第27章
約二か月後に、アンジェラにとっての大きな出来事が起きたのは、ユージンがこの状態のときだったので、彼は必然的に関与せざるを得なかった。アンジェラは、モーニングサイド・ハイツの大聖堂の敷地を見下ろす、小ぢんまりとした衛生管理の行き届いた部屋で、自分の運命はどうなるのかを毎時間考えていた。去年の夏苦しんだひどいリューマチから完全に回復しておらず、それ以来の心労が祟り、現在の状態は発病こそしていないが、顔色が悪く、弱っていた。往診産科医長のドクター・ランバートは、痩せた六十五歳の男性で、頬まで白髪が混じったカールした白髪頭で、こぶのある大きな鼻と、鋭いグレイの目が、彼をこの地位に就かせた活動気と洞察力と能力を物語っていた。彼には彼女が、献身的な態度で人生を送る平凡で忍耐強い小さな女性の一人に見えたので、ほんのちょっぴり軽い気持ちでアンジェラに好感を持った。深刻で、知らない人でもはっきりわかるほどの状態なのに、きびきびした実務的な明るい彼女の性格を好きになったのだ。落ち込んだり喧嘩をしていないとき、アンジェラはもともと明るい陽気な顔をしていた。これは、気の利いた賢いことが言える彼女の能力を示す外見的な特徴だった。彼女は、自分がどんな状況にあろうと、身の回りのことが効率的、知的に処理されてほしい願望を決して失ったことがなかった。看護婦のミス・ド・セールは、三十五歳の、しっかりした、粘液質な人で、アンジェラの気力と勇気を称賛した。非常に深刻な状況だったにもかかわらず、明るく、軽快で、希望に満ちていたので彼女にとても好感を持った。外科部長、研修医、看護婦の大まかな印象は、心臓が弱っていて、腎臓が彼女の状態に影響されているかもしれないというものだった。アンジェラはマートルと話してから、どういうわけか、全然信じてもいなかったくせに、実践士に説明されたように、クリスチャン・サイエンスなら自分がこの危機を乗り越えるのを助けてくれるかもしれないと結論づけた。ユージンが来てくれるとも思った。というのも、マートルがそれとなく彼の相談に乗るうちにユージンがその本を読もうとしていると言ったからだ。赤ん坊が生まれれば、二人は仲直りするだろう……だって……だって……そう、子供はとても魅力的なのだから! ユージンは本当は薄情ではなかった……ただのぼせ上がっただけだった。妖婦にひっかかったのだ。やがて乗り越えてくれるだろう。
ミス・ド・セールが髪をグレッチェン風の三つ編みにして、大きなピンクのリボンを結んでくれた。状態がさらに悪化したので、アンジェラは一番軽いモーニング・ガウンしか与えられなかった……柔らかくて着心地のいいものを着て、将来のことを現実的に考えながら座っていた。 痩せて美しく整ったスタイルから、むくんだ何だか不格好なものに変わってしまったが、彼女は悪い状況を最大限に活用した。ユージンはその姿を見てかわいそうになった。もう冬も終わりで、窓の外では雪が派手にというか激しく舞い、向かいの公園の地面は雪で真っ白だった。モーニングサイドのアッパー側を縁取るように、葉のないポプラ並木が見えた。アンジェラは冷静で、忍耐強く、希望に満ちていた。一方で、年配の産科医が研修医に重々しく首を振った。
「とても慎重にやらないといけないな。実際の出産は私が自ら担当する。きみは患者に体力をつけられないか確認してくれ。胎児の頭が小さいことを願うしかない」
アンジェラの小ささと勇気が彼の心を打った。とても多くの症例を扱ってきたが、このときばかりは本当に悲観するしかなかった。
研修医は指示に従った。アンジェラは特別に用意された食事と飲み物を与えられ、頻繁に食事をとらされ、絶対安静にさせられた。
「心臓が」研修医は指導医に報告した。「思わしくありません。弱っていて安定しません。軽い障害があるんだと思います」
「最善に期待するしかありません」指導医は真剣に言った。「麻酔なしでやってみよう」
特殊な精神状態にあったユージンには、このすべての悲哀が理解できなかった。気質的にも感情的にも避けられたのだ。看護婦と研修医は、彼が妻を心から大切にしていることを考えはしたが、彼には警告しないことにした。ユージンにショックを与えたくなかったのだ。彼は、出産に立ち会ってもいいかと何度か尋ねたが、危険でありつらい思いをする、と告げられた。看護婦はアンジェラに、離れたところで待機しているように彼に勧めた方がいいのではないかと尋ねた。アンジェラはそうしたが、ユージンは遠ざけられたにもかかわらず、アンジェラが自分を必要としていると感じた。それに、彼には好奇心があった。自分が近くにいた方がアンジェラはもっと辛抱できるようになる思ったし、試練が近づいている今になってようやく、状況がどれほど絶望的であるかを理解し、自分が力になるのは当然だと思い始めていた。彼女の小ささにあった昔の哀れな魅力が多少彼によみがえりつつあった。アンジェラはもたないかもしれない。ものすごく苦しむに違いない。アンジェラには彼に対する悪意は全然なかった……ただ彼をつなぎとめたかったのだ。ああ、この世で右往左往する感情は苦しく哀れなものだ。どうしてこんなにもつれなければならないのだろう?
