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陰陽相克(いんようそうこく)ノ章 


 屋根の隙間を覆う乳白色の天蓋越しに、柔らかな陽光が金天街の通りを照らし上げている。

程良い湿り気を帯びた涼風(りょうふう)が、店先に掛かった木彫りの看板を微かに揺らす。その心地よい音色と体を包む暖かな陽気に、眠気に襲われた尊は大きなあくびを放った。

「こら、気を抜くんじゃないの、みっともない! そんなのをお客さんに見られたら、まるでこの店が流行ってないみたいに思われるじゃない!」

 イスに座ったまま背伸びをする彼に、レジの整理をしていた恵実は目を怒らせて注意する。

 尊は涙の滲んでいた目を擦ると、背もたれへと体を預けて天井を仰いだ。

「そうカッカしねえでも、誰も見ちゃいねえさ。第一、この時間に閑古鳥(かんこどり)が鳴くのは、いつものことだろうが。休憩時間な感じで気を抜いてんのは、どこの店だって同じさ」

 事実彼の言う通り、(うら)らかな午後の日差しに満ちている商店街には、人通りはほとんどない。

 昼間にはそれなりの人混みで沸き返る金天街も、正午を過ぎてからしばらくすると、急に閑散とした時間帯へと突入する。昼食に繰り出していた会社勤めの人達が仕事に戻り、買い出しをしていた主婦達も家へと帰っていくのが、その主な理由だった。

 これからまた数時間経てば、再び金天街は帰宅途中の会社員や学生、夕食の買い物をする奥様連中が押し掛けてくる。そんな大忙しとなる時刻になるまでのこの合間は、多くの店にとって準備や息抜きのための、大切な時間となっていたのだった。

 静けさに包まれていた金天街の表通りからは、ついさっきまで響き渡っていた、花屋に出向していた照美の声も聞こえなくなっていた。

 おそらく、店を訪れる人が少なくなっていたために、あいつも一息入れているのだろう。

どんなにあいつが元気いっぱいの百万馬力な女だとしても、朝からずっと声を限りに人寄せをしていれば、相当に体力を消費しているはずだ。もしかしたら、あそこの店の女主人とお茶でもしながら、他愛(たあい)もない世間話にでも興じているのかもしれなかった。

 暇潰しに照美の近況を推理していた尊の額を、真上から小さな握り拳がコツンと小突く。

仰向けになっていた彼の視界に、恵実の険しい顔付きが、上下逆さまになって映った。

「そうだとしても、だらけ過ぎなのよ、あんたの場合は! 仕事中にそんな態度を取るんだったら、お父さんに言い付けて給料減らしてもらうわよ! それでも良いの!?」

「おっと、勤務態度の告げ口なんて、女のすることは全くもって怖ぇなあ。つーかそう言えば、重夫のやつはどこ行ったんだ? 昼前くらいから、姿が見えねえが」

 面倒そうに椅子へと座り直しながら、尊は興味薄な声色で、恵美へと背中越しに尋ねた。

「お父さんなら金天街の組合の緊急集会で、少し前に出掛けたわよ。あんた、日向さん家に自分で連絡に行ったのに、もう忘れちゃったの?」

「ああ、あの集まりがあったのは、今日だったっけか。来週のシフトについて早めに話しときたかったんだが、まあ、どうせすぐに戻ってくるか」

「うーん、どうかしら。商店街の存続に関わる話だし、そんなに簡単に片付くとも思えな――」

 恵実の声が、はたと途切れる。尊はイスの上で体を半回転させ、後ろを振り返る。彼女は半開きの口を片手で覆い、顔へと焦りの色を滲ませていた。

 思わず失言をしてしまった恵実に、尊は真剣な目付きとなって問いかける。

「商店街の、存続に関わる……? おい、今日の集会って、何の話をしているんだ?」

 彼から向けられる鋭利な眼光に、もはや誤魔化しは利かないと恵美は観念した。

彼女は視線を険しくする尊へと、ぽつぽつと事の真相を明かし始めた。

「実は今日、金天街の土地を全部買い取りたいって申し出てきた企業からの、お店の人達への説明会が開かれてるみたいなの。少し前に、社長だって言う男の人が来て、先に会長さんや副会長さんと会っていたそうなんだけど、緊急の集会を行うって連絡がこの間あって……」

「で、この前俺が日向の爺さんに誘いを掛けに行ったのが、それだってことか。道理で重夫のやつ、伝言の肝心な部分を教えようとはしなかった訳だ。部外者には、あまり聞かれたくはない内容ではあるからな」

「あなたにも伝えておくかどうか、お父さんも私も迷ったのよ。でも、あなたも最近は特に忙しそうだったし、余計な心配ごとを増やすべきじゃないって、二人でそう決めて……。でも、やっぱり、話しておくべきだったわよね。黙ってて、本当にごめんなさい」

 恵実は申し訳なさそうに頭を下げ、珍しく殊勝な態度で尊へと謝りを入れる。

それに対し、彼は鼻筋を軽く爪で掻くと、やや照れ臭そうに苦り切った笑みを浮かべた。

「そんなことすんなよ、気にしてねえし。それに元々、俺は店の経営とかに関われる立場じゃねえんだ。知ってても知らなくても、別に出来ることなんて何もないしな」

 寛容な物言いで理解を示す彼を、恵実は伏せていた顔を上げて恐る恐る窺った。

「ホントに? 集会場に殴り込みに行って、相手の人を叩きのめしたりなんかしないわよね?」

「するか、んなこと!! お前、俺をどこまで単純バカだと思ってんだ!?」

「そうなの!? ああ良かった。これを聞いたあんたが変なこと仕出かすんじゃないかって、実はちょっと気掛かりだったのよね。だってほら、あんたって力任せで問題ごとを解決させようっていう、短気で考えなしなとこがあるじゃん?」

「さっきの言葉、取り消したくなってきたな……」

 最大の懸念が消え、晴れ晴れとした面持ちとなる恵美に、尊は不機嫌そうに呟く。しかし、仮に状況がどう転んだとしても、自分がこの事態に介入することはないだろうと、彼は頭の中では冷静に判断していた。

 不況により店舗そのものが潰れたり、後継者がおらずに廃業に追い込まれたりしているシャッター商店街では、その土地が買い上げられて駐車場やコンビニなどに変貌することも少なくない。

 だが、この金天街の店々は未だ活気に溢れていて、利用する客の数も多い。

しかも、ほとんどの所が最低十年以上はここで商売を行ってきた店ばかりで、彼らの商店街に対する思い入れは強い。

 だからこそ、ここの土地が買い占められて金天街が消滅するなど、尊にとっては絵空事の世迷言ぐらいにしか思えなかったのだった。

 不安など欠片も感じていない尊に、恵実は次々と情報を(つまび)らかにしていった。

思ったよりも落ち着いた対応をしていた彼に、彼女は押し隠していた秘密事を、どんどんと話して聞かせたい心境になっていたのだった。

「でもやっぱり、いきなり過ぎるわよね。ショッピングモールとそれに併設する巨大マンションを建設するために、この土地全部が欲しいだなんて! 向こうも社長さんが直々に説明会なんてしてるくらいだから、相当に本気なのかもしれないけど」

「はっ、随分と大掛かりなことだな。そんな大胆な建設プランを立てるなんて、その社長さんってのは、どんな奴なんだ?」

「私もお父さんから又聞きしただけなんだけど、かなりの変わり者らしいわよ。何でも都会に本社を置いている大会社の人で、名前はえーと、西宮一三郎とか言ってたような……」


「はい、何でっしゃろか? 訊いてみたいこと知りたいこと、分からないことがあれば、残らずお教えしますでぇ」

 名前を呼ばれた西宮一三郎は陽気に答え、声の上がった方へと体を(ひね)る。右手を高く挙げていた酒屋の主人が、気難しい顔となりながら彼へと質問した。

「あんたが言いたいことは、さっきのでよーく分かった。だけどさ、そもそもなんで金天街の場所に、ビルとかスーパーとか作るんだよ? ここ以外にも空いている土地は、探せば幾らでもあるんじゃねーのかい?」

 彼の素朴な問いに、周りに座っていた他の店の代表者達も、首を縦に振って同意を示す。彼らは猜疑心のこもった眼差しで、事業計画等について書かれたホワイトボードの前に立つ一三郎を見上げた。

 色褪(いろあ)せた畳み敷きの広間から差す何十もの視線に、それらを一身に受ける彼は少しも動じず、スラスラとその理由について(そら)んじた。

「確かにそれも、一理ありますわなぁ。せやけど、他の商業地になると立地的に無理があったり、他社の権利が複雑に絡まり()うとったりして、何かと不都合なんですわ。その点、中心街にも近うて皆さんが直接所有しとるあの場所は、こっちとしてはほんまに扱いやすいんですわ」

「つまり、個人経営の店は潰しやすいってことか? そりゃあんまりにも、あんたの勝手が過ぎるんじゃねえのかい?」

「いやいや、ちゃいますって! そういう風に聞こえてしもうたんなら、謝りますわ。せやけど、こっちの誠意については、さっきの謝礼の件でお伝えしたつもりです。もしかしてそっちの方に、皆さんご不満とかありますんやろか?」

 表情を曇らせ、不安げに窺いを立てる一三郎に、店主達は困惑した表情を見合わせる。

 一三郎は所有地売却の返礼として、金天街に出店している全ての店舗を対象に、移転先の新しい土地を譲り渡すことを明らかにしていた。しかも、それらは商店街での立地条件より、敷地面積や交通の便において、いずれも好条件な場所が用意されていた。

「新規店舗の建築におきましては、我が社が必要な費用を融通致します。当然、利息は無金利となっとりますし、期限も皆さんの方でご自由に決めてもろうて構いませんので」

「幾らなんでも、こっちに利がありすぎやしないか? そこまで至れり尽くせりやられると、逆に怪しく思えてきちまうんだがなぁ」

「そんだけの価値が、あの場所にはあるっちゅーことです。もし何やったら、お渡しした見積もりの書類持ってから弁護士事務所や市役所行って、契約内容を確認してもろうても大丈夫です。法的違反も不備もないと、太鼓判押してくれる自信がありますからに」

 信憑性を疑問視するプラモデル店の店長に、一三郎は胸を張ってその信頼性を断言する。

 空気が重く(よど)み始めた広間では、微かなざわめきがあちこちから起こり始めた。

 語る意見を誰も見付けられないでいる中、前から二列目の長テーブルについていた重夫が、重々しく口を開いた。

「あんたの言うことは魅力的に聞こえるし、ここにいる全員にとっても、またとない事業拡張のチャンスなのかもしれない。だけど、俺達には長年通って来てくれている常連のお客さんもいるし、あの金天街で共に過ごしてきたっていう繋がりもある。そんな金には代えられないものを、はいそうですかと簡単に手放してしまうってのは、どうしても俺にはできそうもない」

 机の上で固く組んだ両手を見詰めながらそう語る彼に、周囲の人々も神妙に聞き入りながら首肯する。重夫が言葉にした金天街に対する意識は、そこにいる全ての店主達が共有する想いでもあった。

 静かに熱く語られるその意見に、一三郎は左肘を杖の上へと置いて腕組みをし、感動し切ったように聞き惚れていた。

「なるほどなるほど、お金では測れない価値、でんな。わいも商売人の端くれやけど、そういった気持ちは絶対に忘れたらアカンと、いつも心に刻んどります。せやから、あんさんがいうことは、わいにもよう分かりますわ」

 彼は重夫の発言に理解を示し、その言い分を全面的に肯定する。しかし、次の瞬間には「せやけど」と前置きをし、彼は手の平を返すようにして反論した。

「わいが同じくらいに思うんは、挑戦者として次のステップを踏むには、今まで手にしていた物を手放さないかん時もあるってことですわ。明け透けに言うてしまえば、あの商店街の後に大型小売店ができた方が、より安くより幅広く商品を買えるようになります。そっちのが結果的に見て、ご近所に住まわれてるお客さん達の利益にもなるんとちゃいますか?」

 痛い所を突かれた重夫は、何も言い返せずに唇を噛み締める。商品の価格や種類の豊富さを比べれば、大型店より個人経営の店は分が悪いと、彼はこれまでにも充分に痛感していた。

「ほんまに自分の店を好いてくれとるお客さんなら、少し店が遠なったとしても利用してくれます。せやからこれは、お得意さんや身内を切り捨てるんやのうて、新たな旅立ちの機会として考えればよろしいんとちゃいますか? 買う側と売る側、両方が幸せを掴める切っ掛けを、わいがこういう形で届けてきたとは、どないしても思えまへんか?」

 切々とした口調で()く一三郎に、少しずつ固まり出していた店主達の意志は、再び足場を危うくしてふらつき始める。またしても彼のペースで話が進められようとする中、おもむろに一人の老人が腰を上げた。日向善次だった。

「儂はそろそろ、帰らせてもらうことにする。大概の話は、もう済んだようだしな」

 驚く他の参加者の間を抜け、彼は迷いなく出口へと進む。部屋を後にしようとする彼を、一三郎は口の横へと手を添えながら呼び止めた。

「まだ全部は済んでへんよ、ご老体! これから契約後の経緯について、簡単な説明を――」

「要らん。儂の店は、あの店だけだ。お前にやるつもりなど、毛頭ない」

 引き止める彼をスッパリと切り落とし、善次は再度部屋の外へと歩を進める。

「考え直してください、ご老体! これはわいの会社と金天街の皆さんの双方、いやお客さんを含めた三方にとって、損なんてノミのフン程もあらへんのやで! 商店街の土地を譲ってくれるだけで、ここにいる皆が幸せになれるチャンスを得られる。こんな素晴らしい話で、泣きを見る人なんて誰一人としておらへん――」

 一三郎の呼び掛けを無視し、善次は広間と廊下を仕切る引き戸の前へと着く。

と、薄紙の貼られていた障子が、彼の前で素早く外側から開かれた。

 両側へと強く弾かれた二枚の戸の向こうには、両手を横へと払った姿勢で、尊の黒い影が立ちはだかっていた。

「あ、アラちゃん!? 何でここに!?」 「荒之音君!? え、ちょっと、何で……!?」

「尊!? お前まさか、恵実からこのことを……?」 「お前か……。何をしに、ここに来た?」

 彼の突然の登場に、金天街の店主達の間にどよめきが走る。

 尊は壇上に立つ一三郎を目に留めると、瞳へと凶暴な眼光を宿らせた。

 敵意に満ちた彼の直視に、一瞬だけ当惑の表情を作っていた一三郎は、すぐにそれをにこやかな微笑みへと取って代える。彼は尊からついと視線を反らすと、左手首に嵌めている金時計を何気なく確認した。

「おや、もうこんな時間でっか。ちょいと長引いてしもうたみたいやし、そろそろお開きにしましょうか? 皆さんこの後も大事なお仕事があるやろし、続きの説明はまた今度と言うことで。今日は忙しい中お集まりいただいて、皆さん、ほんまにありがとうございました」

 一方的に解散を告げた一三郎は、戸惑う店主達を尻目に、せかせかと杖を操って出入り口へと向かう。早い足運びで近付いてくる彼を、尊は一歩も動かずに待ち受けた。

 そして、一三郎は尊の横を通り過ぎる瞬間、「ほな、邪魔もんのおらへん、屋上で」と、彼にしか聞こえない大きさの声で囁きかけた。

 そのまま彼は、固い杖の音を床板に響かせながら、通路の曲がり角へと消えて行っていた。

「尊、やっぱりお前、恵実のやつから全部聞いたんだな? ここにみんなが集まっている、理由も……?」

 慌てて駆け寄ってきた重夫が、潜めた声で尊へと尋ねる。廊下の角を睨み付けていた彼は、表情を柔らかいものへと変え、目の前に立つ重夫を見遣った。

「まあな。だから、ちょっと興味が湧いて寄ってみたんだが、どうやら入れ違いになっちまったみてえだな。俺も後学のために色々聞いてみたかったんだが、残念だぜ」

 一三郎の去った広間では、金天街で二番目の古顔でもある会長が場を取りまとめ、内輪での話し合いを続行しようとしている。どうやら、今回の説明を受けての全員の考えを、この場で改めて集約しようとしているようだった。

 そんな彼らの注意が、自分にも注がれているのを肌で感じつつ、尊は早く会議へと戻るよう重夫と善次に促す。

「金天街の今後を決める大事な会議だ、お前らもちゃんと加わっといた方が良いぜ。爺さんもヘソ曲げてねえで、最後までちゃんと聞いてけよな。じゃねえとこん前の約束は、不履行にするぞ」

 悪戯めいた尊の牽制に、善次はふんと鼻を鳴らし、唇を弓なりに曲げる。

 重夫は尊へと、今から行われる話し合いへと加わるように誘った。

「お前もついでに、参加していったらどうだ? 秘密にしていたくせにと思うかもしれんが、お前だって金天街で働く一人の人間だ。もし意見があれば、是非聞かせて欲しいんだが……」

 しかし尊は首を横に振り、彼の要請をあっさりと拒んだ。

「いや、俺はこういう堅苦しいのは苦手だからな。済まないが遠慮させてもらって、このまま帰ることにするさ」

「そう、か……。もし、黙っていたことで怒っているのなら――」

「違えよ、本当に面倒なだけさ。恵実にも同じように謝られたが、全然気にはしてねえからよ。だから、俺なんかへの気遣いよりもまず、目の前の問題の方を優先しろよな」

 気まずそうにしている重夫を、尊は肩を軽く叩いて励ます。

彼は二人を広間へと押し返すと、その他の店主達にも別れを告げ、廊下へと引き返した。

 引き戸を閉めた彼は、瞬時に真剣な表情へとなり、張り詰めた空気を全身へとまとわせる。

 尊は廊下の先にあった幅広な階段を登り、休憩所や団欒用のスペースとして開放されている屋上に出る。晴天の下、人の姿はひとつもないそこには、一番遠い箇所にある手摺りの角に寄り掛かり、漫然と風景を眺めている一三郎がいた。

 荒い足取りで近寄ってくる彼に、一三郎は背を向けたまま声を掛けた。

「思うとったより、わいに気付くんが遅かったなあ。お前ひょっとして、あの人間達にハブられてんとちゃうか? せやから、わいのことも教えてもらえてへんかったんやろ?」

「俺がこの町にいると、どうして分かった?」

 あからさまな挑発を歯牙にも掛けず、尊は高圧的な口調で相手を詰問する。

 まなじりを険しくする彼の方を、一三郎は満面の笑みを浮かべて振り返った。

「悪いけどそれは、企業秘密っちゅーことで。わいは対立関係にある敵会社に、自分の手の内見せるようなお人好しとはちゃう。しかも、それが個人的な復讐の相手やったら、尚更なのは言うまでもないやろ?」

 もっともな彼の言い分に、尊は軽く肩を(すく)める。内容を変え、再び一三郎へと質問をした。

「じゃあ、お前の目的は何だ? ここの商店街の連中を相手に、何をしようとしているんだ?」

「いやいやいや、狙いは何やと訊かれても、お前かて大方予想はついとるんやろ? そんなの今更言うまでもなく――」

 尊の問いに笑いを堪えていた一三郎は、顔を覆っていた左手を外して彼を見る。

 今までそこにあった、微笑ましい円満の恵比須顔(えびすがお)は、憤怒と憎悪に満ちた鬼気迫る形相へと豹変していた。

「てめぇをズタボロのゴミ雑巾にして、そんまま野垂れ死にさせるために決まってんだろうが、この薄らボケがあ!! んなことも分からねえとか、てめえの脳ミソ(しな)びてんじゃねえのか、ああ!?」

「はっ、猫かぶるのにも疲れたか、ヒルコ? ま、そっちの品の無い喋り方のほうが、よっぽどお前の陰湿な根性には合ってるぜ」

 両目を爛々(らんらん)と血走らせる相手に、尊は含み笑いを浮かべる。

底深い狂気を帯びたその言動こそが、彼の良く知る影の実兄・蛭子(ヒルコ)の本当の姿だった。

 人間界において、現在は西宮一三郎と名前を偽っているこの男は、かつて尊やアマテラスよりも先に、イザナギ・イザナミ夫妻の間に(もう)けられていた子どもであった。

 しかし、彼は生まれ付き足に深刻な障害があり、それは数年経っても治ることはなかった。

 それを不吉に思った両親は、ヒルコを厄払いと称し、人間界へと追放した。

とどのつまりは、処置に持て余した我が子を、彼らは体良く下界へと捨てたのであった。

 そうした二親(ふたおや)の非道な仕打ちを、彼は成長してからも絶対に忘れはしなかった。

 逆に、恨みと憎しみを年負(としお)う毎に根深いものにしていき、自分の兄弟に当たるアマテラス・ツクヨミ・尊などに対しても、()じれた復讐の念を抱くようになっていった。

