第三章 その7
踏みしめるたび床が軋む。記憶よりもずっと屋敷が古く寂れて見えた。噎せ返る血の匂いに何度も吐き気を覚える。心臓は熱く、頭は冷たく、心が混乱を訴えていた。まだオフィーリアがこの屋敷で暮らしていたころに使っていた部屋。今はきっとダリアの一人部屋になっているはずだ。一階の角の明らかに狭い部屋。ノブに手をかけて、扉を押し開く。止まった手を叱咤して、無理やりに体を動かした。
「……あれ」
その部屋に血生臭さはなかった。綺麗なままだ。オフィーリアとダリアが並んで使っていたベッドも、机も、棚も、全てがそのまま。窓は案の定割られている。その向こう側は銀世界が広がるばかりだ。あとは、と後ろを振り向いた。
「この花か……」
机の上に咲いたムスカリの花。花瓶に生けられているわけでもなく、新聞で包まれて無造作に置かれている。芳香は感じなかった。
「ダリアは」
一階の食堂。ささやかな花束を取り上げて、オフィーリアは駆ける。食堂の扉は開け放たれていた。酷い腐敗臭がした。アイシアとミヨが顔をしかめて、一人一人使用人たちの顔を覗き込んでいた。
「ああ、オフィーリアさん。……ご友人は?」
「ちょっと、どうしたの?」
二人は怪訝そうにオフィーリアを見やった。オフィーリアは放り出された使用人の死体をひとつひとつ見る。
「違うっ、違う、違う……これも、違う」
どれだけ見てもダリアの顔はない。オフィーリアの心は平静を取り戻し始めていた。脂汗の滲む額が途端に気持ち悪くなる。
「オフィーリアさん?」
「……ミヨ、副隊長」
「どうなさいましたか? その花束は?」
「……友達が、いないんです」
死屍累々の光景は小説で読むよりずっと悲惨だった。床から椅子から机から血痕塗れで目も当てられない。カーペットに垂れて点々とした血の染みが、死体がここへ無造作に投げ入れられた事が分かる。積み重なった人の体は聖夜祭を思い起こさせた。
「この死体にも、部屋にも、友達がいないんです」「……じゃあ、殺されてないってことじゃないの」
「ダリアは……生きているんでしょうか?」
想像するより悲痛な声が響いた。オフィーリアとしての記憶が悲鳴を上げている。こぼれ落ちた涙一筋が花束の上に落ちた。ミヨの手が背中に添えられる。
「しかし、街の様相といい尋常じゃない。ここの地に人がいないみたいね」
「本当にいない、ということはありえないでしょう。一夜にして領地一つ分の人が消える、などと噂好きの民衆の耳に入らないわけがない」
「クレイヤー夫妻が殺された理由は?」
「金目のもの目当て……と推測できますが。アイシア、貴方は?」
「高度な魔法の跡がちらほら。賊ごときにそんなものをほいほい使われたらたまらないよ」
二人は眉間にしわを寄せ考え込む。オフィーリアは花束を抱きしめた。くしゃりと新聞紙の音がする。
「まず、ヴァイオレット様にこのことを報告しなければ……」
「殺されたとみて間違いないですが、原因も不確定な状態でですか?」
ミヨは混乱を招きませんか、と憂いた。アイシアはそれに鼻をならず。
「ヴァイオレット様の何を見てきたの。あのお方は聡明だわ、それくらいで混乱したりはしない。私は先にベルタ街に戻る。残りの調査は頼んだわよ」
そう言ってアイシアは足早に邸宅をでていった。ミヨはアイシアを引き止めようとしたが、オフィーリアに袖をつかまれて振り返る。
「オフィーリアさん?」
「ミヨ副隊長。生き残りを探しましょう。誰か一人くらい、いるかも知れませんから」
「ですが、あなたの体調は?」
「私なら大丈夫ですから」
ミヨは理解できないといったような顔をしながらもオフィーリアに付き合ってくれた。では私は下を探してきますから、オフィーリアさんはこのあたりをと言われた。丘の下に背中が見えるようになってから、オフィーリアは胸元の花束を見下ろした。
(サスペンス乙女ゲームって、こういうこと?)
