第3話 殺意なき死闘と、王子の閃き
視界が真っ赤に染まり、次いで暗転する。
――ザザァッ。
鼓膜を打つ穏やかな波の音と共に、強烈な日差しがレオンの網膜を灼いた。肺の奥深くまで潮風を吸い込み、砂浜に大の字で倒れ込んだ彼は、荒い息を吐き出しながら天を仰いだ。
(……ダメだ。単独ルートは、文字通り『秒殺』だった)
アルフォンスを説得、あるいは制圧するため、レオンは作戦の検証としていくつかのルートを試していた。
先ほど試したのは、『アリシア不在の状況でアルフォンスと対峙する』パターンである。
アリシアが私室で休んでいる隙を突き、レオンは公爵邸の裏庭でアルフォンスを単独で呼び止めた。そして、真っ向から「お前の過去は知っている。アリシアはお前の過保護を望んでいない」と説得を試みたのだ。
結果は、凄惨なものだった。
レオンの言葉が最後まで紡がれることはなかった。「お嬢様を唆す害虫」というアルフォンスの冷酷な判断が下された瞬間、老執事の姿が陽炎のようにブレた。
殺意の波動すら発せられない、完全に無音で無駄のない神速の踏み込み。一切の感情を排した作業としての『処理』。レオンが剣の柄に手をかけるより早く、極限まで圧縮された風の刃がレオンの首を刎ね飛ばしていた。
戦いにすらならない。彼我の実力差は、大人と赤子という表現すら生ぬるいほどの絶望的な懸隔があった。
◆
再び世界が巻き戻り、レオンは次の検証ルートを実行に移す。
今度は『アリシアが同席しているお茶室で対峙する』パターンだ。
色鮮やかな花々が咲き乱れる、あの悪夢の温室。
前回と同じように、アルフォンスは優雅な手つきでティーポットを傾けていた。アリシアはその背後で、レオンの指示通りに震えながらも息を潜めている。
レオンは剣を抜き放ち、アルフォンスへと斬りかかった。
「ご立派な剣筋です、殿下。ですが――」
アルフォンスは手にした純銀のティートレイで、レオンの渾身の一撃を軽々と弾き返す。
そこからの攻防は、やはり圧倒的だった。レオンが死のループで培った全霊の猛攻を仕掛けても、アルフォンスには傷一つつけられない。
だが、何度か剣を打ち合い、斬撃と魔術を交錯させる中で、レオンは自身の脳内に生じた奇妙な『違和感』に気づき始めた。
(……おかしい。俺の腕が上がったわけじゃない。なのに、なぜ先ほどの単独ルートよりも長く持ちこたえられている……?)
レオンの剣戟がアルフォンスに届いているからではない。アルフォンスの反撃が、先ほどのような一撃必殺の「最速の処理」ではないのだ。
老執事の動きを極限の集中力で観察していたレオンの瞳が、ふと見開かれる。
レオンが放った魔力弾を、アルフォンスがティートレイで弾き飛ばした瞬間だった。
弾かれた魔力弾が温室のガラスを割り、鋭い破片が四方八方に飛び散る。その際、アルフォンスはレオンの隙を突く絶好の機会であったにもかかわらず、不自然にステップを踏み変え、あえて非効率な位置へと身体を滑り込ませたのだ。
その結果、アルフォンスの背中に庇われる形となったアリシアには、ガラスの破片一つ、砂埃一つ当たることはなかった。
さらに、レオンが特攻紛いの踏み込みを見せた際もそうだ。アルフォンスは先ほどのように首を刎ねたり、派手に血が噴き出すような致命傷を与えたりはしなかった。
彼はレオンを無力化しつつも、決してレオンの血がアリシアのドレスに数滴たりとも降りかからないよう、完璧な角度と力加減で『被害の向き』をコントロールしていたのだ。
(……そうか。こいつの動きの起点は、俺の剣じゃない。アリシアの『位置』だ!)