いよいよその時が来た。アンジェラは激痛で苦しみ始めていた。生まれてくる生命を筋肉と靭帯の揺りかごに縛り付けていた母親になるためのすばらしいプロセスがほぼ完了して、今度は別の方向へと動かすために、一定の方向の動きを緩めていた。アンジェラは時々靭帯を痛めてひどく苦しんだ。両手は必死に握りしめられ、顔は死にそうなほど青白くなり、泣き叫んだ。ユージンはこういう場に何度か彼女と一緒にいて、この偉大な生殖の仕組みの微妙さと恐ろしさを自分の意識にしっかり叩き込んだ。これは、この命がけの計画を継続させるために、すべての女性を墓の入口まで連れて行くものだった。これは嘘であり、幻想であり、神の理性的意識の預かり知らぬ恐ろしい発作性の熱病である、というクリスチャン・サイエンスの指導者たちの主張には一理あるかもしれない、とユージンは考え始めた。ある日、彼は図書館に行って、産科に関する本を手に取った。それは手術による分娩の原則と実践を扱う本だった。ユージンはそこで、子宮内でさまざまな姿勢をとる子供が丹念に描かれたたくさんの絵を見た……小さな出来損ないの花びらのように折り重なり、いくらでもへんこで奇妙な花のような形になれるのだ。実用書でありながら、絵は魅力的で、その中には美しいものもあった。これらは彼の想像力をかき立てて、生まれてくる赤ちゃんを完璧に説明していた。しかし、とても小さくて、頭は今こっちかと思えば次はあっちにあり、小さな腕は思いがけない場所でねじれていたが、いつも楽しく思わせぶりに魅力を振りまいていた。その本のあちこちを読むうちに、大きな問題は頭……頭を出すこと……だと学んだ。その他に産科医に立ちはだかる問題は本当になさそうだった。それはどのように取り出されるのだろう? 頭が大きかったり、高齢出産だったり、腹壁が締まっていたり硬かったりすると、自然分娩はできないかもしれない。章の全部を開頭や砕頭に使っていた。これはわかりやすく言うと器具で頭をつぶすことである……。
ある章が帝王切開にさかれていた。その途方もない難しさの解説があり、社会にとっての相対的価値が簡単に述べられて、母親を救うために子供を殺すか、子供を救うために母親を殺すか、の倫理的な長い論考があった。これについて考えるなら……外科医はこの重大な瞬間に、裁判官と死刑執行人の席に座っているのである! ああ、ここは、けちな法律が治める日常の延長ではないのだ。ここで話は、エディ夫人が唱える人間の良心は、心の中だけの映像である、に戻った。もし神が善であったなら、神はそれを通して語るだろう……神はそれを通して語っていた。この外科医は最高の道徳律のあの最も奥の意識に言及した。これは、この恐ろしい時間に実践士を導くことができる唯一のものだった。
それから話は、必要機材と所要人数、助手(二名)、看護婦(四名)、包帯、針、絹糸、腸線、メス、クランプ、拡張器、ゴム手袋の種類に及び、いつ、どこで、どのように切開されるか、の説明があった。ユージンは怖くなって本を閉じた。立ち上がって外の空気にあたりに行った。アンジェラのところに急いで行きたい気持ちが彼を駆り立てていた。彼女が弱っていることは知っていた。彼女は心臓の不調を訴えていた。筋肉だって硬くなっていたかもしれない。こういう問題が、このうちのどれかひとつでも、彼女に影響するとしたら。彼はアンジェラに死んでほしくなかった。
口に出したことはあった……確かに、しかし彼は人殺しにはなりたくなかった。断じてご免だった! アンジェラはずっとユージンに親切でいてくれた。ユージンのために働いてくれた。ああ、なのに、彼女は彼のことで過去に実際に苦しんだのだ。彼はアンジェラにひどい仕打ちをした、とてもひどい仕打ちだ。そして今、彼女は自分の哀れで無力なやり方で、自分の身をこの恐ろしい立場に置いたのだ。これは彼女の落ち度だった。確かにそうだった。彼女はいつも彼の意志に反して彼を拘束しようとしていたが、だからといって彼は本当に彼女を責めることができただろうか? 彼女が彼に自分を愛してほしがることは、犯罪ではなかった。彼らはただ相手を間違えただけだった。彼は優しくあろうと努力して彼女と結婚したが、優しかったことがまったくなかった。それはただ、彼と彼女に不安と不満と不幸をもたらしただけだった。そして今度はこの……痛み、心臓機能の低下、腎臓疾患、帝王切開を経てのこの死の危険。彼女がこういうものに耐えられるはずはなかった。これについて話しても無駄だった。彼女には十分な強さがなかった……年をとりすぎていた。