仰ぎ見た屋敷は来た時よりも打ち捨てられたように見える。雪で上手く歩けないながらも、近くに見える家屋にゆっくりと寄っていった。
「ゲームのシナリオなんか、自分の人生の百分の一以下なんだから。人が何人死んだとか、何回虐殺が起きたとか、覚えてるわけないよ」
外套の隙間を風が通り抜けていく。身震いした。
(でも、それでも)
辿り着いた家屋の扉をゆっくり叩く。返事はない。鍵が開いている。中には人。の、死体。
「人が殺されてるとこって、忘れられないな」
レシュアが殺されたときもそうだった。血の匂いが鼻にこびりついて、自分も同じように殺される悪夢を見た。ムスカリの花束が手から滑り落ちる。
「革命が起きたら、また人が死ぬんだろうな」
人の死体を見慣れてしまう。嫌だと脳が拒絶している。今まで何人死んだ。今日何人の死体を見た。オフィーリアはそれを、「ゲーム」のイベントだと捉えてはいけないような気がした。
「どうせ転生するなら、人が死なないお気楽なゲームがよかったな」
言葉が雪景色に溶けていく。誰も聞かれていないのをいいことに、オフィーリアは転生してからずっと被っていたオフィーリアの仮面を脱ぎ捨てる。
「あの時ヴァイオレットのお茶を変えなければ、死体見ずに済んだかな」
でもそうしたら、今度は自分が殺されてしまう。
「ハードモードかよ、って。……でも、今のほうがずっと、生きる確率は高いんだよなぁ」
最強の魔法士たちが味方について、ほぼ勝ちが約束されたような布陣が完成しかけている。その状況で他の世界線を考えるのは阿呆に近いとオフィーリアはわかっていた。
「この記憶を共有できる人がいたらな。少しは、辛さも軽くなったかな」
家屋をあとにして、今度は奥に見える宿屋へ。クレイヤー領唯一の宿泊施設だった。
「みんな、死んでんだろうな」
オフィーリアの記憶の中に滲んだ人々の温かみが、荒んで廃れていく。宿屋の扉を押し開ければ、案の定人が殺されていた。
「クレイヤーは、終わりだ」
一部屋一部屋確認する。旅行客が滅多にいないから、だいたいは空き部屋だ。
「ここの人たち、何したのかな。なんで殺されたんだろ」
廊下の床に女性が転がっている。すでに息絶えていた。殺されている。
「そもそも街ごと虐殺って。相当な人数いないとできないよね」
一階を全て見終わった。次に二階。階段の手すりに大きく傷がついている。
「……『ゲーム』で虐殺を起こしたのは、ヴァイオレットと、王家か」
二階もほぼ空。一部屋だけ、人がいた。窓の外に身を乗り出すように死んでいた。逃げようとしたのだろうか、室内なのにブーツを履いている。
「じゃあ犯人は、王家? 私が……記憶を持っていることに気がついた?」
足が止まった。聖夜祭でスラトが声をかけてきたことを思い出す。第一王子派閥と接触したのはあの一度きり。スラトも、ましてやクラウンもオフィーリアの秘密に気がつける予知はない。
「じゃあ、ヴァイオレット? ……いや、それもないな」
ヴァイオレットは打算的なきらいがある。この先のことがわかるのならば、是が非でも手元に置くはずだ。
「ミヨ」
オフィーリアの秘密を知るのは、この世でミヨただ一人。自然と犯人は絞られる。
「いや。だめだ。ゲームならともかく、契約を交わしてる。自分の秘密を王に晒してまで、私を陥れる意味はない」
(狙われたのは私じゃないはず)
意識を切り替え最後に二階の角部屋を確認しようとして、カタンと音がしたのに気がついた。
(人の、気配?)
咄嗟にナイフを取り出して、その場に身をかがめる。もう一度カタンと音がした。紙を丸める音もする。オフィーリアは思い切ってナイフを胸元に構えた。そして、音のした部屋のノブに手をかける。深呼吸ひとつ、息を潜めて、思いっきり扉を開け放った。




