沖縄県知事選で起きていることを小説家になろうに置き換えてみる
一人の候補者に寄せられる、あまりに不公正な嵐の中で
沖縄県知事選の報道やSNS上の様子を眺めていて、胸が締め付けられるような、どうにもやりきれない思いを抱いている。
もちろん、最終的に知事を選ぶのは沖縄県民だ。沖縄の未来を誰に託すのか。それは現地で暮らし、風土と歴史を身体で知る人々が決めればいい。県外に住む私たちが軽々しく「こうするべきだ」「あの人に投票すべきだ」と威勢よく口を挟む筋合いのものではない。
しかし、今回の選挙を取り巻くSNSの言説空間を見渡すと、あまりに歪んだ異様な熱量を感じざるを得ない。
もし、この状況をWeb小説投稿サイト「小説家になろう」の世界に置き換えたなら、どれほど不条理な事態が起きているかが浮き彫りになるのではないか。
想像してみてほしい。
ある人気作家がいる。長年にわたって作品を書き続け、読者に愛され、書籍化され、行政や出版社の期待を背負って打ち込んできた。
ところが突然、その作家個人に対する猛烈なバッシングと人格否定、誹謗中傷の嵐が巻き起こる。
「この作者は嘘つきだ」
「沖縄の未来を壊す危険人物だ」
「実績など何もない、無能な作家だ」
連日、根拠の薄い噂や文脈を都合よく切り取った動画、あるいは悪意あるデマまで混じった投稿が、膨大な量でSNS上を埋め尽くす。
作者は思わず息を呑む。あまりの攻撃の激しさに、どれほど孤独で恐怖を感じただろうか。運営に「これは事実ではありません」「度を越した誹謗中傷です」とSOSを求めても、ネットの濁流は容易には止まらない。
投稿は残り続け、拡散され、尾ひれがついてさらに膨れ上がる。
これを見て、「有名税なんだから仕方ない」「政治家(作家)なら耐えて当然だ」と切り捨てられるだろうか。私には到底そうは思えない。あまりにも不公平で、酷ではないか。
今回の沖縄県知事選において、事実上の一騎打ちとなっている現職の玉城デニー氏が置かれた状況は、まさにこの過酷なバッシングに晒される人気作家そのものに見えてしまう。
もちろん、玉城氏のこれまでの8年間の県政に対する批判や、行政手腕についての評価はあって然るべきだ。政治家である以上、建設的な批判やチェックを受けるのは当然の責務である。
だが、今起きていることの多くは「正当な政策批判」の枠を明らかに踏み越えている。
さらに酷なのは、その激しい攻撃の多くが、沖縄の現場からではなく「県外」から大量に流し込まれているという点だ。東京新聞の分析によれば、知事選関連のX投稿のうち発信地が特定できたものにおいて、東京からの投稿が25%を占め、当事者である沖縄の17%を大きく上回っていたという。
「小説家になろう」で例えるなら、沖縄の読者だけが参加する地域限定コンテストに対して、全く関係のない遠方のユーザーたちが大挙して押し寄せ、「この作者だけは絶対に落とせ!」「ランキングから引きずり下ろせ!」と連日罵詈雑言を浴びせかけているようなものだ。
地元読者が「私たちが静かに読んで判断するから、静かにしてほしい」と望んだとしても、「日本全体に関わる問題だから口を出す権利がある」と大声で押し切られてしまう。
これはもう自由な議論ではない。叩きやすい対象を遠くから攻撃し、特定候補の存在感を擦り減らそうとする理不尽な圧力である。
私が玉城デニー氏という一人のお人柄や存在に深い同情を禁じ得ないのは、単に彼の政治的立場や基地問題への主張に賛同しているからではない。
人間として、これほどの規模で投げつけられる悪意の暴風雨に一人で耐え続けなければならない状況そのものが、あまりにも理不尽で痛々しいからだ。どれほど強い意志を持った人物であっても、日夜浴びせられるデマや中傷に心が削られないはずがない。
「相手を落とすためなら何を言ってもいい」「とにかく相手のイメージを傷つければ勝ちだ」という悪意が選挙を支配するとき、損なわれるのは特定の政治家ひとりの名誉だけではない。沖縄の有権者が冷静に政策を見比べ、自分たちの未来を選ぶという最も大切な権利そのものが踏みにじられてしまう。
作品の魅力を磨くのではなく、ライバルの足を引っ張って読めなくさせるような争いは、文学でもなければ正当な競争でもない。ただの攻撃だ。
「作品で勝負してほしい」
「相手を貶めるのではなく、自分が何を実現したいのかを正々堂々と語ってほしい」
玉城デニー氏が過酷なバッシングの中で必死に訴えようとしている言葉や政策が、県外からの雑音やデマの嵐によってかき消されてしまうとしたら、それほど不公正な話はないだろう。
知事を選ぶのは、ランキングの外から威勢よく叩きにやってくる部外者ではない。その土地で風を感じ、日々暮らしを営んでいる沖縄県民だ。
過剰な中傷と過酷な攻撃に晒されながらもマイクを握る一人の候補者の姿を見つめながら、私は問わずにはいられない。
「これほど不当な嵐の中で、私たちは真に公正な選択と言えるのだろうか」と。




