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内臓の模造品  作者: 鯨井イルカ
内臓の模造品と私

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5/5

扁桃腺にウナギの小骨が刺さったような話

 内臓の模造品の肺のようなものを触りそこねてからまたしばらくが経った。季節は多分まだ秋と呼べるくらいだったと思う。暑くもなく寒くもない日々が続いていたはずだから。

 

 仕事のほうは言わずもがな相変わらずだった。ただし、その日は昼から上司が客先へ向かい直帰する予定だった。そのため、多少は気が楽だったことを覚えている。まあ、電話対応やらなんやらのその他諸々はいつもどおりだったけれども。


 そんななか、同期が缶コーヒーを二つ持ってやってきた。私はたしか、急に姿を消した前任者から引き継いだ(ただし引き継ぎ業務があったとは言っていない)客先の膨大なる不具合一覧表を眺めて、どこから手をつけたものかと他人事のように考えていたのだと思う。


「坂口さん、お疲れ様。これ、よかったら」


「ああ、ごめん。ありがとうね」


「ううん、気にしないで。坂口さんにはいつも大変な思いさせちゃってるから」


「いやあ、まあ、そんなことは」


 そんなことは何なのか。明言することはできず、いわゆる奥歯にものが引っかかった感じの答えになってしまった。


「でも、坂口さんには大変なお客さんの対応をお願いしちゃってるし」


「えーと、お客さんの件数はおんなじくらいだし」


「でもこっちはそこまで問い合わせ多くないし。少しでも手伝えればいいんだけど……ごめんね、私、この会社に入るまでプログラムとか全然やったことないからさ……、あんまり難しいことは分かんなくて……」


「……」


 私も入社前のプログラミング経験なんて、教職課程の必修科目のときに表計算ソフトのおまけについてるやつで試験の点数を集計する機能を作ったくらいだけなんだれども。そう言ったところでどうにもならない。それが分かるくらいの判断力はまだ残っていた。


「それは、ほら、仕方ないことだと思うよ」


「でもいつまでも負担かけてばっかりだといけないからさ……。明日にならったらね、坂口さんの客先でそこまで大変じゃないところをこっちに振ってもらえないか頼んでみようと思うんだ」


「あー……」


 先に言っておくと、同期の言葉が百パーセント善意からきていることが分かるくらいには私たちの関係は良好だった。担当する客先の数で手取りが変わるわけでもなかったし。


 ただし上司とは、そんな提案をしたらこっちにどんな怒鳴り声を浴びせてくるのか大体見当がつく、くらいの関係だった。


「……うん。ありがとう、でも、あんまり気にしなくてもいいからね」


「ううん! 私、頑張るから!!」


「そっか、ありがとう」


「気にしないで! 私にできることはそれくらいだから!」


 そのときの心境を例えるなら、奥歯に挟まっていたのは小骨でそれが取れた瞬間にアクロバティックな動きで扁桃腺に深々と突き刺さった、という感じだ。


「……」


 とりあえず私はもらった缶コーヒーを一気飲みして、不具合一覧表のまだどうにかなりそうな部分の原因調査に着手した。それと同時に、どうせ明日は荒れることが決定してるんだから定時に帰って好物でも食べてさっさと寝てしまおう、という決意もした。


 そんなこんなで本当に久しぶりに定時で退勤し、まだ人がそこそこ居るスーパーに寄り、割引になっていた輸入ウナギの蒲焼きとプリンを買って家に帰った。


 ヒーリングミュージックが流れる居間兼寝室に入ると内臓の模造品は軽く飛び跳ねるような素振りを見せた。一緒に暮らし始めてから九時前に帰ってくることなんてなかったから驚いたのだろう。


「ただいま。今日は長居しても仕方なさそうだから定時に帰ってきたんだ。あ、ウナギの蒲焼き買ってきたけど、鰻丼にしたら一緒に食べる?」


 しばし間を置いてから膵臓のようなものが床を一度叩いた。


「了解。食べやすいように崩したほうがいいかな?」


 今度は二回。


「分かった。それじゃあお米は柔らかめに炊いておくから」


 間髪入れずに一回。

 心なしか床を叩く音は弾んでいたような気がする。きっと内臓の模造品もウナギがそこそこ好きだったのだろう。

 

