第8話:無気力な王子と、相棒の無言の微笑み
豪奢な天蓋付きのベッドがある広々とした自室は、ひどく淀んだ空気に満ちていた。
床には何本もの高級ワインの空き瓶が転がり、足の踏み場もない。分厚いカーテンは固く閉ざされ、昼夜の区別すらつかない薄暗闇の中、レオンは壁を背にして座り込んでいた。
「……殿下。せめてお食事だけでも……」
「騎士団長が今後の防衛方針についてご報告をしたいと……殿下、起きておられますか?」
分厚い扉の向こうから、忠誠を誓う優秀な部下たちの声が何度も響く。しかし、レオンはピクリとも動かない。
返事をする気力すら湧かなかった。
愛用していた剣は部屋の隅に放り出され、手入れを怠った刀身はくすんでいる。焦点の合わない虚ろな目は、ただ宙を彷徨い、手にした酒瓶からぬるい液体を機械的に喉へと流し込むだけだ。
(俺は、すべてを壊した……)
その絶望すら、とうに通り越していた。
過ちを悔いる痛みも、自己嫌悪の刃も、今の彼の心には届かない。魂が抜け落ちた空っぽの抜け殻。感情のすべてが麻痺し、ただ息をしているだけの肉の塊に成り果てていた。
◆ ◆ ◆
その重い扉の前を、アリシアは何日も訪れていた。
しかし、今日もまた、困り果てた様子のメイドに深々と頭を下げられる。
「申し訳ございません、アリシア様……。殿下は、『誰にも会いたくない』と……」
「そう……。分かったわ」
悲痛な表情で謝罪するメイドを責めることはできない。
アリシアは閉ざされた扉を見つめ、ギュッと唇を噛み締めた。
何か、言葉をかけなければ。
そう思ってここまで来るのに、いざ扉の前に立つと、数日前のあの夜の記憶が鮮明に蘇ってしまう。
『お前もあいつが好きならあっちへ行けよ!』
嫉妬と被害妄想に狂ったレオンの暴言。
そして、それに耐えきれず、彼に向けてしまった自分自身の冷え切った視線。
汚物を見るような、あの軽蔑の目を向けてしまった自分が、今さらどんな顔をして彼に声をかければいいのか。慰める資格があるのか、それとも相棒として平手打ちの一つでも食らわせるべきなのか。
答えは出ない。ただ、踏み込む勇気が足りなかった。
「……また、明日来るから」
扉の向こうの彼には届かないほどの小さな声で呟き、アリシアは逃げるようにその場を後にした。
◆ ◆ ◆
同じ頃、王宮の裏側、地下深くの隠し部屋では、第二王子を擁立する派閥の貴族たちが極度の焦燥に駆られていた。
「まさか……! あの大軍勢を、退けるとは!?」
「事実だ。このままでは第一王子の王位継承は盤石……我々の居場所などなくなってしまうぞ!」
帝国との戦争において、レオンは(表向きは)単身で絶望的な戦況を覆した救国の英雄として扱われていた。
世間の評価はそうなる。
第二王子派にとっては、まさに死活問題だった。
「しかし、不可解な噂も耳に入っております。大勝利の凱旋後だというのに、レオン殿下は部屋に引きこもり、すっかり腑抜けのようになっていると……」
「馬鹿を言え! 英雄がなぜ腑抜ける! 我々を油断させ、炙り出すための罠に決まっている!」
疑心暗鬼に陥る者たちの中で、追い詰められた強硬派の男が机を叩いた。
「罠だろうが何だろうが、今この隙を突くしかないのだ! 奴が引きこもり、護衛の数も手薄になっている今夜……一気に首を獲る!」
それはもはや暗殺という隠密行動ではなかった。
多額の金で雇い入れた裏社会の暗殺ギルドの者たちと、派閥の私兵を動員した、小規模なクーデターに近い強行策。
王宮の闇の中で、レオンの命を奪うためのどす黒い刃が解き放たれた。
◆ ◆ ◆
深夜。
静寂に包まれていた王宮に、突如として剣戟の甲高い音と、怒号が響き渡った。
「賊だァッ! 殿下の御前を死守せよ!!」
レオンの自室の前を通る廊下で、彼の忠実な護衛たちが抜刀し、暗闇から次々と湧き出てくる黒装束の刺客たちと激しい防衛戦を展開していた。
しかし、敵の数は圧倒的だった。多勢に無勢、一人、また一人と護衛の騎士たちが血を流して倒れていく。
「何事なの……!?」
騒ぎを聞きつけ、寝巻き姿のまま廊下に飛び出したアリシアは、その惨状に息を呑んだ。
彼女の視線の先には、血まみれになったレオンの部屋の扉がある。駆け出そうとしたアリシアの前に、三人の刺客が立ち塞がった。
「チッ、女か。面倒だ、一緒に殺せ!」
「っ……!」
丸腰のアリシアに、無情な刃が振り下ろされる――その瞬間だった。
「お嬢様の道を塞ぐな、羽虫共」
氷のように冷たい、低い声。
直後、暴風のような衝撃が走り、アリシアの前にいた三人の刺客の首が、音もなく宙を舞った。
鮮血が噴き出す中、優雅に血濡れた手袋を拭いながら現れたのは、初老の男。
かつてレオンとアリシアを絶望の淵に叩き落とした最強の敵であり、現在はアリシアの絶対的な従者として仕える最強の執事・アルフォンスだった。
「アルフォンス……!」
「お怪我はありませんね、アリシア様」
瞬きする間に、アルフォンスは残る刺客たちの間を縫うように移動し、舞踏会でステップを踏むかのような優雅さで、次々と致命傷を与えていく。
彼にとっては、熟練の暗殺者たちですら、文字通り踏み潰すだけの羽虫に過ぎなかった。
圧倒的な蹂躙。
廊下を埋め尽くしていた敵は、ほんの数十秒で全滅した。
「お嬢様、道は開きました」
アルフォンスは、血溜まりの中に立ちながら、振り返って深く一礼する。
「さあ、殿下に、きつい喝を入れてきなさい」
その頼もしい背中に頷き、アリシアはレオンの部屋へと全力で駆け出した。
◆ ◆ ◆
ガァンッ!!
