水鏡杰 Ⅳ
朝は肌寒く、僕はホットコーヒーを片手に、教室のベランダで登校してくる生徒を眺めていた。ホットコーヒーを持っているというのがポイントだ。ちょっと格好良い。ちなみにブラックじゃなくて微糖。微糖でも頑張っていたりする。しょこたんは僕の隣でミルクティーを飲んでいた。僕が目を向けると、ミルクティーを口に含んで唇を突き出してくる。いやいや、口移しでは飲まないし、さすがに場をわきまえて欲しい。どこでも所構わずになってきているのが、しょこたんに対する僕の悩みだったりする。愛情を向けられるのはうれしい限りなんだけど。
「どう? 真黒くん。それっぽい人いた?」
口に含んだミルクティーを飲み干して、しょこたんが眼下を覗き込む。口元から僅かにこぼれたミルクティーを僕が指で拭うと、照れ笑いを見せてくれる。そしてその指を舐めようとしてくるので、慌ててポッケにしまい込んだ。
「まだいない、かな。下着泥棒だって、自分がやったことだとはバレたくないはずだし、『黒』は濃いはずなんだけど。今のところ目につく『黒』はなしですな」
犯人が教師だったとしたら、見つけるのは少し難しいな。大人はいろんな『黒』を抱えていて、それが常日頃変化しているから、『黒』の原因を特定するのが困難なのだ。大人にはなりたくないねー。社会の荒波に揉まれて『黒』に揉まれて、疲れるばかりだ。でも大人にならないとしょこたんと結婚できないからねー。この場合の大人になるというのは社会に出るということであって、うーん、どっちを選択するか悩みどころ。社会に出たのちに廃人と化して結婚してもなぁ。うーん、僕はなんてネガティブなんだろう。いっそしょこたんが言っていたように主夫になるべきか。いやーん、尻にしかれっぱなしになるよ。怖い怖い。
「あっ、『黒』……だけど」
「えっ、どの人?」
僕は登校してきた『黒』を指差す。ここから眺めるのもまた久しぶりなので、あの人の近況を『黒』でなんとなく知ることができた。
「あっ……」
しょこたんは僕が指差した先を辛そうに見る。そこにいたのは烏丸理沙だ。まだまだまっくろくろな『黒』を抱えていた。あんなことがあって、そうそう心の傷は癒えないだろう。間接的には、一番の被害者だった。
「あの方をご存じなのですか?」
乾いた風に綺麗なソプラノの声が乗って耳に届いた。
水鏡杰だ。
いつの間にか僕と彼女の背後に立って、烏丸理沙を見ている。
「あ、おはよう。水鏡さん」
僕の彼女は振り返って挨拶をした。そして水鏡杰の全身を見回して溜息をつく。自分の身体と見比べて、溜息を追加した。
「おはようございます。大空さん。それと真黒さん」
相変わらずの素敵な笑顔。癒されるねぃ。うげー。
「おはよう。あの人は烏丸理沙先輩だよ。何か気になることでも?」
さっそく、僕は先手を取る。お互いにそうだと確信していない以上、なるべくならば全てを知られるのは避けたい。
「そうですね。気にならないと言えば嘘になります。あなたもそうなのでしょう?」
「僕はあの人のことはよく知ってるからね。残念だけど、僕たちにはどうしようもないよ。そっとしておいてあげた方がいいかな」
「何かのっぴきならぬ事情があるようですね。ですが、事情がどうであれ、原因が何であれ、私は放っておくことなどできません。いずれお話ししてみようと思います」
「そう。まあ、僕に止める権利はないからね。好きにするといいよ」
なんだこいつは。僕とは違う。水鏡杰は救おうとしているのか。
……そうか、僕の『黒』との付き合い方と、水鏡杰が見えているものとの付き合い方が違うのだ。僕は『黒』が見えていたおかげでひねくれた性格になってしまった。だけど、水鏡杰はそうじゃない。僕よりも遥かにうまく『見えているもの』と付き合ってきたのだろう。僕は少なくとも、『黒』の原因を取り除いてやろうとは思わないのだから。
「水鏡さん。あの、烏丸先輩と話すのなら……ううん、やっぱりいい」
僕の彼女は出かかった言葉を飲み込んだ。何を言いたかったのかはわからない。彼女は烏丸理沙を心配しているから、何か伝えたかったことがあるのかもしれない。けれど、今さら僕たちが何かを言ったところで烏丸理沙はが救われることはない。烏丸理沙も、もう何もできないのだ。自分の彼氏に会うことも、復讐を遂げることも。
