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バッファ・オーバーフローと勝負師の休息

・・・

三枝が消えて、最初の朝。

 分倍河原の『三枝堂』には、主のいなくなった空気が澱のように溜まっていた。私は受け継いだ『STM』のマスター権限を整理しようと端末を開いたが、一文字もコードが頭に入ってこない。


(……あかん。昨日の『栞』っていう声が、ずっと脳内でリフレインしとる)


名前を呼ばれる。ただそれだけのことが、これほどまでに致命的なバッファ・オーバーフローを引き起こすなんて。私は、熱を持った頬を冷ますように、読みかけの魔導書を顔に伏せた。


「……再起動リブートが必要やわ。……知らんけど」


そこへ、予告もなく店の扉が開く。革ジャケットの襟を立てた拓海が、少しだけ照れくさそうに、けれど真っ直ぐな視線で立っていた。


「栞。……リビルドの時間だ。今日は俺のフィールドに付き合え」


・・・

二人が向かったのは、府中本町の喧騒から少し離れた路地裏にあるラーメン屋の『ふくみみ』だった。

 普段なら『紅』の激辛麺で戦闘モードに切り替える拓海が、今日は何も言わずにこの店を選んだ。


「三枝の件で、お前のパケットは乱れっぱなしだろ。今は、このスープの音で同期し直した方がいい」


運ばれてきた、澄み切った醤油魚介のスープ。私の「聴覚」には、雑味を削ぎ落とした出汁の響きが、狂ったバイオリズムを整える「清らかな旋律」として届く。

 隣で黙々と麺を啜る拓海の、規則正しい呼吸の音。

 啜り終える頃には、トゲトゲしていた私の心も、ふっくらとした「ふくみみ」のように和らいでいた。


・・・

食事を終え、私たちは東京競馬場へと向かった。

 多くのファンが詰めかける府中本町側の西門を避け、あえて府中競馬正門前側の静かなエリアへ回る。子供たちの遊ぶ声と、どこからか漂う串焼きの匂い。少しだけ浮世離れした、隠れスポットのような空気。


「ハンターにとって、ここは博打場じゃない。多摩川の風に乗って流れてくる、微弱な『幸運のパケット』を拾い集める訓練場だ」


拓海はゴール板の先を見つめながら、そう言った。


「運ってのはな、貯金と同じだ。普段から無駄遣いせず、小さな幸運を積み上げておく。そうしなきゃ、ここぞという勝負で最高の『当たり』をぶち当てる事が出来ないんだよ」


その横顔には、これまでの「無鉄砲なハンター」ではない、自分の人生を賭けて戦う男の覚悟が滲んでいた。

 私は、その横顔を盗み見ながら、彼が貯めてきた「幸運」の中に、私も含まれているのだろうか、なんてらしくない計算デバッグをしてしまう。


・・・

多摩川沿いの苺農園で、拓海が「ハンターの嗅覚」で見つけ出した最高に甘い苺を無理やり食べさせられた後、私たちは隣接する交通公園へ足を踏み入れた。

 子供たちに混じって、大人の私たちが一台100円のゴーカートに並んで座る。


「……狭いわ、あんた、もっと詰めてや」

「これ以上は無理だろ、ハンドルに当たる」


物理的な距離が、否応なしに密着する。

 ミニチュアの標識が並ぶコースを、拓海が運転し、私がナビゲートする。

 その途中、静態保存された「D51(デゴイチ)」の巨大な車体の横を通り抜けた瞬間。


(……! 今、聴こえた……)


私の「聴覚」が、鉄の質量に隠されたレガシーな機械音を捉え、拓海の「嗅覚」が古びた油の香りに混じる三枝の残照を嗅ぎつけた。

 それは三枝が、最新の光回線ではなく「物理的な重み」に隠した、『正成』に対抗するためのオフライン・バックアップ。


・・・

ゴーカートを降り、夕暮れの多摩川の堤防を歩く。

 空は、境界線が曖昧になるような、美しくも不穏な茜色に染まっていた。


「……三枝のやつ、最後までお節介やったな。こんなところに『保険』をかけて」


三枝の遺した「新しい事」。それは、ただ世界を救う手段だけでなく、私たちが二人で歩き続けるための「理由」なのかもしれない。


「ああ。……でも、それを動かすのは、三枝じゃない。俺たちだ」


拓海が、私の左手を不器用に、けれど力強く包み込む。

 それは「運を貯める」ためでも、任務のためでもない。

 ただ、隣を歩く私を離さないための、彼自身の意志。


「……あんた、それ……運の無駄遣いやで」

「いいんだよ。これは、俺にとって一番のジャックポットなんだからさ」


私は「知らんけど」という言葉を喉の奥に飲み込んだ。

 その代わりに、握り返した手の体温を、私だけの新しいマスターデータとして永久保存コミットした。

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