第7話 極秘ミッションと、半年の猶予
まだ太陽が昇りきっていない、薄暗い早朝の子爵邸。
静寂に包まれた廊下を、アリシアは抜き足差し足で慎重に進んでいた。
(誰にも見られてはいけない……! 特にレオンには、絶対に見られるわけにはいかない!)
彼女の両手には、布でぐるぐると厳重に巻かれた「二つの小さな小瓶」が握りしめられている。
中身は言わずもがな、エリオットから要求された『検便・検尿のサンプル』である。
いくら中身が図太い現代日本の女子高生であっても、見目麗しい公爵令嬢の肉体でこれを提出するのは、筆舌に尽くしがたい羞恥を伴った。
壁に背中を張り付け、角を曲がる前にそろりと顔を出して周囲をうかがう。
(よし、誰もいないわね。このまま地下室まで一気に行くわよ)
本人は忍者さながらの完璧な潜入ミッションをこなしているつもりだった。
しかし悲しいかな、彼女は公爵令嬢であり、第一王子と共に滞在中の超VIPである。邸内には、レオンが配置した精鋭の近衛兵たちが二十四時間交代制で警備に当たっていた。
つまり、彼女のコソコソとした動きは、柱の陰や天井裏に潜む兵士たちから丸見えだったのだ。
「……」
「……」
兵士たちは無言で視線を交わした。
『お嬢様が何か怪しげな、しかし真剣な極秘任務を行っている』と察した彼らは、あえて彼女を止めようとはしなかった。逆にどう接していいか分からず、サッ、サッとアリシアの視界に入らないように道を譲り、完璧なまでの「見て見ぬふり」を貫いていた。
さらにその後方からは、気配を完全に消したアルフォンスが、まるで「孫の初めてのおつかい」を見守る祖父のような温かい(しかし暗殺者のような鋭い)眼差しで、静かに追従していることなど、アリシアは知る由もなかった。
なんとか誰にも見つからずに(と本人は思い込んでいる)地下室へと辿り着いたアリシアは、エリオットの研究室の前で大きく息を吐き出した。
(よし。これをサッと置いて、サッと帰る。完璧な計画だわ)
そっと重厚な扉を押し開ける。
するとそこには、予想外の光景が広がっていた。
「……すぅ……」
「……くそっ、魔力……回路の……」
部屋の中央にある机に突っ伏したまま、エリオットとレオンが仲良く寝落ちしていたのだ。
周囲には、昨夜アリシアから採取した血液や魔力データに関する膨大な資料が散乱している。
実は、レオンは昨夜からずっとここに居座っていた。
「どうやってアリシアの病を調べるのか」と尋ねたレオンに対し、エリオットが真面目に説明を始めたのが運の尽きだった。天才であるエリオットには「一般人に分かるレベルまで噛み砕いて説明する」という能力が欠けており、レオンもまた、愛するアリシアのために必死に食い下がった。
結果として、徹夜で高度な魔法理論と現代医学のハイブリッド講義が行われ、夜明けと共に二人揃って力尽きたのである。
(寝てる……! よし、今のうちに置いていこう)
アリシアは好機とばかりに抜き足差し足で机に近づき、布で包んだ小瓶をそっと置いた。
コトリ、と微かな音が鳴った、その瞬間だった。
「ハッ!?」
「うおおっ!?」
二人が同時に、弾かれたように顔を上げた。
「びっくりした!?」
心臓が飛び出るかと思ったアリシアが後ずさる。
目を擦りながら状況を把握したエリオットが、机の上に置かれた小瓶に気づいた。
「おお! 生体サンプルですね! ありがとうございます、これでようやく全ての検査が……!」
寝起きのテンションとは思えないほど目を輝かせ、エリオットが布を解こうと手を伸ばす。
「へえ……これが、アリシアの……」
隣で寝ぼけ眼を擦っていたレオンも、興味本位で身を乗り出してきた。
(レオンが見てる前で開けられる!?)