「僕たちはもう烏丸理沙には関わらない方がいいよ。水鏡さんは関係してないから、それが逆に良いのかもしれないし」
「うん……そうだね」
しょこたんも、僕たちが烏丸理沙の前に姿を現すことはよくないと思っているようだ。辛いかもしれないけれど、それは僕にはわからない気持ちだけれど、忘れてもらう他にない。
「私は何があったのか聞くつもりはありません。私なりに、あの方が少しでも心安らげるようにお手伝いしたいだけです」
「わぁお……」
本当に聖人君子かあんた。水鏡杰に『黒』が見えないのも、本当に『黒』の原因が彼女の中にないからかもしれない。そんなことまで思わされてしまう。
水鏡杰。
無垢、か。
冗談だろ、そんなの。
「あたし、あなたのこと誤解してたかも。助けてあげられるのなら、力になってあげて?」
誤解とは、何のことだろう。そもそもしょこたんの一方的な嫉妬だったのに。
「ええ。私で力になれることがあれば、何でも」
気持ち悪い。
正直にそう思った。絶対に僕とは相容れないと思う。『黒』が見えない相手なんて初めてだから、何を考えているのかさっぱりわからない。それも気持ち悪さに拍車をかけているのかもしれない。『黒』が見えないのは新鮮であるけれど、これが本当なら普通なんだよな。いつの間にか、僕も『黒』のお世話になっていたようだね。
「ところで水鏡さん、何か用事でもあったのかな?」
「ベランダに出ると、あなた方がいるのが見えたので。それに、ここはちょうど良い場所ですし」
そうそう、ちょうど良い場所なんだけどね。
「あいにくと、ここは僕のテリトリーだから。違う場所を見つけてくれたらありがたいね」
「あらまあ。ここは学校の共有部分ですよ? なんでしたら、先生に確認してまいりますが」
「……わかったよ。お好きにどうぞ」
「ありがとうございます」
僕にはとてもじゃないが素敵な笑顔には見えなかった。
面倒になってきた。
水鏡杰がここで何かを見るのは別に構わないけれど、ここは僕の特等席なのだ。僕の教室のベランダだし、校門が見えやすいし、クラスメイトは僕がいるからベランダには出てこないし。僕の数少ない居心地の良い場所でもある。でもこうなってしまっては面倒しかない。だからといって、僕が別の場所に行くのは癪だし。
一番の問題はここにしょこたんと水鏡杰が一緒にいることだ。二人がもめてしまうからとかそういうことじゃない。学年で、いや、校内で一、二を争う美少女が僕と一緒にいることが問題だ。僕と彼女が一緒にいることに慣れてきていたクラスメイトたちも、水鏡杰がここに加わったことによってまた注目していた。それも僕と話していたのだからさらに奇異の視線を向けられている。いぇーい、いつの間にかハーレムタイムに突入。喜べないし笑えない。早いとこ犯人っぽいの出てこないかなー。彼女からの頼みで今こうしているとはいえ、ちょっとダルイ。
ベランダから手をだらりと下げ、犯人捜しを続行する。僕の彼女も隣で真似をして、でも退屈そうに欠伸をしていた。しょこたんの隣でそれに便乗する水鏡杰。もっとも、彼女は手を投げ出したりはせず、ベランダの枠に手を添えて寄りかかっているだけだったけれど。
「な、なななっ!?」
そんな水鏡杰を見て彼女が驚いていた。そして彼女の視線が慌ただしく前後する。枠に寄りかかってつぶれて広がっている水鏡杰の胸部と、元々つぶれている自分の胸部を見比べていたのだ。いつも思うけれど、どうして自分で自分の地雷を踏みたがるのだろう。
そんなしょこたんを見て、水鏡杰はにっこりと微笑んだ。
「真黒くん! 笑われた!」
半泣きで訴える。
「いや、確かに笑ってはいるけれど、それはキミと目が合ったから微笑んだだけで」
「水鏡さんの肩持つんだぁ!」
「ふふっ。大空さんは可愛らしいですね」
「真黒くん!! また!」
はいはい、目の前の人を指差さない。
「それは褒められてるんだよ? キミは可愛いってさ。もうあえて言うけど、決して胸のことじゃないよ? キミの仕草や表情が可愛いんだよ」
「うん。知ってる」
なんだよ。人をからかうのが好きだねしょこたん。僕の焦った顔をそんなに見たいのかな?
