ギリギリ部屋着と言い張れる格好での一日・前
私が内臓の模造品と暮らしはじめるより少し前、具体的な時期は覚えていないけれど一年から一年半くらい前の話だったと思う。
入社のときからお世話になっていた部門長が、古い友人たちと会社を興す、だったか、恩師の会社の手伝いをすることになった、だったかで退職することになった。入れ替わりで他のシステム会社から転職してきたのが件の上司だ。
同期曰く「入社の挨拶はすごく頼りがいのあるかんじだった」らしい。
なぜ伝聞調なのかというと、当時諸事情により二週間くらい出社どころの話じゃなかったからだ。当然、歓送迎会なども出られたはずがない。
上司としてはそれが気にくわなかったらしい。
出社できるようになったてから一応は真っ先に挨拶をしたり諸々の事情を説明したりしたけれども、こちらに目も合わさずに話を聞き流したあとひと言とてもありがたい助言をくださった。
「その程度でこんなに休むなんて、社会人として終わってるだろ」
とのことだった。まあ、このときに平謝りしておけば諸々の状況はもっとマシだったのは間違いないだろう。
ただ、そのときから色々とどうしようもない状況だったわけで。
「まあ、部下からの報告を聞き流してソリティアやってる奴よりはマシなんで大丈夫ですよ」
などと息を吐くように返してしまった。
結果はお察しの通りということで。
ひとまず、生きている人間の顔はこんなにも様々な色にかわるんだなぁ、と思っていたことは今も覚えている。
そんなこんなで上司との折りあいは最悪になってしまった。しかも更に残念なことにあちらの得意としている分野が担当していたシステムと微妙にかみ合っていなかったらしく、不具合の報告などするとさすがに真面目には取り合ってくれるけれど明後日のほうをむいた対策案が返ってくる、という事態も頻発していた。
というような状況で、わざわざ貴重な休日をつかってそんな相手の家に中古の技術書をもらいにいく必要があると思えたはずもない。
そもそも、必要な技術書は普通に自費で買っていたし。
ともかくそういった次第で、その週末は睡眠負債を少しでも返済すべく日がな一日ベッドに横たわっていた。たしか金曜の二十七時くらいに頭痛薬を飲んだところまでは覚えている。ただし、それが正常な量だったり服用間隔だったりしたかまでは覚えていない。
気がつけば、やけに遠くから聞こえる雑音まみれのヒーリングミュージックが流れる居間兼寝室のなか、やけに近くに内臓の模造品が見えた。というよりも、本当にベッドサイドの近くでうごうごしていたようだ。
その日までは同じ部屋で暮らしてはいたけれど、ベッドと逆側の部屋の隅にいることが多くベッドのそばに来ることなんて一度もなかった。なのでなにか、たとえば少し前に襲ってきた揺れと叫び声のような、厄介なことがまた起きたのかと慌てて半身を起こした。
やたら回転する世界のなか目に入ったのは、窓から差し込む陽に赤く染まった床だった。朝焼けと夕焼けのどちらだったかは定かではないけれども、自分が早朝に起きられるような状態ではないと分かるくらいの判断力はまだ残っていた。
内臓の模造品用に買っていた野菜ジュースやらパウチの惣菜やらお粥やらの在庫が切れていて、ひもじい思いをさせてしまったのだろう。そう思い、相変わらずやたら回転したままの視界のなかベッドから起き上がろうとした。
「ごめん。遅くなっちゃったけど今からご飯買いに行くから」
膵臓のようなものが床を二度叩き、何やら長いものが腕に絡みついた。
ひとまずつらい思いをさせてしまっていなかったことに安心すると、雑音のなかから正気のようなものがまた少しだけ戻ってきた。
「あー、重ね重ねごめん。また心配させちゃったのか」
少しの間を置いて床が一度叩かれ、腕の締め付けが少しきつくなった。
このまま安静にしてろ。
そう言っていることはなんとなく分かった。眠っていたいのは山々だったけれども、視界の端でテーブルに置かれた頭痛薬の空き箱がやけに鮮やかな存在感を放っていた。
「ありがとうね。でも、他にも買う物があるからやっぱり起きなきゃ。それにお手洗いも行っておきたいし」
またしばらくの間を置いて、いかにも渋々といった具合になにやら長いものは腕から離れていった。同時に、不服そうな視線をひしひしと感じた。
「あはは。大丈夫、大丈夫。さすがに漏らしたりはしないから」
心配してるのはそこじゃない。そう言いたげに床が二回叩かれた。それでも腕を放してくれたのは、頭痛の一因でしかなくなってしまったヒーリングミュージックをかけ続けないといけない状況に負い目を感じてたからだったのだろう。
べつに内臓の模造品が悪いわけじゃないのだからそこまで気にしなくていいのに。
あのとき、そう伝えるべきだったとは今でも思っている。
ただ、そんな余裕もなく予想外の事態が発生してしまった。
──ピンポーン
古めかしいチャイムが雑音まみれのなかに響いたのだ。
一瞬聞き間違いか幻聴の類いかと思ったけれども、膵臓のようなものも玄関の方を向いて首を傾げるような動きをしていた。
「えーと、通販はしてなかったと思うけど……、ちょっと様子を見てくるから内臓の模造品はクローゼットに隠れてもらえる?」
床はすぐさま一度叩かれた。
「ありがとう。狭い思いさせちゃってごめんね」
今度は二度叩かれる。その後すぐに内臓の模造品はするするとクローゼットの前に移動し、実に器用に扉を開けて中に収まり内側から扉を閉めた。開けるのはともかく、閉めるのはどうやったのか今でも不明だし未だに気になっている。
ともかく見た目は色々と不穏な同居人に隠れてもらい、私はギリギリ部屋着と言い張れる格好のまま玄関へ向かった。
ドアスコープを覗いた先には、なぜか同期が立っていた。
十中八九ろくなことではない。
そんなことはすぐに分かった。
「……」
それでも泣きはらした目を伏せて佇む姿を前に、手は自然とドアノブを回していた。




