第6話:崩落の要塞と、降臨する「神」
石造りの薄暗い食堂に、カツン、カツンと硬い物を叩き割るような音が虚しく響いていた。
帝国軍の猛攻が始まってから、すでに三ヶ月が経過しようとしていた。
要塞の地下にある兵士用の食堂では、十人ほどの小部隊が円卓を囲み、無言で『食事』を摂っていた。とはいえ、彼らの皿に乗っているのは、石のように硬く干からびた乾パンの欠片と、具などほとんど入っていない塩水のようなスープだけだ。
慢性的な栄養不足と過酷な戦闘任務により、兵士たちの顔には生気がなく、目の下には濃い隈が張り付いている。
「……おい、今日も量が増えねえな」
一人の兵士が、前歯で強引に乾パンを噛み砕きながら、吐き捨てるように毒づいた。
「三ヶ月で王都から大軍(援軍)が来るって話、一体どうなってんだよ。いつまで俺たちをこのネズミ捕りの中に閉じ込めておく気だ」
「文句を言うな。上からの制限だ。食糧庫の備蓄もいよいよ底が見え始めてるらしいからな」
給仕の男が力なく答えると、別の兵士が自嘲気味に鼻で笑った。
「そりゃそうだろうよ。王宮のやんごとなきお方たちは、こんな辺境の事なんてどうでもいいのさ。いや……むしろ、我らが第一王子殿下に、このままここで死んでほしいんだろうぜ」
「おい、やめろ。壁に耳ありだぞ」
窘める声が上がったが、兵士たちの間に漂う重苦しい空気は晴れない。
誰も口には出さないが、要塞の兵士たちの間には、ある『公然の秘密』が澱のように沈殿していた。
――この要塞の中には、帝国に門を開く裏切り者がいる。
一ヶ月前の『第三砦』の陥落以降、レオンからは厳重な緘口令が敷かれていたが、不自然な探り合いや、処刑される兵士の噂は隠し通せるものではなかった。隣に座る戦友すら信じられないという猜疑心が、空腹以上に兵士たちの心を冷たく蝕んでいる。
「どっちにしろ、長くは保たねえよ。俺たちは王都に見捨てられ、中には裏切り者が潜んでる。……ここで干からびるか、寝首を掻かれるかの違いしかねえ」
諦めに満ちた言葉が食堂に落ちた、その瞬間だった。
――ドゴォォォンッ!!
食堂の分厚い木扉が吹き飛ばされるような勢いで開き、血まみれの伝令が転がり込んできた。
「敵だッ!! 大規模な襲撃だ! 総員、直ちに第一防衛線へ向かえぇッ!」
不満を漏らしていた兵士たちは、一瞬にして目の色を変えた。彼らは文句を飲み込み、わずかに残っていたスープを一息に胃に流し込むと、訓練された機械のような動きで武器を手に取り、死の待つ戦場へと走っていく。
それが、この三ヶ月間繰り返されてきた、彼らの呪われた日常だった。
◆ ◆ ◆
同じ頃、レオンが指揮を執る要塞の司令部では、かつてないパニックが巻き起こっていた。
「殿下ッ!! 西と東の砦が……同時に落ちました!!」
青ざめた顔で駆け込んできた将軍の報告に、レオンは持っていた指揮棒を激しく叩き折った。
予兆すらなく、同時に二箇所の砦が陥落。いや、正確には「また内側から門を開かれた」のだ。
第三砦の教訓から防衛体制を徹底的に見直したにも関わらず、防ぎきれなかった。これで要塞を囲む主要な防衛拠点は完全に機能不全に陥り、三万の帝国軍が要塞の心臓部へ向かって、黒い津波のように押し寄せてくる。
「くそッ……! 予備兵力を全軍投入しろ! 俺が自ら出る!」
レオンは血走った目で剣を引き抜き、司令室を飛び出そうとした。だが、すかさず将軍がレオンの血まみれの鎧をガシッと掴んで引き留める。
「離せ、将軍!」
「殿下、もう終わりですッ! これ以上の防衛は不可能です! 我々が殿を務めますゆえ、せめて貴方だけでも秘密の抜け道から落ち延びてください!」
将軍の目には、決死の覚悟が宿っていた。
しかし、レオンは力任せに将軍の手を振り払う。
「まだ負けていない! 俺は第一王子として、ここを預かる責任がある!」
「殿下ッ!」
「……俺を、王都へ逃がそうとするな」
レオンのその声は、狂乱の中にあって異常なほど冷たく、底冷えがするほど澄んでいた。
彼の優秀な頭脳は、極限状態にあっても残酷なまでに冷静な計算を弾き出していた。
『(今ここから逃げ出して王都へ戻ったところで、第二王子派に「要塞を見捨てて逃げ帰った卑怯者」として糾弾され、暗殺されるのがオチだ。どうせ殺されるなら……)』
どうせ死ぬのなら、自分の愚かな采配のせいで地獄に巻き込んでしまったこの部下たちと共に、ここで剣を振るって死んだ方がマシだ。そうすれば、あの反吐が出るほど醜い王位継承の権力闘争からも、ようやく降りることができる。
