がおり、また、いまだ徐州の民衆からの信望も厚い。曹操という強大な外敵への備えも急務でございますが、足元の憂いである劉備をこのまま放置しておくのは、それ以上に危険かと存じます。彼が力を蓄え、民心を味方につける前に、今のうちに、小沛を攻め、完全に息の根を止めておくべきでは…曹操が動く前に、足元を固めるべきです!」
陳宮は、迫りくる曹操の脅威と、足元の劉備という内部の憂い、その両方を考慮した戦略として、劉備討伐の必要性を訴えた。しかし、呂布は、相変わらず陳宮の言葉を真剣に受け止めようとはしなかった。
「陳宮よ、何を大袈裟な。劉備など、今や城一つ、兵も僅かの落ちぶれた男よ。わしが本気を出せば、いつでも潰せるわ。まるで相手にならぬ! わしは天下無双の呂布ぞ! 何を恐れることがある! それに、下手に小沛に攻め込めば、劉備を追って城を留守にしたところを、曹操に漁夫の利を与えてもつまらぬわ!」
呂布は、優越感と慢心から、劉備を完全に侮っていた。そうかと思えば、ある時は酒に酔って機嫌が良く、「まあ、劉備も哀れよのう。かつては徐州牧であった男が、今や食うものにも困っておるであろう」などと言って、気まぐれに米やわずかな銭などを送りつける始末。陳宮は、その場当たり的で、戦略性の欠片もない対応に、もはや諫言する気力すら失いかけていた。主君は、目先の感情や、過去の成功体験に囚われ、遠い将来を見通すことができないのだ。
この小沛の劉備玄徳という人物に、下邳の勝頼は、呂布とは全く異なる強い関心を抱いていた。それは、単なる異国の名士への好奇心だけではない。彼は、保護している劉備の夫人たち(甘夫人・糜夫人)と接する中で、彼女らの夫である劉備の人となり――民を子のように慈しみ、約束を重んじ、いかなる困難にも屈せず、決して諦めぬ心を持つ男――について、日ノ本では聞くことのない、しかし武士の道に通じる美点を、詳しく聞く機会があったからだ。夫人たちが語る、夫への深い信頼と愛情、そしてその人柄に触れるうちに、勝頼は、劉備の生き様に、故郷で己が理想とした武士の姿、あるいは、父・信玄が目指した為政者の理想像に通じるものを感じ始めていた。
(まこと…そのような…仁徳の人物が…この…乱世におるのか…)
彼は、敵対する立場にあるはずの劉備に対し、ある種の共感と、そして素朴な敬意を抱き始めていた。それは、故郷で耳にした、非力ながらも高潔な人物を応援する「判官贔屓」にも似た、日本的な感情であったのかもしれない。
勝頼は、陳宮には内密で、行動を起こした。それは、純粋な同情心からか、あるいは、この乱世において、劉備こそが真の光となりうるのではないかという、かすかな期待からか、あるいは、保護している夫人たちのために、夫の無事を伝えたいという純粋な配慮からか…勝頼自身にも、まだはっきりとは分かっていなかった。彼は、最も信頼できる、そして口の堅い配下の一人(かつて共に黄巾賊と戦った元賊の男であった)を密かに選び、劉備の夫人たちからの手紙(夫の身を案じる切々たる内容)と、勝頼からのささやかな差し入れ――例えば、勝頼が故郷を偲んで作らせていた干し柿や、この地では珍しい、繊細な日本の織物など――を持たせ、厳重な警戒を掻い潜って小沛へ送り込んだのである。
小沛の劉備は、遠い下邳の城から届いた、思いがけぬ使者と贈り物に、大いに驚いた。
「あの東瀛の武将、武田殿が…? なぜ、我ら落ちぶれた者に…このような…心遣いを…?」
彼は、届けられた夫人たちからの手紙を読み、彼女らの無事と、勝頼殿の配慮に、胸を撫で下ろした。そして、勝頼という人物への興味をさらに深めた。呂布という暴君の配下にいながら、敵将の家族を保護し、さらにはこのような、心温まる配慮を見せる。その行動は、劉備にとって、中原の常識では理解しがたいものでありながらも、疲弊した心を温かく灯すものであった。
「兄者、あの東瀛人、何を企んでおるのだ? 裏があるに違いない!」
張飛は、警戒心を隠さず、粗暴な声で言った。
「…分からぬ…だが…」
関羽は、届けられた干し柿を手に取り、静かに呟いた。その美髯の向こうで、目は何か遠いものを見つめているかのようだった。
「…悪い人間ではないのかもしれぬ…」
劉備は、勝頼から届けられた、この地では見たこともない、繊細な日本の織物を手に取り、しばし物思いにふけっていた。この異邦の将は、敵か、味方か。それとも、この乱世に、全く新しい何かをもたらす存在なのか…。
勝頼の持つ、民と共に苦楽を分かち合い、信義を重んじる日本の武士道的な「仁」。そして、劉備の持つ、血縁や身分を超えて全ての人に分け隔てなく接し、天下を民のために治めようとする儒教的な「仁徳」。似ているようで、その根底にある文化や思想は、どこか違う。この二つの異なる「正義」が、この広大な中原の地で、これからどのように交わり、あるいは反発していくのか。それは、まだ誰にも予測できない、新たなる物語の始まりを静かに予感させていた。そして、呂布という共通の(しかし質の違う)障害を抱えながら、彼らの運命の糸は、見えぬところで、少しずつ、しかし確実に絡み合い始めていたのである。