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画面に浮かび上がったのは、予想だにしなかった一言だった。
『カナ:……あんた、死ぬほど暇なの?』
「あ、れ……? マッチ……した?」
コウタは一瞬、自分の指が誰を叩いたのか分からなかった。
投げやりな気持ちで、画面も見ずに「いいね」を連打していたのだ。
慌てて履歴を遡るが、通知欄はさっきまでの連打の跡で埋め尽くされ、相手がどの「空白」だったのかも判然としない。
「クソッ、誰だ……? いや、でも、返さないと……!」
反射的に、かつてサクラに送ったのと似た、テンプレートのような言葉を打ち込む。
脳が半分、虚無に浸食されたままの、締まりのない挨拶。
「はじめまして、コウタって言います。よろしくね?」
送信。
期待と、それ以上に「どうせまた消える」という諦めが混ざった溜息を吐く。
だが、画面の向こう側の「カナ」は、コウタがこれまでに相手にしてきたサクラたちとは、決定的に違っていた。
『カナ:……その「よろしくね?」のハテナ、何? 自分でもよろしくしていいか自信がないわけ? あと、さっきから通知うるさいんだけど。指、腐ってるの?』
画面越しに突き刺さるような、剥き出しの敵意。
甘ったるい誘い文句など微塵もない、あまりにも鋭利な言葉の刃。
コウタは、呆然と画面を見つめた。
怒りよりも先に、奇妙な感覚が胸を突く。
冷たい。けれど、これは「生きた人間」が放った言葉だ。
「……なんだ、こいつ」
コウタの乾いた瞳に、今日初めて、小さな灯が宿った。
コウタは暗い部屋で、思わず吹き出した。
画面越しに投げつけられた「指、腐ってるの?」という言葉。
それは、今日一日中、サクラたちから浴びせられた、中身のない甘いだけの言葉よりも、ずっと鮮明にコウタの意識を叩き起こした。
どうせ会えるわけがない。
どうせこの「空白」も、すぐに自分をブロックして消える。
だったら、もう格好つける必要なんて、どこにもなかった。
「すいません。指腐ってました笑
いまフリーで、ハンターやってます。
年収は300です」
送信。
見栄を張ってモリモリ加工した写真はあるが、騎士団員だと嘘をつきかけたプライドも、今のコウタにはもう残っていない。
この国の、若者というだけの価値しか持たない「資源」としての、最低限のスペック。
それをそのまま投げつけた。
端末の向こう側で、カナは冷ややかな溜息を吐いた。
いつも届く「今夜会おう」「君に夢中だ」という、欲望を隠そうともしない男たちの腐臭。
それに比べて、この「コウタ」という男の返信は、あまりにも無防備で、あまりにも惨めだった。
『カナ:300? このインフレしてる世界で、よく死なないわね。あんた、それハンターじゃなくて、ただの魔物の餌の間違いじゃない?』
画面に踊る辛辣な文字。
だが、カナは端末を閉じなかった。
相手を拒絶するためではなく、目の前のゴミをさらに踏みつけるような、暗い悦び。
『コウタ:ちゃんと頑張って働いてます。チャンスありませんか』
『カナ:期待しないで。私、あんたみたいな低スペックの男に会うほど、落ちぶれてないから』
「……ああ、知ってるよ」
コウタはベッドに横たわり、スマホの光を浴びながら呟いた。
「会わない」と明言された。
それなのに、なぜか心が少しだけ軽かった。
少なくとも彼女は、自分を「家畜の種子」として品定めする前に、一人の「無能な男」として扱ってくれたのだから。
「……お、またマッチした」
カナとの毒気に当てられながらも、コウタは不思議と高揚していた。
自分を高く売ることを諦めた途端、画面の中に潜む「空白」たちが、次々と彼に牙を剥き、あるいは冷笑を浴びせてくる。
『アイ:年収300でよく生きてるね。私なら三日で餓死するわ』
『ネネ:拳で戦うとか、脳筋すぎて引く。もっと効率的に魔法使いなよ。だからモテないんだよ』
投げつけられるのは、否定と侮蔑。
だが、サクラが演じる「計算された甘やかし」よりも、その容赦ない言葉の方が、コウタにはよほど「人間」の重みを感じさせた。
コウタは、ベッドに寝転んだまま、複数の「空白」たちと同時にやり取りを交わす。
一人は自分を「無能」と呼び、もう一人は「資源の無駄」と切り捨てる。
「……あは、は。すげえな、これ」
誰とも会う約束はない。
誰一人として、彼を恋人候補として見てはいない。
だが、この狭い部屋で一人、端末から溢れ出す無数の「本物の悪意」に囲まれている瞬間だけは、自分がこの枯れ果てた世界の一部であると実感できた。
コウタは、新しくマッチした『メイ』という空白のプロフに対し、慣れた手つきで「餌」としての自己紹介を打ち込んでいく。
この地獄のようなコミュニケーションの連鎖が、今の彼にとって唯一の、生の実感だった。
「……なんだよこれ」