ユージンは、クリスチャン・サイエンスの実践士のことを、どうすれば彼らがアンジェラを救えるかを……手術をしない方法を知っていそうな高名な外科医のことを……考えた。どうすればいい? どうすればいいんだ? もしクリスチャン・サイエンスの人たちが、こういうことを通して彼女のこと「考える」ことができさえしたなら……彼が後悔することはなかっただろう。彼自身のためではなくても、アンジェラのために彼は喜んだだろう。スザンヌをあきらめてもいい……それでもいいい……それでもいい。ああ、どうして今、そんな考えが、彼の頭に入ってこなければならないのだろう?
ユージンが病院に着いたのは午後三時だった。午前中もしばらくそこにいたが、そのときアンジェラは割と元気だった。彼女はかなり悪化していた。訴えていた脇腹の突っ張った痛みがさらに悪化し、顔は紅潮と蒼白を繰り返し、時々少し痙攣した。どうしたらいいだろう……自分に何ができるだろう……と考えながらユージンは突っ立っておろおろしていた。アンジェラは彼の心配を見て取った。自分の状態をよそに、彼を不憫に思った。このことで彼がつらい思いをするのを彼女は知っていた。なぜなら、彼は非情ではなかったからだ。そしてこれは彼の軟化の最初の兆候だった。もしかしたら正気になって完全に態度を改めるかもしれないと思いながら、アンジェラは彼に微笑みかけた。すべてうまくいくわよ、と言ってマートルはアンジェラを励ましつづけた。看護婦は彼女と入ってきた病院詰めの医師に順調にいってますと告げた。彼は鋭い不審そうな目をした二十八歳の若い男性で、砂色の髪と赤らんだ顔色からは闘争心が旺盛な性格がうかがえた。
「陣痛はありませんか?」医師はきれいに二列に並んだ輝く白い歯を見せながら、アンジェラに微笑んで尋ねた。
「痛みの種類まではわかりませんけど、先生」アンジェラは答えた。「あらゆる種類の痛みがあります」
「それもじきにわかりますよ」医師は冗談めかして明るく答えた。「他のどの痛みとも違いますから」
医師は立ち去り、ユージンは後を追った。
「彼女はどうなっているんですか?」二人が廊下に出たところでユージンは尋ねた。
「まあ、状況の割には順調です。彼女はあまり強くありませんからね、ご存知でしょうが。私は順調にいくと思ってます。もう少ししたら、ランバート先生がいらっしゃいますから、先生とお話しになった方がいいでしょう」
研修医は嘘をつきたくなかった。彼は、ユージンは知らされるべきだと考えた。ドクター・ランバートも同意見だったが、彼は最後まで、ほぼ正確に判断できるまで待ちたかった。
彼は五時に来た。すでに外は暗かった。そして真剣な優しい目でアンジェラを見た。脈をとり、聴診器で心音を聞いた。
「私は大丈夫なんでしょうか、先生?」アンジェラは、か細い声で尋ねた。
「大丈夫、大丈夫ですって」ドクターは穏やかに答えた。「小さな女性にも大きな勇気があるんです」と彼女の手をなでた。
彼は外に出た。ユージンは後を追った。
「先生」ユージンは数か月ぶりに、失った財産とスザンヌ以外のことを考えていた。
「あなたにはお伝えした方がいいと思います、ウィトラさん」年配の外科医は言った。「奥さんは深刻な状態です。私はあなたに余計な心配をさせたくありません……すべてがとてもうまくいくことだってあるかもしれませんからね。そうならないと確信するほどの確かな根拠はないんです。奥さんはかなりの高齢出産です。筋肉だって固い。奥さんの場合、まず恐れなければならないのは、腎臓に何か厄介な合併症があることです。あの年齢の女性は、いつも頭部を出すのが大変なんですよ。胎児を犠牲にする必要があるかもしれません。確信は持てません。帝王切開は考えたくもありませんね。めったに行われませんし、必ずしも成功するとは限りません。とれる処置はすべてとられます。あなたには状況を理解しておいてほしいのです。重大な対応が取られる前に、あなたの同意が求められますから。ですが、その時がきたら、決断は迅速に下されなくてはなりません」
「先生、私の決断でしたら今すぐにでもお伝えできます」ユージンは事態の深刻さを十分に理解しながら言った。このとき、かつての力と威厳が回復した。「とれるのであれば、先生にとることができるあらゆる手段をとっていただいて妻の命を救ってください。他に望みはありません」
「ありがとう」外科医は言った。「最善を尽くします」