 なので、尊が高天原を追放され、自分のいる人間界へと落ちて来てからというもの、ヒルコはしつこく彼を付け狙うようになった。

 最初の頃は、実力の勝る尊が適当にあしらい、散々にやられたヒルコが逃げ帰る展開がほとんどだった。

 だが、経験を積むに連れ、ヒルコは策を巡らして相手を追い詰めるようになり、次第に尊も危うい目に遭うことが多くなっていった。なので、面倒事の嫌いな彼はその追跡者から身を隠し、居場所を知られないようにしながら各地を回ることになった。

 それからも二人の争いは途切れることなく、延々と今日まで続けられてきていた。

 数千年前からの長い因縁を持つスサノオ・尊と、ヒルコ・一三郎は、よくある何の変哲もない公民館の屋上で相対し、互いに激しい闘気をぶつけ合わせていた。

「確か最後に顔を合わせたのは、お前が俺を強盗犯に仕立て上げて、警察に指名手配させようとした時だから、五年くらい前か。相変わらず、裏でこそこそ動くのが得意みたいだな」

「あん時は今一歩のところだったんだが、てめぇの悪運はクソ強えからな。だけどよ、次はそうはいかねえ。今度ばかりは、お前も手痛い目に遭うのを覚悟しといた方が良いぜぇ。何せ、自分の生活の場が、丸々消えて無くなるんだからよ、ハハァ!!」

 長い舌を突き出し嘲笑う一三郎に、尊は眉を(ひそ)めて睨みを利かせる。彼がこうも楽し気にしている時は、自分の計画に余程の自信がある裏返しだと、尊は嫌というくらいに知っていた。

「金天街の土地を買い取って、俺の稼ぎ口を元から絶つつもりか? だが、あいつらの商店街への愛着は強い。お前がどんな手を打ったとしても、全部が徒労になるだけだと思うがな」

「随分と、あの人間共を買ってるみたいじゃねえか。だが、果たしてそうかなぁ? 断った翌日から、怖ーいお兄さん方があそこをうろつくようになって、商売が立ち行かなくなったとしても、あいつらは今と同じ考えでいられるのかなあ?」

 地上げ屋を金天街へと放って、暴力的・経済的に、彼らの店をじわじわと追い込んでいく。

 そう婉曲(えんきょく)的に告げる相手の発言に、尊は表情へと暗い怒気を漲らせる。

 双眸(そうぼう)へと怒りの炎を(たぎ)らせる彼を、一三郎は杖の先で指して大笑いした。

「いいねいいねぇ、その表情! いかにも、僕ピンチです的な感じ! もう、てめぇは今の情けねえ面で一生過ごせってんだよ、すげえ似合ってるからさあ!!」

「だったら、お前もお似合いの顔にしてやろうか? ボコボコで目も当てられない腫れ顔とか、一番しっくりくると思うぜ」

 尊は指の関節を曲げて鳴らし、対峙(たいじ)する一三郎へと進み出る。踏まれた床には細かい亀裂が走り、得物を見据える彼の目には、濃ゆく殺意の影が滲んでいた。

 じりじりと距離を狭める尊に、一三郎は両手の平を突き出し、どこかおどけた風に懇願する。

「待てって、そう怒るなよ。こんなとこで俺を始末しようとしたら、相当な霊力を使わなきゃいけねえだろ。そうなったら、下の奴らにもバレちまう可能性は大だぜぇ?」

「なら力を抑えて、半殺しにするまでだ。そうすれば少しは頭が柔らかくなって、お前も自分のやり方を見直すかもしれないしな」

「そうなったら俺は、帰ってからヤクザなお兄さんに、こう泣き付くかもしれないなぁ。さっき金天街で働いている『顔ナシ』さん、いや、荒之音尊さんから虐められちゃったよぉ~、ってな具合にな」

 足を釘付けにして止めた尊は、思わず驚愕を顔へと表す。両目を見開いて凍り付く彼に、一三郎は喜悦満面となり、大口を開けて(あざけ)り笑った。

「ハッハハハア、そうだよな、身元が割れたらもっとマズイよなぁ!! お前自身はあんなのなんて屁でもねえだろうが、周りの人間まで巻き込んじまったら、どの道あそこじゃやってけねぇもんなあ、ヒャハハハハッハア!!」

 彼の言うように、もし煮え湯を飲まされ続けてきた『顔ナシ』の正体が判明したら、彼らは一致団結して報復に及ぶだろう。そうなれば、彼と繋がりのある金天街の人々にまで被害が飛び火し、尊はあの商店街にいることが不可能になるに違いなかった。

 影の通り名を持ち出し脅迫する一三郎を、尊は信じられない思いで凝視する。自分の裏稼業を知る者など誰もいないはずだと、ずっと彼は信じて疑わなかったからだった。

「お前……どこで、そのことを……!?」

「ダメダメ、情報源は教えられないって、さっきも言っただろう? もう忘れちゃったとか、マジでてめえの頭ん中、ポコポコのスポンジにでもなってんじゃねーのー?」

 動揺を隠し切れない尊を、一三郎はさも嬉しそうに眺めやる。その興奮も徐々に治まっていくと、彼は満足げに深呼吸をしてから、乱れていた身なりを整えた。

「さて、小銭稼ぎに精を出してるてめぇと違って、俺はビックビジネスを推し進めるのに忙しいんだ。てめぇを馬鹿にするのにもいい加減疲れたし、そろそろ帰らせてもらうぜ」

 固まったまま動けないでいる尊の横を、一三郎は軽やかな足取りで抜けて行く。通り過ぎざま、彼は尊の強張った横顔へと、小さな声で囁いた。

「無事に長生きしたいんやったら、おとなしくしとった方が身のためやでぇ。ま、どないしても、そんなには変わらへんかも分からんがな。ほな、さいなら」

 硬質な足音を立て、背後へと遠退(とおの)いていく一三郎の気配を、ずっと尊は感覚で追い続けた。

 それでも、彼は相手を追撃しようともせずに、その場へと立ち尽くしていた。

 尊は沈黙を貫いたまま、遠く彼方の地平線を、瞬きもせずに眺めているだけだった。


 自分の手にある中折りにされた数枚の紙を、照美は戸惑いをもって見下ろした。

 彼女はそれを手渡してきたキヨを、不思議そうな顔で見詰め返した。

「あの、おばあちゃん、これって……?」

「いつも店の掃除をお手伝いしてくれる、ご褒美よ。照美ちゃんが来てくれたおかげで、とっても助かっちゃってるからねえ」

 驚きに目を(しばたた)かせている照美へと、彼女は穏やかに微笑みながら感謝の言葉を述べた。

 今から一、二時間程前、花屋にいた照美の所を尊が訪れ、「今日はもう家に帰れ」と指示を出した。その一方的な命令に彼女は反発したが、有無を言わせない彼の様子に、おとなしく従うしかなかった。

 しかし、一人とぼとぼと家路を辿(たど)る途中で、照美はキヨのいる寿司店へ立ち寄ることを思い付いた。

 彼女は日向寿司店で食事をしてからというもの、しばしば彼女達の店を訪れていた。

 店前での宣伝などはしなかったが、彼女は簡単な掃除を手伝ったり、キヨとお喋りをしたりなどして過ごしていた。物腰の柔らかく、面白おかしい話を沢山知っている彼女のことを、照美はすぐに大好きになっていっていた。

 そう思い付くが早いか、彼女はすぐに路地裏の寿司店へと向かった。

表戸には臨時休業の張り紙があったが、キヨは店の裏にある家の方にいた。誘われるままに日向家へと上がり込んだ照美は、いつも通り彼女との会話に花を咲かせた。

 あっという間に時間は過ぎ、もう夕方の遅い時刻となっているのに気付いた照美は、そろそろ帰ることにするとキヨに告げた。

 すると、キヨは彼女を引き止め、年季の入った棚から財布を取り出す。そして、おもむろに中の紙幣を何枚か引き抜くと、照美の手へとそれを渡したのだった。

 突然与えられた給金に、照美は嬉しさと困惑が同居した、曖昧な笑顔でキヨを窺った。

「あ、ありがと……。でも私、お店の人から勝手に給料を貰うなって、尊のやつから言われてるし……」

 歯切れ悪くそう口にする彼女に、キヨは不可解そうに首を傾げる。

「あら、私はそれがお給料だなんて、言ったかしら? そのお金はいつも頑張っているご褒美で、私みたいなお婆さんとお話をしてくれているお礼よ。だから、尊くんとの約束を破ることには、ならないんじゃないの?」

 呆気に取られる照美に、彼女は悪戯っぽくウィンクをする。

そのお茶目な仕草を見て照美もようやく合点がいき、曇らせていた表情をパッと輝かせた。

「そうよね、お店じゃなくて、キヨおばあちゃんから貰ったのだから、あいつに教える必要なんてないのよね! だってこれは、仕事で手に入った分とは違うもんね!!」

「うふふ、そういうこと。でも、誤解されちゃうと大変だから、これは他の人には内緒にしておきましょうね」

「うん、このことは私とキヨおばあちゃんだけの秘密よ! 特に、疑り深い尊なんかには、絶ェッ対に教えちゃ駄目なんだからね!」

 共有の隠し事を持った彼女達は、互いに楽しそうな笑みを交わしていた。

 日向家を出た照美は、茶封筒に入れてもらった紙幣を袖の下へと仕舞い、ビル屋上の仮自宅へと急いだ。

 息を切らした彼女が帰り着いた時、そこに尊やツクヨミの姿はなかった。尊はまだ用事から戻ってきておらず、ツクヨミはネットカフェにでも出掛けているようだった。

 誰もいない部屋に、独り照美はほくそ笑む。

 彼女は紙幣入りの封筒を取り出すと、それを隠すのにちょうど良い場所を吟味(ぎんみ)し始めた。

 守銭奴(しゅせんど)で金欲家でもある尊にこれが見付かりでもしたら、強制的に没収されてしまうに違いない。

 最初に貰った給料を、大事に取っておきたい照美としては、そうした展開だけは避けたかった。だからこそ、自分の目の届く範囲にありながら、尊やツクヨミの目には触れないような所を、彼女は懸命に探した。

 流しの近くやテーブルの下などは、定期的にツクヨミが掃除をしているために見付かる危険が高い。となれば、安全なのは私用で使っている範囲の中だけになる。

 しかし、布団は晴れた日などに干されてしまうため、下に入れて隠すことはできない。私服や下着が入っている小型のタンスも、尊に覗かれてしまう恐れが捨て切れない。

 考えあぐねた照美は、やがてある名案を思い付いた。

 ここはあえて、尊の私物がある物置に隠そう。滅多に触ってそうもない物の傍にでも潜ませれば、少なくとも当分の間は発見されないはずだ。

 尊の行動を読み、そう判断した照美は、早速彼のベッドの脇にあるクローゼットを開いた。

上下二段に分かれている手狭な収納スペースには、黒ばかりの洋服や数冊の雑誌、黒革の旅行バッグや用途不明のガラクタなどが、乱雑に押し込められている。

 充満する埃っぽい空気に()き込みながら、照美は手頃な隠し場所を物色する。やがて彼女が見繕ったのは、押し潰される形で奥へと押し込められていた、安物の紙袋だった。

 ビニール紐の取っ手が付いたその口は丸められており、最近開けられたような形跡はない。汚れた表面は歪な形に盛り上がっており、中には何かがいっぱいに詰められているようだった。

 これなら、他の男どもに見付かる危険は薄く、現金入りの封筒を隠すには最適だった。

 目当ての物を探し当てて喜ぶ照美は、まずその中身を確認することにした。

 幸い、紙袋の上に乗せられていた荷物は、非力な彼女でもどうにか動かすことができた。

 全体像が(あら)わになった謎の袋を、照美は外へと運び出す。それは小振りな見掛けに反して、思ったよりもずっしりとしており、彼女の細腕でやっと運べる重さだった。

 一体この袋の中には、何が収められているのだろうか。

 正体不明の内容物に対する純粋な好奇心と、尊の隠された秘密を暴くような背徳感。

 その両方をひしひしと感じながら、照美は厳重に何重にも巻かれていた袋の口を開いた。


 尊が帰宅したのは、一三郎との邂逅(かいこう)からだいぶ経った、夕暮れの時刻になってだった。

 自宅の扉を潜った彼は、テーブル横に腰を下ろしている照美へと目を留める。

 彼女は部屋へと入ってきた尊と顔を合わせるなり、座ったまま小さく跳び上がる。彼を出迎えるその顔には、不意を突かれた驚きがありありと浮かんでいた。

「はわっ!? あ、あんたか……。おか、えり……」

「ん、ああ……。どうした、俺がいない間に何かあったか?」

 どこかぎこちない彼女の対応に、尊は微かに緊張を帯びる。自分と同様に、アマテラスのことも復讐の標的としている一三郎が、ふっと彼の頭に浮かんでいた。

 目付きに緊迫感を漂わせる尊へと、彼女は長い髪が乱れる程に、強く(かぶり)を振ってみせた。

「ううん、全然! つまらないくらいに、なーんにもなかったわよ!! 全く、私をこんなとこにぼっちにさせておくなんて、あんた世話係失格なんじゃないの!?」

 いつも通り高飛車な態度を取る照美だったが、どことなく無理に装っているような違和感を尊は覚えた。それでも、彼女自身や家の様子には特に変わったところはなく、彼は単なる気のせいだと思い直した。

 独りで家へと放置されたことに腹を立てる照美に、尊は押し付けがましい言い方で告げる。

「お前、プライベートがないーって、いつも騒いでただろ。だからお望み通り、今日の午後はずっと自由を満喫させてやったんじゃねえか。お礼の言葉はもらえても、文句を言われる筋合いはねえんだがな」

「こんな狭苦しくてむさ苦しい場所で、自由時間もへったくれもないでしょうが!!」

 頬を膨らませて怒る彼女をやり過ごし、尊は自分のベッドに寝転がる。組んだ腕を頭の下に置き、天井へと虚ろな視線を投げながら、彼は深い溜め息をついた。

 常になく疲労を溜め込んでいる彼に、照美は不満の表情を引っ込める。彼女は怪訝そうな面持ちとなりながら、彼の近くへとにじり寄った。

「ねえ、そういえばあんた、今までどこに行ってたのよ? それに、私を無理矢理に帰らせた理由も、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」

 照美は視線の焦点を、ぐっと彼の顔へ据えている。彼女の真摯(しんし)で頑ななその眼差しに、下手な言い逃れや誤魔化しは通用しないと尊は悟った。

 彼女自身にもまた危険が迫っていることは、早い内に照美にも伝えておいた方が無難だろう。

 そう考えを切り替えた尊は、自分に恨みを持つ神の一柱が、金天街を取り潰そうとしている事実を語り聞かせた。その相手が自分達の兄であることは、彼女に聞かせると事態がややこしくなりそうなので、彼は意図的に伏せておいた。

 彼の話が進むに連れ、照美の顔はみるみる険しさを増していった。そして、説明を最後まで聞き終えた瞬間、彼女は細い肩を怒らせ、弾かれたように立ち上がっていた。

「何よ、それ!? カズサブロウだかヒルコだか知らないけど、あそこをブチ壊そうとするなんて、ふざけんじゃないわよ!! この私の贖罪活動の邪魔をしようだなんて、下界の神のくせに随分と調子に乗った奴ね、そいつ!?」

「そう、大声で我鳴(がな)んなよな。耳に響くだろうが」

「あんたもこんなとこで、余裕こいて寝てんじゃないわよ! 今すぐそのヒル…サブロウとか言う男の所に行って、その下らない計画を撤回させるわよ!」

「いや……その必要は、ない。俺達は近い内に、この町を去る」

 玄関の戸口へと突進していた照美は、淡々とした尊の言葉に足を止める。

 彼を振り返るその顔には、予想外の発言に耳を疑う、強張った薄ら笑いが貼り付いていた。

「え……? ちょっ……冗談、よね……? まさか、こんなことで簡単に商店街のみんなを見捨てて、自分達だけで逃げるなんて……」

「悪いが、大マジだ。あの男と本格的に関わると、色々と面倒なことになっちまうからな。ここは三十六計逃げるに如かずで、(いさぎよ)くトンズラするのが一番だ」

「はっ…………はああっ!? あんた、自分が何を言ってるか分かってんの!?」

「まあな。それに、今のお前よりかは幾らか冷静だとも、自覚しているつもりだ」

 声を荒げる照美を視界の端に置き、尊は抑揚を欠いた、落ち着きのある口調で彼女を(さと)した。

「いいか、お前は知らないだろうが、ヒルコは陰湿極まりなくて、目的のためには手段を選ばないイカレ野郎だ。そんな相手とまともにやり合ってたら、労力とか時間とかが無駄になって仕様がねえ。ここはさっさと姿を暗ますのが、奴に対する最善の対処法なんだよ」

 敵についての前知識がない照美は、彼へと強く言い返せない。

それでも、彼女はどうにか言葉を探り当てながら、たどたどしい口調で説得を試みた。

「でも、恵実さんとか、日向のおばあちゃんとか、仲良くなった人が沢山いるのに……」

「どうだっていいだろうが、んなもん。所詮あそこは、単なる金稼ぎのための場所だ。なのに、そんなやつらのためにわざわざ危険な目に遭いに行くなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。それこそ正に、本末転倒もいいとこだぜ」

 さばさばとした口振りで、尊は飄々(ひょうひょう)とそう言い放つ。上を向くその顔は無表情で、両目は気だるそうに半開きとなっていた。ぐったりとベッドに沈み込んでいる緩慢な姿勢が、彼のやる気の無さを体現していた。

 どこか遠くから、夕方の五時を告げるオルゴール風のメロディーが、彼らのいる部屋へと忍び込んでくる。

 照美は棒立ちとなったまま(うつむ)き、自分の爪先を見下ろしていた。

長く垂れた前髪の陰の下で、彼女の薄い唇が引きつり、笑みの形へと変わった。

「金稼ぎのため……? 馬鹿馬鹿しい……? 本末転倒もいいところ……? そうよね、あんたは自分の生活のためのお金が手に入れば、それでもう満足なのよね……」

「そう言う、ことだ。早速、今晩からでも他の土地に移る準備を――」

「ッざけんじゃないわよ!! 本当に馬鹿馬鹿しいのは、今のあんたの方よ!!」

 照美の金切り声に似た叫びが、静寂に満ちていた空気を掻き乱した。

震える拳を握り締めていた彼女は、地響きを起こしそうな足取りで、尊の足もとにある収納スペースへと近付く。

 照美が扉を開け、古色蒼然とした紙袋を引きずり出すのを、尊は静かに眺めていた。

 彼は体を起こすことも、声を掛けてそれを止めさせることもしなかった。引き破るように強引に袋を開ける彼女を、興味薄げな眼差しで見遣っているだけだった。

「あんた、この世界で生きてためにはお金が必要で、それさえあれば他のことはどうでもいいって言ったわよね!? だったら、これは何なのよっ!?」

 袋の中に手を突っ込んだ照美は、掴み取った中身を尊へと投げつける。

 彼女の握り拳から放たれたそれらは、長方形をした十数枚の紙片に分かれ、宙を舞って彼の上へと落ちる。

 額へと乗った一万円と千円の札を、尊は物憂(ものう)げに手で払った。

 袋へと入れられ、物置に仕舞われていた、金額もまちまちな大量の紙幣。これは、主に尊が裏稼業をこなしてきた中で入手した金銭であり、現在の彼が所有する全財産でもあった。

 照美は袋にすし詰めとなっていたそれらを、尊へと躍起になって放り続けた。

「これだけあれば、働いて給料を貰わなくたって、普通に生活できるじゃない!! なのに、どうしてあんたは、毎日金天街に行って、仕事なんかしてるのよ!!」

 こいつは、単純な勘違いをしている。金とは日常生活だけではなく、思いがけない時に必要になったりもする。それに金は腐らず、どれだけ蓄えていても問題はないのだ。

 舞い散る札を浴びながら、尊は心中でそう呟く。

「あんたは、独りでいるのが寂しいから、金天街のみんなに会いにいってるんでしょ!? だから、あの人達の手伝いを精一杯やってるし、仲良くなってもいるんじゃない!! そうでしょ!?」

