第1話:渾身の右ストレートと、泥だらけの本音
残酷なほど真っ白な光が視界を埋め尽くし――次に目を開けた瞬間、世界は一変していた。
視界に広がるのは、どこまでも高く澄み切った沖縄的な青い空と、太陽の光を反射して煌めくエメラルドグリーンの海。
ジリジリと肌を焼くような夏の熱気と、遠くでやかましく鳴きしきる蝉の声。
そして、鼻をくすぐる潮の香り。
王城の冷たい石床も。
薄暗い部屋の淀んだ空気も。
そして、床に広がる生々しい血の匂いも、すべてが嘘のように消え去っていた。
「…………」
「…………」
ざざあぁっ、と。穏やかな波の音が砂浜を撫でる。
着慣れた高校の制服姿に戻った二人は、白い砂浜の上に座り込んだまま、数秒間、ただ呆然と互いの顔を見つめ合っていた。
つい先程まで、アリシアの胸には無残な長剣が突き刺さっていたはずだった。
レオンの手には、彼女の命の温もりと、真っ赤な鮮血の感触が確かに残っていたはずだった。
しかし今、目の前にいる彼女の胸に傷はなく、制服にも一滴の血すらついていない。
ここは、あの日、すべてが始まった爆発の30秒前。強制リセットによって時間が巻き戻った『起点』の場所だ。
状況を理解するのに、数秒の時間を要した。
レオンは、震える手でゆっくりと自分の顔を覆い、深く息を吐き出そうとして――。
サクッ、と。
目の前で、砂を踏みしめる音がした。
顔を上げると、アリシアが立ち上がって制服のスカートについた砂をパンパンと払っているところだった。
彼女はゆっくりとレオンを見下ろすと、わざとらしく口元に拳を当てた。
「コホン」
一つ、咳払い。
そして、静かに、しかし有無を言わさぬ凄みを帯びた声で告げる。
「……とりあえず、一発殴らせろ」
「え? ちょ、おま――」
レオンが言葉を発する隙など、一ミリも与えられなかった。
振りかぶられた彼女の右腕が、空気を裂く。
制服姿の女子高生とは思えない、体重の乗った完璧なフォーム。
――ドゴォッ!!
「ぐぼぁッ!?」
アリシアの放った渾身の右ストレートが、レオンの顔面にクリーンヒットした。
一切の手加減なし。殺意すら感じるほどの一撃に、レオンの体は為す術もなく吹き飛び、無様に砂浜をゴロゴロと転がった。
「いっっっっっっっっっつ!? 鼻! 鼻折れた! 絶対折れた!?」
砂まみれになりながら、両手で顔面を押さえて呻き声を上げるレオン。
しかしアリシアの追撃は終わらない。彼女はのたうち回るレオンの上に馬乗りになると、彼の胸ぐらを両手でガシッと掴み、顔を近づけて怒鳴りつけた。
「これでチャラにしてやる!!」
鼓膜が破れそうなほどの、大音声だった。
「もう二度と『あっちへ行け』だの『どうでもいい』だの、あんな情けないこと言うな! いいか、よく聞けバカ王子! 忘れるな、ウチの相棒はお前だけなんだよ!!」
胸ぐらを掴む手に、ギュッと強い力がこもる。
怒りに満ちた、けれど、どこか泣き出しそうな彼女の瞳。
『ウチの相棒はお前だけなんだよ』
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
同時に、先程の凄惨な光景がフラッシュバックする。
あんなに酷い言葉で傷つけたのに。見損なわれても仕方ないような、見苦しい八つ当たりをしたのに。
彼女は、身を挺してレオンを庇い――最後に、あの困ったような、優しい微笑みを向けてくれた。
痛い思いをしてまで、馬鹿な自分を、相棒として守ってくれたのだ。
「あ……」
ジン、と。
殴られた鼻の痛みとは違う熱が、レオンの目の奥から込み上げてきた。
「あ……あぁ……っ」
レオンの中で限界まで張り詰めていた太い糸が、音を立てて完全にぶち切れた。
「だって……っ、だってさぁ……っ!!」
嗚咽が漏れた。
視界が、一瞬にして涙でぐにゃりと歪む。
「お前……っ、あんな……! 死ぬことないだろ!! 俺なんか放っておけばよかっただろ!!」
胸ぐらを掴まれたまま、レオンは子供のようにボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。
異世界の誰もが憧れた、眉目秀麗で完璧な第一王子の面影など、そこには欠片もなかった。
