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「どこだ……リリさん……!」
コウタは人混みをかき分け、白いワンピースの影を追った。
時計塔の針が、非情な音を立てて約束の時間を刻み越えていく。
端末には、期待を煽るような通知が断続的に届いていた。
『リリ:ごめんなさい! 今、時計塔のすぐ裏の路地まで来てるんですけど、変な男の人に絡まれちゃって……怖い……!』
「裏の路地……ッ!」
コウタは血の気が引くのを感じ、全力で走り出した。
加工した自撮りの中の自分なら、もっとスマートに駆けつけられるはずなのに、現実の彼は泥臭く地面を蹴り、肩を荒らして走ることしかできない。
路地裏へ飛び込むと、そこには一人の少女が、数人の粗暴な男たちに囲まれていた。
少女はフードを深く被り、必死に壁際へ身を寄せている。
「待て! その子から離れろ!」
コウタは錆びた剣を抜き放ち、男たちの間に割って入った。
ハンターとしての本能が、恐怖よりも先に身体を動かす。
威嚇するように剣を振るい、男たちが毒づきながら去っていくのを、彼は必死の形相で睨みつけた。
「……大丈夫ですか? リリ、さん……?」
コウタは震える手を差し伸べ、少女の顔を覗き込もうとした。
だが、少女は差し出された手を、親の仇でも見るかのような冷たい手つきで払い除けた。
「……触らないで。気色悪い」
フードの隙間から見えたのは、リリの柔和な瞳ではなかった。
冷徹で、すべてを拒絶するような、あの「カナ」の瞳だった。
「え……あ、ごめん……リリさんじゃ、ないのか?」
「誰よそれ。あんた、そんな名前の女に、こんな場所で鼻の下伸ばして会いに来たわけ? バカじゃないの」
カナは肩の汚れを払うと、コウタの顔を一度だけ、ゴミでも見るように一瞥した。
そして、礼の一つも言わず、暗い路地の奥へと足早に去っていく。
コウタは、差し出したままの自分の手を見つめて立ち尽くした。
端末が、また震える。
『リリ:ごめんなさい……! 怖くて、一度お家に帰っちゃいました。コウタさん、また今度……絶対ですよ?』
結局、リリには会えず、助けたはずの少女には罵倒を浴びせられた。
コウタの周りには、誰一人として残っていない。
「……はぁ」
誰もいないアパートの部屋に戻ったコウタは、明かりも点けずにベッドへ倒れ込んだ。
救いようがない。
結局、今日一日の成果は、サクラに逃げられ、見知らぬ女に罵声を浴びせられたことだけだ。
コウタは震える指で端末を操作し、まずは「蜜」を求めてリリのチャット欄を開いた。
「リリさん確かに今日こなくてよかったですね。モンスターに沸いてましたよ」
送信。
せめて、自分が彼女を守るために動いたのだという「体面」だけは保ちたかった。
だが、すぐに既読がついたにもかかわらず、リリからの返信はない。
代わりに、コウタはふと思い立ったように、あのアカウント――「カナ」のトーク画面を開いた。
顔も知らない、罵倒ばかりしてくる空白のプロフ。
だが、今日あそこで自分を拒絶した少女の冷たい瞳を思い出すと、なぜか彼女にだけは「本当のこと」を言いたい衝動に駆られた。
もちろん、あの路地裏の少女と、この「カナ」が同一人物だとは夢にも思っていない。
「仕事疲れたわ」
飾りのない、独り言のような一言を投げ捨てる。
すると、珍しく数秒も経たずに画面が更新された。
『カナ:……あんた、まだ生きてたの? 仕事って、どうせ今日も魔物の餌になりかけたんでしょ』
画面越しに飛んでくる、容赦ない毒舌。
だが、コウタはそれを読みながら、今日初めて、少しだけ口角を上げた。
「ああ……。今日も、散々だったよ」