「俺はここで、最期の時まで戦う。……俺に死に場所をくれ」
死を覚悟した――あるいは死に魅入られたレオンの狂気じみた気迫に、幕僚たちは完全に気圧され、言葉を失った。
◆ ◆ ◆
要塞の正門が、ついに巨大な破城槌によって打ち砕かれた。
木っ端微塵に吹き飛ぶ門。その向こうから、勝利を確信した帝国軍の絶望的な咆哮が戦場を支配する。
殺到する敵兵を前に、残存する王国軍の兵士たちは誰もが「これまでか」と目を閉じ、武器を強く握り直した。レオンもまた、前線で剣を構え、押し寄せる刃の波を迎え撃とうと身構える。
だが。
その瞬間、世界は唐突に『光』に包まれた。
「な……なんだ、あれは……?」
一人の兵士が空を見上げ、呆然と呟いた。
分厚い暗雲を円形に突き破り、要塞全体を覆い尽くすほどの超巨大な魔法陣が、天空に出現したのだ。
それは、この世界に存在するいかなる魔法体系とも異なるものだった。複雑怪奇で幾何学的な紋様が、まるで精密な歯車のように高速で逆回転を繰り返し、大気を震わせるような重低音を響かせている。
「魔力の収束……? いや、なんだこの異常な密度はッ!?」
帝国軍の魔法兵が悲鳴を上げた直後。
天空の陣から、一条の極太の光――現代科学のレーザーを思わせる、純粋な破壊のエネルギーが放たれた。
音速を超えたその光の矢は、数万の軍勢がひしめく戦場を飛び越え、後方に位置していた帝国軍の指揮所をピンポイントで貫いた。
――カッ!!
一拍遅れて、太陽が地上に落ちたかのような大爆発が巻き起こる。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
幾何学的な魔法陣が回転するたびに、空から無数の光の矢が降り注ぐ。それは決して無差別な爆撃ではなく、まるで戦場を上空から完全に『解析』しているかのように、帝国軍の急所のみを正確にえぐり取っていった。
前線への補給物資が積まれた野営地が火柱を上げて消滅する。
攻城兵器を並べていた武器庫が、跡形もなく蒸発する。
そして、三万の軍勢の象徴であった帝国軍本陣の巨大な軍旗が、煌めく光と共に消し飛んだ。
◆ ◆ ◆
ほんの数分前まで戦場を支配していた怒号と殺気は、信じられないものを見る呆然とした静寂へと変わっていた。
「か、神の怒りだ……ッ!」
「天罰だ! 逃げろ、ここから逃げろォォォッ!!」
指揮系統を完全に破壊され、未知の恐怖に直面した帝国軍は、もはや軍隊としての統制を失っていた。三万の兵が我先にと武器を放り出し、パニック状態で蜘蛛の子を散らすように撤退――いや、逃走を始める。
呆然と立ち尽くすレオンたちの頭上から、一筋の光がゆっくりと舞い降りてきた。
ふわりと、何の音も立てずに焦げた大地に降り立ったその人物は、戦場の埃一つ被っていない純白のローブを揺らしていた。
「……間に合って、よかった」
エリオットだった。
彼は、つい先程まで地獄だったこの戦場に全く似つかわしくない、穏やかで涼しげな笑みを浮かべていた。
レオンは、血に塗れた剣を握りしめたまま、ただエリオットを見上げることしかできなかった。
彼がたった一撃で放った力は、レオンがどれだけ死に戻りの記憶を辿り、どれだけ努力し、どれだけ血反吐を吐いて足掻いても、絶対に到達できない『圧倒的な強者』のそれだった。
三ヶ月間、レオンが部下たちに泥水を啜らせ、多くの命を犠牲にしながら必死に守り抜いてきた要塞。
それを、この男は空から現れて、ほんの数秒で終わらせてしまった。
『(……なんだ、これは)』
目の前の敵を消し去り、勝利を決定づけた、絶対的な救世主。
それに引き換え、自分はどうだ。
自らのミスで戦争を引き起こし、部下を疑い、挙げ句の果てに死に場所を求めて玉砕しようとしていた、血と泥に塗れただけの無能な王子。
そのあまりに無慈悲な対比が、レオンの心臓を冷たい手で鷲掴みにした。
安堵など、微塵もなかった。
『(俺じゃ……俺じゃ、ダメだったんだ)』
レオンの中で、これまで第一王子のプライドでギリギリ押さえ込んでいた劣等感のダムが、音を立てて崩れ去っていく。
神の如き無敵の笑顔を向けるエリオットと、すべての肯定感をへし折られ、言葉を失って立ち尽くすレオン。
二人の間に横たわる、決して埋まることのない絶望的な溝の深さを象徴するように、夕焼けの戦場に冷たい風が吹き抜けた。




