肝の名は?
扁桃腺がうっすらと削れてから一夜が明け、同期による決死の訴えが宣告通り行われた。
結果は、まあ、大方の予想通りだ。
つまるところ人格を否定する動きがある感じの怒鳴り声を一身に浴びた後、同期が担当している客先の中でわりとややこしい所を一件引き継ぐことになった。
「ごめん、こんなことになるとは思わなくて」
記憶は色々と朧気だけれども、涙ぐみながらそう言った同期の顔は未だにはっきりと覚えている。
この件について多分色々な人に対して言いたいことは諸々あったんだと思う。それでも、誰かに何かを言うことはとくにしなかった。実のところ怒鳴られることだけでなく担当客先が一件増えることも、なんとなくではあるけれど予想できていたから。
というのもその客先に導入した会計系の帳票を作成するシステムは「ユーザーの登録をするときまれに入力したはずの名前が空白になってしまう」という不具合を抱えていて、同期が色々と調査をしているのに原因解明はおろか再現すらできていなかった。幸いなことにユーザー情報の編集機能から再度名前を入力すればすぐに解決可能で、帳票の金額が正しくなくなる等の致命的な問題までは起きていなかった。
それでも解決に時間がかかっているのは事実で、先方の担当者から上司宛に──
「このたびはまことに申し訳ございません。しばらくシステムのサポート料金を支払っていなかったみたいで……え? 支払ってました? それはそれは大変失礼いたしました。この間から問い合わせている件についてご回答をいただけていなかったので、こちらの不手際で対応していただけない状況になっているものとばかり」
──というような電話も来ていた、と後になって更に上の上司から聞いた。
色々とそりが合わない上司ではあったけれど、この件に関しては多少の同情を禁じ得ない。いや、まあ、だからといって、色々と限界ギリギリな状態だったのをギリギリ限界な状態へとレベルアップさせたのはどうかと思うけれども。
そんな訳で、その日は無事にどうしようもない状態になった仕事にどうにか一区切りをつけて終電に駆け込んだ。それから乗り最寄り駅のコンビニで昨晩ウナギの小骨を抜いてくれたお礼とお土産を兼ねたプリンを買って家に帰った。
内蔵の模造品はいつものようにヒーリングミュージックが流れる居間兼寝室でのんびりやっている──
「あれ?」
──のではなく、玄関先でなんかうごうごしていた。
部屋に某かの足がたくさんある奴でもでたのかと身構えたけれど、多分そうではないということにはすぐに気づいた。ウナギの小骨を取るつもりが扁桃腺を削ってしまっていたときと同じく、ジトッとした視線を感じたから。
「えーと、ご心配おかけしました」
本当だよ。そう言わんばかりに肝臓のようなものがベチンと廊下を叩いた。
「でも、内臓の模造品のおかげで傷もそんなに酷くならなかったし、消毒液もちゃんと塗ったから大丈夫だったよ」
本当に? そう言わんばかりに膵臓のようなものがもたげ傾げられる。
「あー、まあ、なんというか、その……」
問い返されてみると、諸々がまったく大丈夫な状況ではなかったのだけれど。ただ、廊下でうごうごしている内臓みたいな何かにそれを言ったところで、何かがどうにかなるとも思えなかった。
それに、帰りの遅い奴を玄関先で待っていてくれる同居人にこれ以上心配をかけるのも嫌だと思えるくらいの正気はまだ残って……いや、やっぱり内臓みたいな何かを普通に同居人にカウントしていたことを考えると、正気なんてものとっくの昔には吹き飛んでいたのかもしれない。
ともかくあまり深刻な話になりすぎるのもよくないと思い、適当に話題を変えることにしたのだけれど──
「……それはそうと、『内臓の模造品』って呼び続けてきたけど、もうちょっとマシな名前にしたほうがいいかな?」
──我ながら下手すぎだったとは思う。
帰りの電車でも振って沸いた不具合対応について考えていたせいで、名前に関する話題に引っ張られたのだろう。あと、自分のことを色々と心配をしてくれる相手をいつまでも適当につけた名前で呼ぶのはよくない、という気持ちがどこかにあったのかもしれない。
だからといって唐突にそんな話題を振られたら、内臓の模造品としては困惑気味に膵臓のようなものを傾げるほかないだろう。それでも「新手の気晴らしか」くらいに納得してくれたのか、床が力なく一度叩かれた。
「了解。じゃあ……」
せっかくなのでなんかオシャレかつ可愛げのある名前にしよう。などという謎の意気込みのもと、私は疲弊した脳髄をフル活用した。
その結果、某ドイツの文豪が生み出した「いつの間にか家に居たわりと意思の疎通ができる謎生物」の名前を思い出した。
「じゃあ、オドラデ君☆、とか」
しばしの間を置いて、床が二回叩かれた。どうやらあまり気に入らなかったらしい。今になって考えれば、内臓の模造品に星形っぽい要素も糸巻きっぽい要素もなかったから仕方なかったのだろう。
「だめか。それなら……」
とりあえず今度は内臓っぽさを全面に押し出した名前にしようと思った。
内臓、臓器、臓腑、はらわた、モツ、ホルモン、五臓六腑。
内臓の別名を色々と思い出しながら名前につかえそうなものはないかと考えているうちに、一つの単語にたどり着いた。
群肝。
この語感からならすごくそれっぽい名前がつけられる。
そう思ったのだけれども。
「ムラぎもん」
その名を口にした瞬間、膵臓が床を滅多打ちにした。
どうやら内臓の模造品は、二世紀くらい先の未来からやってきた肝型ロボット、ではなかったらしい。
「それだとどうしようかな……ん?」
また何か名前を考えようとしたところ、不意にある疑問が脳裏をよぎった。
内臓の模造品は意思疎通ができるうえに、身の回りのことをある程度自分でこなせる。ということはここに来る前にも人間と暮らしていたか、あるいは、人間として暮らしていたかもしれない。それなら、ひょっとすると。
「……内臓の模造品ってさ、本名みたいのがあったりしない?」
「……」
膵臓ようなものは傾げられることもなく、床を叩くこともなかった。
人間と暮らしていたか人間っぽく暮らしていたなら、名前があってもおかしくはないと思ったのだけれども。
「……」
しばらく待ってみてもジトッとした視線を感じる以外、特になんの動きもなかった。
質問に答えたくない、あるは答えられないということはさすがに分かった。それなら、ちょっと話題を変えたかっただけなのだし、深く追求する必要はまったくないと思った。
「えーと、じゃあ今まで通り『内臓の模造品』って呼ぶかんじで大丈夫かな?」
床はすぐに一度叩かれた。
「分かった。急に変なこと言い出して、ごめんね」
今度は二度、すぐに床が叩かれる。
「じゃあ、今日もプリン買ってきたから一緒に食べようか」
内臓の模造品は弾むように一度床を打って居間兼寝室へと這っていった。その姿に和みつつ、私も後を追ってヒーリングミュージックの聞こえるほうへ進んだのだった。