 扁桃腺に小骨が深々と刺さったような気分が抜けなくても、食べ物の好みが似ているあいてと一緒に食事ができるのならまだ幸せなほうだ──

 

「……まいったねこれは」


 ──などという和やかな気分は、実際に扁桃腺へ深々とささったウナギの骨によって打ち砕かれた。

 


 鰻丼を食べた直後は、なんだか違和感があるなー、くらいで済んでいた。それがデザートのプリンを食べ終わる頃には、ちょっとチクチクするかも、くらいに変化していた。それも気のせいだと言い聞かせて長めの入浴をしているうちに、ヤバい本格的に扁桃腺がズキズキしてきた、という境地へ至ってしまった。


 慌てて水を飲んだり、翌日の夕食用にとっておいたご飯を少しつまんで飲み込んだり、絵心がないなりに猫の絵を描いて顔に近づけてしてみたものの、骨が取れる気配は一向になかった。


 ウナギの骨くらいで何を大げさな。そう思う人も多いだろう。それでも、あの頃の輸入ウナギは油断するとかなり堅く鋭い骨が残っていて、それが刺さる痛みはそこそこのものだった。



 それはもう、色々とギリギリなシステムエンジニア崩れから安らかな睡眠を奪うなんて容易な程度には。



 そういったわけで翌日に回避不可能な厄介ごとを控えていた私は、浅く質が悪いといえども貴重な睡眠時間を確保するために何としてでもウナギの骨を取り除かなくてはならなかった。


 とはいっても、耳鼻咽喉科がやっているような時間はすでに過ぎていた。知っている民間療法も全滅。あとできることといえば、この家で暮らし始めたときに購入した簡易的な救急箱に入っていたピンセットで骨を引き抜く、くらいだった。本当に簡易的な物だったため、ピンセットの先に柔らか素材のカバーがついている、なんてことはもちろんなかった。

 

 ちなみに私の器用さはというと、取れかかったスーツのボタンをつけ直しているだけで内臓の模造品が不安げに周囲を這い回る、くらいの有様だ。


 当然、そんな奴がテーブルに置いた化粧鏡を前に意を決した顔でピンセットを構えていたのだから、部屋の中にはヒーリングミュージックと臓器たちが床を叩きながら這い回る湿った音が混ざりあうかんじになってしまった。壁と天井がもっと薄かったら、何やらいかがわしい誤解を受けていたかもしれない。


「大丈夫だよ。多分すぐとれるから」


 そう宥めても、膵臓のようなものは何度も床を叩き続けた。間違いなく心配されていたのだろう。そうはいっても、このままでは一睡もできずに厄介ごとに立ち向かわなくてはならなくなってしまう。


 なので、引き留める肝を見ないふりしてピンセットを扁桃腺へと向けた。


 それから、ガ行を多用した我ながら全く色気のない呻き声をあげながら骨を抜く作業に集中した。ピンセットの先端が扁桃腺から僅かに覗いた骨に触れると、コツリと言う音が喉から頭に響き指先には堅い感触が伝わる。それでも引き抜こうとする度に、余計な部分までつまんでしまうのか、ささくれを千切るのに失敗したときのような痛みに襲われた。


 次第に扁桃腺は骨が刺さっていることで痛んでいるのか、骨を抜こうとしていることで痛んでいるのか判断がつかなくなった。いつの間にか喉の奥には生暖かいものがしたたり落ちる感覚が絶え間なく続き、口内は塩辛いような鉄くさいような味で満たされていた。