 見当違いも、甚だしい。あそこで働いているのは、半分暇潰しのようなものだ。それに、あそこの人間達と親交を築いているのも、食糧がただで獲得できるなどの利点があるからだ。

 頬を真っ赤に染め、息を荒く乱している照美を横目で眺め、彼は頭の中でそう告げる。

「そのカズ何とかっていう奴から逃げようとしてるのも、そんな自分の気持ちから目を背けたいだけじゃない!! あんたならその気になれば、金天街のみんなを助けられるはずなのに、素直になるのが恥ずかしいから、もっともらしい言い訳を並べて!! 格好付けるつもりかもしれないけど、カッコ悪いしダサいわよ、そんなの!!」

 全くもって、筋違いの意見だ。俺はヒルコから逃げる訳でもないし、何かから目を逸らしているつもりもない。あくまで俺は、合理的で無駄のない方法を、選び取っているだけだ。

 目に涙を溜める彼女から視線をずらし、尊は言葉もなく、誰にともなく訴える。

 身じろぎもせずに沈黙を貫く彼に、照美は空となった紙袋を叩き付ける。彼女は鼻を啜り上げ、充血した目を手の甲で強く擦った。

「そんなつまらないことにこだわるなんて、つくづく見損なったわ!! この私の補佐役だっていうんなら、もっと男気があるところ見せなさいよ!! こんな、弱虫で嘘つきな唐変木と一緒にいるなんて、こっちから願い下げなんだからっ!!」

 最後にそう罵詈雑言を浴びせかけた照美は、脇目も振らずに家から飛び出していく。開け放たれた玄関の向こうに、固い下駄の音が遠退いて、消えて行った。

 皺の寄った紙幣が散乱している部屋で、尊はじっと虚空を睨んでいた。

 やがて、彼は長くか細い吐息を洩らし、金の積もっていた体を気怠(けだる)そうに起こす。彼は床中に散らかっていた紙を踏み分け、重々しい足運びで彼女の後を追った。

 今のあいつが単独行動をしてしまうと、ヒルコにあっさりと捕まってしまうかもしれない。

 それに、あいつの考えが全部間違っていることを、早い内に教えてやらなくてはいけない。

 彼はそんな理由を自分へと言い聞かせながら、照美が逃げ込んだであろう金天街へと足を向けた。


「照美ちゃん? 今日はここには、来てはいないけれど……。何か、あったのかしら?」

「いや、別に大したことじゃねえんだが……。じゃ、いきなり邪魔して悪かったな。もしあいつを見たら、家に戻るよう伝えといてくれ」

 不安そうに顔を曇らせるキヨへと別れを告げ、尊は足早に日向寿司店を立ち去る。照美が最も居そうな場所の当てが外れ、彼はその行き先について、再び思案に暮れた。

 彼女が日頃、金天街で特に親しくしているのは、キヨを含めて十名前後である。彼女が商店街以外の、不慣れな場所に行ったとは考え辛い以上、これらの内の誰かの所に転がり込んでいる可能性が高かった。

 どちらにしても、あいつを見付けるのは時間の問題に違いない。

 そう高を(くく)っていた尊だったが、捜索は思いの外に困難を極めていた。

 彼は片っ端から金天街の店々を回ったが、誰も照美の行方を知らず、彼女の姿を見掛けた者さえいなかった。

 そして、残った最後の場所である『穂恵美』でも、顔を出してはいないと恵実は答えた。

「急に、どうかしたの? もしかして、家出でもしちゃったとか?」

「ああ……まあ、そんな感じだ。ったく、どこ行きやがったんだ、あいつ……」

 姿を暗ました照美に、尊は苦り切った顔をして毒づく。

感情の匂いで後を追おうにも、彼女が今どんな思いを抱いているのか分からない限り、居場所を特定するのは難しい。

 これからどうすべきか悩む彼に、「そういえば」と、恵実は何かを思い出して口を開く。

 照美のことについてかと身を乗り出す尊を、彼女はむっとした三白眼で睨んだ。

「あんた、今日の集会に乱入したんですって? 殴り込みなんてしないって言ってたのは、口から出任せの嘘八百だったってことかしら?」

「そ、そんなんじゃねえよ。単に、どんな話をしてんのか気になっただけで、乱入とかしに行った訳じゃあ……」

 苛立ちの眼差しを射差してくる恵実に、尊は若干面食らいつつも、必死に弁明する。

 ひょっとしたら、彼女にも昼の出来事が伝わっているのではと、尊は密かに懸念をしていた。そして案の定、彼女の怒りを買うことになってしまった彼は、自分に不利な話題を変えようと試みた。

「そういや重夫のやつは、まだ集まりから帰ってねえのか? 他の店も、店主が不在なとこが多かったみたいだが」

「あなたが帰った後に、買収反対のための話し合いを始めたんですって。この土地からは立ち退かないって、みんなで決めたみたいよ」

 恵実からそう伝えられた尊は、意外な思いに打たれた。

 彼らがヒルコの申し出を撥ねつけるであろうことは、彼も薄々予測はしていた。しかし、ここまで早く商店街全体の総意としてまとめられるとは、正直彼も予想していなかった。

「私も、お父さんから電話で聞いた時、ちょっとびっくりしたわ。でも、そうなって当然だな、って納得もした。お父さんがこの店を手放すはずがないって、私には分かってたから」

 恵実は戸惑う尊に小さく笑みを浮かべ、店のカウンターの中から店内を見渡す。彼女の遠くを見るようなその眼には、懐かしさと、温かみと、ほんの少しの寂しさが宿っていた。

「この穂恵美は、私が生まれる前から、お父さんとお母さんが二人で頑張ってきたお店。だからここには、お母さんが生きていた頃の思い出が、いっぱいに詰まってる。もう、私達はお母さんには二度と会えない。だけどここで働いている間は、あの時のお母さんの優しい笑顔とか声とかが、すぐ傍に感じられるの。気のせいかもしれないけど、私には確かにね」

 実感を込めて語る彼女に、尊は口を噤んだまま耳を傾ける。

 彼女の母親が十五年前に亡くなっていたことは、彼は以前に重夫から聞かされていた。だが、その娘である恵実から母の話を聞かされたのは、これが初めてのことだった。

 辛くないとは言えない過去を、言葉にして表す恵実。

その姿に尊は、彼女の家族と店に寄せる想いを、改めて突き付けられたような気分になった。

「それに、私や父さんのとはまた違うだろうけど、他のお店のみんなだって同じように考えてるはずよ。それぞれの店が自分達の家のような存在で、それが集まっている金天街は、みんなにとっての家族みたいなものなんだって」

「ぷっ、あははっ。なるほど、金天街は家族、ねえ」

「ちょ、何よ!? 笑わなくたって、いいじゃない!」

「いや、すまん。お前は確かに、重夫のやつの娘なんだなと思ってな」

 ヒルコの説明会に割って入る前、尊は集会場の様子を少しの間、覗き見ていた。その際、重夫が彼女と同じようなことを言っていたのを、彼は恵実の発言を聞いて思い出したのだった。

 そんなことなど知るはずもない恵実は、思い出し笑いをする尊を膨れっ面で睨み付ける。

 すると、不意にその不機嫌そうな仏頂面を崩し、彼女は小さく吹き出してしまう。

唐突に笑い始めた相手に、今度は尊の方が戸惑うこととなった。

「ん、何だよ? 俺の笑い方が、そんなにおかしいか?」

「ま、それもなくはないけどね。けど、やっぱりそうだったんだなって、つい思っちゃって」

「そうだった? 俺が、どうだったって言うんだ?」

 意味が分からずにいる彼に、恵実はどこか恥じらうように、腰の辺りでもじもじと手を摺り合わせる。 やがて、彼女は躊躇(ためら)いがちに、ぽつりと尊へと切り出した。

「あのね、実は――――」


 陽も完全に暮れた空には、濃密な夜の闇が訪れていた。

 ビルの狭い階段を上がって屋上へと出た尊は、自宅の小窓から、明々と照明の光が漏れ出ているのに気付いた。

 先に照美が帰ってきたのかと、彼は急いで玄関を潜る。蛍光灯の明かりの下では、ツクヨミが部屋中に散乱していた紙幣を、種類別に札束へとまとめていた。

「やあ、おかえりスサノオ。夕飯を作りに来てみたら、部屋に手垢だらけの薄汚い紙が散らばっていたから、勝手に整理整頓させてもらったよ。ひょっとして、余計なお世話だったかな?」

「いや助かったよ、ありがとうな。これで面倒な仕事が、ひとつ減ったぜ」

「ところで、姉さんはどこだい? 君と一緒にいるはずじゃあ、なかったっけ?」

 不可解そうな面持ちとなったツクヨミは、背伸びをして戸口の前に立つ尊の背後を窺う。

尊は彼へと、ヒルコの魔手が迫りつつあること、そして照美が行方不明になっていることを伝える。曇っていたツクヨミの表情が、より一層に困惑の色を深めた。

「ええっ、大丈夫なのかい? もしかして姉さん、もう兄さんに捕まっちゃってて、あんなことやそんなことをされているんじゃあ、ないだろう、ね?」

「さあな。あいつと話をした時の感じからして、アマテラスがここに降りてきているのまでは把握してないようだった。可能性として有り得なくはないだろうが、そんなに心配する必要はねえだろうぜ」

「うーん、でも、このままって訳にはいかないよ、ね? もしかして君は、姉さんがここに帰ってくるのを、手をこまねいて待ち続けているつもりかい?」

「策ならあるさ。問題を根本から、残らず解決させちまう上策がな。だがそれには、お前の協力がどうしても必要だ。頼むツクヨミ、どうか、俺に力を貸してはくれねぇか?」

 いつになく真剣な尊からの訴えに、ツクヨミは自分を指し、目を丸くして驚く。

尊はその肩へと手を置き、ぐっと互いの顔を寄せると、戸惑う彼に気安く破顔してみせた。

「やってくれるよな、兄貴?」


「それでは、午後のご予定についてですが、今からお伝えしても(よろ)しいでしょうか?」

「あー、かまへんよ。細かく聞くのもめんどいから、概要だけちゃっちゃと教えてえな」

 Yeviss(エヴィス) Corporation(コーポレーション)本社ビルの、最上階に位置する社長室。そこで、一三郎はマホガニー製の巨大な机に向かい、水牛革の装丁がされた重厚感のあるイスへ、どっかりと腰を落ち着けていた。

彼は、手にしている豪華な作りの釣り竿から目を上げないまま、傍らに立つ妙齢の女性秘書を急かす。彼女はナイロール眼鏡の位置を微調整すると、簡潔に手元の予定表を読み上げた。

「この後、一時からは下請け工場の作業工程の視察。それが終わり次第、当会社の責任者との会合。それから社へと戻って、今後の事業展開に関する会議への出席。最後に今夜の最終便で移動し、翌日の新規店舗開店セレモニーの準備をしていただきます」

「何や、忙しいなあ。今日はえらく、いつもと比べてドタバタしてんとちゃうか?」

「先日、社長が不定期の休暇を取られて、自己判断で出店予定地へと(おもむ)かれたためです。取り決められていた日程が順延となって、その分が本日に回ってきただけです」

 いつになく過密なスケジュールに文句を垂れる一三郎に、秘書は冷淡な表情と口調で言い放つ。レンズ越しに突き刺さる冷たい視線に、彼はヘラヘラと笑いながら頭を掻いた。

「せやな。身から出たサビやし、しゃあないわな。口答えせんと、ちゃんと社長としての役目を果たしてかんとあかんわな」

「ご理解いただけて幸いです。では、後程お迎えに参りますので、それまでの間にご準備の程をよろしくお願いします」

 一三郎へと(うやうや)しく頭を下げた彼女は、ツカツカとハイヒールを鳴らしながら、社長室より去って行く。慇懃無礼(いんぎんぶれい)を絵に描いたような部下の態度に、「相変わらず、小うるさい女だぜ」と、彼は小声で悪態をついた。

そして、彼が再び愛用の竿を()で始めたところで、閉じたばかりの扉が外側より開けられた。

「あっ!? ウソウソ、今のは嘘やで!! そんな、いつも迷惑かけてしもうとる君を悪く言うはず――」

悪口を彼女に聞き咎められたと思った一三郎は、自らの大切な釣り竿を放り出し、諸手(もろて)を挙げて釈明する。だが、入室してきた相手を目にした途端、彼は虚を突かれて茫然となった後、陰険なしたり顔と表情を変えた。

「何や、誰かと思うたら、えらく珍しいお客さんやなあ。今の時間、面会の約束はなかったはずやけど、ちゃんとアポは取ったんかいな?」

「余計な手間は嫌いでな。どうせてめえも暇だろうし、電撃訪問させてもらったぜ」

 突然に部屋へと乱入し、社長である一三郎へと無礼な言葉を放ったのは、濃いネイビーのスーツを着込んだ尊だった。

普段とはまるで違う(よそお)いをしている彼を、一三郎は物珍しげにじろじろと眺め回す。

「意外と、しっくりきとるやないか。馬子にも衣装、っつーやっちゃな」

「こういう堅苦しいのは、苦手なんだがな。だが、この会社に忍び込むのにいつもの服は、あまりにも不向きだからな。必要に迫られての、窮余(きゅうよ)(さく)ってやつだ」

「せやけど、どないしてここまで入ってこられたんや? 外見では、まあ、それなりに騙せたとしても、キーカードがなかったら通れん所が、途中ぎょうさんあったはずなんやがな?」

「そこは、僕のハッカースキルがあってこそなんだよ、ね」

 仁王立ちする尊の陰から、ひょっこりとツクヨミが姿を現す。弟とは対照的な真白な服装に身を包んでいる彼を見て、一三郎は微かに息を漏らして驚いた。

「お前もおったんかいな、ツクヨミ。そっちと会うんは、ほんまに久しぶりやな。あれ以来、お前を始末する機会がひとつもなかったから、めっちゃ寂しかったわぁ」

「兄さんも変わらず、お元気そうで。かなり長い間、スサノオ君を追いかけているようですけど、まだ()りずに粘っているみたいです、ね。いやぁ、その無駄なまでの根気と活力、僕にも少し分けてもらいたいなあ」

 両者は尊を挟んで、簡単に棘のある挨拶を交わす。

間に置かれていた彼は一三郎へと、後ろにいるツクヨミを親指で指し示した。

「こいつ、コンピュータとかインターネットとかの知識が豊富でな。お前の会社に上手く侵入する方法を、昨日の夜に考えさせてたんだよ」

「兄さんの会社、それから警備を担当している会社のサーバをハッキングして、本社内のセキュリティ情報をこっそり覗かせてもらって、ね。そこでコピーしたデータからマスターキーを偽造して、はい終わりってことなんだよ、ね」

「何や、こっちのガードも結構ザルやなあ。後で警備の方に、苦情を言っとかんといかんわ。で、昨日の今日で、何の用や? わいを暗殺しにでもきたんかいな?」

 ブルリと大きく肩を震わせ、一三郎は恐々と尊を見上げる。尊は薄く失笑を漏らし、いかにも怯えているという恰好をしている彼を()めつけた。

「わざとらしいことすんな。抜け目のねえ、てめえのことだ。この部屋にもしっかりと、防衛用か脱出用の仕掛けをしてんだろうが」

「ありゃあ、バレてたんか。あっさりネタ晴らしするなんて、つまらんやっちゃのう。しかし、それが分かってるんなら、何をしに来たんや?」

「一対一での正式な勝負を、お前に申し込む。勝敗における賭けの対象は、金天街の買収計画の白紙撤回と、商店街からの完全な撤退だ。俺に負けたらてめえは、今後商店街には絶対に足を踏み入れるな」

「ふうん、なるほどなぁ。で、反対にわいが勝ったら、どうなるんや?」

「俺自身を、てめえにくれてやる。生かすも殺すも、好きにすればいい」

 尊からの突然の申し出に、一三郎の顔から一瞬表情が抜け落ちる。

 我に返った彼は、真剣な面持ちの尊を前にして、腹を抱えて大笑いを始めた。

「わははっ、ホンマかいな!? 急にそんな言い出すやなんて、どういう風の吹き回しや!? お前、あの狭い土地にしがみ付いとる蟻みたいな人間達に、情が移ったんとちゃうか!?」

「てめえに訳を話すつもりはねえ。で、どうなんだ? やるのかやらねえのか、どっちなんだ?」

 尊は短く鋭い怒号で、回答を急かす。苦し気に(あえ)いでいた一三郎は、笑い泣きからの涙を拭い、彼を見詰め返す。喜色満面となっていた彼の目には、狡猾で計算高い光が(とも)っていた。

「こちらこそ望むところや……と、言いたいんやけどな。よう考えてみたら、あの商店街潰すだけでも、まあまあお前にダメージ与えられそうやし。せやから、ちょいその賭けは、わいにとって不公平なんと違うか?」

 尊を甚振(いたぶ)るのを楽しむかのように、一三郎は答えを()らし、不平不満を零す。

 返答を(しぶ)る彼へと、尊は真後ろに立つツクヨミを再度示した。

「なら、こいつの身柄も加えてやる。もしてめえが勝ったら、憎い相手を一気に二人も消せるんだぜ。これならそっちにとっても、損な話じゃあねえだろ?」

 賭け対象の更なる追加に、一三郎は歓喜の唸り声を上げ、にんまりと口角を持ち上げる。一方、急に名前を持ち出されたツクヨミは、尊の横暴な決定に仰天してしまっていた。

「ちょ、待ってよ!? どうして僕も、命を張らなきゃいけないのさ!? そんなの聞いてないよ、ミコっちゃ~ん!!」

「お前の大好きな姉さんを助けるためだ、それぐらい我慢しろ。じゃないと、お前をここに連れてきた意味が全然なくなっちまうだろうが」

「え、僕って掛け金代わりですか!? 我が弟ながらこの男、鬼やわ~!」

 実弟の仕打ちを嘆くツクヨミだったが、その訴えに耳を傾ける者は誰もいなかった。

 一三郎は机に立て掛けていた杖を手に取り、嬉々として床へと立つ。

彼にとってこの取引は、憎っくき肉親を二名も手玉に取れる、絶好の好機でしかなかった。

「ええで、ええでぇ。その思い切りの良さ、わいは好きやでえ! ほな双方とも合意が成立したっちゅーこって、早速勝負の準備といこか?」

「うーん……僕はまだ、同意してはいないんだけど、ね」

 苦言を(てい)するツクヨミを無視し、一三郎は尊達の前へと移動する。部屋のほぼ中央で立ち止まった彼は、杖の先で床を強く一度突いた。

 高く硬質な音が、広い室内の隅々へと波になって伝播していく。その空気の微かな振動と同調し、社長室の空間が突如として揺らぎ始めた。

一三郎の杖を基点として拡散した波紋は、部屋にいる全員を包み込んでいく。

やがてその揺れが収まった時、尊達は絢爛(けんらん)な内装の社長室から、だだっ広く茫漠(ぼうばく)とした、不毛の大地へと移動していた。

足の下にある地面は(なら)されたように平坦で、遥々(はるばる)と見渡す限りに続いている。

ねっとりとした闇に覆われている空には、濁った乳白色の太陽が真円を穿(うが)っている。

周囲は奇妙な薄明かりに満ち満ちており、見通しが充分に利く明度は維持されていた。

現実世界と異なる次元にあるこの場所は、一三郎の神としての力によって構成された、仮想空間であった。

 異空間の風景をぐるりと見回した尊は、真正面の創造主へと不敵な笑みを向ける。

「どうにもまた陰気な世界だな、おい。てめえにはこういう湿っぽくて面白味のない場所が、肌に合うんだろうけどな」

「僕は嫌いじゃないけど、ね。でもどうせならもうちょっと狭い方が、落ち着くかな」

 異世界に飛ばされたことに驚きもせず、尊とツクヨミは思い思いの意見を口にする。

 平静を保ったままの彼らを、一三郎は白い歯を剥き出しにして嘲笑(あざわら)った。

「お前達は、わいの領域である、わいの会社へとやってきた。つまりそれは、敵の支配地へとのこのこ入ってきて、こっちに全ての決定権を(ゆだ)ねたも同じや。賭け勝負の対決方法は、わいの一存で決めさせてもらうでぇ!」