その後、アンジェラのそばに座って、人間が耐えられるとは絶対に夢にも思わないほどの痛みを、彼女が耐えるのを、ユージンが見守る数時間があった。彼は、彼女がただ緊張をゆるめて、赤くなって、実際に叫ぶことなくうめくだけのために、何度も体を硬直させては、顔色を失い、額に汗を浮かべる様子を見守った。こういうのも変だが、アンジェラはちょっと具合が悪いといちいち泣きごとを言う彼のような赤ん坊ではなく、ものすごい我慢とものすごい忍耐とを同時にするための力を彼女に与えてくれる、何かの偉大な創造的力を代表しているのだと彼には見えた。彼女はもう微笑むことさえできなかった。そんなことは不可能だった。彼女は途切れることのない、驚異的な、苦しみの渦の中にいた。マートルは夕食をとりに家に帰ったが、また戻って来ると約束していた。ミス・ド・セールが看護婦をもう一人連れて来た。ユージンが部屋を出ている間に、アンジェラは最後の試練のための準備を整えた。普通の背中の開いた病院のスリップと白いリネンのレギンスを着せられた。ドクター・ランバートの指示で、最上階の手術室に手術台が用意され、必要があれば彼女を運び出せるように、ドアの外にキャスターつき手術台が待機させられた。看護婦がよく理解している、本物の陣痛の最初の兆候があったら、呼ぶようにと言い残してあった。研修医が直接担当することになった。
ユージンはこの最後の時間に、このすべての悲劇が処理される機械的で、実務的で、事務的な対応を不思議に思った……この病院は女性でいっぱいだった。ミス・ド・セールは、笑顔を絶やさず、アンジェラのために時々枕を変え、乱れた寝具を整え、窓のカーテンを調節し、ドレッサーに取り付けられた鏡の前かクローゼットの扉に設置された鏡の前で自分のレースの帽子やエプロンを直し、他の数え切れないほどの小さなことをしながら冷静に自分の職務を遂行した。彼女は、ユージンや付き添っているときのマートルの緊張した態度にはまったく関心を示さず、他の看護師たちとお喋りしたり、冗談を言ったり、自分がやらなくてはならないことを何でもまったく動じないでやりながら、出たり入ったりした。
「この痛みを和らげるためにできることは何もないんですか?」ある時ユージンは疲れた様子で尋ねた。彼の神経までずたずただった。「妻はあれには耐えられませんよ。体力がないんですから」
看護婦は穏やかに首を振った。「誰であってもできることはありません。鎮静剤を投与することができないんです。進捗をとめてしまいますから。ただ耐えなくてはならないんです。すべての女性がすることです」
「すべての女性か」ユージンは思った。何てことだ! すべての女性は子供が産まれるたびにこんな苦しみを経験するのだろうか? 今、この地球上には二十億の人間がいる。こういう場面が二十億回もあったのだろうか? 自分もこの道をたどったのだろうか……アンジェラも? すべての子供も? アンジェラは何というひどい間違いをしたのだろう……しなくてもいい、愚かなことを。しかし、今さらこんなことをあれこれ考えても手遅れだった。アンジェラは苦しんでいた。もがき苦しんでいた。
しばらくしてから、研修医がアンジェラの様子を見に戻ってきたが、まったく心配していないようだった。それどころか、そばに立っていたド・セール看護婦を安心させるようにうなづいてみせた。「順調にいっていると思う」彼は言った。
「そのようですね」看護婦は答えた。
どうしてそんなことが言えるのだろう、ユージンは不思議がった。アンジェラはひどく苦しんでいるのに。
「僕は一時間ほどA棟に行っていますから」医師は言った。「もし何か変わったことがあったら、そっちで僕をつかまえてください」
「これ以上悪化したら、どうなるのだろう?」ユージンは自分に問いかけ、本で見た解説図について考えていた……アンジェラはそこに示された恐ろしい機械的な方法で助けられなくてはならないのだろうか。本の絵は、その後に続くかもしれない命にかかわる可能性をユージンに示していた。
真夜中ごろ、ユージンが苦悶の同情の中で待ち続けた、予想された変化があった。マートルは戻って来なかった。彼女はユージンからの連絡を待っていた。アンジェラはそれまで、うめき声をあげ、時々体を強張らせ、目的も不幸のやり場もなく体をねじらせていたかと思えば、今度は跳ね上がって、まるで気絶したかのようにぐったりした様子だった。その動きに伴って悲鳴が上がり、それから何度も続いた。ユージンはドアに駆け寄った。しかし、そこには彼に会いに来た看護婦がいた。
「ここにいます」看護婦は静かに言って、外の電話のところに行き、ドクター・ウィルレッツを呼んだ。どこか別の部屋から二人目の看護婦がやってきて、彼女の横に立った。アンジェラの顔の靭帯が節くれ立ち、血管が腫れ、紫色になっていたにもかかわらず、彼女たちは落ち着いていた。ユージンにはそれが到底信じられなかったが、精一杯努力して平静を装った。そう、これが出産なのだ!