 それでも骨を取り除かないと。

 明日は上司から怒鳴られることが確定している。

 同期が悲しそうにうつむく姿を見ないといけないことも確定している。

 なんとしても眠らないと体がもたない。



 それなら骨を取り除かないと。

 このままだと痛くて眠れない。


 だから骨を取り除かないと。

 このままだと傷口が広がるばかりだ。


 だけど骨を取り除かないと。



 いっそのこと骨が刺さった部分ごと引き抜いてしまえば。



 そうすれば痛みに煩わされることもないはずだ。

 そうすればきっと深く眠ることが。












「……ん?」


 気がつくとピンセットを持つ手に湿った温かさを感じた。目を向けると内臓の模造品がなにやら長いものを巻き付けてこちらをじっと見つめていた。いや、目はやっぱりなかったのだけれども。それでも、咎めるような視線を感じずにはいられなかった。


 私は反射的にピンセットを口から取り出して軽く頭を下げた。


「……ごめん。やっぱり見てて気分がいいもんじゃないよね」


 膵臓のようなものが大きな音を立てて床を一度叩く。自暴自棄な行動に対して怒っているのは明らかだった。そうはいっても。


「ただ、まだ骨は取れてないし、かといって救急車を呼ぶわけにもいかないし……、どうしたものかな」


 頭を抱えていると、今度は床ではなく様々な臓器がまとまった部分が叩かれた。はじめて見る行動だったけれども直感的に、漫画やらアニメやらでよく見る自信をもって胸をたたく様子に似ていると感じた。


「えーと、ひょっとして『任せろ』とか言ってる?」


 間髪入れずに床が一度叩かれた。


「内臓の模造品にか……」


 不安が全くなかったと言えば嘘になる。とはいえあれ以上私がピンセットをいじくり回していても、睡眠時間と正気と扁桃腺が削られるだけでなんの解決にもならなかっただろう。


 なので気遣いのできる同居人……のようなもののお言葉に甘えることにした。


「じゃあ、お願いしようかな」


 膵臓のようなものは力強く床を叩く。まあ、レトルトのパックも開けられるし、最近はフードプロセッサーなんかも自分で使って片付けられてるんだから、ピンセットを使うくらいは訳もないのだろう。



 そんな悠長な考えはすぐにかき消された。



「うぐっ!?」


 つまるところ、何やら長いものが一気に口の中へ押し込まれたのだった。



 またしてもガ行を多用した色気の全くない呻き声を上げているうちに、なにやら長いものは器用に骨をつまみあげ口からズルリと抜けていった。


 多分なにがしかの特殊な性癖の方が見たら、なにやらそういう感じの光景に見えたかもしれない。ただ当人としては、舌圧子と胃カメラが同時に襲いかかってきた、というような感覚しかなかった。


 まあ苦しかったけれど痛みはなかったし、扁桃腺が削られることもなかったからよかったのだけれども。


 そういった具合で、内臓の模造品はなにやら長いものでつまみとった骨をテーブルに置いて見せてくれた。


 赤黒い液体がべったりと付着したそれは、案の定かなりの長さと鋭さをほこっていた。刺さったままにしていたら確実に朝まで眠れなかったに違いない。


「……ありがとうね、内臓の模造品」


 いえいえ、と言うかのようにもたげられた膵臓のような物がゆらゆらと揺れた。よくよく考えると他人の口の中に迷わず手……いや、あれは手だったんだろうか? まあ、その辺は置いておいてもいいか。


 ともかく、体の一部を口に突っ込んで苦痛を取り除いてくれるなんてかなりの人格者だなとぼんやりと考えていた。すると、なにやら長いものが化粧鏡の前に救急箱を置いてふたを開けた。中には喉に塗る用の消毒液も入っていた。


「……アフターケアもバッチリだね」


 力ないつぶやきとは対照的に、膵臓のような物がまた臓器がまとまった部分を力強く叩いた。


「重ね重ねありがとう。とりあえず手……? を汚しちゃったし、お風呂できれいにするついでにゆっくり暖まっておいで」


 内臓の模造品はうなずくように膵臓のようなものを曲げると、上機嫌に浴室へと向かっていった。


 そんなこんなで私は内臓の模造品のおかげで、来たる厄介ごとを前に一睡もできない、という最悪の事態は回避することができたのだった。

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