プロローグ 沖縄の青い空
すべての音が、唐突に消えた。
蝉の喧しい鳴き声も、遠くで広がる波の音も、観光客たちの楽しげな話し声も。
世界のあらゆる音響が、まるで劇場の電源を強制遮断されたかのように消滅する。
(え――?)
視界が、一瞬にして真っ白な光に包まれた。
カメラのフラッシュを至近距離で浴びたような、網膜を焼き潰す絶対的な白。
遅れてやってきたのは、空気が焼け焦げる、酷く不快な鉄錆の匂い。
そして、重力からの解放だった。
私の体が、物理法則を無視して不自然に宙へと浮き上がる。
痛みを脳が認識するよりも、恐怖が心を支配するよりも早く、私の思考は完全に停止していた。
何が起きたのか、分からない。
ただ、この永遠にも似た一瞬の静寂の中で、私は見ていた。
私の目の前で、信じられないほどのスローモーションで、必死な顔で手を伸ばしてくる――大好きな親友の姿を。
――そんな最悪の瞬間に。
私の脳裏には、ほんの数分前までの、呆れるほど平和だった光景が走馬灯のように鮮明に蘇っていた。
*
「あー、マジで暑い! 沖縄の太陽、本気出しすぎでしょ!」
ハンカチで首筋の汗を拭いながら、私は突き抜けるような青空を見上げて声を上げた。
視界の先には、エメラルドグリーンに輝く広大な海。潮風が髪を揺らすけれど、ちっとも涼しくない。むしろベタベタして不快感が増すばかりだ。
高校二年生の修学旅行。
自由行動の時間、私たちは定番の観光ルートを少し外れ、海岸沿いの静かな裏道を歩いていた。
「だから言ったじゃん。あんた、日焼け止め塗り忘れたとか言って騒ぐ割には、帽子も被ってこないんだもんな」
隣を歩く私の相棒――前世からの親友が、呆れたようにため息をついた。
制服のスカートを気にすることもなく、大股で歩きながら、スマホのマップを確認している。
「しょうがないじゃん、ホテル出る時バタバタしてたんだから。それよりさ、なんか冷たい飲み物買ってよ。干からびて死ぬ」
「なんでうちがあんたに奢らなきゃいけないわけ? 自分の財布出しなよ、財布」
「ケチ! うちの将来の旦那様になる男は、きっともっと器が大きいよ!」
「はいはい、そーですね。夢を見るのは自由だけど、現実を見ような、現実を」
ちょっとオタク気質で、女子っぽさゼロの口調で言い返してくる親友に、私はへらへらと笑いながら肩をぶつけた。
私とあいつは、小学校からの幼馴染だ。
私は自他共に認めるサバサバ系、あいつは二次元の男にしか興味がない恋愛経験ゼロ女子。お互いを「女」として意識して気を使うことなんて、これまでただの一度もなかった。
周りからは「あんたら本当に仲良いな」と言われることも多かったけれど、その度に二人で「あり得ない!」と爆笑してきたものだ。
何でも話せる。気を使わない。
家族よりも一緒にいるのが自然な、そんな空気みたいな関係。
「ねえ」
「ん? なに」
「あんさー、将来もし、うちらに彼氏とか結婚相手ができなかったらどうする?」
「……急に何言ってんの、あんた」
あいつは怪訝そうに眉をひそめた。飾り気はないけれど、こういう時の顔は無駄に整っているから少し腹が立つ。
「いや、ふと思っただけ。私ってこういう可愛げのない性格だし、男ウケ悪いじゃん? あんたもあんたで、二次元の推ししか勝たんとか言ってるし。もしお互い行き遅れたらさ」
私はニシシと笑って、親友の顔を覗き込んだ。
「じゃあさ、うちら一生独身で、一緒に一軒家にでも住む? ほら、老後の茶飲み友達的な感じで」
「あんたには無理だろ。絶対途中で『暇だし結婚しよw』とか言い出すタイプじゃん」
「ひっど! でも、それもいいじゃん。じゃあ、うちら一生独身だったら、形だけでいいから結婚しちゃう? 面倒だし」
「……あんた、本当に結婚を何だと思ってんだよ」
あいつは耳の裏を少し赤くしながら、顔を背けた。
あ、照れてる。二次元の恋愛には強いクセに、リアルなこういうトークには耐性ゼロなのだ。そこがまた面白くて、私はついついからかってしまう。
「ああいうのは形式だから! うちら夫婦ごっこ、絶対楽しいって!」
そう言って、私は屈屈なく笑った。
この何気ない、気安くて、世界で一番尊いやり取りが。
まさか、異世界の地で、あんな形で叶うことになるなんて――この時の私は知る由もなかった。
本当に、ただの冗談のつもりだったのだ。
私たちはこのまま、くだらない言い合いをしながら大人になって、お互いの結婚式で不細工な泣き顔を晒し合うのだと、疑いもなく信じていた。
ガチリ、と。
私のローファーのつま先が、地面に埋まった「何か」に当たった。
「……あれ?」
歩みを止め、足元を見る。
裏道の赤土から、錆びついた、奇妙な金属塊が頭を覗かせていた。
丸みを帯びた、不格好な円筒状の塊。
それが、数十年の眠りを経て、今なお牙を剥き続けている【不発弾】の信管であると気付いた瞬間には、すべてが手遅れだった。
――走馬灯が、終わる。
意識が、爆発のコンマ数秒前の現実へと、引き戻された。
*
足元から、この世のものとは思えない致死量の光が溢れ出す。
網膜が、世界が、白に焼き尽くされていく。
「――っ!?」
その刹那、私の視界が激しく揺れた。
横からの、強烈な衝撃。
親友が、あいつが、私の体を全力で突き飛ばしたのだ。
「危な――!」
短い悲鳴のような声。
突き飛ばされた私は地面を転がり、視界の端で、あいつの姿を見た。
あいつは私を突き飛ばした勢いのまま、今度は私を覆い隠すように、その小さな体を投げ出して覆いかぶさってきた。
自分の身を呈して、私を庇うために。
迫り来る死の光から、ほんの少しでも私を遠ざけるために。
バカ。バカだよ、あんた。
そんなことしたって、二人とも助からないのに。
けれど、その必死な、泥臭いまでの拒絶と自己犠牲の輝きが、私の網膜に、魂に、深く深く焼き付いて離れなくなった。
ズゥゥゥゥゥゥン!!!!
遅れてやってきたのは、鼓膜を直接爆破されたかのような、圧倒的な破壊の轟音。
大地が爆ぜ、大気が烈風となって吹き荒れる。
人間の肉体など、あまりにも容易く引き千切ってしまう圧倒的な熱量が、容赦なく私たちを呑み込んでいく。
「あ、つ――」
皮膚が、肉が、骨が、一瞬で蒸発していくような感覚。
強烈な痛みののち、すぐに神経が焼き切れて何も感じなくなる。
焼け付くような闇の中で、私は自分の死への恐怖よりも先に、ただ一つ、親友の名前を叫ぼうとした。
(あんた――っ!!!)
しかし、声にはならなかった。私の喉はすでに存在していなかった。
ただ、ただ、あいつの温もりだけが、最期の瞬間に残った。
思考が溶ける。
意識が、底のない真っ暗な深淵へと、真っ逆さまに落ちていく。
私たちの短い人生は、あまりにも理不尽に、あまりにもあっけなく、そこで完全に途切れた。
――はず、だった。