すぐにドクター・ウィルレッツが現れた。彼もまた、落ち着いていて、きびきびと仕事に向き合い、張り切っていた。黒いスーツと白いリネンのジャケットを着ていたが、それを脱ぎ脱ぎ部屋を出ると、袖をまくり上げて、肉屋がつけているのをユージンが見たことがあるような、長くて白いエプロンに体を包んで戻ってきた。彼はアンジェラのところへ行き、ユージンには聞こえなかったが、彼の横にいた看護婦に何かを言いながら、一緒に作業にかかった。ユージンは見ることができなかった……最初は見る勇気がなかった。
発作的な悲鳴の四、五回目で、二人目の医師が現れた。ウィルレッツと同年代の若者が、同じ格好で、彼の横に陣取った。ユージンはこれまで彼を見たことがなかった。「鉗子を使うことになりますか?」彼は尋ねた。
「僕からは言えない」相手は言った。「ランバート先生が自ら担当しておられますから。もう現れてもいい頃なんですがね」
廊下で足音がして、上級医だか産科医が入って来た。大きなコートと毛皮の手袋は下の廊下で脱ぎ終わっていた。外出着姿だったが、アンジェラを見て、胸部とこめかみを触ってから、外に出て、他の医師と同じようにコートをエプロンに着替えた。袖はまくり上げられたが、すぐに何かをするわけではなく、手が血まみれになった研修医をただ見守っていた。
「クロロホルムを投与できないのですか?」ユージンはド・セール看護婦に尋ねた。彼には誰も注意を払っていなかった。
彼女はほとんど聞いていなかったが、首を振った。とても遠い存在の上司であるこの医師たちにつきっきりで補佐するのに忙しかった。
「部屋の外にいることをお勧めします」ドクター・ランバートはユージンに近づきながら言った。「ここにあなたにできることは何もありません。何の助けにもならないでしょう。あなたは邪魔かもしれない」
ユージンはその場を離れたが、悶々としながら廊下を行き来するだけだった。彼とアンジェラとの間に起きたすべてのこと……その歳月……奮闘の数々……を思い浮かべた。ふと、マートルのことを考え、呼び出すことにした……彼女はそこにいたがっていた。そして、すぐに呼ばないことに決めた。彼女は何もできなかったからだ。それからクリスチャン・サイエンスの実践士のことを考えた。マートルなら彼女に頼んでアンジェラに遠隔処置を施せるかもしれない。何でもいい、何でもいい……アンジェラがこんなに苦しむのが、残念でならなかった。
「マートル」相手が出ると電話越しに神経質に言った。「ユージンだけどさ。アンジェラがものすごく苦しんでるんだ。お産が始まったんだ。ジョンズさんに助けてもらえないかな? ひどいことになってるんだ!」
「わかったわ、ユージン。すぐに行くわ。心配しないで」
ユージンは受話器を掛けて、再び廊下を行き来した。くぐもった声が聞こえた……くぐもった叫び声が聞こえた。ミス・デ・セールではない看護婦が出てきて手術台を運び入れた。
「手術をするんですか?」ユージンは興奮して尋ねた。「僕はウィトラです」
「そうではないと思いますけど、私にはわかりません。必要な場合に備えて、ランバート先生は患者を手術室へ運ばせたいのでしょう」