「くだらねえ理由付けだな。ま、この際そんなのはどうでもいい。こっちも暇じゃねえんだ、早く始めようぜ」

 糊の利いた上着をかなぐり捨て、尊は単刀直入に宣戦布告をする。

黒地のシャツを腕まくりする彼に、一三郎はにたりと(いや)しい笑みを浮かべた。

「まったくもって、その通りやな。ほんなら、お望みのままに――」

 一三郎は杖の先を、足元へと鋭く突き立てる。

 瞬間、彼の右手にあった地盤が大きく崩れ、瞬く間に広大な縦穴が出現した。

ぽっかりと空いたその空洞の下からは、大量の液体が湧き出し始め、みるみる内に黒い水面が迫り上がってくる。そして、淵の辺りで水位の上昇が止まった穴は、一個の巨大な湖へと様相を一変させていた。

「俺の得意な釣り勝負を、おっ始めるとしようかあ!! あーあ、スサノオちゃんてば可哀想になあ!! こうなったからにはもう、てめえはお陀仏(だぶつ)確定だぜぇ!!」

「ピーピーうるせえな。どうやって勝負をつけるのか、さっさと説明しやがれ」

 粗野な本性を顕わにして口角泡を飛ばす彼に、尊はしかめっ面となって吐き捨てる。

 自分の顔に爪を立てていた左手で、一三郎は鏡面のように(しず)まっている黒い湖面を指した。

「だから、釣りで勝負すると言っただろうが、この腐れ鼓膜!! 俺が作ったこの水場はありとあらゆる水域に繋がっていて、淡水・海水を問わず全ての場所に住む生き物を釣ることができる! 今からここで一時間制限で釣りを行い、より大きな獲物を釣り上げた方の勝ちだ! どうだ、海馬が死滅状態のてめえでも分かるくらいの、シンプルな決め方だろぉ!?」

「センスのある対決なんて、鼻っからお前には求めてねえよ。だがまあ、こういうのなら小細工やインチキをされる心配もあまりねえし、こっちとしても好都合だがな」

「ハハハッはぁ!? んなもんするまでもなく、俺の大勝で終わるに決まってんだろがブワァァカァ!! 魚釣りでの対決って時点で、てめえは俺に完敗してんだよぉ!!」

 両親により天上界から遺棄(いき)された後、一三郎は人間界を流浪(るろう)している間に、釣りという特技を習得していた。動き回っての食糧確保が難しい彼には、一ヶ所に座ったまま魚を捕らえることのできるその方法が、飢えを凌ぐためにも必要な技術でもあったのだった。

 そして、今や彼の釣りにおける技量は、正しく神の域へと達していた。

 だからこそ彼は、尊との釣り勝負において、勝利への絶対の自信を持っていたのだった。

 もはや負けはないと確信している一三郎は、自らの余裕を見せ付けるかのように、対戦相手へと援助を申し出た。

「てめえ、釣りの道具とか持ってねえんじゃねえの? 良かったら俺のコレクションの中から、好きなのをどれでも貸してやるぜぇ?」

「要らねえよ、んなもん。俺にはこれで、充分だ」

 そう言うと、尊は首に掛けていたペンダントを外し、剣の形をした飾りを手に取る。

それを手の平で包み、彼が霊力を吸収させた瞬間、眩い真紅の光が拳の中で炸裂した。

その赤い閃光が消えた後には、肉厚で質実剛健な作りをした一振りの大刀が、尊の手中に現れていた。古風な装飾が施されたその剣は、名を十握剣(とつかのつるぎ)と言い、元は彼の父であるイザナギが所有していた物であった。

これは大昔に、父であるイザナギから、息子である尊へと譲り渡されていた。そして、現在は主に、尊が裏家業の後始末をする際、剣に込められた父親の『過去消去』の力を用いて、相手の記憶を消し去ることに活用されていた。

「けっ、あのイザナギの野郎の剣か。で、その見栄えのしない汚ねえお下がりで、お前はどうするつもりなんだ? 素潜りでもして、(もり)代わりにでもするのかぁ?」

 一三郎からの露骨な挑発をよそに、尊は隣にいるツクヨミへと空いている手を出す。

「おい、釣り用の糸と針、それから重石は持ってきてるだろ? 俺に寄こせ」

「うん? まあ、いいけど……。でも、それでどうするっていうんだい?」

「いいから、さっさと渡せ。考えがあんだよ」

夜の國の主であるツクヨミは、同時に人間界の海でもある、滄海原(あおうなばら)を治める神でもあった。

なので、彼は海での漁業に関する物として、特殊な釣り用の糸を常に携帯していた。

そして、彼からそれを受け取った尊は、剣の柄から鞘にかけて何重にも巻き付けていく。剣の先端部分へと上がった所で、彼はしっかりと糸を結び合わせると、反対側に鉛の塊と釣り針を付ける。それで、尊の手による即席の釣り竿は完成した。

有り合わせの道具で構成された竿に、一三郎は思わず吹き出してしまう。

「ッッ、くくくくっ……!? いい出来じゃねえか、スサノオ。無骨で味気なくて機能性がゼロっぽいところとか、作り手の特徴を良く表してるじゃねえか」

「だったらお前にも、さぞかしぴったりくるだろうぜ。何なら、使わせてやろうか?」

「いいや、遠慮しとくぜ。こっちにはそんなが及びもつかないような、高性能且つ芸術的な逸品があるんでなぁ」

 そう告げるが早いか、一三郎は杖の取っ手に隠されていた、内臓式の引き金を引く。

次の瞬間、金属製の杖が基礎部分を残して分離し、飛び上がった外装部分が変形を始めた。

 今まで杖だった部品は、数秒もかからずに変身を遂げ、やがて一三郎の元へと降りてくる。

 彼が右手で受け止めたそれは、複雑な構造と様々な機構が施された、銀色の釣り竿へと変貌していた。

「何か色々とゴテゴテしてて、無駄な機能ばっかりに見えるな。持ち主同様見てくれだけで、中身は空っぽの役立たずなんじゃねえか?」

「キははっ、調子ブッこいてられんのも、今だけだぜぇ!! 時間を使い切る前にてめえの戦意を喪失させて、泥塗れの野良犬みてぇに這い(つくば)らせてやっからよお!!」

「あまり大きなことは、言わない方が良いんじゃねえか? 後で余計に、恥ずかしい思いをしちまうぜ」

 苛烈な舌戦を繰り広げながら、彼らは互いに凄絶な笑みを浮かべ、数メートルの間を置いて対峙(たいじ)する。

 敵意と闘気が錯綜(さくそう)するその中間地点に、ツクヨミが静々(しずしず)と歩み出た。

彼はちらりと腕時計を確認すると、姿勢を正して間隔を開ける。

そして、頃合いを見計らって両腕を交錯させ、彼は高らかな声で宣言した。

「時間制限、六十分! ファイッ!!」

 対戦開始の合図に、尊と一三郎は同時に、竿を水面へと向けて振りかぶる。

 戦いの幕は、切って落とされた。


「照美ちゃん? 入っても、良いかしら?」

 扉を挟んだ廊下側から、控えめな声が掛けられる。部屋でぼんやりと窓の外を眺めていた照美は、慌てて居住まいを正し、それに答えた。

 丸いドアノブが回転して、ゆっくりと扉が内側に開く。その隙間から、キヨの顔が覗いた。

彼女は畳に正座をして座る照美に、柔らかく微笑みかけながら尋ねた。

「何か、困っていることはない? お部屋の匂いとか湿気とか、気になったりしてないかしら?」

「あ、ううん、大丈夫。無理言って置いてもらってるんだから、もしそんなのがあっても我慢できるし。それにここの方が、あいつの家よりよっぽど静かで快適だから」

 様子を見にきたキヨへと、照美は冗談めかした口調で受け答える。

気丈に振舞う彼女に、キヨはおかしそうな、しかし少し心配そうな表情を浮かべた。

 前日、尊の下から逃げ出した照美は、その足で日向寿司店を訪れていた。

 尊に黙って置いてくれるよう頼む彼女を、キヨは理由も訊かずに家へと招いた。そして、照美を探しにきた尊へと嘘をついて帰しただけでなく、彼女へと自分達の子どもが使っていた部屋まで貸し与えていたのだった。

 そんな相手の好意に甘んじて、照美は日向家で一夜を過ごし、翌日の昼まで居座り続けていた。

 (がん)として口を割らず、暗い部屋にこもり切りとなっている彼女を、キヨは顔には出さずとも相当気に掛けていた。表向きは明るく振舞っているものの、照美の表情の端々には、彼女らしくない暗い影がちらついていたからだった。

 ぎこちなく笑う照美の隣に、キヨは痛めている膝を横にして座る。温かみと包容力のある、しかし力強い眼差しで、彼女は照美をひたと見据えた。

「どうやら落ち着いてもきたみたいだし、良ければ何があったのか、そろそろ教えてはもらえないかしら? どうして尊君と、喧嘩をしちゃったの?」

それまでキヨは家出の理由を、照美から無理に聞き出そうとはしなかった。

だが、照美が上手く話を切り出せないでいると悟った彼女は、あえて正面から訳を問い質すことにした。尊を拒絶する原因を話しやすくするための、彼女なりの配慮だった。

キヨの厳しいながらも親身な問いかけに、照美は瞳へと困惑を滲ませて俯く。だが、静かに待ち続けている相手に遂に根負けし、彼女は少しずつ昨日のことを語り始めた。

金天街が買収されるかもしれないと、尊から聞いたこと。

商店街が存続するための手助けはしないと、彼が言い放ったこと。

そして、尊が下らない嘘で、自分自身を偽り続けていること。

溜りに溜まっていたそれらの不満を、彼女は(せき)を切ったようにキヨへと()くし立てた。

照美は頭に血は上ってはいたが、神や天上界に関わることは、決して口にはしなかった。

やがて話を終えた彼女は、聞き役に徹していたキヨへと同意を求める。黙って耳を傾けていた彼女は、目を怒らせている照美へと、おもむろに口を開いた。

「そうね、確かに酷いかもしれないわね。お世話になっている人達が困っているのに、自分だけ知らんぷりしているなんて、男らしくはないわよね」

「でしょ!? あーもう、あの時のあいつの態度、思い出しただけでも苛々する!! あそこまで甲斐性のない奴だったなんて、ほんっと信じられない!」

「でも、照美ちゃんは今でも、尊君を信頼しているんでしょう? 彼が、みんなのために立ち上がってくれるって、期待しているんじゃないの?」

 思いもかけない角度からの言及に、照美はポカンとして目と口を丸くする。やがて我に返った彼女は、声を大にしてキヨの憶測を否定した。

「ないない、そんなわけないじゃん!! あいつにはもう、心の底から幻滅してるんだから! そんな、信じてるとか、あるはずないから!!」

「そうなの? だったらどうして、照美ちゃんは今でも尊君に怒っているの? 本当に尊君のことを嫌いになったんだったら、彼が言ったことなんて、もうどうだっていいはずでしょ? それでも、あなたが変わらずに尊君へと腹を立てているのは、彼を信用していることの裏返し。どう、私の言っていること、間違っているかしら?」

「なっ……えっ、ええっ!? 間違ってるって、絶対におばあちゃん、それは有り得ないって!」

 キヨの牽強(けんきょう)付会(ふかい)ともいえる推理に、照美はムキになって反論をする。だが、荒げていた彼女の声は次第に弱く小さくなっていき、最後にはしどろもどろな囁きとなっていった。

 キヨの言い分は強引で、展開の仕方としても無理があると、照美は頭では理解していた。

それでも、彼女の言葉がじんわりと胸に染みていくに連れて、照美は強く言い返すのが段々と難しく、そして苦痛になっていったのだった。

 口を噤んだ照美は、揃えた自分の膝先へと視線を落とす。キヨはその肩へと手を置き、彼女の混乱を解くように優しく語りかけた。

「照美ちゃんは、頼りにしていた尊君から裏切られたような気がして、悲しくなっちゃったのよね? でも、尊君だって、そんなあなたの気持ちに気付いているし、何とかしたいって思っているはずよ」

「え……? だけど、あいつは全然、そんなこと……」

「それは、彼が恥ずかしがっているだけ。あなたや他の人に、自分の気持ちを見せちゃうのが、怖いって思っているのよ」

 意味が分からず、当惑の眼差しを向ける彼女に、キヨはクスクスと忍び笑いを漏らす。

「普段から強がっている男の人は、誰だってそうなの。本当は優しくてちょっぴり臆病な所があるのに、それを恐い人の振りをして隠しているの。そうだって知られたら、まるで情けなくて弱い人だって思われると、自分の中で決め付けちゃっているのよ」

「そう……なの?」

「尊君の場合は、特にね。それから、うちのおじいさんも、かしら」

「えっ!? 善次の、おじいさんも!?」

「そうよ。あの人はいつもあんな感じだけど、実は人付き合いが下手で、人見知りなだけなのよ。だから、いつもムスッとした顔をして、他の人から話しかけられないようにしているの。どう、おかしいでしょ?」

 夫の秘密を暴露しながら、キヨは楽しそうに肩を揺らす。呆然としていた照美の手に、やんわりと自らの手を重ね、彼女は両目を笑みの形に細めた。

「あの人は、正直になりたいけど、なれないって時が沢山あるの。そんな時は、私が励ましたり叱ったりして、やりたいことができるように、お尻を叩いてあげているわ。それが、一番近くにいて、あの人を信じてもいる私の、大事な仕事みたいなものだから」

 キヨは穏やかな笑みを湛えながら、物思いに(ふけ)る照美をじっと見詰めた。

 沈黙を貫いていた照美は、やおら顔を上げて立ち上がる。そこには、先程の作り笑いも戸惑いもなく、固い決意の輝きが表れていた。

 彼女は隣に座るキヨを見下ろし、溌溂(はつらつ)とした声を張り上げる。

「ごめん、キヨおばあちゃん! 私、用事ができたから急いで帰らなきゃ!」

「あら、そうなの? お昼ごはん、照美ちゃんの分も用意してたんだけど、残念ね」

「泊めてくれて、どうもありがとうね! また遊びに来るから!」

 わざとらしく驚いてみせるキヨに、照美は深々と頭を下げてお礼を言う。一目散に部屋から飛び出していく彼女を、キヨは微笑みと共に見送っていた。

 照美は木造の廊下を走り抜け、急勾配の階段を駆け下りる。下駄を履いて店の方へ出ると、厨房で仕込みをしている善次と鉢合わせた。大急ぎで飛び出てきた彼女を、彼は目だけを動かして見遣った。

「家に戻るのか? 行ったり来たりと、忙しいな」

「迷惑かけちゃって、ごめんなさい! お詫びの方は今度、ちゃんとさせてもらいますから!」

 彼にも律儀に頭を垂れてから、照美は表戸の方へと急ぐ。帯の膨らみが乗せられている彼女の背中へと、善次は素っ気なく言葉を投げた。

「困ったことがあったら、また来い。お前が思っている程、あいつは迷惑には思ってはいない」

 扉に手を掛けていた照美は、はっとして後ろを(かえり)みる。白地の服に包まれた彼の背が、調理場の陰へと入っていくのが見えた。

彼女は嬉しそうに頬を緩ませてから、出入り口の引き戸を開け放ち、外へと駆け出した。

もし、尊が私の目を気にして二の足を踏んでいるのなら、その私がケツを蹴っ飛ばしてやらなきゃならない。それが、彼の最も近くにいて、一緒に金天街で働いてきた私の、責任であり義務のようなものなのだから。

キヨとの会話から新たに決心を固めた照美は、まずは彼が居そうな商店街へと足を向けた。

しかし、そこに尊の姿はなく、店主達も今日は彼を見ていないと彼女に伝えた。

もしかして、家で引き上げの準備でも進めているのではないだろうか。

一抹の不安に襲われた照美は、高鳴る胸を抑え、自分達の家へと走った。

小走りで街路を抜けた彼女は、自宅を乗せているビルの、手前の通りへと出る。

そこで、照美はビルの表玄関の前に、誰かが座り込んでいるのを目に留めた。近くに寄ってみると、それは薄く汚い赤茶けた服をまとった、貧相なまでに痩せ細った老婆だと分かった。

彼女はどこか具合が悪いのか、骨張った細い背中を丸めながら、低い声で唸っていた。

急用のあった照美も、目の前で苦しんでいるそんな相手を、さすがに放ってはおけなかった。

彼女は道路脇にしゃがんでいる老婆へと駆け寄り、その隣へと膝を折って屈み込む。

「ねえおばあさん、どうしたの!? ちょっと、しっかりして! ねえってば!!」

 彼女の呼びかけも耳に入らない様子で、老婆は低く呻き続けている。

困り果てた照美は辺りを見回すが、誰の人影も見当たらなかった。

屋上にある家になら、尊がいるかもしれない。

そう思った照美は、彼に助けを求めに行こうと、腰を上げようとする。瞬間、小刻みに震えるだけだった老婆の手が閃き、彼女の腕を掴み取った。

そのまま彼女は凄まじい怪力で、当惑する照美を引き寄せる。腹を押さえるようにして隠していたもう片方の手を、老婆は姿勢を崩していた照美の首筋へとあてがった。

冷たく固い、細く鋭利な感触。

肌に走ったその感覚に、照美は自分が今、刃物を突き付けられているのだと直感した。

突然降りかかった脅威と恐怖に、照美は咄嗟の反応に迷いながら相手を見る。

老女の風貌は死人のように土気色で、その肌には深い皺が縦横無尽に刻まれていた。

絡まり合った(ちぢ)れ毛の下には、黄色い目脂(めやに)がべっとりとこびり付いた、白く濁った目が光っている。乱杭歯(らんぐいば)の間から漏れる硫黄(いおう)の息が、凍り付く照美の鼻を(えぐ)るように突き刺した。


糸の先が強く引かれ、余裕をもって構えられていた竿が、大きくしなる。

彼は右足へと装着していた杖の先端を、地面へと差し込んで固定する。梃子(てこ)の原理を用いて釣り竿を引き上げ、電動式のリールを稼動させる。細い合成繊維の編み糸が、瞬く間に巻き上げられていった。

湖の表面に起こっていた細かな小波(さざなみ)は、次第に大きな荒波へと変わっていく。

やがて、光を通さない黒々とした水中から、巨大な影が立ち現れる。水上へと飛沫(ひまつ)を上げて舞い上がったのは、白い斑点(はんてん)の胴体に平たい口が付いた、十メートル以上の長さを持った大魚だった。

宙高く舞うその魚影に、ツクヨミは音を立てて息を呑む。

「ジ、ジンベイザメ……またの名をホエールシャーク、学名をRhincodon(リンコドン) typus(チプス)だと……!? 現代の魚類界において最大級の巨漢を誇る奴を、一本釣りしたと言うのか、っ……!?」

 衝撃のあまり歯軋(はぎし)りをする彼に、それを釣り上げてみせた一三郎は、顔の右半分をだけで愉快そうにほくそ笑む。

「くっカカカッ! 驚いたか、仰天したか、肝を()り潰したかぁ!? だがよ、これで終わりじゃあ、ないんだぜぇ!!」

 一三郎は釣り竿の柄尻を、右足と一体化していた杖の上部に接合する。機械の作動による高い駆動音を発しながら、彼は更に強い力で竿を引いた。

 ジンベイザメの巨躯(きょく)が引き上げられた場所に、更に激しい波が立ち始める。

 そして、丘のように盛り上がった水面を割って、先の獲物を遥かに上回る巨体が跳び上がった。全長は前と比べて三倍以上はあろうかという、灰色の光沢を放つ肌を持ったその生物に、ツクヨミは驚愕から身を仰け反らせて叫んだ。

「一本の糸に、複数の釣り針を……!? いやそれよりも、流線型の体躯、髭の生えた幅の広い口、頭部に開いた二つの噴気孔……。間違いない、こいつは水中の世界で最大……いや、世界最大級のビッグモンスター、シロナガスクジラだ!! この男、ついさっき自分が打ち立てた記録を、易々と塗り替えやがった!」