「大空さん。あなたのことは少し聞きました。何か、大変だったようですね」
しょこたんの表情が一瞬曇る。しょこたん飛び降り事件は、転校生に振る話しのネタに持ってこいだからな。それでなくても、しょこたんは有名だったんだし。
「まあー、もうそれは夏の遠い思い出だからねー。今は生きててよかったって思うよ」
たはは、とわざとらしく笑う。そして、真黒くんがいるからね、と付け加えた。嬉しいこと言ってくれるじゃないか。今なら、僕もキミが生きててよかったと思うよ。
彼女が陸上を続けられる身体だったなら、僕と彼女の関係も変わっていたのだろうか。少なくとも、今ほど一緒にいる時間はなかっただろう。実は陸上が嫌いだったと言っていた彼女が、それについてどう思っているかわからないけれど、僕は今なら、大きく跳ぶ彼女を見てみたいと思っていたりする。決して口には出さないけれど。
「あなたは今、幸せですか?」
水鏡杰は、彼女に向けてそう言った。優しく微笑みながらも、どこか真剣な眼差しを向けている。
「どう見える?」
そしてなかなかの彼女の返答だった。僕の『黒』のことを知っていて、水鏡杰にもまた何かが見えていると知っているから、こう返せる。面と向かって言われれば呆気に取られそうな質問にも、おどけることなく返せる、彼女ならではのお返しだった。
「私の方からは何とも。ただ、もう夏の思い出を振り返ることはないものかと」
「そうだね。でも、真黒くんとこうなるきっかけになった良い思い出としては残しておきたいんだ」
「良い思い出ですか。ふふっ、私の出る幕はなさそうですね」
「人の彼女にちょっかい出さないでくれるかな」
「きゃーっ。真黒くんかっくいー」
全然そう思ってなさそうな僕の彼女と、やっぱり微笑んで身を引く水鏡杰。この三角関係は僕と彼女の愛の勝利だ。
さて、と。
「じゃあ行こうか。もにょたん」
「えっ、どこに?」
「それでは、私も失礼しますね」
むっ。
はぁーっ。もしかして、もしかするのか? 水鏡杰が何か目的があってここに来たというのなら、ありえる。
今しがた、濃い『黒』が登校してきた。見たことがある。同じ学年の男子だ。断定するのは早いけれど、話しをしてみる価値はある。下着泥棒の犯人候補だ。僕に濃い『黒』が見えたように、水鏡杰にも何かが見えたとしたのなら、目的は同じかもしれない。
水鏡杰は、そのまま僕の教室に入ろうとしていた。登校してくる『黒』に向かうには、この教室を通るのが最短距離だ。
「そこはキミの教室じゃないよ。水鏡さん」
「あまり人目に着く場所でお話しするわけにはいきませんので。できればこの階に来る前にお会いしたいかと。事情が事情ですし」
「ちょっと待ってもらおうかな。何をするのかだけ聞かせて欲しい。別に止めはしないから」
一つは嘘だ。
しょこたんの恨みは晴れないだろうけれど、水鏡杰が問題を解決してくれるというのなら、そちらの方が面倒がなくていい。だけど、許してしまおうと言うのなら、そうはさせない。悪いことをした奴には償わせなければならない。
悪い奴がいたせいで、良い奴が罪を犯して罰を受けなければならなくなってしまうように、犯してしまった罪は許されない。あのおねいさんにも言われたことだ。
「事情をお尋ねしてお話しするだけですよ。私がするのはただそれだけです。その後は、彼に任せます」
「彼に任せる? 自分が盗んだと名乗り出させるつもりかい?」
「いえ、私には彼をそんなふうに説得することはできませんよ」
「じゃあキミは一体何がしたいんだ。ただ話すだけならあとにしてもらえないかな。こっちは昨日から屈辱で眠れなかったお嬢さんがいるんでね、こちらの用事を先に済ませたいんだけど」
「そこまでは思ってないもん」
いたたっ。今はちょっとシリアスな空気で臨もうと思ってたのに。大空さんなんだから大気を、空気を読んで欲しいな。
「用事とはなんでしょうか? 場合によっては私も退くわけにはいきませんけれど」
おっ。そうくるね。
「決まってるじゃないか。お仕置きだよ。悪いことしたならお痛されないとね。誰だってそうなんだから」
「確かに、罪は償うべきでしょう。しかしそれは私たちが裁くものではありません。しかるべき、ここでは学校側がどういった処分を科すかです。それに、罪を犯したからといっても、彼にも救われる権利はあります」
「キミは彼を救いたいと?」
「おこがましいかもしれませんが、そう思っています。彼にも何か事情があったはずです。少しでも心安らげるようにお手伝いしたいのです」
「嫌な思いした奴がいるんだから、彼にも嫌な思いをしてもらわないとね。彼に必要なのは救いじゃないよ、反省だ。悔い改めることだよ」
