雛鶴の悪夢
登場人物
長野雛鶴:長野信濃守業政とその継室お福の娘で、ポチの飼い主。長野家のために人生を捧げるつもりだが、何をすればよいか分からない状態。温泉が大好き。
長野右京進氏業:長野信濃守業政とその継室お福の息子で、雛鶴の実兄。姉妹が大勢いて、とても可愛がられている。一見貴公子然としているが、内心は打たれ弱い。婚約者に藤鶴姫がいる。
ここで場面は変わり、雛鶴視点へと移る。
ポチを送り出し、うとうとしていた雛鶴は、酷い悪夢にうなされていた。
・・・・・
時は永禄9年(1566年)9月29日、ここ上野国箕輪城は武田信玄率いる二万の軍勢に包囲され、今まさに落城の時を迎えようとしていた。
雛鶴は、御前曲輪で氏業の帰りを待っていた。
雛鶴の目の前に見えるは、白鞘に収められた脇指。
もちろん、雛鶴が自刃する際に使用する物である。
周囲を見渡すと、侍女のお英と赤子を抱く藤鶴姫の姿が目に入った。
ちなみに、藤鶴姫とは扇谷上杉憲勝の娘で、氏業の婚約者である。
(藤鶴姫は、無事兄上様と結婚して子を成したのね。でも、箕輪城は落城寸前で、この赤子は一体どうなるのかしら?)
そんなことを考えていると、白糸威鎧を敵兵の血で真っ赤に染めた氏業が、生き残った家臣と共に御前曲輪へ戻ってきた。
「兄上様、無事にご帰還されなによりです」
「おう雛鶴よ、出迎え感謝する。私は、伊勢守殿や残存兵と共に武田軍に突撃し、敵兵二十八騎を討ち取ってやったぞ。凄いだろう」
「兄上様、お見事にございます。これで、信玄坊主も思い知ったことでしょう。上州の民を無下にすると、痛い目に遭うということを。兄上様は、ご自身の使命を全うされたのです。そのことを、誇りに思って下さい」
「そうなのかな?いずれにせよ、最期に雛鶴のその言葉を聞けて良かったよ」
「ところで、兄上様はこの後自刃なさるのでしょう。それでは、わたくしが一足先にあの世に行って、兄上様をお待ち致しております」
そして、雛鶴は脇指を手に取ろうとするが、氏業はそれを止めさせた。
「何故、兄上様はわたくしの自刃を止めるのですか?わたくしに辱めを受けろというのですか?」
「そうではない。藤井忠安、青柳忠勝はおるか」
「「はっ、ここに」」
「お前らは、藤鶴姫、亀寿丸(氏業と藤鶴姫の子)、雛鶴を連れて城を抜け出し、吾妻方面へ落ち延びよ」
「「ははっ、承知しました」」
「そんな、兄上様酷いです。兄上様のいない世界で生き長らえても、何の意味もありません」
氏業の言葉に絶望した雛鶴は、白鞘から抜いた脇指を自身の喉に突き立てた。
・・・・・
「はっ。何という恐ろしい夢なのでしょうか」
悪夢から目覚めた雛鶴は、大量の汗をかいていた。
「それにしても、さっきの夢はあまりに生々しく、まるで現実のことのようでした。もし、本当にあれが5年後に起きるとしたら・・・」
雛鶴は、ブルブルと震えた。
「あっ、『おっさん』さんの『真・箕輪軍記』。あれには未来のことが書かれているはず。兄上様の部屋に行って確かめないと・・・」
雛鶴は氏業の部屋まで走り、障子を開けた。
雛鶴が見たのは、部屋の真ん中に立ち、妹が来るのを待ちかまえている氏業の姿であった。
「ふっ、遅かったな雛鶴よ。グフォー」
雛鶴は、兄めがけて突進した。
「兄上様、『真・箕輪軍記』を見せて下さい。武田軍によって箕輪城が落城し、わたくしと兄上様が自害するのは、5年後の9月29日なのですか?」
「この本には、そう書かれているな」
「では、やはりあの夢は未来を示唆したものなのですね。兄上様、わたくしは先ほど恐ろしい夢を見ました。今から5年後に、武田軍によって箕輪城が落城し、わたくしが自刃するという夢を」
「だとすると、私も雛鶴と同じ夢を見ていたようだな。目の前で妹に死なれた私は深く絶望し、そのまま御前曲輪に火を放って持仏堂に入った後、父の位牌を三拝して辞世の句を詠み自害したのさ。辞世の句は『春風に 梅も桜も 散りはてて 名のみぞ残る 箕輪の山里』だ」
「兄上様に自刃を止められたわたくしは、酷く傷つきました。絶望しました。だから兄上様、もし運命を変えることができず同じ未来が訪れたその時は、わたくしを城から落ち延びさせるのではなく、兄上様の手で殺して下さい。そうだ、太平記の楠木兄弟(正成・正季)みたいに、互いに刺し違えて死ぬのも素敵だと思いませんか?生まれた日は違えども、死ぬ時は同じ日、同じ時を願わんみたいな感じで・・・」
「雛鶴、やめてくれ。私は誰にも死んで欲しくないし、殺したくもない。ましてや、最愛の妹をこの手で殺すなど、考えたくもない。そもそも、私が上州一揆の旗頭とか無理なんだよ。私は吉業兄上の下で行政官でもやっていたかったのだが、上州の黄斑(業政の異名、意味は上州の虎)の跡取りとして皆が私に期待をする。でも、恐ろしくてしょうがないのだ。私が判断を間違えて家臣や領民が大勢死ぬとか、想像しただけで震えが止まらぬ。もう本当に・・・、勘弁してくれ」
実際、氏業はガタガタ震えていて、顔色も青ざめていた。
(兄上様は、わたくしが思っている以上に追い詰められているわ。わたくしが何とかしないと・・・。そうだ!)
「ねえ、兄上様。座って下さらない?」
「うん?こうか」
氏業は、その場に座ってあぐらをかいた。
雛鶴は、氏業の膝の上に腰を下ろした。
「あのー、雛鶴さん。これはいったい?」
「幼い頃、教師に叱られて落ち込んでいるわたくしを、兄上様はよくお膝の上にのせて励ましてくれたではありませんか。だから、今度はわたくしが兄上様を励ましてあげます」
雛鶴は、そう言うとにこりと花が咲くように微笑んだ。