「にッははハア、終わったなあ!! これより大きな物なんざ、どこを探したっていやしねえ! この勝負もてめえ達の命運も、ここまでってことだなあ!!」

「し、しかし、クジラは海に生息する哺乳類……クジラ目ヒゲクジラ亜目ナガスクジラ科ナガスクジラ属であり、名実共に純粋なクジラであるシロナガスは、魚の部類には含まれないのでは……」

「んなガキみてえな言い訳なんか通用すっかよ、(かげ)(うす)軟弱白玉野郎があ!! 俺は魚類限定で競うなんか、一言も口にした覚えはねえぜぇ! 要は、釣ったのがでかければでかい方が、問答無用で勝者になるんだよ! 理解したかぁ、この白抜き優男がぁ!!」

 しばし空中を漂っていた二体の巨大生物は、凄まじい二つの波飛沫を巻き上げて水面下へと消える。轟々と響く波音に包まれながら、一三郎は横へと視線を巡らした。

 彼から数メートル離れた湖の淵では、尊が大きく揺れ動いている水面へと剣を構え、その先から伸びる釣り糸を垂らし続けていた。

 今まで一度も引きの来ていない彼は、ずっと一歩も動くことなく、最初の姿勢を保っていた。

 両目を閉ざし、虚脱したように立ち尽くしている相手に、一三郎は侮蔑の高笑いを(とどろ)かせた。

「どうしたぁ、勝てないと分かって諦めちゃったのかあ? ほらほら、粘れよ足掻(あが)けよ頑張れよ、まだちっと時間は残ってるんだぜえ! ま、でも確かにそんな無駄な時間を過ごすよりかは、残された僅かな時間で、自分の短かった生涯を(はかな)んだが良いのかもしれねぇがぁなあ!!」

 早くも勝利の余韻に浸っていた彼は耳障りな奇声を上げ、挑発と嘲りの言葉を次々と尊に吐きかけていく。しかし、尊はまるでそれらが聞こえないかのように、一切の反応を示さない。

焦燥や怒気を垣間見せることもなく、彼はただ、釣り糸を水の中へと降ろし続けていた。

「んだよこいつ、起きてんのか? ひょっとして、立ったまま気絶しちゃってんじゃねーの?」

 彫像のように動かない尊を、一三郎は前屈みとなりながら窺う。

 すると、歪んだ半笑いを浮かべていた彼の耳に、どこからか小さな含み笑いが聞こえてきた。

 一三郎は尊の顔へと目を凝らすが、彼の立ち姿に変化はない。抑えられた笑い声を発していたのは、彼らの中間に等間隔を置いて立っていたツクヨミだった。

 口元を手で覆い隠し、くぐもった笑いを漏らす彼を、一三郎は苛立ちのこもった横目で睨み付ける。

「てめえ、何がそんなにおかしいんだ? 今度はそっちの方が、頭がイカレちまったのかぁ?」

「すいません、そうじゃないんですよ。ただ、兄さんがとんでもない思い違いをしているものだがら、つい我慢できなくなってしまったんですよ、ね」

「思い違い、だとぉ? はっ、クソみてえな出任せほざきやがって! てめえらの負けは、とっくに決まってんだよ! 今更そんなハッタリが通用すると、本気で思ってんのか、ああ!?」

「果たして、そうでしょか? もし、スサノオに本当に勝ち目がないのなら、悪いですが僕は一足先に逃げ出させてもらいます。それなのに、僕はまだこの場に残って、悠長(ゆうちょう)に実況解説などに(かま)けている。この事実が、何を意味するとお考えですか?」

 思わせ振りで皮肉めいた彼の問いかけに、一三郎は眉をひくつかせて微かにたじろぐ。

「確かに、兄さんの釣りの技術は素晴らしい。純粋に腕の巧拙(こうせつ)のみを比較すれば、スサノオの勝機は万にひとつもないでしょう、ね。加えて、使用している道具の能力も(かんが)みれば、なおさらそうと言えるでしょう」

 肩を(すく)めて力なく頷いていたツクヨミは、「しかし」と指を立てた腕を突き出し、即座に自らの前言を否定する。

「スサノオが力としているのは、技術でも器具でもなく、心!! 自らの精神世界に深く没入し、その内奥に秘められた『真実』を引き上げる。そうすることで彼は今、真の自己と向かい合い、虚偽や欺瞞(ぎまん)のない本当の自己像を探求しているんですよ、ね」

「……は、あっ!? 何を言ってんだ、てめえは!? んなもん、この勝負とは全然関係ねぇじゃねえか!!」

 意味不明で晦渋(かいじゅう)な持論を展開する彼に、一三郎は至極真っ当な言い分を返す。

 だが、ツクヨミは少しも怯むことなく、彼へと教え(さと)すような口振りで語り始めた。

「釣りの醍醐味(だいごみ)とは獲物を手に入れるだけでなく、それを釣り上げるまでの間を如何(いか)に待つかにもあります。無為に時間を過ごす中でも平常心を保ち、魚が掛かる一瞬を、一心に待ち続ける。そして、それが(よど)みない明鏡止水の域へと至った時、その者は鏡に映る曇りない自己に直面すると同時に、大物を捕らえるための最上の条件を手にするのです。そう、スサノオはその限りなく(ぜろ)に近い瞬間を、いま正に捉えようとしているのです!!」

 ツクヨミは尊の横顔を指差し、きっぱりとそう断言してみせる。

思わず一三郎も釣られるように、半信半疑の眼光を彼へと差し向ける。

両者の注目を一身に浴び、残された時間も僅かとなっている、緊張と緊迫感に満ちた状況。

だが、その中でも尊は微動だにさえせず、呼吸だけを静かに繰り返していた。


 あの女は、俺が独りでいるのが寂しいから、金天街に(あし)(しげ)く通っているのだと(あざけ)った。

 俺は、この町へと流れてきた数年前に、あの商店街を初めて訪れた。

 突然現れて働き口を要求してくる俺を、最初は店の奴らも怪しみ、警戒していた。

だが、俺が堅実に仕事を(こな)していくのを目にする中で、彼らのそうした意識も少しずつ変わっていった。店主達は少しずつ俺の存在を認めていき、その態度も赤の他人に対する冷たく排他的なものから、身内の人間への優しく親しげなものへとなっていった。

徐々に距離感を詰めてくる彼らに、次第に俺はその好意と期待に応えようとするようになった。こうして、一日中を金天街で働き過ごすという日々は、意識されない内に俺の日常へと組み込まれていったのだった。

あいつは、俺が自分の気持ちを偽り、周囲の視線ばかり気にしていると(さげす)んだ。

俺は自分でも知らない内に、いつしか高圧的な物言いや物腰が身に染み付いてしまっていた。

昔から多くの修羅場を潜り抜け、今でも暴力的な人間達を相手にする場面が多いことが、その原因になっているのかもしれない。

だが、俺はそうする必要のない気安く接してくる人にも、同じような強い調子で出るようになってしまっていた。それはほとんど癖のようなものだったが、単に自分の強さを無理に誇示しているだけのだと、薄々ながらどこかで自覚はしていた。

照美は金天街を助けようとしない俺を、気の小さい卑怯者だと罵った。

俺は、命を賭けて戦うことに、微塵も恐怖はない。それは、確かだ。

ではなぜ、俺はヒルコとの戦いを避けようとしていたのだろうか。

本格的に彼と関わるのが面倒であり、早い内に姿を暗ますのが得策なのだと俺は答えた。

それは偽りのない本音でもあったが、同時に、現状の危機から目を逸らして逃げ出すための、都合の良い方便でもあった。

どうして俺は、そうした詭弁(きべん)(ろう)しなければならなかったのか。

何で、長らく生活の場としていた金天街と、そこに住む気の知れた人間達を助けようと、すぐに口へと出せなかったのか。彼らは、俺とヒルコの争いに巻き込まれた、何の非もない被害者であるというのに。

あの時、俺が金天街へと照美を探しに行った時、恵実は恥らうように告げていた。

「あのね、実は反対する人の理由には、みんながバラバラになっちゃったら、あなたが働きにきてくれなくなるからっていうのが多かったんだって。金天街のみんな、もうあなたのことをすっかり頼りにして、仲間だって思っちゃってるから。だから今、あなたが私の知らないお父さんのことを言った時、親子でも知らないことを見聞きするくらいに、(うち)もあんたと長い付き合いになってたんだなぁって、そう思っちゃって。ま、お互いに、腐れ縁みたいなものなんだろうけどね」

そう言った恵実は頬を人差し指で掻きながら、()()ずかしそうに苦笑いしていた。

裏表も邪気もない、ほのかな温もりを帯びた彼女の笑顔に、俺は返す言葉がなかった。

俺はあの時、恵実にどう答えるべきだったのか。俺は金天街の店主達の想いを知った時、どう反応すれば良かったのか。そして、俺はそんな彼らに、どう応えるべきだったのか。

俺は、俺は、俺は―。


地の底から突き上げるような鈍い振動が、まっさらな砂礫(されき)の大地を揺らす。

それに同期して、静寂を取り戻していた黒の湖が、その身を小刻みに震わせ始めた。

「なっ……んだぁ、これはぁ!? 俺は、何にもしてねえぞ!?」

 自らが創造した世界を襲う異変に、一三郎は激しく動揺し、(かす)れた声で叫ぶ。

 取り乱す彼とは対照的に、ツクヨミは落ち着き払ったまま、静かに尊を見詰めていた。

「さあ、いよいよ決戦だ……。誰とでもない、君自身との一騎討ちを、見事制してみせるんだ、スサノオ!!」

 それまで頼りなく(ゆる)んでいた彼の釣り糸は、直線となって水面と垂直に繋がっていた。

尊は額へと青筋を浮かべながら、剣の柄を左手一本で支える。ピンと張った糸を右手で手繰り寄せ、力尽くで鞘へと巻き取っていく。

 食い縛っていた歯の間から、尊はくぐもった声を発した。

「ああ、そうさ、その通りさ―」

 

反省もせず懲りもしない、道化めいた乱痴気(らんちき)騒ぎを続ける、どうしようもない人間も―。

 

 遠雷に似た地鳴りが、黒く塗り固められた湖の底から近付いてくる。

 湖面へと斜めに突き刺さった釣り糸を中心に、波動の円が絶え間なく広がっていく。

 空前絶後の加重に、尊の手にある十握剣が(きし)みを上げる。それでも、神の力を帯びた糸と剣は、決して千切れることも、折れることもなかった。

「俺は、この下らねぇゴタゴタした世界と―」


 馬鹿みたいにお人好しで、他人の善意を無邪気に信じてしまうような人々も―。


 尊の足元に無数の亀裂が入り、地面が彼の両足を基点として陥没(かんぼつ)する。

 広大な湖全体が隆起(りゅうき)し、丘状に大きく盛り上がっていく。

 想像を絶する現象を目の前にして、一三郎は釣り竿を取り落として絶句する。

「そこにいる、単純馬鹿な人間達が―」


 忙しなく七転八倒を繰り返す、薄汚れた落ち着きのない、この人間界も―。


 泡立った無数の気泡が、隙間なく湖面を白く覆い尽くす。

 段々と迫っていた響きが、轟音となって空気を鳴動させる。

背を曲げ屈伸した尊は、その体を思いきり後ろへと反らし、絶叫に似た雄叫びを上げた。

「大好きだあああああ!! 文句あっか、この野郎があああああああああぁぁぁぁ!!」

 太く高い水柱が、湖の上へと高く立ち昇る。

 荒れ狂う湖面を割って、ひとつの巨大な影が空へと舞い上がった。

 その影は中空で錐揉(きりも)みしながら踊り、体に付着していた大量の水を払い落とす。

 豪雨となって降り掛かる水滴を浴びながら、地べたに腰を落とした尊も、(ほう)け切ったように立ち尽くしている一三郎も、宙でとぐろを巻くその姿を共に見上げた。

 緑青(ろくしょう)色の鱗で覆われた胴体は、五十メートルはあろうかという長さ。背中や尻尾の部分には半透明の(ひれ)があり、水掻きの付いた足も四本見える。尊の釣り糸を(くわ)える口には、鋭利な歯がずらりと生え揃い、その頭部の形状はワニと非常に似通っていた。

 天空を飛び、咆哮を上げるその謎の生物に、ツクヨミは携帯していた折り畳み傘を差しながら、負けじと高らかに声を張り上げた。

「あれは、海洋棲の巨大UMA(ユーマ)、シーサーペントオオオォォ!! これこそ巨大さ・希少性ともに、文句なしの海洋界一イイイィィーーーーーッッッ!!」


 高々と宙を舞っていた幻の巨獣は、やがて重力に従って湖面へと落下する。水面を割る轟音と衝撃が周囲へと響き渡り、巨大な水柱が空を目掛けて突き刺さった。

 爆発に似た激震に遅れて、溢れ返った水が尊達の下へと押し寄せる。彼らの膝下を濡らした波が引いていった後、一三郎は気が抜けた面持ちとなって、泥濘(ぬかるみ)の上へと腰を落とした。

「はああ~あ~、ホンマやってられへんわぁ~。あんなバケモン釣られるとか、こっちは喜び損のくたびれ儲けやないか。なあ、あれって実は、反則なんとちゃうか?」

 彼は激しく気落ちしながらも、勝負の内容について食い下がる。

尊はいちゃもんを付けてくる彼へと、取り付く島もなく冷淡に言い放った。

「釣ったものなら何でも良いと言ったのは、お前の方だろ。恨むんなら、数分前の軽率な自分の口を恨むんだな」

 自らの言い分をすげなく拒絶された一三郎は、渋面を作りながら口を閉ざす。一三郎が反論を諦めたこの瞬間、尊の勝利は完全なものとなった。

 と、仁王立ちで対戦相手を睨んでいた尊の肩を、津波の範囲外へと全速力で退避し、そこから戻ってきていたツクヨミが控えめに突いた。

「ところでさ、スサノオ。君って最後の方で、何か叫んでたよ、ね? あれって、何を言っていたんだい?」

「あ? 俺、何か言ってたっけか……? よく、覚えてねえな」

「そうなんだ。じゃあ、念のために動かしておいたこのボイスレコーダー、後でじっくり解析してみることにしようかな。気になることは突き詰めちゃうのが、僕の悪い癖だから、ね」

 彼が指先で(もてあそ)んでいた小型の録音機器に、尊は電光石火の速さで手を伸ばす。ツクヨミはそれを神速の動きでかわし、後方へと大きく飛び退いて間合いを取る。

 対峙する相手の一挙手一投足を読み合う彼らを前に、ぐったりと地べたに胡坐をかいて座っていた一三郎は、力なく肩を揺らして笑った。

「今度はそっちで喧嘩かいな。ほんま、わいの家系は身内争いが好きやなぁ。その内、間違いなく死人……いや、死神が出るで。お、ちょっとわい、今上手いこと言ったんとちゃう?」

「言ってねえよ、馬鹿が。それより、約束はちゃんと覚えているだろうな? 金天街の買収計画を撤回して、どんな形であれ二度と手を出さない。もし、それを破るような真似をしやがったら……」

 強面となって睨みを利かせる尊に、一三郎は降参とばかりに両手を上げる。

「分かっとる、分かっとるって! もうわいは、あの商店街には、金輪際(こんりんざい)手は出さへんて!

悔しいけど勝負には負けてしまったんやし、嫌でも賭けの内容には従わなあかんからな」

 おとなしく降伏する彼に、尊は若干の胡散臭さを感じながらも、威嚇用の握り拳を解く。矛を収める彼へと、あらぬ方向へと視線をやりながら、一三郎はポツリと呟いた。

「せやけどな、してやられたんはそっちかて、同じかもしれへんで」

 陰湿な笑みを頬へと乗せる彼に、尊の胸中には得体の知れない困惑と不安が湧き上がる。

 相手の発言の意味を問い質そうとした瞬間、彼の視界に映っていた全ての物が、急に暗みを増していく。今まで黒い空で仄かな燐光を放っていた白い太陽が、徐々に外縁部から周囲と同色の闇に浸食され、少しずつその明るさを減じ始めていた。

突如として発生したその異変に、尊は怒りの形相となって一三郎に詰め寄った。

「てめえ、これは何のつもりだ!? まさか、勝負はあれで終わったから、俺達を改めて罠に掛けるとでも抜かすつもりじゃねえだろな!?」

「ふっふっふ、その通りや……と、言いたいとこやけど、残念ながらそれはちゃうな。あれを仕出かしとる奴は、恐らくイザナミの奴や」

 思いも掛けない名前を告げられた尊は、不意を突かれて絶句する。思わず言葉を失う彼に代わり、ツクヨミは奇妙な日食を見上げている一三郎にその真意を尋ねた。

「どうしてこの日食の原因が、母さんだと分かるのですか? 兄さんは、一体何を知っているというのですか?」

「そんなの、簡単な話や。そもそもスサノオの居場所をわいに教えてきたのは、あいつやったんやからな。わいをこいつにけしかけて何するつもりかは知らんけど、何か妙な事企んどるのは間違いないやろ。ま、わいとしてはスサノオのねぐらさえ教えてもらえれば、どうでも良い事やったんやけどな」

 飄々(ひょうひょう)として事の内実を暴露する彼に、尊は少し前、イザナミが自分の仕事先へと突然やって来ていた事を思い返す。

金天街の連中の話によると、ヒルコから土地の買収を持ち掛けられたのは、それからすぐの時期に当たる。その示し合せたような流れからして、彼女が自分の居場所を確認し、それをヒルコに伝えたというのは、どうやら間違いないようだった。

「成る程、そうでしたか。ところで、兄さんは母さんが何をしようとしていたのか、本当に何もご存じではないんですか?」

「あいつは使いをやって教えてきたさかい、こっちもそれについては、知りようはなかったわ。せやけど、ここにある太陽は、外の世界の太陽とも同期しとる。それが急に(かげ)り始めたっちゅーことは、あのアマ公の身に何かあったのかもしれんな。でも、あいつは上の方に居るはずやし、何でイザナミの奴がどうにか出来るんや?」

 不可解そうに眉根を寄せるヒルコの眼には、嘘や誤魔化しなどではない、本物の疑念の色が滲んでいた。それを目にしたツクヨミは、尊の耳へと顔を寄せ、小さな声で(ささや)きかけた。

「どうやら、兄さんは今の姉さんのことは、本当に何も知らないみたいだ、ね」

「そう、らしいな……。あのクソババア、ヒルコを俺達にぶつけて、アマテラスから目を逸らさせる魂胆だったんだろう。あいつが俺達の所を飛び出して、独りで行動するところまで読んでいたとは、正直考えたくはないがな」

「だとすると、正直この状況は、結構不味(まず)いんじゃないかな? 兄さんの言う通りだとすると、姉さんはもう、母さんの手に落ちてしまっているようだし、ね」

 徐々に円周を狭めつつある太陽を見上げ、そう苦言を呈するツクヨミに、尊は苦虫を噛み潰しながら無言のまま同意する。

 もし、既にアマテラスが消滅させられているのであれば、彼女が(つかさど)っている太陽もまた、同時に消え失せてしまっているはずである。

しかし、当の太陽は未だ消えず、代わりに時期外れの奇怪な日食を起こしている。

それは、アマテラスが本来の居場所である天上界や、現在居る人間界から乖離(かいり)していること。つまりは、闇と瘴気の空間である、黄泉國へと下っていることを示していた。

アマテラスの今の姿である照美を(さら)ったのは、十中八九イザナミと見て間違いない。

だが、仮に高天原と葦原中國を一挙に滅ぼすのが目的なのだとしたら、なぜあの女は即座に照美に手を下さないのか。彼女を生かしたまま、自らの世界へと連れ帰ることで、何を成し遂げようとしているのか。

イザナミの行動に不審感を抱く尊だったが、確実に進行を進めている太陽の陰を前に、憶測を巡らせる暇はほとんどなかった。彼は傍らに立つツクヨミへと向き直り、急ぎ天上界のイザナミに協力を求めてくるよう告げた。

「あのババアが下に降りたばっかだとしたら、まだ追いつけるかもしれねえ。親父にお前から事情を説明して、黄泉比良坂(よもつひらさか)への入口を開くよう説得して来てくれ」

「マハ、ラジャー!! ……と、言いたいところだけど、それだとどうしても間に合わないだろう、ね。どんなに僕が急いだとしても、上に着くのは母さんが下に戻るのとほぼ同じタイミングのはずだ。そうなったら、もう僕達には、何も手が出せなくなってしまう」