甲高い音と共に、レオンの自室の窓が蹴り破られた。
雪崩れ込んできたのは、別ルートから侵入した数名の刺客たちだ。彼らは暗闇の中で座り込む人影を見つけ、殺意を剥き出しにして刃を構えた。
「もらったァッ! レオン王子!!」
しかし、当のレオンは、剣を抜こうとも、立ち上がろうともしなかった。
ただ、酒瓶を持ったまま、虚ろな瞳で迫り来る刃を見つめている。
(ああ、次か)
恐怖は、微塵も湧かなかった。
ただ機械的に、頭の中で冷たい思考がよぎる。
殺されれば、どうせまた『ループ』する。自分の存在ごとリセットされて、また最初からやり直すだけだ。
こんな惨めな人生など、早く終わらせてしまえばいい。もう、どうでもいい。
レオンは、自らに下される死の罰を受け入れるように、静かに目を伏せた。
――ズバァンッ!!
だが。
死の衝撃の代わりに彼を襲ったのは、真横から凄まじい力で突き飛ばされる感覚だった。
「……え?」
床を転がり、目を見開いたレオンの視界に飛び込んできたのは。
「――っ、ぁ……!」
レオンを突き飛ばし、彼の代わりに刺客の凶刃をその身に受けた、アリシアの姿だった。
白かった寝巻きが、ドス黒い赤に染まっていく。
鈍い肉の裂ける音と共に、彼女の華奢な胸を、無骨な長剣が深々と貫いていた。
「な……」
刺客が舌打ちをして剣を引き抜くと同時に、アリシアの体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「アリシアッ!!!」
ただの作業だと思っていた『死』が。
彼女の鮮血と、生々しい鉄の匂いによって、レオンの意識を強制的に現実へと引き戻した。
麻痺していたはずの心が、ちぎれんばかりの悲鳴を上げる。
虚無が一瞬にして吹き飛び、レオンは這いずるようにして倒れ込む彼女を抱きとめた。
「お前……っ、なんで、なんで……!」
震える腕の中で、彼女の体温が急速に失われていくのが分かる。
致命傷だ。助からない。
あんなに酷い言葉で罵り合ったのに。あんなに軽蔑の目を向けていたのに。
どうして、彼女は身を呈して自分を守ったのか。
「アリシア……ッ、死ぬな、ふざけるな、なんで俺なんかを庇った……!」
ボロボロと涙を溢し、血まみれの手で彼女の頬を叩くレオン。
激痛に顔を顰めながら、アリシアはゆっくりと重い瞼を開け、レオンを見上げた。
そして。
「…………」
彼女は、何も言わなかった。
罵倒することも、説教することも、恨み言を口にすることも。
ただ、呆れたような、困ったような。
それでも、決して見捨てることのできない不器用な『相棒』に向ける――諦めと許しが入り混じった、微かな微笑みを浮かべた。
「あ……」
言葉なきその微笑みを残し。
アリシアの瞳から、ふっと光が失われた。
だらりと力が抜け、レオンの腕の中で、彼女の命は完全に途絶えた。
「ああ……あ、ああああああああああああああああああああッ!!!」
レオンが、血を吐くような絶叫を上げた、その瞬間だった。
部屋を埋め尽くすような、残酷なほど真っ白な光が視界を奪った。
光の渦の中で、血の匂いが消える。
石造りの床の冷たさが消え、代わりに肌を焼くような強烈な日差しと、潮の香りが鼻を突いた。
「…………っ!?」
耳を劈くようなセミの鳴き声。
照りつける太陽。
見覚えのある、アスファルトの熱気。
時間は、残酷なまでに正確に巻き戻る。
爆発まで残り30秒。
あの日、すべてが始まった場所――『沖縄』へと、強制リセットされたのだった。