剣を交えながら、レオンの頭脳に稲妻のような閃きが走った。
アルフォンスの強さは、無慈悲なまでの合理性にある。だが、アリシアが同席している空間においてのみ、彼の合理性は『アリシアの絶対安全』という最優先事項によって強烈な縛りを受けるのだ。
砕けたティーカップの破片一つ、血の一滴すら、愛する孫娘には絶対に飛ばさない。360度の死角ゼロで彼女を庇い続ける。その狂気的なまでの過保護さゆえに、アルフォンスは無意識のうちにレオンではなく、アリシアを背後に庇う『絶対防衛の陣形』を強制的に組まされているのである。
(ならば……!)
アルフォンスの立ち位置は、アリシアの現在位置によって完全に決定される。
つまり、もしレオンとアリシアの動きを寸分の狂いもなく連動させることができれば。二人の立ち位置のコンビネーションによって、無敵の怪物であるアルフォンスの動きを、ある程度意図的に『誘導』できるのではないか。
その推測に至った直後、アルフォンスの死角からの鋭い手刀がレオンの胸を正確に貫き、彼の意識は再び赤い闇へと沈んでいった。
◆
――沖縄の砂浜。
視界が明転するなり、レオンは弾かれたように身を起こし、隣にいたアリシアの肩を強く掴んだ。
上空ではすでに不発弾の白い光が膨張を始めており、残された時間は30秒しかない。
「アリシア! 分かったぞ、あいつの弱点というか、唯一の『法則』だ!」
「えっ!? 本当に!? どうやって説得するの!?」
「あいつの立ち位置は、お前の位置で決まる。あいつはどんな状況でも、絶対にお前に破片や血が飛ばない位置に移動するんだ」
早口で、しかし確信に満ちた声でレオンは先ほどの戦いで得た仮説を興奮気味に伝えた。
アルフォンスの異常な防衛本能を利用し、二人の立ち位置をコントロールすることで、彼の動きを誘導し、一瞬の隙を作り出して対話の糸口、あるいは行動不能にするための罠に嵌める。
「なるほど! つまり私の動きが鍵になるんだね!」
アリシアはポンッと手を打ち、名案を閃いたという顔で目を輝かせた。
「じゃあ、そんな面倒な立ち位置の計算とかせずに、私が後ろからそーっと近づいて、おじいちゃんに抱きついて羽交い絞めにすればよくない? その隙にレオンが説得するとか!」
自信満々に提案するアリシアに対し、レオンは即座に首を横に振った。
「ダメだ。あいつの防衛本能の異常さを舐めるな。お前が背後から不用意に触れた瞬間、あいつは『お嬢様に危害が及ぶ事態』と誤認するか、あるいは戦闘の余波からお前を守るために、反射的に一瞬で気絶させに来る。お前が気絶したら陣形もクソもない。俺もろとも即沖縄行きだ」
「えええ!? 孫のハグで気絶させられるの!? どんだけガード固いのあのおじいちゃん!」
「だからこそ厄介なんだよ! 力ずくじゃなく、完全に計算された歩法で、あいつを無意識のうちに誘導するしかない」
「じゃあどうするの!? 私、そんな高度な戦闘のステップなんて急にできないよ!」
アリシアの悲鳴のような声に、レオンはギリッと奥歯を噛み締めた。
その通りだ。アルフォンスを誘導するためには、レオンの剣撃とアリシアの移動が、まるで一つの生き物のように完璧に連動する『フォーメーション』が必要不可欠になる。
だが、それを練習する時間も場所もない。異世界では常にアルフォンスの盗聴器が機能しており、「対アルフォンス用の陣形練習」などと口走れば、その時点でゲームオーバーだ。
「アルフォンスに一切怪しまれず……俺とお前が『完璧な連動』を身につけるための、自然な口実が必要だ……」
レオンの脳裏で、これまでの日常の記憶が高速で回転し始める。
貴族の令嬢と王子が、至近距離で、お互いの呼吸とステップを合わせ、複雑な動線をなぞる行為。それも、どれだけ長時間練習していても、周囲から見て全く不自然ではない正当な理由。
「少し考えさせてくれ……必ず、突破口を見つける!」
上空の光が、限界を超えて弾けた。
すべてを呑み込む轟音と圧倒的な閃光が二人を包み込み、30秒間の聖域は終わりを告げる。新たなる逆襲のループへ向けて、王子の頭脳はかつてないほどの鋭さで回転を始めていた。