リリからの甘い嘘よりも、カナの刺すような真実。
二人は互いの顔も、今日すれ違った事実さえも知らないまま、暗い画面の中でだけ、歪な糸を絡ませ続けていた。
「……まあな」
コウタは、画面の向こう側にいる顔も知らない毒舌な女に向けて、不器用な反論を打ち込んだ。
自分でも呆れるほど惨めな一日だったが、それでも、あの路地裏で剣を抜いた瞬間の自分だけは、決して「魔物の餌」なんかではなかったはずだ。
「まあちゃんと働いてるんで」
送信。
短すぎる、精一杯の意地。
コウタは端末を放り出し、深い溜息とともに天井を見つめた。
自分が今日助けたのが、今まさに自分を罵倒しているこの「カナ」だとも知らずに。
そしてカナもまた、自分を助けた「変なハンター」が、今メッセージを返してきたこの「底辺男」だとは、露ほども思っていない。
暗い部屋の中で、二人の端末だけが、互いの正体を隠したまま静かに熱を帯びていた。
「……不審者……っ」
コウタは、画面を凝視したまま凍りついた。
自室の暗闇の中、端末の青白い光が、屈辱に歪んだ彼の顔を無慈悲に照らし出している。
『カナ:本当、笑っちゃうわよ。その男、必死に剣を振るってるんだけど、足元はフラフラだし、声は裏返ってるし。助けてもらったお礼どころか、見てるこっちが同情しちゃったわ』
コウタは、震える指で返信を打とうとしては消し、また打とうとしては消した。
あの路地裏で必死に剣を振るったのは、間違いなく自分だ。
だが、画面の向こうのこの「カナ」という女が、まさかあの時助けた少女本人だとは、コウタは微塵も思っていない。
ただ、見知らぬ女から「ハンターという人種がいかに惨めで滑稽か」を、実例(自分自身)を挙げて叩きつけられている事実に、精神を削られているだけだった。
「……はは。そんな奴、いるんですね。よっぽど自分に自信がないバカだったんでしょう」
コウタは、血が滲むほど唇を噛み締めながら、自分自身を徹底的に貶める言葉を打ち込んだ。
自分を救った人間を「底辺」と蔑む、顔も知らない女。
その侮蔑に、そうとは知らず同調するしかない自分。
『カナ:そう。まさに底辺。あんな情けない姿、一生誰にも見せられないでしょうね。ま、あんたには関係ない話だけど』
カナは、画面の向こうで冷笑を浮かべているだろう。
彼女もまた、自分を助けた「情けない男」が、今チャットで適当な相槌を打っているこの「コウタ」だとは、これっぽっちも気づいていない。
二人は同じ街の、そう遠くない距離にいる。
だが、一方の画面には「加工された理想」が踊り、もう一方の画面には「牙を剥く拒絶」が溢れている。
真実がすぐそばにあることさえ気づかぬまま、二人の距離は、言葉を重ねるたびに絶望的なほど離れていった。
「せっかく、人助けしたんだけどな
余計なお世話か」
「加工された自分」を演じるのにも、名も知らぬ女に一方的に罵倒されるのにも、限界が来ていた。
どうせこの「カナ」という女とも、二度と会うことはないのだ。
だったら、取り繕う必要なんてどこにもない。
『カナ:あんたなんて、しょせんただのヤリモク不審者みたいなクソ人種でしょ』
「あたりまえじゃん。それ以外なんかあるの?
てか、そっちこそなんでマッチングアプリしてるの?」
送信。
かつては丁寧に言葉を選んでいた自分が嘘のように、剥き出しの本音を投げつけた。
自分を「底辺」だと見下し、「ヤリモク不審者」と笑うこの女。
彼女がこの救いようのない世界で、何を求めて画面をスクロールしているのか、今のコウタにはそれだけが純粋な興味だった。
端末がすぐに震える。
カナからの返信は、これまで以上に冷たく、けれどどこか重い温度を孕んでいた。
『カナ:……は。やっと本性出したわね。正直でいいんじゃない?