コウタは、感情の消えた瞳で画面を眺めていた。
丁寧な言葉遣いも、相手に合わせた話題選びも、すべてが馬鹿らしくなった。
彼はカナに送ったあの無様な自己紹介をコピーし、マッチングした他の「空白」たちへ、機械的に貼り付けていく。
「はじめまして、よろしくね。コウタって言います。フリーで、ハンターやってて年収は300でふ」
誤字すら直す気が起きない。
送信、送信、送信。
作業のように繰り返される指の動きは、まるでベルトコンベアの上で部品を検品しているかのようだった。
「返事なんて、どうせ罵倒か、無視だろ……」
自嘲気味に呟きながらも、彼は端末を離せない。
誰からも選ばれない「資源」である自分を、再確認するための儀式。
カナ以外の女たちからも、期待通りに「ゴミを見るような言葉」が届くのを、彼はどこかで心待ちにしていた。
深夜の静まり返った部屋。
魔導端末が、代わる代わる震え始める。
『アイ:300でふ? 誤字ってるし、年収も誤植レベルに低いんだけど』
『ネネ:コピペ乙。せめて挨拶くらいまともにしなよ、底辺』
次々と届く、冷徹な拒絶の通知。
コウタはその一つ一つを、まるで勲章でも眺めるように、ゆっくりと読み進めていく。
自分を「若者」という記号でしか見ない世界の中で、この罵詈雑言だけが、確かに自分個人に向けられた「熱」であるように感じられた。
「……もう、どうでもいいか」
コウタは投げ出した足の先をぼんやりと見つめながら、再び機械的に指を動かした。
一人一人の罵倒に傷つく段階は、とうに過ぎている。
むしろ、その言葉の鋭さに触れることで、自分の輪郭を確認しているような、奇妙な安堵感さえあった。
彼はまた、何のひねりもない文章を綴り、マッチングしている「空白」たち全員に一斉に叩きつける。
「すいません。でもがんばってハンターやってます。ちなみにどんな人が好きですか? よかったら教えてください」
送信。送信。送信。
カナへも、アイへも、ネネへも、十数人の正体不明の女たちへ、寸分違わぬ言葉がばら撒かれる。
「がんばって」という言葉が、自分の口から出たものとは思えないほど空虚に響いた。
年収300の、魔物の餌。
そんな男が「どんな人が好きか」と問う滑稽さ。
深夜の静寂を切り裂いて、端末が狂ったように震えだす。
画面には、一斉に既読がつき、そして予想通りの「拒絶」と「嘲笑」が滝のように流れ込んできた。
『アイ:がんばってそれ? 笑わせないでよ。私の好きな人は、あんたの十倍は稼ぐ人かな』
『ネネ:質問がキモい。教えたところで、あんたがそうなれるわけないじゃん』
しかし、その罵倒の列の中に、一つだけ、他とは明らかに「温度」の違う反応が混ざっていた。
カナからの返信だ。
『カナ:……あんた、それ今、いろんな人に送ってるでしょ。死ぬほど節操がないのね』
画面越しに、彼女の冷え切った視線が自分を射抜いているような錯覚に陥る。
コウタは、思わず端末を握りしめた。
「……もう、いいわ」
コウタは、カナから届いた「節操がない」という指摘を、そのまま放置した。
言い返す気力も、謝る気力もない。
画面の向こうにいるのは、自分の無能さを正確に突いてくる、鋭いナイフのような「本物」だ。
だが、今の彼には、そのナイフを受け止めるだけの心の厚みが残っていなかった。
「そんなに責められるなら……嘘でもいいから、優しくされた方がマシだ」
コウタはアプリの画面を切り替え、かつて自分を森の奥で振り回した「リリ」に指を伸ばす。
正体は、この世界のシステムが吐き出したサクラだと分かっている。
それでも、今の彼には、計算された甘い言葉という麻薬が必要だった。
「リリさん、昨日はごめんなさい。俺が不甲斐なくて……。また、話せますか?」
送信。
数時間放置されたカナたちのチャット欄は、コウタが返信を止めた途端、凪のように静まり返った。
当然だ。彼女たちは、縋ってくる獲物を踏みつけることにしか興味がないのだから。
代わりに来たのは、即座に灯るリリからの既読と、弾むような返信だった。
『リリ:コウタさん! 謝らないでください、私も寂しかったんですよ(涙) また誘ってくれて嬉しいです!』
「……ああ、これだよ」
コウタはベッドに沈み込み、スマホの光を顔に浴びた。
自分を「餌」と罵る現実ではなく、自分を「必要」としてくれる偽物。
その温度のなさが、今はただ心地よい。
『リリ:今度はもっと近くで会いましょう? 明日、街の広場にある「回る時計塔」の下で待ってますね!』
「時計塔……。そこなら、魔物も出ないし……」
コウタは、再び「加工」の設定を開いた。
顎のラインを削り、目の光を増やす。
画面の中に、現実を一切反映していない、理想の自分が構築されていく。
非通知にすらしていないカナたちからのメッセージは、もう届かない。
コウタはただ、再び始まった偽りの甘い通知音だけを、救いのように数え始めた。




