「執着してくるスパダリにまったく執着しないというのも不自然だと思うの」というかんじの導入その二
恵叶の実家は副都心から電車で一時間かかるかかからないかという場所にある、という話だった。
「いつもなら電車で帰るんだけど、今回はシオンも一緒だし車でいこうと思うんだ」
「別に電車でも大丈夫だよ? 連休に運転とか大変じゃない?」
「大丈夫だよ。荷物とかあると大変だし、車もたまには動かさないとエンジンに悪いから」
「そういうことなら、まあ」
そんなやりとりをしたことをやけに明確に覚えているのは、このあとに意外な言葉が返されたからだろう。
「あと一つお願いがあるんだけど、移動中にいま掛かってる曲をかけてほしいんだ」
「え? この曲?」
部屋に流れていたのは相変わらず件のヒーリングミュージックだった。
その頃には諸々の状況は色々と改善していたけれども、なんとなく止めるタイミングを見失っていた。
それに、カモフラージュで鯰の写真をつけたメモリアルボックスに眠る同居人に、ずっと安らかであってほしいと思っていたふしもあった。だから外出中は一泊以上家を空けるときでも音量を小さくしてずっとCDをかけたままにしていたし、実家に同行する際もそうしようと思っていた。
それでも。
「運転中にヒーリングミュージックかけてたら、眠くなったりしない?」
「強めのカフェインをとっておくから大丈夫だよ。それに、シオンが傍にいてこの曲が流れてると、すごく安心できるんだ」
「……」
「だめ、かな?」
困ったような笑顔で首を傾げる仕草に、なにやら長いものを傾げる同居人の姿がなぜか重なって見えてしまった。
全然縁もゆかりもない鯰の写真に目を向けると、弾力のある柔らかい物が床を一度叩いた音が聞こえた気がした。
「……ちょっとでも眠そうにしたら即CDを止めるし、運転代わってもらうからね」
「ありがとう。じゃあ、超がつくペーパードライバーさんに運転をさせないように頑張って起きてないとね」
「ええ。どうかなにとぞお願いいたしますよ、梶穫常務」
「了解」
そううなずく笑顔から困ったような成分は少し消えていた気がする。
割と人間ができたやつだったから鯰の写真の内側で、『自分の供養よりも、生きているやつの不安ケアを優先しろ』くらいのことは言っているだろう。そう思うことにした。
「でも急に話を振っちゃってごめんね。彼氏の母親で、しかも親会社の会長からの呼び出しなんて緊張するでしょ?」
感慨にふけっていると、笑顔にまた困ったような成分が戻っていた。
「あー、まあ、それは多少」
今思えば、多少で済むのかよ、というツッコミをいれたくなる返しだった。それでも、当時抱いていたのは緊張とはまた違った気持ちだった。
どんな要件で呼び出されたのだとしても、実家関連で恵叶が看過できないほどのストレスを抱えていることは伝えないといけない。
その結果お相手は間違いなく激昂……までいかなくとも、気分は害するだろう。
そうすれば、交際を続けることはできなくなるかもしれない。
それでも、そもそもの話。
「……大丈夫だよ。シオンを傷つけるようなことは絶対にさせないから」
「……」
自分のほうが不安なはずなのに、震えを隠しながら抱きしめてくれる人。
そんな相手の傍に、ずっと居座っていいはずがない。
むしろ、関係を白紙にできるいい機会だ。
それなりの期間楽しく過ごせたのだから、最後にできることはしておかないと。
多分、腕のなかでそんなことをぼんやりと考えていたのだと思う。
そうしているうちに、頬にかかる息が徐々に熱を帯びだしていた。
「……このまま、続きをしていい?」
「……」
正直なところ、緊急の不具合対応が続いていたからゆっくり眠りたいところではあった。ただし次の連休まではお互いそれなりに忙しく、二人で過ごせる夜はその日が最後になるかもしれなかった。
「……うん」
「……ありがとう。愛してる、シオン」
「……」
なんと答えればいいか分からないまま唇を重ねながら、どこに向ければいいか分からないまま視線を恵叶の顔から反らした。
目に入ったのは、全然思い入れのない鯰の写真を飾ったメモリアルボックス。
破局ということになったら、今の職場には居られないだろう。
それでも、失業保険をもらいながら転職活動ができる程度には恢復している。
多少忙しくなるかもしれないけど、それなりの職場が見つかるかもしれない。
それに、一人に戻ればまた元々の写真を飾れる。
多分、それなりにどうにかなるだろう。
なんとか思考を前向きにしようとしているうちに唇は離れていった。
「……愛してるよ、シオン」
そしてまた返答に困る言葉を囁いた。
これも今思えば、同じ言葉を返せばよかっただけの話なのかもしれない。
ただそうすると、目の前にある困ったような笑顔から離れたくないという執着を改めて自覚することになってしまう。もうすぐ傍を離れないといけないというのに。
全てが曖昧になった今でもこれだけの粒度で色々と思い出せるのだから、梶穫恵叶はやはり私にとって特別な相手だったのだろう。
まあ、連休に起こることのせいで忘れようにも忘れられないだけ、という可能性もないこともないのだけれども。