しばらくして医師たちはアンジェラを台に乗せて運び出し、上の階へ行くエレベーターに乗せた。移動中は、アンジェラの顔が少し覆い隠された。周囲にいた人たちのせいで、彼女の様子はユージンにはわからなかったが、彼女が動かないので彼は気になった。看護婦が一時的に極微量……もし手術が必要になっても影響しない程度……の鎮静剤が投与されたことを教えてくれた。ユージンは無言で立ち尽くし、恐怖に怯えた。手術室の外の廊下に立ち、中に入るのを半分怖がっていた。外科部長の警告がよみがえった。いずれにせよ、彼が何の役に立てただろう? ユージンは思案にくれながら、目の前の薄暗い廊下をずっと先まで歩き、雪しかない外の空間を眺めた。遠くでは、照明の灯る長い列車が、金色の蛇のように高い架台を曲がって進んでいた。雪の中には、クラクションを鳴らしている車と、苦労して進む歩行者がいた。人生は何て込み入っているんだと彼は思った。悲しいかな、彼は少し前までここでアンジェラが死ぬのを願っていた。なのに今は……全能の神よ、あれは彼女がうめいている声だ! 彼は自分の邪悪な考えのために罰せられるだろう……そう、処罰されるのだ。彼の罪が、今までのひどい行為のすべてが、彼のところに戻ってきているのだ。それらが今、彼のところへ戻ってきているところだった。彼のこれまでの人生は、何という悲劇だったのだ! 何という失敗だったのだ! 熱い涙が目にあふれて、下唇が震えた。これは自分のためではなく、アンジェラのためだった。突然、改悛の情がこみあげた。彼はそれをすべて押し戻した。いや、断じて、泣くまい! 涙が何の役に立つのか? 彼の痛みはアンジェラのことが後ろめたいからであり、今さら泣いてもアンジェラの助けにならなかった。
スザンヌのことが頭に浮かんだ……デイル夫人やコルファックスも浮かんだ。しかし彼はそれを締め出した。もし彼らが今、彼を見たらどう思うだろう! そのとき、またくぐもった悲鳴がした。彼は足早に歩いて引き返した。これには耐えられなかった。
しかし中には入らなかった。その代わりに、喉鳴りだか窒息のような音を聞きながらじっと耳をすませた。これはアンジェラのものだろうか?
「低位鉗子」……ドクター・ランバートの声がした。
「高位鉗子」これも彼の声だった。膿盆に金属が当たったような音がした。
「残念だが、この方法では無理だ」再びドクター・ランバートの声がした。「手術しなければならない。これもやりたくはないのだがな」
看護婦が出てきて、ユージンが近くにいるかどうかを確認し「待合室に入った方がいいですよ、ウィトラさん」と注意を促した。「すぐに先生が彼女を運び出すでしょうから。もう長くはかからないでしょう」
「いや」彼は突然言った。「自分で確かめたい」ユージンは手術室に入った。アンジェラは部屋の中央にある手術台に横になっていた。彼女の頭上で電球六つのシャンデリアが光っていた。アンジェラの頭側でドクター・ウィルレッツが麻酔をかけていた。右側にはドクター・ランバートがいた。両手に血まみれのゴム手袋をはめて、ユージンに全然気づかずに、メスを握っていた。二人の看護婦のうちの一人がアンジェラの足もとにいて、メス、膿盆、水、スポンジ、包帯が並ぶ小さな台で役目を果たしていた。台の左側にはミス・デ・セールがいて、両手でアンジェラの体の横に布を数枚当てていた。彼女の横、ドクター・ランバートの向かい側に、ユージンの知らない別の外科医がいた。アンジェラは荒い呼吸をしていて、意識がなさそうだった。顔は布とゴムのマウスピースだか円錐形の器具で覆われていた。ユージンは爪を手のひらに食い込ませた。
結局、手術をしなければならないのか、と思った。アンジェラはそれほど悪いのだ。帝王切開。胎児を殺して母体から取り出すことさえできなかったのだ。記録された症例の七十五パーセントが成功したと本にはあったが、記録されなかった症例はどれくらいあるのだろう。ドクター・ランバートは優秀な外科医だろうか? アンジェラは麻酔に耐えられるだろうか……彼女の弱い心臓で?