「それはその通りです。ですが、そう思うのは彼自身です。私たちがそう仕向けるものではありません。罰を与えられて悔い改めるのではなく、自分で気付かないといけないのです。私がしようとしているのはそのお手伝いなんですよ」
ごめんで済んだら警察はいらねーんですよ。この上ない常套句吐くぞこら。きれい事過ぎて反吐が出る。
ただまあ、今回のこの議論に関して言えば、僕の負け。僕たちの負け。
やられたらやり返す。水鏡杰はそんなことは思っていない。つまり言っているのは、優しく諭して差し上げましょうということだ。僕はやられたらとことんやり返せと思うタチだから、到底納得はできない。仕返しして気分スッキリしたいと思う。
僕たちの負けというのは、やられたらやり返すが通用しないからだ。だって僕の彼女は下着を盗まれたりしていないから。今回の彼女のお願いは、お得意の八つ当たり。やられなかったことに対してやり返そうとしているのだから、僕たちの負け。本当に、僕たちが罰を与えてやる理由なんてないのだ。
ただ気に入らない。
今まで何を『見て』きたというのだろう。今まで人の『黒』い部分ばかりを見てきた僕には、とても水鏡杰のようには思うことはできない。水鏡杰のような人間が稀だ。こんな人間がいるということが驚きだ。レアだ。SSRどころの話しじゃないぞこれは。
「キミは罪を犯した人間を全て許せるとでも言うのかい?」
「罪を憎んで人を憎まずです」
だからさぁ、本当に聖人君子かよ。
「馬鹿馬鹿しい。大切な人を傷つけられたとしても?」
「私の気持ちは変わりません」
イカレてる。
そんなの人間じゃない。正直にというか、普通にそう思った。それが理想だと、そうあるべきだと思う人もいるだろうけれど、僕にはとてもそんなことは思えない。僕は彼女を、大空翔子を傷つけられたとしたら、必ず復讐する。彼女の下着が盗られていたら、しかるべき罰を与えていたと思っていたように、必ず成し遂げる。
だってそれが――
「水鏡さん。水鏡さんには、特別だと思える人がいないんだね」
僕の彼女が、寂しそうな目をして呟いた。
「私はただ、平等に――」
「そんなのおかしいよ。水鏡さんにだって家族はいるでしょ? 好きな人もいなかったの? 大事な友達は? あたしは、真黒くんが傷つけられたら傷つけた人を憎むよ。許せないと思うよ。そんなふうに思える人は今までいなかったの?」
水鏡杰は、出会ってから初めて、僅かに苦悶の表情を見せた。
「……失礼します」
「あっ……」
その表情を見られたくなかったのか、僕の彼女から逃げるように去って行った。
僕の彼女は、バツが悪そうな目で僕を見上げた。
「言っちゃった……」
「いいんじゃない? ちょっとスッキリした」
「もう、真黒くん。でもさ、あたしも真黒くんと話す前は同じだったのかなって思っちゃった。えらそうなこと言って、嫌われたかな」
「どうだろうね。あの人の性格からしてそれはないと思うけど。逆にさ、キミにあんなこと言わせちゃったとかで自己嫌悪してたりするかもね」
「ええーっ。そうならあとで謝らなきゃ」
「きっと笑って許してくれると思うよ」
僕は皮肉たっぷりに言った。
きっと僕と同じようなものが『見えて』いる水鏡杰だけれど、全く違う人種だと思った。何が水鏡杰をそうさせているのか少し興味が沸いた。近いうちに、向こうからでも僕の方からでも、話す機会は来るだろう。
それはそうと。
「水鏡さん行ったけど、よかったのかい?」
僕としては、やっぱり下着泥棒に何かしらの罰は与えてやりたいと思うけれど、彼女がどうするかだ。元々は、彼女からの頼みなんだから。
「あー、うん、もういいや。ただの八つ当たりだし」
「まあそうだね」
「へー。ふぅん。あーそう」
「……ぼ、僕はキミの下着なら盗ってみたい、かな」
「き、今日はダメ! 明日、明日にしよう! 今日はその……もにょ……」
おお、こんなところでもにょたんが登場するとは。
当然ながら、僕がもにょたんの下着を盗むことはなかった。後日、せっかく準備してきてたのにとたっぷり怒られた。本当に盗ってしまったら水鏡杰から諭されてしまう。もっとも、証拠さえ残さなかったら、水鏡杰に僕の『何か』は見えないから安心だけどねー。
この日の放課後、しょこたんのクラスの盗難被害者が保健室に呼び出され、そこで盗難物が返却されたらしい。
犯人はわからず仕舞いだった。
次の日から、一人の男子生徒が病気という名目で一週間欠席した。
わかる人にはわかる、一週間の謹慎処分だった。
その男子生徒が一週間ぶりに登校すると、『黒』が薄くなっていた。
やるねぃ。水鏡杰。
僕は素直に感心したのだった。