 黄泉國へと繋がる道である『黄泉比良坂』の入口は、通常は総氏神(そううじがみ)であるアマテラスか、その父であるイザナギにしか開けることは出来ない。なので、イザナミのように黄泉國側からの干渉法を持つはずもない尊には、どうやっても自力でそこへ到ることは不可能だった。

 なので、アマテラスが不在の現状では、同じ力を有するイザナギに力を借りるしか他はない。だが、ツクヨミが言うように、今から天上界へと赴いて道を開かせたとしても、先に人間界を発っているイザナミに追いつけるとは到底考えられない。

 もはや尊とツクヨミには、照美を助けに行くための手段も方法も、何一つとして残されてはいなかったのだった。

 彼らは互いに沈黙を保ったまま、(いたずら)に焦燥感と無力感を噛み締める。そんな弟達を座ったまま眺めていたヒルコは、やがて何気なく声を掛け、彼らの注意を引いた。

「さっきから何やこそこそ話ししとるけど、どうしたんや? イザナミを追い掛けるとかどうとか、聞こえたような気がするんやけど」

「ああそうだよ、気のせいじゃねえよ! こっちの気が散るから、少してめえは黙ってろ!」

「ふうん、やっぱそうか。そんなら、口を(はさ)んだお詫びに、ちょいと手ぇ貸したろか?」

そう切り出した一三郎は答えを待たず、おもむろに指を軽く鳴らす。良く通る高い音が空気に溶け込んでいった直後、唐突に地面が重々しく鳴動を始めた。

地下より突き上げてくる振動に戸惑う尊の眼前で、先程彼と一三郎が釣り勝負を行った広大な湖面が、まるで底が抜けたかのように水位を下げていく。

そして、轟々とした地鳴と水流の音が遠くへと去った時、それまで黒々とした水面が広がっていた場所には、空虚な闇が溜まる巨大な縦穴が出現していた。

突然の事態に愕然とする尊達へと、一三郎は腰を挙げながら快活に笑い掛ける。

「びっくらこいたか、お前ら? 実はこん穴、世界中の水場だけやのうて、黄泉比良坂にも繋げられることが出来るんや。()わば、黄泉國への裏道、ってところやな」

「裏道、だと……!? お前、どうしてそんな物を、自由に開けるんだ?」

「そないなこと訊かれても、出来るもんは出来るから、しゃあないやんけ。まあ、あんまり認めたくないんやけど、たぶんあのイザナギから受け継がれた力なんやろな。あいつと同じ血がこの体に流れとるかと思うと、正直虫唾(むしず)が走って堪らんのやけどなあ」

さも嫌そうなしかめっ面を作りながらそう吐き捨てる彼を横目に、尊は大地へと開けられた空洞の(ふち)へとにじり寄る。大きく口を開いたその(うろ)の中は、濃密な闇で黒く濁っており、少しも見通しが利かない。正に、黄泉國でなければ、冥府か地獄にでも届いていそうな、そんな底知れなさを思わせる不気味な空間だった。

穴の上から身を起こした尊は、不審と猜疑(さいぎ)に満ちた視線を、一三郎の方へと鋭く流した。

「だが、お前が俺達のために道を(ひら)くなんて、一体どういう風の吹き回しだ? お前は、あのクソババアと協力していたはずだろうが」

「協力ぅ? はっ、馬鹿なこと言わんといて欲しいわ。わいは、お前を痛い目に遭わすために、リークされてきた情報を利用しただけ。あの女と手を組むなんて、死んでもお断りや」

「なら、その手を貸したくないのは、俺達だって同じじゃねえのか? 調子の良いことを言っておきながら、この穴は黄泉國じゃなくて地獄行きだなんて、そんな落ちは要らねえぞ」

「怖いんなら、止めといても良いんやで。ただ、わいは自分を良いように使ったあの女が許せんし、あいつが何をしようとしてるか知らんが、思い通りにさせたらこっちもヤバイと思ったから、今回特別にお膳立てをしてやろうと思っただけや。この人間界が消えて困るんわ、わいもお前も同じやからなあ」

 あっけらかんとしてそう答える彼に、尊は今一度、地下へと伸びる空洞を見下ろす。

 確かに、イザナミがその企み事を達成することは、同時に人間界の存続の危機にも直結する。その限りでは、彼が自分達に助力しようするのは、自然な発想であるだろう。

 だが、相手は過去に幾度も敵対関係となり、今しがた一戦を交えもした一三郎である。

こちらに協力する素振りを見せながら、既にイザナミとは密約を取り交わしており、自分達を罠に嵌めようとしている可能性も、決して排除はし切れなかった。

 (うつ)ろな暗闇を凝視しながら静かに苦悶する尊に、彼と同じ懸念を抱いていたツクヨミは、不用意に危険に身を(さら)すべきではないと訴えた。

「無理に、兄さんの口車に乗る必要はないと、僕はそう思うんだけど、ね。第一、ここを通って母さんに追い付けたとしても、何も準備のないままじゃあ、返り討ちに遭うかもしれない。やっぱり、ここは僕が大急ぎで上に戻って、父さん達に事の次第を伝えてから―」

「だから、それじゃあ間に合わねえんだろうが。まあ、確かにお前の言う通り、こいつはどっちに転んでも、面白くない展開になっちまうだろうな。だが、生憎(あいにく)俺は、自分の運命が決められるのを黙って待てる程、おとなしくはないんでね」

 ツクヨミの言葉を途中で(さえぎ)った尊は、気負いのない足取りで穴の手前に両足を揃えて立つ。

 自分達が議論を交わしている間にも、日食は刻一刻と段階を進めていた。これ以上、疑心暗鬼に囚われる暇も、呑気に会話をしている時間も、残されてはいなかった。

 意を決して大地の裂け目へと望む彼を、一三郎は軽薄な口笛を吹いて(はや)し立てる。

「おっ、やっと腹を据えたんかいな、このビビリさんは。このわいが、血の滲む思いで特別に力貸してやるんや。だらしのない結果にでもなったら、承知せえへんで」

「そっちこそ、肝心なところで手の平返しやがったら、容赦しねえからな。ツクヨミ、お前はここに残って、こいつが勝手な真似をしないか見張っておいてくれ。戻る段階になってここが閉ざされでもしてたら、洒落(しゃれ)にもならねえからな」

「分かった、任せておいて。姉さんのことは、くれぐれも頼んだよ。絶対に、二柱で無事に帰ってくるんだ」

 短いやり取りを交わした尊とツクヨミは、自信と信頼を込めた視線を合わせる。

小さく頷き合う彼らを見比べながら、一三郎は心持ち冷めた表情となっていた。

「なあに、気色悪いことやってんのや、お前らは。はよ急がんと、イザナミに追い付く追い付かん以前に、この穴の方が先に閉じてまうで」

 彼の言葉を耳にした尊が足元へ視線を降ろすと、そこではあたかも映像を逆再生するかのように、崩れ落ちていた土の塊が穴の縁へと昇り、至る所で接合を始めていた。

 見る見る枠を狭めていく空洞に、彼は焦りの滲んだ眼差しで一三郎を睨み付ける。

「おい、どういうつもりだ!? てめえやっぱり、俺を生き埋めにするつもりか!?」

「まあ、そうしたいのも、やまやまなんやけどな。せやけどこれは、単に黄泉比良坂への裏道を維持するのにも、限界があるってだけのことや。正味(しょうみ)、一回につき半刻程度が限度やし、この機を逃したら、向こう二・三日は開けられへんで。せやから、()めるんやったら今の内やな」

 挑発気味な口調でそう説明する彼に、「そういう事は早く言え」と毒づき、尊は少しずつ遠ざかりつつある穴から、数歩下がって間隔を開ける。そして、彼が助走を付けて駆け出そうとした寸前、一三郎が重ねて揶揄(やゆ)の言葉を投げつけた。

「下に行く途中で、怖じ気づいてションベン漏らさんよう気を付けや、スサノオ。これ以上みすぼらしい恰好なったら、もう目も当てられんくなってまうぞ」

「余計なご忠告、どうも。だが、幸いこっちはお前みたいな根暗チキンじゃねえが、落ちるのはお前同様、とっくに経験済みなんでね」

その切り返しに一三郎の顔が微かに強張るのをよそに、尊は前傾姿勢を保ったまま、その場より疾走(しっそう)する。穴の縁へと到った彼は、渾身の力で大地を踏み付け、高らかに跳躍する。放物線を描いて宙を舞った尊の体は、真下に広がる茫漠とした漆黒の中へと沈み込んでいった。

縦穴に飛び込んだ尊の視界は、瞬く間に冷たい闇に閉ざされる。身を包む一寸先も見通せない暗黒と、耳朶(じだ)を打つ寒々しい風の音に、彼は自然と人間界に来た時のことを思い出した。

あの時は、葦原中國へと追放される形で、アマテラスに下界へと繋がる穴に蹴落とされていた。それが、今度はあの女を助けるために、自ら黄泉國へと下っていくことになるとは、まるで達の悪い冗談か、ご都合主義な三文芝居のようである。

数奇な運命の巡り合わせに苦笑を漏らしながら、尊は更に深い暗闇の底へと舞い降りていく。

そして、臓腑(ぞうふ)が持ち上げられるような、不愉快な落下の感覚が次第に薄れ始めた頃。

それまで黒く塗り固められていた尊の視界に、行く手である穴の奥底に(とも)っている、小さな幾つもの紫色の光点が映った。

即座に鼻を(うごめ)かせた彼は、その周辺から漂ってくる、鼻孔の粘膜が焼け付くような濃密な腐臭を嗅ぎ取った。

 嫌という程に覚えのある、吐き気を(もよお)すような、邪悪な陰の想念。

目的地に到達したのを見定めた尊は、瞬時に片手に(たずさ)えていた十握剣を抜刀する。抜き身となった両刃の刀身からは、鮮烈な真紅の燐光が(ほとばし)る。彼は中空で機敏に身を(ひるがえ)し、(まばゆ)い赤い閃光をまとった剣を振り下ろした。

闇を鋭く切り裂いた紅蓮の斬撃は、尊の下方へと凄まじい衝撃波を放つ。逆方向への急激な制動が掛かった彼の肉体は、その強力な負荷を流れるような宙返りで、最小限にまで軽減した。

一瞬の滞空の後、尊は姿勢を制御しながら、目前に迫っていた地面へと着地する。彼の剣圧によって(えぐ)れたそこは、黒味を帯びた緑青(ろくしょう)色の砂と、濁った緋色の(つぶて)に覆われていた。

その毒々しいまでの色彩をした大地には、歪曲した枝先から青紫の炎を漏らす、黒く立ち枯れた木々が乱立している。暗い原色が(いびつ)に混ざり合う、毒々しく、そして禍々(まがまが)しい光景の中、尊は自分へと背を向けて立つ、イザナミの白い立ち姿を発見した。

「ようやく来おったか、スサノオ。しかし、お主如何(いか)ようにして、この地へと到ったのじゃ? あの男から力添えを得たにしては、随分と事の運びが早いようにも思えるが」

 彼女は天を割って現れた尊を振り返り、少しも動じる様子を見せずにそう尋ねる。

 白無垢のワンピースを薄闇に浮かび上がらせている彼女に、尊は立て膝よりゆっくりと腰を上げながら、黄泉比良坂へと侵入した経緯を冷たく言い放つ。

「ヒルコの奴が、ここへの裏道を持っていてな。お前の目論見(もくろみ)を知ったら、喜んで協力してくれたぜ。あいつ、お前に上手く使われていたと分かって、だいぶご立腹だったぞ」

「ほう、そうであったか。生まれても何の足しにもならなかったあの愚息(ぐそく)も、(おとり)役のみならず、お主の水先案内まで勤めてくれたか。しっかと期待以上の成果を出してくれるとは、さすが腐っても我が子じゃのう」

 彼の説明を耳にしたイザナミは、さも愉快そうにころころと笑っていた。

その不可解な反応と発言に細められた尊の目に、彼女を挟んで立つ、一つの影が映る。紫色の闇に目を凝らした彼は、それが照美であると知って、小さく息を呑んだ。

僅かに地表より持ち上げられている彼女の体には、触手に似た形状の黒々とした突起が、幾重にも取り巻いている。

照美を雁字搦(がんじがら)めにしているその網からは複数の鋭い先端が突き出しており、彼女の肌は刺されている箇所を中心にして、内出血を起こしているかのように赤黒く染まっている。ほぼ全身を黒に侵食されている彼女の横顔は、気を失ったまま苦悶の表情を形作っていた。

 そして、苦し気な呻き声を上げる彼女の手前には、灰色の粗末な衣に(ちぢ)れた長い白髪という、全く同じ容貌をした老婆達が蟻のように(むら)がっていた。

 骨と皮のみしかない痩躯(そうく)幾重(いくえ)にも重ね、彼女達はある一ヶ所へと殺到している。そこには、地表を真っ直ぐに割る、大きな亀裂が刻まれていた。その割れ目に老婆達は左右から寄って(たか)り、力と数を頼りにこじ開けようとしていた。

獣染みた唸り声を上げるその者達は、イザナミが下僕として使役している『黄泉醜女(よもつしこめ)』という黄泉國の住人である。そして、彼女達が遮二無二(しゃにむに)に開こうとしているのが、黄泉國と黄泉比良坂を(へだ)てる『黄泉戸(よみど)』の大岩であった。

「げに、黄泉國と葦原中國の往来は難儀よのう。あの男がこのような物をこさえたばかりに、通る度に妾の手勢の多くを無駄としてしまう。おかげで、お前の世へと足繁(あししげ)く通うことも叶わぬ。作り手共々、忌々しいことこの上ないというものよ」

 力尽きた黄泉醜女が集団の外へと弾き出されるのを眺めながら、イザナミは憂鬱(ゆううつ)そうに軽く溜息を零す。そうして表情へと愁眉(しゅうび)を乗せる彼女に、尊は険を込めた詰問を飛ばす。

「まず、一つ訊く。てめえは、今、何をしようとしてるんだ?」

「黄泉戸の岩を解き放ち、アマテラスへと黄泉の瘴気を存分に含ませる。初めは、妾の分を注ぎ込んで事を果たすつもりであったが、どうにもそれでは足らぬようでな。だが、黄泉に溜まる無尽蔵の瘴気をあらん限り吸わせれば、それはこの未熟な体躯(たいく)には良く馴染むじゃろうて」

「何で、そんなことを……って訊くのも、野暮だよな。どうせ、親父への当て付けか、嫌がらせが目的なんだろ?」

「当然よ。あの男の一番のお気に入りであるこの子を黄泉に落とせば、さぞかし嘆き、落胆し、打ちひしがれるじゃろうて。ああ、その様を思い浮かべるだけでも、今から胸がすくようじゃ」

「はっ、下らねえ夫婦喧嘩なら、今まで通り勝手にやっててくれ。俺としちゃあ関わるのも面倒だし、口も手も出すつもりはねえ。まあ、それはそうとして、アマテラスが完全に瘴気に呑まれたらどうなるか、参考までに教えてはくれないか?」

「無論、太陽は塵芥(ちりあくた)と消え、全ての世は無限の闇に包まれる。そうなれば、天上界も人間界も全て黄泉國の領域となり、陰としての隠世(かくれよ)こそが、真の現世(うつしよ)へと成り代わるであろう。言わずとも、知れたことよ」

「ふうん、そうかそうか。だったら……」

 イザナミの説明を聞き終えた尊は、砕けた笑いを浮かべながら、おもむろに前へと一歩を踏み出す。瞬間、彼の双眸へと、(にわ)かに()えた輝きが走った。

「今回ばかりは、口も手も出させてもらうしかねえな!」

 踏みしめられた彼の足に、即座に膨大な量の霊力が(みなぎ)る。

 尊はそれを余すところなく筋力へと転換し、爆発的な加速をかけて突進する。彼は後方へと土埃(つちぼこり)を巻き上げながら、背中側に残像を置き去りにする程の速度でイザナミへと迫った。

 一秒にも満たない内に接近する彼に、イザナミは身動き一つ、瞬き一つとしてしない。

 尊は彼女の寸前で真横へと跳躍し、その(かたわ)らを素早く通過する。相手へと牽制を掛けた彼は、そのまま宙に縫い付けられている照美へと肉薄し、右腕を突き出す。

 しかし、差し伸べられた彼の手は、突如出現した黄土色の瞬きによって弾き返された。

 行く手を(ふさ)ぐ半透明の壁からの反発に、尊は大きく後ろへと跳び退()く。体勢を整えた彼の右手には赤い火傷の跡が刻まれ、痛みと痺れから微かに痙攣(けいれん)を起こしていた。

迂闊(うかつ)よのう、スサノオ。主の考えていることなど、母である妾には手に取るように分かるわ。隙を突いたつもりであろうが、全ては詮無(せんな)きことよ」

 速攻を仕掛け、照美の奪還を図った尊へと、イザナミは長髪を掻き上げながら忠告する。彼女のその右腕は、肩から先の皮膚が冷えた溶岩のように硬質化しており、大小様々な亀裂が縦横無尽に刻まれていた。中でも、一際大きく裂けた手の甲の切れ目からは、仄暗い褐色の輝きが漏れ出し、何条もの電流が放たれていた。

互いに絡まり合い増幅したそれらは、一本の太い稲妻となってイザナミと照美の前に立ちはだかっていた。

その赤茶けた光を放つ(いかずち)奔流(ほんりゅう)こそ、イザナミの右手に棲む雷神、『土雷(つちいかずち)』であった。

天上界から黄泉國へと下ったイザナミは、そこで体に八つの雷の精を宿らせていた。その内、右の腕に封じられているのがこの土雷であり、これは雷でありながら大きな質量を有していた。

いわばこの雷神は、形状を自由に変形させられる、強固な壁ともなる存在であった。

あえなく元の位置へと押し戻された尊は、その鉄壁で自身も同じく覆っているイザナミを油断なく睨む。再び突撃の機会を窺っている彼へと、イザナミは不思議そうに小首を傾げた。

()せぬのう、スサノオ。なぜにお主は、そうもアマテラスを救おうとする? お主にとってこの姉は、(うと)ましくて仕様のない、仇怨(きゅうえん)を抱く相手ではなかったのか?」

 彼女の疑問に彼は口を固く結び、正面に向けていた眼差しを、自らの足元へと伏せた。

微かに狼狽を見せる尊に、彼女は更に言葉を重ねた。

「スサノオよ、妾は此度の一計を案じた時より、我が子を黄泉へと落とすことを()()としてきた。しかし、それはアマテラスだけではなく、お前もまたそうであったのじゃ」

「何……だと……!?」

「スサノオ、この際お主も、こちらの側へと加わらぬか? お主には、黄泉の力の素質がある。それは、高天原より追われて以来、葦原中國を流浪(るろう)し続ける様を見ていた妾には、よう分かった。お主ならば、黄泉國において遺憾なくその本領を発揮し、稀代(きだい)の悪神へとなることも容易(たやす)かろう。お主にとっての真の居場所は、あの天上界でも、この葦原中國でもなく、混沌に満たされた黄泉國なのじゃ。そうは、思わぬか?」

 負傷した右手を(かば)いながら動揺を滲ませる彼へと、イザナミは侵食も最終段階にある照美を指し示した。

「そうじゃ。なれば、この子を譲ろうではないか。黄泉へと落ちれば、アマテラスも(まった)新神(あらがみ)として生まれ変わる。お主はそれを(しもべ)なり何なりとして、好き勝手に甚振(いたぶ)れるのじゃぞ。この姉に非道な仕打ちを受けてきた身としては、雪辱(せつじょく)を晴らす願ってもない好機ではないか」

 彼女の申し出を耳にした尊の顔に、思わず歪んだ笑みが(こぼ)れる。彼は細い吐息を漏らして脱力し、イザナミへと気怠(けだる)そうな視線を上げた。

「それはまた、魅力的な誘い文句だな。確かに、あのいけ好かない女を顎で使えるようになったらと思うと、正直胸が躍らずにはいられねえしな。さぞかし、スカッと気分も爽快になるだろうぜ」

 喉を低く鳴らして笑う尊に、イザナミは薄っすらと微笑みかける。彼女が後を繋ごうとして発しかけた言葉を、「でもよ」と、尊の芯の通った声が(さえぎ)った。

「あいつがどんな姿になったとしても、相手にすると上手くいかないってのは、とっくにこっちで証明済みなんだよ。それに、俺が仕返しをしたいのは、アマテラスだった奴じゃねえ。あの高慢ちきで鼻持ちならねえ、いつも嫌に偉ぶっている女の方だ」