ドクター・ランバートが素早く手を洗う間、ユージンはそこに突っ立ってこの不思議な光景を見ていた。彼は医師が小さなぴかぴかの鋼鉄のメスを手に取るのを見た……磨かれた銀のように明るかった。この老人の手はゴム手袋に包まれていて、照明の下だと青みを帯びた白に見えた。アンジェラの露出した体はロウソクの色をしていた。医師は彼女を覆うように体をかがめた。
「できる限り、彼女に普通の呼吸を続けさせて」と彼は若い医師に言った。「目を覚ましたら麻酔を投与して。先生、動脈には気をつけた方がいいぞ」
彼はどうやら腹部の中心の少し下を軽く切ったようだった。刃が触れたところから、血が少し流れ出るのが見えた。大きく切ったようには見えなかった。看護婦は血が流れるのと同じはやさで、スポンジで血を拭き取った。もう一度切ると、腹部の筋肉の下にあって腸を保護している膜が、視界に飛び込んで来たように見えた。
「あまり切り過ぎたくはないな」外科医は冷静に言った……まるで自分に向かって言っているようだった。「こういう腸は手に負えなくなりがちなんだ。その端を持ち上げてくれないか、先生。それでいい。スポンジだ、ウッドさん。さてと、ここが十分に切れるといいんだが」……まじめな大工か家具職人のように再びメスを入れた。
彼は持っていたメスを、ウッド看護婦の水の入った容器に落とした。看護婦が絶えずスポンジで拭っていた出血中の傷口に手を伸ばして、何かを露出させた。一体何だろう? ユージンの心臓がドキッとした。今度は中指をその中の奥に伸ばし……次に人差し指と中指を伸ばして言った。「足が見つからない。どれどれ。おお、あったぞ。よし、ここにあった!」
「頭を少しそっちに動かしてもいいですか、先生?」話しているのは、彼の左側の若い医師だった。
「慎重に! 慎重にな! 尾骨のところで下に曲がっているんだ。だが、ようやく見つけたぞ。ゆっくりとだ、先生、胎盤に気をつけてな」
切り口から血がしたたり落ちているこの恐ろしい空洞から、何かが出て来るところだった。奇妙な小さな足と胴体と頭だった。
「神さまが決めたとおりにしよう」ユージンは再び目をうるうるさせながら自分に言い聞かせた。
「胎盤だ、先生。腹膜に気をつけてね、ウッドさん。ちゃんと生きているな。脈はどうだ、デ・セールさん?」
「少し弱いですね、先生」
「麻酔を減らして。さて、とりあえずうまくいったぞ! そっちも元に戻すとしよう。スポンジ。これは後で縫わなくてはならないな、ウィルレッツ。これがひとりでに治るとは思わない。外科医なら治ると思うだろうが、私は彼女の回復力を信じてないんだ。とにかく三、四針は縫っておこう」
彼らは、大工や、家具職人や、電気技師のように働いていた。アンジェラが人体模型だったとしても、彼らは気にしなさそうだった。それでも、ここには緊張感があった。ゆっくり確実な動作の中に、すごい慌ただしさがあった。「慌てないで早くやれ」という古い言葉がユージンの頭に浮かんだ。これがすべて夢で……悪夢で……あったかのようにユージンはじっと見つめた。レンブラントの『夜警』のような名画だったのかもしれない。彼が知らなかった若い医師が、紫色の物体の足をつかんで高く掲げていた。まるで皮を剥がされたウサギだった。しかしユージンの怯えた目は、それが自分の子供……アンジェラの子供……このすべての恐ろしい争いと苦しみに関係するもの……だと気がついた。それは変な色をした信じがたいもの、神話、怪物だった。ユージンは自分の目が到底信じられなかった。それでも、医師はじろじろとそれを見ながら、手で背中を叩いていた。その同じ瞬間に、かすかな泣き声がした……泣き声でない……ただのかすかな変な音だった。
「恐ろしく小さいな。でも何とかなるだろう」これは、ドクター・ ウィレッツが赤ん坊について話していたことだった。アンジェラの赤ちゃん。それが今、看護婦の手に渡った。医師たちが切っていたのはアンジェラの体だった。彼らが縫合しているのはアンジェラの傷だった。これは現実ではない。悪夢だ。ユージンは正気を失い、霊にとりつかれて混乱していた。
「どうやら、先生、もちそうだね。毛布を頼む、デ・セールさん。もう彼女を運んでもいいよ」
彼らはアンジェラにたくさんのことを行っていた。包帯を巻いて、口から円錐形の器具を取り外し、体を仰向けにし、彼女を洗う準備を整えて、身柄を搬送台へ移動させて運び出した。その間も、アンジェラは麻酔で意識を失ったままうめき声をあげた。
ユージンは、この聞いていて気分が悪なる荒い息遣いに耐えられなかった。彼女の口から出るのは何とも奇妙な音だった……まるで彼女の無意識の魂が泣いているかのようだった。そして子供も元気よく泣いていた。