私がアプリをしてる理由? あんたみたいなゴミが、どんな顔して嘘を並べるのか観察するためよ。この腐りきった世界に、まだマシな人間が残ってるのか確認したかったけど……やっぱり、全滅みたいね』
コウタは、その言葉を反芻するように見つめた。
自分を観察対象だと言い切る傲慢さ。
だが、その言葉の裏側に、彼女自身もまた、この世界の何かに絶望しているような気配を感じた。
二人は、現実の姿形も、今日すれ違った事実も知らない。
それでも、嘘を剥ぎ取った最悪な言葉の応酬の中にだけ、唯一の「真実」が芽生え始めていた。
「……はは、バカバカしい」
コウタは暗い部屋で一人、乾いた笑い声を漏らした。
期待するだけ無駄。
夢を見るだけ時間の浪費。
彼は、自分が握っている端末の正体と、そこに群がる人間たちの本質を、無理やり自分に納得させるように文字を打ち込んだ。
「てかまともなやついるわけないやん
ちなここ無料でつかえるマッチングアプリ」
送信。
金も払わず、努力もせず、ただ画面を撫でて「白馬の王子様」や「聖女」を探している連中。
自分も含めて、全員がこの底なし沼の住人なのだ。
『カナ:……よく分かってるじゃない。そうよ。ここは掃き溜め。あんたみたいなヤリモクと、私みたいな性格破綻者が、互いの傷口を舐め合うための場所よ
デモ残念、私年収3000万のハンターの彼氏いるのよねぇ。あんたの10倍、身の程って言葉わかりますぅ?』
画面に躍るカナの言葉は、鋭い刃物のようにコウタの心を切り裂いた。
だが、不思議と不快感はなかった。
綺麗な言葉を並べて消えていくリリのような「偽物」よりも、泥を投げつけてくるこの「本物」の方が、今のコウタにはよほど誠実に見えたからだ。
『カナ:無料のゴミ溜めに、何を期待してるの? そんなに誰かに認めてほしいなら、もっと稼いで、もっとマシな服でも買いなさいよ。……まあ、あんたには一生無理そうだけど』
「……ああ、そうだな。無理だよ」
コウタは、カナからの追い打ちのような罵倒を、静かに受け入れた。
二人は、現実で出会った最悪な印象も、ネット上の歪んだ関係も、すべてを隠したまま、暗い画面越しにだけ「孤独」を共有し始めていた。
「……いや、待てよ」
一度は目を閉じたコウタだったが、ふつふつと湧き上がる矛盾への苛立ちに、再び端末をひっ掴んだ。
寝ようと思えば思うほど、あの女の言葉の端々に漂う「嘘の匂い」が鼻について離れない。
年収三千万の彼氏がいて幸せなら、なぜわざわざ無料のアプリで、底辺ハンターを捕まえては管を巻いているのか。
「彼氏いるのになんでマチアプしてんだよ」
送信。
眠気を吹き飛ばすような、真っ当すぎるツッコミ。
もし本当に幸せなら、こんな掃き溜めに指を突っ込んでいる暇などないはずだ。
数分の沈黙の後、カナから返ってきたのは、これまで以上に支離滅裂で、焦りを含んだような長文だった。
『カナ:……は? だから言ったじゃない。あんたみたいなゴミを見て、優越感に浸るためよ。彼が忙しくて構ってくれない時間に、ちょっとした「毒消し」をしてるだけ。いちいち理屈っぽいのよ、だからモテないのね』
コウタは鼻で笑った。
「毒消し」ではなく、彼女自身が毒に侵されているようにしか見えない。
画面の向こうで、カナは必死にキーボードを叩いている。
実家の自室、使い古された毛布にくるまりながら、存在しない「完璧な彼氏」とのデートプランを脳内で必死に捏造している。
一度も男に触れられたことのない彼女にとって、このアプリは「選ばれなかった自分」を隠すための、唯一の戦場だった。
「……必死だな、お前も」
コウタは、今度こそ端末を伏せた。
二人は、現実の姿を知ればもっと残酷に傷つけ合えるはずなのに。
今はただ、互いのついた見え透いた嘘を、暗闇の中で静かに噛み締めていた。
「……ふん、どうせ今も豪華なメシでも食ってんだろ」
コウタは投げやりに呟き、画面が更新されるのを待った。
カナの方は、自分の言葉を証明するために必死だった。
拾い画でもなんでもいい、適当な高級フレンチか何かの写真を送りつけて、この底辺男を黙らせてやろうと操作を急ぐ。
だが。
『画像の送信には、プレミアムプランへの加入(月額3,800円)が必要です』
無機質なシステムメッセージが、カナの目の前に立ちはだかった。
「……なっ」
カナは絶句した。
無料の範囲でどれだけ毒を吐こうと自由だったが、たった一枚の「嘘の証明」をするために、彼女には払える金も、その勇気もなかった。
三千万の彼氏がいるはずの女が、三千八百円の課金に指を止める。
結局、画面に表示されたのは写真ではなく、数分間の不自然な沈黙だった。
「写真、送れないんだけど。……っていうか、あんたみたいなゴミに私のプライベートを見せるなんて、やっぱりもったいないわ。今のナシ。見せてあげる価値もない」
コウタは、その必死な言い訳を見て、今日初めて心の底から失笑した。
「……あきらめたな、こいつ」
写真一枚送れない、その「壁」の向こう側にいる女の、本当の姿が透けて見えた気がした。
金も、余裕も、そしておそらく彼氏さえも。
自分と同じ、何もない空っぽな人間が、必死にキーボードを叩いているだけの現実。
コウタはもう、追い込む気も失せていた。
同じ泥の中で、必死に宝石のふりをしている石ころ。
それが自分であり、このカナという女なのだ。