その瞬間、アリシアの中で眠っていた「乙女の防衛本能」が臨界点を突破した。
「開けんなバカァ!!」
「ぐふっ!?」
顔をトマトのように真っ赤にしたアリシアの鉄拳が、レオンの鳩尾にクリーンヒットした。
さらにアリシアは、くの字に曲がったレオンの腕をガシッと掴み、凄まじい馬鹿力で部屋の外へと引きずり出し始めた。
「お、おい! 何をするんだアリシア! 今からエリオットが調査を……!」
「エリオットさんの邪魔になるでしょ! あんたは出るの!!」
「いや、俺は確認をだな――」
「いいから来い!!」
見せたくないという無自覚な乙女心が暴走したアリシアと、なぜ自分が殴られて引きずられているのか全く理解できないレオンのドタバタとした攻防が続く。
「で、では、私はさっそく検査に入りますので……」
エリオットは嵐のような二人のやり取りに苦笑しながら、そっと研究室の扉を閉めたのだった。
◆
――そこから、時間は一気に半年ほど飛ぶ。
結論から言えば、私、アリシア・グランベルは、そのままバルド領の子爵邸に長期滞在することになった。
理由は明確だ。王都との往復という「旅道」は、賊や暗殺者に狙われるリスクが最も高い。
ならば、閉鎖的でよそ者が目立つこの辺境の村に腰を据え、「アルフォンス」と「エリオット」の庇護下に入るのが最も安全である、とレオンが判断したからだ。
「アリシアお姉ちゃん、こっちこっち!」
村での生活は、思いのほか穏やかで退屈しなかった。
エリオットの妹であるリリアに村中を案内してもらい、一緒に遊ぶ日々。
そして週に一度は、村の小さな教会に足を運び、「光神ルミエル」に祈りを捧げた。
別に私に熱心な信仰心があるわけではない。ただ、貴族の令嬢として「敬虔な信徒である」というポーズを見せておくことは、この世界で生きていく上で必須の処世術だったからだ。
教会の奥に鎮座する『光神ルミエル像』は、何度見ても不気味だった。
美しい女神のような姿を想像していたのだが、実際の像は、複数の目玉や無数の翼が絡み合ったような、前衛芸術的で形容しがたい形をしている。前世の知識で言えば、旧約聖書に登場するガチの天使のような、畏怖を煽る造形だ。
『魂は光より出でて、光へと還る。肉体は仮の器に過ぎず、大いなる光の奔流こそが、我らの真なる帰るべき場所なり……』
リリアの隣に座り、神父のゆったりとした説教をぼんやりと聞き流す。
光へと還る、か。
輪廻転生という概念がこの世界にあるのかは分からないが、死に戻りを繰り返す私たちにとって、その言葉はどこか空虚に響いた。
一方、私とは対照的に、レオンは地獄のようなスケジュールをこなしていた。
彼は私を辺境に残し、自身は王都とこの地を何度も往復するという激務に身を投じていたのだ。
王都を長期間空けすぎれば、第二王子派や王妃派に権力の空白を突かれ、実権を奪われてしまう。そうなれば、公爵令嬢である私を守る後ろ盾がなくなり、結果的に『死の運命』を引き寄せてしまうからだ。
そのためレオンは、「南方要塞の視察」という正当な名目を使い、軍の精鋭を率いては何度も南の国境付近(バルド領の近く)を訪れていた。
私を守るため、彼の行動は必死だった。
(でも、この時のレオンは気づいていなかった)
その、愛ゆえの盲目さが。
第一王子が度重なって南方へと軍を移動させるという過剰な行動が、国境を接する軍事大国【ガルデア帝国】の警戒レベルを跳ね上げ、取り返しのつかない『戦争のフラグ』を積み上げていることに……。
そして、半年後。
吐く息が白くなり始め、冬の足音が確実に近づいてきたある日のことだった。
「おっ、お疲れレオン!」
過酷な政務と長旅の疲労を厚手の外套で隠し、バルド邸へと到着したレオンを、私は無邪気に出迎えた。
「ああ、ただいま戻った。……体調は、どうだ?」
「ん? バッチリ健康そのものだよ! 咳一つ出てないし、ご飯も美味しい!」
私が胸を張って答えると、レオンは安堵したように、微かに目元を緩めた。
「それは何よりだ……」
その時、地下へと続く扉が開き、少しばかり疲れた顔をしたエリオットが姿を現した。
手には分厚い書類の束を持っている。
「お戻りになられましたか、殿下」
「ああ。……何か、進展はあったか?」
レオンの問いかけに、エリオットは頷き、私とレオン(そして背後のアルフォンス)を、再びあの地下の研究室へと招き入れた。
半年前よりもさらに散らかっている研究室の机には、膨大な量の計算式と観察データ、そして私が提出したあらゆるサンプルの分析結果が山のように積まれていた。
椅子を勧められ、私たちはエリオットと対峙する。
彼は机の上に書類の束をドンと置き、静かに、しかし確信を持った大人の顔で私たちに告げた。
「お待ちしていました。……半年かけて、ようやく分かりましたよ」
部屋の空気が、ピンと張り詰める。
レオンが息を呑む音が聞こえた。
「アリシアさんの身体に、何が起きているのか。そして……」
エリオットは、私の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「――彼女を殺す、『死の運命』の正体が」
ついに、幾度かのループで誰も解き明かせなかった絶望の輪郭が、一人の大賢者の口から語られようとしていた。