「ああ、神さま、何という人生なんだ、何という人生なんですか!」彼は思った。物事がこんなふうに進まなければならないなんて。死、切開! 意識不明! 苦痛! 彼女は生きられるだろうか? どうなのだろう? もうユージンは父親だった。
振り向くと、看護婦がいて、白いガーゼの毛布だかクッションの上で小さな女の子をおさえていた。赤ん坊に何かをしていた……オイルを塗っていた。その子は他の赤ん坊と同じように今はピンク色だった。
「そう悪くはないでしょ?」彼女は慰めるように尋ねた。ユージンに日常の感覚を取り戻してほしかったのだ。彼はかなり取り乱しているように見えた。
ユージンはそれを見つめた。奇妙な感覚が彼を襲った。何かが頭からつま先まで体を上り下りして、彼に何かをしていた。それは不安をあおり、くすぐり、つねる感覚だった。彼はその子供に触った。その手と顔を見た。アンジェラに似ていた。確かに、似ていた。それは彼の子供だった。それは彼女の子供だった。彼女はもつのだろうか? 彼はもっと元気になるのだろうか? ああ、神よ、今の彼にこれを突きつけるなんて。それでもそれは彼の子供だった。彼に何ができただろう? かわいそうな小さなもの。もしアンジェラが死んだら……もしアンジェラが死んだら、彼にはこれがあるだけで他には何もなかった。アンジェラの長い劇的な奮闘から生じたこの小さな女の子だけだった。もし彼女が死んだら、これは彼に何をするために現れたのだろう? 導くためか? 強くするためか? 変えるためか? 彼にはわからなかった。ただ、どういうわけか、知らないうちに、これは彼を魅了し始めていた。これは嵐の子供だった。そして、アンジェラは、今は彼のすぐ近くにいるが……この先、生きてこの子を目にすることがあるだろうか? そこで、意識と感覚を失い、ひどい切り傷を負った状態でいた。ドクター・ランバートは立ち去る前に、最後に彼女の様子を見ていた。
「先生、アンジェラはもつのでしょうか?」ユージンは興奮してこの立派な外科医に尋ねた。医者はむずかしい顔をしていた。
「何とも言えません。言えないんですよ。本来あるべき体力がないし、心臓と腎臓の連携まで悪いときている。しかし、あれは最後のチャンスだった。私たちはそれを活かさなければならなかった。残念なことです。子供を救うことができたのはよかった。奥さんの看護には看護婦が最善を尽くしますからね」
彼は労働者が自分の仕事を終えて帰るように、自分の現実世界へと出ていった。私たちみんながそうするように。ユージンはアンジェラのところに行ってそばに立った。この事態を招いた長い不信の歳月をものすごく後悔していた。彼は自分を、人生を……それを変にもつれさせたことを、恥じていた。アンジェラはとても小さく、とても顔色が悪く、とてもやつれていた。そう、彼がこれをやったのだ。彼は自分の嘘と、移り気と、気まぐれな性格とで彼女をここまで連れてきたのだ。ある見方をすれば、これはまさに殺人だった。最後のときまで彼ほとんど心を開かなかった。しかし人生はユージンにもいろいろなことをしてきていた。今度という今度は……ああ、地獄だ、ああ、畜生! アンジェラが回復さえすれば、彼は改心しようと努力するだろう。確かに、彼はそうするだろう。これが彼から出てくるととても馬鹿げて聞こえた。しかし彼はそうするつもりだった。愛は代償に苦悩を求めるがそれに見合うだけの価値はなかった。放っておけ。そんなものは放っておくのだ。彼は生きていける。アルフレッド・ラッセル・ウォレスが指摘したように、階級制度や権力は確かに存在する。神はどこかに存在する。神はその玉座にいるのた。この大きな、暗い、不変の力、これらは伊達に存在しているわけではない。もしアンジェラさえ死ななかったら、彼は努力するつもりだった……態度を改めるつもりだった。必ず! 必ず!
ユージンはアンジェラをじっと見つめた。とても衰弱して青白く見えたので、彼女が回復できるとは思わなかった。
「私と一緒に家に帰りたくないの、ユージン?」しばらく前に戻って来て彼の傍らにいたマートルが言った。「今ここにいても、私たちには何もできないわ! 数時間は意識が戻らないかもしれないって看護婦さんは言ってるのよ。赤ちゃんは病院がちゃんと面倒をみてくれるんだから」
赤ちゃん! 赤ちゃん! ユージンは赤ん坊のこともマートルのことも忘れていた。彼は自分の人生の長く暗い悲劇を……その悪意……について考えていた。
「そうだね」ユージンは疲れた様子で言った。もうすぐ朝だった。外に出て、タクシーに乗って、姉の家に行った。しかし疲れていたにもかかわらず、ほとんど眠れなかった。興奮して寝返りをうった。
午前中早いうちにまた起き上がり、アンジェラ……と子供……の様子を見に戻りたくなった。