「ふうむ、成る程なぁ。では何故(なにゆえ)に、お主はこの子を救い出そうとしておるのじゃ? この照美とかいう方の女子(おなご)を、それ程までに気に入っておるとでも言うのかえ?」

 イザナミは彼をからかうように、思わせ振りな問いを投げる。

それを軽く鼻で笑った尊は、右の手で拳を作り、震えを握り潰す。

雷の檻を広げ、自身と照美を覆い隠している彼女を、彼は強烈な眼光で刺し貫いた。

「悪いがそりゃあ、大外れだな。てめえには関係ねえことだが、俺はそいつに―」

 腰を落として上体を沈め、彼は全身へと霊力を張り詰めると、

「言っとかなきゃいけねえことが、あるんだよ!!」

 地を揺るがす程の力で足場を蹴り出し、再び猛然として突っ込んでいった。

 またしても攻勢を掛ける尊に、イザナミは不敵な微笑を頬へと張り付ける。直後、彼女のワンピースの胸元が内側から張り裂け、そこから朱色の雷が解き放たれた。

 準備動作もなく放電された、その幾条もの赤い筋は、イザナミを守る土雷へと溶け込むように浸透する。防御壁を抵抗なく通過したその電光は、複数の雷撃となって尊の進路上の地面を穿(うが)ち、彼をその場へと釘付けにした。

 顕わになったイザナミの胸部は、土雷を顕現させている右腕同様、鉱物めいた質感へと地肌を変じさせている。そして、乳房の中間を縦に割る深い溝より、黒い血潮のような明かりを溢れさせるそれこそが、彼女の胸奥(きょうおう)に潜む雷神『火雷(ほのいかづち)』であった。

 この雷神が打ち出す電撃は、落雷箇所へと瞬時に高温を生じさせ、同時に小規模な爆発を引き起こす。土雷が防御を担うものであるとすれば、対して火雷は、攻撃に適した特性を有する雷の精であった。

 尊の進行を(さまた)げたイザナミは、踏み止まり身構える彼へと、軽く(かぶり)を振って叱責する。

「そういきり立つでない、スサノオ。もうじき黄泉戸の扉も開き、アマテラスも(つつが)なく堕天を果たす。一言物申したいことがあらば、それからでも遅くはなかろうて」

 土雷の壁の向こうでは、黄泉醜女達が少しずつ黄泉戸の中へと体を捻じ込ませ、その隙間を確実に広げつつある。そして、前よりも間隔の開いたそこからは、黄泉國の瘴気が数本の黒い煙となって、徐々に外へと漏れ出し始めていた。

 着実に解放されつつある黄泉戸に、尊は冷たい油汗を額へと垂らす。その爪先を(いびつ)な軌道を持った朱色の閃光が(かす)め、爆風によって彼を更に後方へと押し返した。

 踏鞴(たたら)を踏んでよろける尊に、イザナミは間断なく火雷の稲妻を連射する。

束となって押し寄せる赤い波に、彼は即座に身を(ひるがえ)し、間一髪でそれらを回避する。横っ飛びに攻撃を(かわ)した尊は、イザナミを中心にして反時計回りに全速で駆け、照美の方へと回り込んでいく。正面からの突破を避ける相手に、イザナミは加えて胸部から雷の弾を発射し、容赦(ようしゃ)のない集中砲火を浴びせ掛けた。

尊の周囲へと着弾した雷撃は、赤黒い砂塵(さじん)を巻き上げ、林立する黒炭の木々の幹を削ぎ落す。

彼は自らへと命中する弾道の物を、素早く剣を振るい斬り伏せながら、只管(ひたすら)に前進を続けた。

濁った粉塵の中を一心に駆ける尊に、イザナミは頬へと手を添え、呆れたように嘆息する。

「お主も童の頃より、何ら変わっておらぬのう。意地っ張りの天邪鬼(あまのじゃく)で、なおかつ猪突猛進の一点張りなところなど、正に幼き日そのままじゃ。お主が何を考え、どう動いたとしても、この母に対しては無策も同然であると、まだ分からぬか?」

攻撃の手を一切緩めないまま、彼女は慈悲と寛容の込められた穏やかな口調で、火雷の猛攻を(しの)いでいる尊へとそう(さと)す。静かな笑みを湛えて、我が子を見守る彼女の傍らでは、遂に黄泉戸が重々しい音を立てて口を開いた。

数体もの黄泉醜女がその身を潜り込ませている岩の合間からは、黄泉比良坂を覆う濃密な闇を更に凝縮させた、黒墨のような(おり)が覗いている。そして、内奥を(さら)け出したその裂け目からは、泥にも似た黒い瘴気の塊が、雪崩を打って溢れ出し始めていた。

もはや、照美を瘴気の浸食から救い出すには、一刻の猶予もない。

赤く閉ざされた視界越しの情景に、尊は事態の緊急性を見て取る。直後、彼は一瞬の躊躇(ちゅうちょ)も逡巡もなく、それまで徐々に距離を詰めていた照美へと、一気に突撃を仕掛けた。

(はりつけ)にされていた照美の目前には、地底より漏れ出た瘴気の淀みが、渦となってにじり寄りつつある。そんな危機的状況にある彼女の下へ直行する尊を、その進行方向から幾多もの赤い光の矢が迎え撃った。

()い加減に諦めよ、スサノオ。これ以上に奮起を重ねても、所詮は徒労じゃと言うとろうに」

 衝撃と爆音に包まれる中、イザナミの嘲笑が混じった苦言を耳にしながら、尊は行く手を阻む黄土色の防壁だけを見据えていた。

 確かに、凄まじい強度を誇る土雷は、十握剣の斬撃でさえも簡単には破れない。だが、イザナミが火雷による迎撃を行っている今、そこには微かではあるが、突破を可能とする隙が生じていた。

 その一握りの希望に尊は全てを賭け、襲い来る雷撃を斬り分けながら前進を続ける。

そして、土雷の手前へと到った彼は、火雷の閃光が障壁へと内側から潜り込む瞬間を見極め、その軌道へと神速の突きを繰り出した。

外へと出た赤い電撃を両断した十握剣の剣先は、そのまま土雷へと衝突する。しかし、雷の鉄壁はその突きを跳ね返すことなく、刀身の半ばまでをその身に貫通させてしまっていた。

 火雷による攻撃を外へと通過させる瞬間、土雷は射出箇所に当たる壁の一部分の密度を、僅かにではあるが減じさせていた。尊はその一瞬と一点を狙い、全神経と全力を傾けた、全霊の一撃を放っていたのだった。

 防御手段を失った尊には、次々とその他の雷が牙を剥いて襲い掛かる。体中を蹂躙(じゅうりん)する熱を帯びた激痛に屈することなく、彼は土雷へと突き立つ十握剣の柄を両手で握り締め、凄絶な絶叫と共に斜め上へと斬り上げた。

 身の内より鋭く斬り込まれた土雷は、その力を相殺することが出来ずに、尊の剣を基点として巨大な亀裂を刻む。そして、壁の表面へと現れたその(ひび)へと、彼は間を置かずに固めた右拳を叩き付ける。脆弱(ぜいじゃく)となった部分を強襲する一撃に、衝撃を吸収し切れなくなった防御壁は、打ち付けられた尊の拳の部分から四散した。

 断末魔の放電を散らして瓦解する土雷に、イザナミの右腕にも大きな裂傷が走る。動揺に顔を引きつらせる彼女を尻目に、尊は照美の所へと疾駆(しっく)する。そして、彼女を今にも呑み込もうとしている瘴気の濁流に向け、彼は左手に構えていた十握剣を数歩手前より振り払った。

唸りを上げて空を裂いた剣先は、鮮やかな赤色の太刀筋を後に引き、強風を発生させる。その苛烈な剣撃による衝撃波は、黄泉戸に群がっていた黄泉醜女達を吹き飛ばし、照美へと鎌首をもたげていた瘴気の魔手を吹き散らした。

同様に風圧のあおりを受けた照美は、手足へと突き刺さっていた数本の黒い触手が断ち切れ、奇怪な十字架の上より解放される。そのまま力無く落ちる彼女を、尊は素早くその下へと滑り込み、地面へと叩き付けられる寸前で抱き留めた。

イザナミによって、既にある程度の瘴気を注入されていた照美の肌は、所々が毒々しい黒紫色に染められていた。やがて、小さな呻き声を上げた彼女は、顔面で唯一元の肌色を保っていた左目を薄く開き、自分を抱きかかえる尊を虚ろな目で見上げた。

「み……こ、とぉ……? なん、で……ここ……に……?」

「お目覚めかい、お姫サマ? すぐに助けてやるから、もうちょっと辛抱してな」

 か細い声を漏らす彼女に軽く笑い掛け、尊は真上へと注意を向ける。彼らの遥か頭上では、黄泉戸より噴出した瘴気が傘となり、既に広い範囲を覆い尽くしていた。その情景を前に舌打ちを漏らす尊に、照美は黒炭と化していた唇の合間から、途切れ途切れに言葉を(つむ)いだ。

「み、こ……だめ……。早、く……あんた、だけ……逃げ、て…………」

「つうかさ、どうでもいいんだが、お前に一応伝えておくことがある」

 苦し気な吐息を縫って、懸命に搾り出される照美の声に、尊は素っ気なく言葉を被せた。

「金天街の買収話だが、ついさっき、俺が潰してきてやったぞ。あんまりヒルコの奴がウザかったから、追い払うついでに、な。どうだ、俺を見直したか?」

 閉じかかっていた照美の目が、驚きに大きく見開かれる。やがて、それは笑みの形に細められ、彼女は混濁した意識のまま、顔を背けている尊へと嬉しそうに微笑みかけた。

 周囲へと隈なく視線を配っていた尊の視界に、ゆったりとした歩調で寄って来る、イザナミの姿が映る。傷跡の生々しい右腕を押さえる彼女は、照美を奪取した彼を、変わらず余裕を湛えた眼差しで見遣った。

「ほう、火雷の攻勢へと身を(さら)しながらも、土雷を突き破るとはな。世辞にも上策であるとは言い(がた)いが、実に短慮であるお主らしき、強引な手よのう」

「はっ、負け惜しみ言ってんじゃねえよ。悪いがアマテラスは、取り返させてもらったぜ」

「それは実に、良かったのう。(しか)し、この後はどうする所存じゃ? そやつを(かいな)へと抱いた所で、何ら大勢には響いてはおらぬように、妾には見受けられるのじゃがなあ」

 不出来な我が子を(いつく)しむ目となるイザナミに、尊は十握剣の切っ先を突き付けながら、ぐったりとした照美を抱えて後ろへと下がる。

不敵な笑みを浮かべる敵より後退していた彼は、不意に何かに足を取られて姿勢を崩す。いつの間にか尊の足元へと這い寄っていた黄泉醜女の一体が、その節くれ立った冷たく細い腕を伸ばし、彼の左足首へと長い指を絡ませていた。

見た目からは想像も付かない腕力で足を締め上げる相手に、尊は即座にその障害を排除しようと剣を掲げる。だが、高く振り上げられた彼の腕は、すぐ横へと忍び寄っていた別の二体の黄泉醜女によって掴み取られてしまう。はっとして周りを見回した尊は、自分達が既に複数体の黄泉醜女達によって、完全に包囲されていることに気が付いた。

凍り付いた表情へと青みを差す尊に、イザナミは口元を手で覆いつつ、忍び笑いを漏らした。

「ほうれ、()やに危急の(とき)であるぞ。さあ、どうするのじゃスサノオ? 大人しく白旗を挙げてその()を戻すのと、痛い目を見て奪い返されるのと、どちらがお主の好みかえ?」

 獲物を甚振(いたぶ)るかのような彼女の問いに、尊は敵意と反意に(いろど)られた視線を返す。言外に降伏を拒絶する彼に、イザナミは細い眉を悲し気に寄せ、小さな溜息を吐き出す。その微かな吐息の音を合図に、じわじわと輪を狭めていた黄泉醜女達は、一斉に尊達へと躍り掛かった。

 雪崩のように押し寄せる、硫黄と腐臭の匂いをまとった老婆の群れに、尊は咄嗟に照美の上へと身を伏せる。身を呈して彼女を庇うその背や腕には、無数の鋭い牙や鉤爪が突き刺さり、幾つもの傷跡を刻み付けていく。

 全身を(なぶ)る暴威の渦の中、尊は照美だけは奪わせまいと、懸命に彼女を抱き締め守り続ける。

 それでも、絶え間ない殴打を受け続けた尊は、次第に体力を消耗させていく。圧し掛かる黄泉醜女達の影に閉ざされていた彼の視界は、やがて滲むような黒へと塗り潰されていった。

 そして、加速度的に遠のいていく意識の中、尊がイザナミの甲高い笑い声を耳にした時。

全てから一切の色が消え失せかけていた彼の視界が、圧倒的な白の奔流に染め上げられた。


正にそれは、もうひとつの太陽であった。

 濃縮された臙脂(えんじ)色の光点を中心に、眩いばかりの黄色い光が拡散し、周辺の黄泉醜女と瘴気を一瞬にして消滅させる。

前触れもなく炸裂した山吹色の嵐に、イザナミは思わず後ろへと跳び退(すさ)る。再生した土雷を盾とし、その衝撃と閃光から身を守っていた彼女は瞳を見開き、「何とも、間合いの悪きことよ」と苦々しく(つぶや)いた。

白光の爆発の中心にいた尊は、無色の光景と無音の空気の中、目を凝らして耳を澄まし、何が起こったのかを必死になって探る。やがて、視界へと映った眼前に立つひとつの影に、彼は呆然としながら「クソ、アマ……」と零した。

あらゆる物を呑み込む光の中、尊へと背を向け屹立(きつりつ)する、細身の体躯をした若い女性。

その身は豪奢な作りをした(ころも)()で覆われ、腰の辺りには複雑精緻な模様の入った領巾(ひれ)が巻かれている。首や耳は宝石の付いた(きら)びやかな飾り物で(いろど)られ、幾つもの(くし)で留められている頭には、(つや)やかな長髪が波打つように(なび)いていた。

絢爛な出で立ちをしたその女性は、しかしそうした外見の印象を(かす)れさせる程の、圧倒的な霊気と存在感を放っていた。

黄金色の輝きを身に帯びる彼女は、身に付けていた衣服や装飾品の端を振り、尊の方へと体を回す。寒気を覚えるほどに整った、神がかった美しさを備えた細面が現れる。聡明さを窺わせる細く通った秀眉の下、澄み切った綺麗な双眸が、足元へと(うずくま)っている尊へと降ろされた。

久方(ひさかた)ぶりです……とでも言うべきなのでしょうかね、スサノオ。どちらにしても、この姿であなたと言葉を交わすのは、貴方を高天原より追放とした、あの時以来ですね」

 懐かしむようにそう語る彼女に、尊はその姿と雰囲気からはっきりと確信した。今まで照子であり、そして照美でもあった少女は、たった今、アマテラスとして復活を果たしたのだった。

 予想だにしていなかった展開に、尊は取るべき反応を思い付かない。表情を失い、途方に暮れる彼へと、アマテラスは小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「ふふっ、何とも間の抜けた顔ですね。いとも簡単に母上の企みに乗せられ、まんまと私を攫われてしまった、あなたらしい顔付きとも言えますが」

 藪から棒に非難を投げつけられた尊は、虚を突かれてたじろぐ。

 戸惑いを拭えないでいる彼へと、アマテラスは更に嘲りの文句を重ねた。

「まったく、ヒルコのことと言い母上のことと言い、貴方はもう少し賢明な判断が出来ないのですか? その上、妙に我を張っているものだから私にも逃げられて、事態を解決させるに当たって変な遠回りまでしなければならなくなったではないですか。つくづく本当に貴方(あなた)という神は、考えなしの(ひね)くれ者なんですから」

「ん、なあっ……!? てめぇ、黙って聞いてりゃ―」

 復活早々、雨霰(あめあられ)と罵声を浴びせてくるアマテラスに、尊は憤怒に顔を上気させる。

 痛みに(うず)く体を起こし、彼女に詰め寄ろうとした尊の左の頬へと、絹のように滑らかな肌触りの手が添えられた。

「ですが、あなたは私の声に応えてくれたばかりでなく、捕らえられていた私を必死になって助けてくれようとしました。そのことには、心からの感謝を表したいと思います。あなたもこの世界で、ちゃんと学び、そして成長をしていたのですね」

 (ひざまず)く尊の顔を優しく撫でながら、アマテラスは彼へと穏やかに語りかける。

 彼女は柔らかく慈愛に満ちた、光り輝くような微笑みを、黒づくめの弟へと送った。

「ありがとう、スサノオ。面倒を見てくれた照子や照美の分も、ここでお礼を言わせて下さい」

 呆然とする彼から視線を逸らしたアマテラスは、次にイザナミを視界に収めて声を掛けた。

貴女(あなた)とお会いするのも久しぶりですね、母上。叶うならばこのような形でなく、もっと(なご)やかな場での再会を果たしたくはありましたが」

 静かな険を秘めた娘からの挨拶に、イザナミは未だ固さの残る笑みを取り繕った。

「そうであるか、アマテラスよ。わらわとしては、黒き日輪となったお主と見えるのも、母子の和解として一興かと思うておったのじゃが―」

(つつし)んで、お断りいたしましょう。私は天に輝き、生きとし生けるもの全てを(はぐく)む太陽の権化(ごんげ)。その役目を失ったとなれば、もはやそれは私にあって私に非ず。その瞬間、アマテラスという神も、アマテラスであったという神も、この世から露と消えることになりましょう」

「かような連れ無き事を言うでない、我が娘よ。どの道、力を取り戻したばかりのお主には、独力で上へと戻る余力もあるまい。虫の息であるスサノオを頼みの綱とも出来ないお主は、ここで大人しく母の言い付けに従うしかないのじゃぞ」

 淡々とそう物語る彼女の後方では、薄く開かれた黄泉戸の間から、新たな黄泉醜女と瘴気が渾然となって湧き起ってきていた。

黄泉國に最も近しい場所に在る今、情勢は絶対的なイザナミの有利にあった。

 次々と姿を現す彼女の援軍に、アマテラスはその取り澄ました表情を微かに曇らせる。

 余裕の笑みを両頬に乗せ、イザナミは最後通牒を言い渡そうと口を開く。しかし、彼女が放ちかけた言葉は、尊の鋭い一声によって機先を制された。

「悪ぃがなクソババア、俺はお荷物でもなけりゃ、聞き分けもそいつ程良くはねえんだよ!!」

 やおら大きな怒声を上げた彼は、そのままアマテラスへと背後から飛び付く。突然の事に驚く彼女を右腕に抱え、尊はそのまま真上へと跳び上がる。高々と宙に浮いた彼らの体は、そのまま黄泉比良坂を上方へと、重力に逆らうように昇って行った。

闇の彼方へと飛翔する彼らを、イザナミは愕然として見上げる。予想外の事態に固まっていた彼女の目に、尊達の頭上に(きら)めく一本の白い線が映る。尊が小脇へと抱える十握剣の鞘から伸びるそれは、ヒルコとの勝負の際、ツクヨミが尊へと貸し与えていた釣り糸であった。


「ほらほら、兄さん急いで! じゃないと、スサノオ達が漏れなく生き埋めだよ!」

「分かっとるがな、(やかま)しい! お前がどんだけ騒いでも、何の足しにもならへんわ!」

傍らを飛び跳ねながら急き立てるツクヨミに、一三郎は釣竿のリールを全力で回しながら、煙たそうに顔を(しか)める。

弓なりに大きく曲がった彼の釣竿は、その先端を小さな池程に狭めていた、黄泉比良坂へと繋がる空洞へと差していた。そして、そこより穴の底へと垂れていたツクヨミの釣り糸を、一三郎は目にも留まらぬ勢いで巻き上げていた。

一三郎の目付けとして残っていたツクヨミは、その間に自らの釣り糸を、彼の釣竿へと通させていた。その後、数回糸を引く合図を地下から受け取った彼は、それを即座に一三郎へと巻き取らせ、尊達を上へと引き戻していたのだった。