あるのはただ、前世からずっと不器用で、コンプレックスだらけで、強がることしかできなかった『親友の』の等身大の姿だった。
「怖かったんだよ……ッ!!」
しゃくり上げ、鼻水をすすりながら、レオンは今までひた隠しにしてきた醜い本心を、ありのままに絶叫した。
「エリオットは何でもできるし! 剣も魔法もスゲェし! 俺なんかよりずっと頭も良くて、どう考えても俺の完全な上位互換じゃないか! あんな完璧な奴が目の前に現れたら……お前が、アイツの方に行っちゃうかもしれないだろ!!」
「は……?」
突然の泥臭い告白に、アリシアがポカンと口を開ける。
しかし、一度決壊したレオンの感情のダムは、もう誰にも止められなかった。
「俺なんかより、アイツと一緒にいる方が絶対に安全で……っ、幸せになれるに決まってる……! だから……お前を取られるのが、すげぇ怖かったんだよぉっ!! ずっと、不安で不安で、頭がおかしくなりそうだったんだよぉぉぉっ!!」
わあぁぁぁん、と。
まるで迷子になった幼児が親を見つけた時のように、レオンは顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった。
見栄も、矜持も、クールなイケメンの仮面も、すべてをかなぐり捨てた。
底なしの嫉妬も、惨めな劣等感も、みっともない独占欲も。
心の底に溜め込んでいたドロドロとしたヘドロのような感情を、涙と鼻水と一緒に、夏の空の下へすべて吐き出したのだ。
「うっ、ぐずっ……お前が……お前がいなくなったら、俺、どうしていいか……っ」
しゃくり上げるレオンの、あまりにも見事な泣きっぷり。
アリシアは胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと離し、その場にへたり込んだ。
そして。
数秒間の沈黙の後。
「……あっははははははははははははははッ!!!」
波の音すらかき消すほどの、豪快な大爆笑が砂浜に響き渡った。
「えっ……」
涙声で顔を上げたレオンの前で、アリシアはお腹を抱え、文字通り砂浜を転げ回って笑っていた。
「ひぃっ、あはははっ! な、なにそれ! ちょっと、あんた、顔! 泣き顔めっちゃ汚いんだけど!! やばっ、マジでブッサ!! 鼻水垂れてるし!!」
「……っ!? ひ、人が真剣に腹割って話してんのに笑うな!!」
指を差して遠慮なく爆笑するアリシアに、レオンは顔を真っ赤にして怒鳴った。
しかし、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で凄んでも、まったく迫力がない。
(……なんだよ、それ)
気がつけば。
「……っ、ふっ」
「あはははは!」
「はは……っ、あーあ……馬鹿みてぇ……」
レオン自身も、吹き出していた。
最初は自嘲気味だった笑いが、次第に大きなものへと変わっていく。
青い空の下、波打ち際の砂浜に大の字になって寝転がりながら、二人はいつまでも笑い合った。
「あははははははっ!」
「はははははははははっ!」
泣き叫んで、本音をぶつけ合って、そして腹の底から笑い転げる。
ただそれだけのことで、あれほどレオンの心を縛り付けていた真っ暗な被害妄想も、息が詰まるようなコンプレックスも、すべてが夏の青空へと吸い込まれ、綺麗に浄化されていくのが分かった。
◆
やがて、笑い疲れた二人は、砂まみれのまま空を見上げていた。
レオンはゆっくりと身を起こした。
その表情には、もう微塵の曇りもなかった。かつての虚無感も、無理に作り上げた王子の仮面もない。憑き物が落ちたような、清々しいほどの本来の彼の顔がそこにあった。
レオンは立ち上がり、砂浜に座るアリシアに向けて、スッと右手を差し出した。
「……じゃあ、次に行くぞ」
その手を見て、アリシアはニヤリと悪戯っぽく笑う。
彼女は差し出されたその手を力強く握り返し、勢いよく立ち上がった。
「次はヘマすんじゃないぞ、相棒」
「……お前こそな」
パパンッ、と砂を払いながら、不敵に笑い合う最強の二人。
『――残り3、2、1……』
背後で、凄まじい閃光が上がる。
直後、空気を切り裂くような爆発の轟音と爆風が、二人を飲み込んだ。
次なる戦いの舞台。
現実世界での、新たなリスタートへ向けて。