「まったく、どうしてわいが、こないな面倒なことを……。お前ら、揃いも揃って、ちいとこっちを、頼り過ぎとるんとちゃうか?」

「こっちの話に乗って来たのは、兄さんの方からですよ? だったら、ここは乗りかかった舟として、最後まで協力してもらわないと、ですよ、ね?」

 もっともらしい口調でそう(うそぶ)く彼に、一三郎は食い縛った歯の隙間から、忌々しそうに舌打ちを漏らす。それでも、尊が帰還しなければ人間界が滅亡すると聞かされていた彼は、途中で作業を放り出す訳にもいかず、ただ只管(ひたすら)に暗闇へと伸びる糸を回収し続けていた。

「ったく、こうなったら自棄(ヤケ)や! 煮ても焼いても食えへんハズレやけど、こんまま一気に釣り上げて、スサノオの奴の魚拓ならぬ神拓でも取ってやるわ!」

 そう大声で毒づき開き直った一三郎は、ツクヨミの空疎(くうそ)な声援に背中を押されながら、彼の釣り糸をより一層の力を込めて引き上げに掛かった。


 一方、果てのない闇の中を引っ張り上げられていた尊は、糸の端が結ばれている剣の鞘を背の下に置きながら、猛烈な勢いで縦穴を駆け上がって行っていた。

壁走りで地上を目指す彼の後方からは、穴の側面を飛び跳ねて伝いながら、無数の黄泉醜女達が追い(すが)って来ていた。

素早い身の(こな)しで跳び掛かって来るそれらの追っ手を、尊は左手に持った剣で近付く者から叩き落す。そして、彼の死角となる方向から迫る分は、尊の右腕に抱えられていたアマテラスが放つ光弾によって、片端から撃ち落とされていた。

追撃を掻い潜りつつ、アマテラスと共に逃避行を続けていた尊は、やがて行く手に出口の光芒(こうぼう)を捉える。彼がイザナミを追う際に使用したその通路は、以前に通った時よりもかなり小さくなっているのが、遠目ながらに判別出来た。

残り時間の少なさを知って焦る尊を、不意に赤い稲妻が掠める。爆風の(あお)りを受けながらもどうにか転倒を回避する彼の耳に、反響を利かせた金切り声が飛び込んできた。

「待てぇ、この餓鬼(がき)共が! このまま易々(やすやす)逃がすとでも、思うておるのかあ!」

 後ろを(かえり)みた尊は、全身を黒い雷で取り巻いたイザナミが、穴の遥か下より迫り上がってきているのを目の当たりとした。

 美麗な容貌を憤怒の色に染め、数条もの稲妻を洞穴の側面に這わせながら、彼女は先行していた黄泉醜女達を次々と追い越していく。見る見る内に距離を詰めてくる黒き電撃の塊に、尊はこのままでは間違いなく追い付かれてしまうと確信した。

 余力のほとんどない自分達では、彼女と正面からやり合っても勝ち目はほとんどない。

いっそのこと、ここは自分が可能な限り足止めをし、アマテラスだけも上へと逃がすべきか。

切迫する事態に直面し、尊は右腕に抱える自らの姉と世界、そして自身の存在を天秤(てんびん)へと掛ける。汗の浮いた相貌を苦慮に歪める彼の額を、不意にアマテラスが細い指で爪弾(つまはじ)いた。

「何を、難しい顔をしているのですか? 貴方には、そんな表情は少しも似合いませんよ。単細胞かつ短慮な貴方が考えを巡らしても、(ろく)な結論を導き出せるとも思えませんしね」

「てめっ、言うに事欠きやがって……!? だったら、どうやってあいつを追い返して、このまま無事に上に戻れるのか、今すぐ俺に教えてくれよ!」

「簡単なことです。貴方の十握剣に、私の霊力を吸わせます。剣の方へと充分に力が移ったのを確認してから、あなたがそれを用いて母上を撃退してください」

平素な口調と物腰でそう告げるアマテラスを、尊は思わず驚きをもって流し見る。間近から自分の方を凝視する相手に、彼女は薄っすらと笑みを浮かべた顔で頷きかけた。

「……だが、その場合、力を根こそぎ持っていかれるぞ。そうなれば、お前は―」

「再び母上の手に落ちてしまう事と比べれば、それは致し方のない代償です。それとも、貴方もこの私と共に、黄泉の側へと落ちてくれると言うのですか?」

挑発的な文句を口遊(くちずさ)むアマテラスに、尊は一瞬だけ(おもて)を不器用に強張らせる。だが、すぐにそれを不敵なものへと変えた彼は、剣を持つ左手を、乱雑な仕草で彼女へと差し伸べた。

「そいつは正直、お断りだな。やるなら勝手にやりゃあ良いが、後悔すんじゃねえぞ」

「では、お言葉に甘えて、そうすることとしましょう。最後の締めは貴方に(ゆだ)ねますが、くれぐれも肝心なところで失態を犯さないでくださいよ、スサノオ」

「要らない心配なんかしてねえで、さっさとやることやりやがれ。もう、時間がねえんだよ」

 前方の脱出口が今にも閉じかけ、後方からは黄泉醜女と群れと猛り狂ったイザナミが迫る中、アマテラスは尊の左手を上下から挟むように、十握剣の柄を力強く握る。

 刃の根本に収まっていた赤い結晶体が、彼女の霊力を感知して怪しく(きら)めく。直後、十握剣は急速にそれを吸い上げていき、(あわ)せてアマテラスの体が淡い燐光を放ち始めた。

 青褪(あおざ)めた顔を苦痛に歪める彼女を、尊は自分の方へと引き寄せ、しっかりと体幹で支える。

不可解な動きを見せる彼らへと、そのすぐ真後ろへと到っていたイザナミは、雷鳴のような怒号を叩き付けた。

姑息(こそく)な真似など、するでないわ! (わらべ)は童らしく、親の(げん)へと従えい!!」

 そう叫ぶが早いか、彼女は空に浮いた右足から濃紺の雷を瞬かせ、前を行く尊達へとけしかける。だが、その電撃に絡め取られる寸前、彼は真上へと跳躍してそれを回避した。

 宙吊りの体勢となった尊は、そのまま体を捻って背中側へと向き直る。

そして、共に構えた十握剣を頭上へと振りかぶりながら、二柱は慄然としている自分達の母へと向け、短い別れの言葉を告げた。

「それでは、母上」「一昨日(おととい)来やがれえっ!!」

 瞬間、高く掲げられていた剣が振り降ろされ、アマテラスの霊力を十二分に蓄えていた刃より、凄烈な白銀の閃光が放たれた。

彼らとイザナミの中間で()ぜたその斬撃の光は、その場に居た全ての者達共々、洞窟に溜まっていた混沌の闇を、暴力的な白によって塗り潰していった。


 突如、黄泉比良坂と繋がる穴の内より、凄まじい光の爆発が巻き起こる。何の前触れもなく発生した謎の現象に、息を詰まらせるツクヨミの隣で、一三郎は思わず釣竿を取り落した。

「どわっ、何や!? 下で、何が起こってんのや!?」

 圧倒的な光の渦に面食らう彼の横で、極限までに緊張していた釣り糸が瞬く間に(ゆる)んでいく。

そして、大地へと突き立つ光の柱の中、水溜り大となっていた縦穴の下より、身を屈めた尊の影が踊り上がった。

 しばらく宙を舞っていた彼の体は、それまで開いていた穴が閉ざされた地面へと、丸めた背を下にして落ちる。鈍痛に(もだ)えながら咳き込む尊に、足早に彼へと駆け寄ったツクヨミは、横たわる相手を心配そうに覗き込んだ。

「良かった、大丈夫……ではなさそうだけど、どうやら五体満足のままみたいだ、ね。君も姉さんも無事に戻ってこれたみたいで、安心したよ」

「ああ、何とか、な。まあ、どっちもまるっきり無事って訳には、いかなかったけどよ」

 擦過傷や裂傷、火傷の跡が幾つも刻まれた満身創痍の体を起こし、尊は苦み走った笑みをツクヨミへと浮かべる。ぎこちない動作で座り直す彼に、緩慢な足取りで近寄ってきていた一三郎は、落胆も顕わに肩を落とした。

「何や、つまらん怪我をしとるだけで、まだピンピンしとるやないか。どうせなら、イザナミに半殺しされてから、戻ってきたら()かったのに」

「ご期待に添えなくて、残念だったな。到底お前の力だけじゃ、俺をそうは出来ないものな」

「アホな事言うとるで、こいつ。てかそれより、お前が抱いとるそのガキ、一体誰や?」

 ツクヨミの肩越しに尊の方を見下ろしながら、一三郎は不思議そうに眉根を寄せる。彼の呈した疑問に、尊は自分の膝の上を一瞥(いちべつ)した後、掠れた苦笑いを漏らした。

「こいつか? 今、子守りの仕事を押し付けられている、ただの面倒なお嬢様だよ」

 そう説明する尊の腕の中では、照美の愛用していた和服に包まれた照子が、穏やかな顔でスヤスヤと安らかな寝息を立てていた。

 終幕


ぐっすりと眠っていた照子が、むずかるように小さく身をくねらせる。握り合わせていた手を額へと擦り付け、彼女は大きな目を眠そうにしょぼつかせながら開いた。

(くる)まっていた寝具からゆらゆらと体を起こす照子に、簡易コンロで朝食を作っていた尊は、背中越しに声をかける。

「おはよう、お嬢ちゃん。すぐ朝飯にするから、顔を洗って目ぇ覚ましてこい」

 起き抜けでぼんやりとしていた照子の鼻を、玉子焼きの香ばしい匂いがくすぐる。

その香りに誘われ、急に空腹を覚えた彼女は、寝ぼけ眼のまま頷くと、危なっかしい足取りで洗面台の方へと歩いていった。

 照子が洗顔をして眠気を払っている間に、尊は手早く調理を終わらせる。彼女が居間へと戻ってきた時には、手狭な食卓の上には白ご飯と味噌汁、半熟の厚焼き玉子とネギ入りの納豆が、二人分用意されていた。

「今日は、ヨミのお兄ちゃん、朝ごはん作らないの?」

「あいつはちょっと、お出掛けしてんだ。そう心配しねえでも、味は保証するぜ」

 丈の長いパジャマを着た照子と、エプロンを掛けたままの尊は、机へと向き合って座る。

 共に食卓へと一礼をしてから、彼らは湯気の立つ料理へと箸をつけた。

 照子は箸の先で刺した玉子焼きを怖々と嗅いだ後、思い切って口へと放り込む。頬張りながら良く味わった彼女は、半覚醒のままだった両目をパッチリと見開き、正面にいる尊を驚きの表情で見上げた。

「ミコト、ごはん作るのもうまい! ミコト、おりょうりの天才!」

「分かったから、口に物を入れたまま喋るな。こっちに飛んでくるだろうが」

 無作法さを注意された照子は、それからは黙々と食事に専念し始めた。

 大口を開いて夢中でがっつく彼女を、尊は苦笑交じりに眺める。

 その時、彼の視界の端にあった小窓に、ツクヨミの顔がひょっこりと現れた。

家の中を覗いていた彼は、目の合った尊へとウィンクを寄こし、素早く頭を引っ込める。

それを外に出るようにとの合図と受け取った尊は、茶碗を置いて腰を上げる。

エプロンを取って玄関へと向かう彼を、照子は慌てふためいて呼び止めた。

「待ってミコト、待ってぇ!! テルコもいっしょ、お店行く!!」

「別の用事だよ、心配すんな。まだ時間に余裕はあるから、ゆっくり食ってから着替えでもしておけ」

 尊の言い付けを聞いた彼女は、ほっとした顔となって、食事を再開していた。

 部屋から屋上へと出た尊を、ツクヨミは家のモルタルの壁へともたれながら待っていた。

今朝(けさ)わ~、スサノオ。黄泉の霊力の後遺症は、どうやら彼女には出てきてないみたいだ、ね。姉さんの平穏無事な姿を見られて、僕としては一安心だよ」

「あれを、無事だって言えるんならな。記憶については、照美に変わる前のまんまみてえだし、霊力に至ってはすっからかんだ。見た目も中身もほとんど全部、ここに来た時に逆戻りしてるみたいだぜ」

 この世界全てを黄泉國の領域にしようとイザナミが(たくら)み、その最中にアマテラスが復活を遂げるという大騒動は、既に昨日の出来事となっていた。

 本来の力を取り戻したアマテラスは、その能力を行使してイザナミを駆逐し、人間界で発生していた異変を鎮めた。だが、それと引き換えに、彼女は自身の霊力を使い切ってしまい、再び照子の姿へとなってしまっていたのだった。

「恐らくは、君から姉さんに分け与えられていた霊力は、まだ完全には馴染んでいなかったんだろう、ね。そんな不安定な状態で強い力を使ったものだから、一気に霊力を消費しちゃって、振り出しである照子ちゃんに返っちゃったんだろう、ね」

「結局、元の木阿弥(もくあみ)かよ。考えなしなのは俺なんかじゃなく、あいつの方じゃねえか」

「姉さんだって、その危険性は承知の上だったと思うよ。でも、ああでもしなきゃ、母さんはおとなしく帰ってくれそうになかったし、ね。それはそうと、父さんからの君への伝言を、預かってきたよ」

 イザナミによる襲撃の後、ツクヨミは一時的に、天上界の高天原へと戻っていた。今回の事件に関する詳細な情報を伝え、今後の尊達の行動について、再度確認を取るためだった。

「今度の事態を受けて、高天原は黄泉國に正式に抗議を行い、即刻母さんの引き渡しを求めるんだってさ。まあ、どうせいつもみたいに、けんもほろろに無視されるんだろうけど、ね。どもかく、これで向こうも少しは静かになるだろうって、父さんは考えているみたいだよ」

「何とも悠長(ゆうちょう)な対応だな。あの女が、そんな中途半端な抗議なんか屁にも思わないことくらい、親父だって知ってるだろうが。もう、あいつの相手をするのに嫌気が差して、適当にやっつけてるだけなんじゃねえか?」

「父さんだって、疲れているのさ。何だって、人間界のありとあらゆる記憶と記録を書き換えたんだから、ね。さすがにあの父さんも、こりゃ参ったって感じになってたよ」

 確かに、奇々怪々な日蝕に上を下への大騒ぎとなっていた人間達は、しばらくしてからぱったりとおとなしくなっていた。夕方のニュースでは泡を食ったように速報を飛ばしていたキャスターも、夜になるといつも通りに淡々と原稿を読み上げていた。

今では疲労困憊となっているであろう父親を想像しながら、尊は軽く苦笑を漏らした。

「あいつもホント、気苦労が絶えない奴だよな。厄介な連れ合いと、不出来な息子達を持っちまったことには、心から同情するぜ」

「その不肖な息子の君に、父さんは高天原へと戻ってきて欲しいみたいだよ。また一から姉さんに霊力を分けるのにも時間が()るし、黄泉國とは離れた天上界にいた方が安全だろうってさ」

 思わぬツクヨミの発言に、尊は薄笑いのまま表情を固まらせる。彼は当惑の目で、疑わしげに相手を見遣った。

「……アマテラスからの追放命令は、まだ生きてるんだろ? だから、わざわざあいつを俺のいるここに、お前が連れてきたんじゃねえか」

「緊急性を考慮しての、高天原主神代理による特別措置だってさ。また姉さんに危険が迫るとも限らないし、いっそのこと君も天上界に戻ってきたらどうかって、ね。他の神達からも特に反対はなかったみたいだし、問題はないと思うよ」

 イザナギからの予想もしていなかった打診に、尊は唇を噛み締めながら考えを巡らせる。

 やがて、彼は寄せていた眉間の皺をふっと解き、ツクヨミへと小さく肩を(すく)めた。

「悪いが、今回はパスさせてもらうぜ。どんな理由があったにしろ、勝手に俺が上に戻っているのを元に戻ったアマ公が知ったら、無茶苦茶に怒り出すかもしれねえし。もしそうなったら、こっちとしても面倒だからな。それに―」

「ん? それに、なんだい?」

「今から金天街に行くと、照子のやつと約束しちまってるんだよ。それを破っちまったら、あいつピーピー泣き喚くに決まってる。そうなったら、こっちも後が面倒なんだよ」

 さも億劫そうにぼやく尊を、ツクヨミはにやにやと(たの)しげな目で見詰める。

 そんな彼を軽く横目で睨んでから、尊は大きな溜め息を吐いた。

「ま、とにかくそういう訳だから、親父の方にはお前からよろしく伝えておいてくれ。そう心配しねえでも、次はイザナミの奴に良いようにはさせねえとも、な」

 そう言うと、彼はツクヨミへと等閑(なおざり)に手を振り、さっさと家の方へ帰っていった。

未練や後悔を全く感じさせない彼の背を、ツクヨミは(ごう)(ぜん)と腕組みをしながら見送っていた。

「成る程、今更戻る気はないと言うか。しかし、わしはそれでも諦めんぞ、スサノオ……」

「おい、それも親父の言伝(ことづ)てか?」

「ううん、個人的な感想だよ。どうぞお気になさらないで、ね」


 朝食を片付けた尊は、後をツクヨミへと任せ、着替えを終えていた照子と共に家を出る。ビルの階段から街路へと降り、金天街へと向かうその道中で、尊は横を歩く照子にそれとなく言い含めた。

「もし、他の人から何かを訊かれても、本当の家に帰っていた、とだけ答えるんだぞ。それ以外のことを尋ねられたとしても、知らぬ存ぜぬで押し通しとけ。いいな?」

「テルコ、ずっとあそこのおうち帰ってたよ? どうしてお店のみんなが、そんなの聞くの?」

「あー、まあ、色々あんだよ、大人の世界には。お前も大きくなったら、その内分かるようになるさ」

 適当にはぐらかす尊を、照子は戸惑い気味の表情で見上げていた。

 彼女にはあの嵐の夜からの記憶はなく、自分が照美という少女となっていたことなど、無論知るはずもない。ここは、不可解な矛盾点が浮き彫りにならない内に、彼女へと仮設定を吹き込んでおく必要があったのだった。

 実家に帰ったはずの照子が、どうしてまた尊の所へと戻ってきたのか。恵美や重夫など、金天街の人々にどうそれを説明するか悩んでいた尊の服を、ためらいがちに照子が引っ張った。

「テルコ、ミコトの言うことちゃんと聞く。だから、ミコトもテルコのお願い、ひとつだけ聞いてくれる?」

「内容によるな。何だ?」

「今日も、ミコトといっしょで、寝ていい?」

「駄目。却下! 大却下!! あん時だけ特別で、次からはまた独りで寝ろって言っただろうが。約束は、絶対に守ってもらうからな」

 彼女の勇気を振り絞った頼みを、尊は無慈悲なまでに固く拒否する。

 彼から強い口調で叱責され、照子はビクリとして表情を強張らせる。

彼女は悲しげで切なそうな顔を足元へ伏せ、口を噤んだまま歩を進めた。

 痛々しい沈黙が、不意に尊と照子の間へと差し込まれていった。

 アスファルトを蹴り付ける荒い靴音が、小刻みに地面を擦る小さな足音を打ち消している。

すると、大きな歩幅で進んでいた尊の足が、前触れもなくピタリと止まった。

彼は遅れて付いてきていた照子を振り返り、投げ遣り気味に右手を差し伸べた。

「手を繋ぐのじゃあ、駄目か?」

 差し出された手と、妙に逸らされている尊の顔を、照子は戸惑いをもって見比べた。

 やがて、その顔には嬉しそうな輝きが満ちていく。彼女は満面の笑みを浮かべて、尊の手へと嬉々として跳び付いた。

「うん、いーよ! ミコトとテルコ、おててつないでお仕事いこう!」

 柔らかく小さな手の平が、力強く指を握り返してくる。

底抜けに明るい笑顔を見せる彼女に、尊はゆっくり小さく嘆息した。

 肌が触れていた方が、霊力はより早く移る。だから、これはいわば、手早くアマテラスを復活させるための、必要事項みたいなものなのだ。

 聞こえもしない言い訳を心で(つぶや)き、彼は改めて金天街へと進む。

 繋がれた尊と照子の手が、リズムを刻みながら楽しげに、前へ後へと揺らされている。

 今日は、雲の影ひとつない晴天。

 青々として晴れ渡った空からは、眩いばかりの暖かな陽光が、街路を並んで歩く二柱へと限りなく降り注いでいた。               


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