上杉憲政登場
場面は、幽界図書館から春日山城下へと移る。
城下町は、侍やら兵士やら商人やら職人やらでごったがえしていた
「まあ、春日山は武田軍とのいくさに向けて、臨戦態勢に入っているわね。空気がヒリついているわ」
「目立つと何されるか分かりませんから、今日は早めに宿を取って、明日おれが長野家の使者として春日山城に向かいます。初めての旅で、姫様も疲れたでしょう。今夜は、宿でゆっくり休むといいですよ。ポチ、姫様をしっかり守れよ」
「わんわん(分かっているわん)」
「あのー、姫様。ポチはおれの言ったことを理解しているんですかね?」
「段蔵、大丈夫よ。分かっていると言っているわ」
「それじゃあポチ、おれの言うことに賛成なら首を縦に振り、反対なら首を横に振ってくれ」
ポチは首を縦に振った。
「へー、犬ってみんな人間の言うことを理解しているんですかね?」
「多分、『おっさん』さんが取り憑いているから。ポチは人間の言葉が理解できるんじゃないかしら」
雛鶴と段蔵がそんなことを話していると、周囲から『憲政公と政虎公がいらっしゃるぞ』という声が上がり、皆が地面にひれ伏した。
雛鶴と段蔵も、周囲と同じようにひれ伏した。
※上杉憲政は、この頃隠居・剃髪して光徹と名乗っていたらしいけど、分かりにくいのでこの物語では出家をせず、名前も憲政で通すよ。
ポチがおっさんに尋ねた。
「憲政って誰だわん」
(ひとつ前の関東管領だよ。奴が河越合戦で北条氏康に大敗したから、吉業が戦死して未熟な氏業が長野家の当主になる羽目になったし、ボクたちもわざわざ春日山まで来て上杉政虎から金を借りなきゃならなくなったわけさ)
「じゃあ、全部憲政が悪いわんね。ポチがひとこと文句を言ってやるわん」
(おい、ポチ止めとけよ)
「ちょっとポチ、憲政様に喧嘩を売るつもりなの?こちらの目的は上杉家からお金を借ることなのだから、騒ぎは起こさないでちょうだい」
「でも、文句を言わないと気が済まないわん」
「ちょっと、姫様とポチは何を言い合っているんですか。これでは憲政様に気付かれてしまう・・・。あっ、気付かれた」
騒いでいるポチと雛鶴の前に、乗馬したチビでデブのおっさんが現れた。
「この辺りでは見かけぬ顔じゃな。着ている服や雰囲気から、庶民ではないな。どこぞの国人領主の娘か?名は何と申す」
「長野信濃守業政が末娘、雛鶴に御座います。父が六月二十一日に亡くなったため、そのご報告と葬儀費用の借用をお願いするために、春日山まで参りました」
「ほう、確かに越後に戻る前、業政が病気だとは聞いていたが・・・。そうか、奴もついにくたばったか。フッフッフ、これで奴の分別くさい顔を見ることも無くなったということだな」
憲政のその言葉を聞いて、ポチが切れた。
「やいやい、そこのちっちゃいおっさん。何を笑っているんだわん。業政は、最期まであんたを上州に戻そうとしていたのに、くたばったとかひどい言い方なんだわん」
「おい、そこの犬。わしをちっちゃいおっさん呼ばわりしたか?わしは、そう言われるのが大嫌いなんだ」
憲政は激怒し、馬から下りるとポチに向かって刀を抜いた。
(ポチー、下手をすると上杉家と長野家の戦になるぞ。葬儀費用も借りられなくなるし、さっさと謝れ)
「刎友の頼みでも聞けないわん。憲政は、その刀でさっさとポチを斬ればいいわん。でも、その前にかみ殺してやるわん」
「ポチ、止めなさい」
雛鶴がポチと憲政の間に割って入り、憲政に土下座をしながらこう言った。
「飼い犬の不始末は、飼い主が方をつけます。憲政様、わたくしにできることなら何でもしますので、どうかこの場はお収め下さい」
「今、何でもすると言ったな。では、其方には今夜わしの屋敷まで来て貰おうか」
下卑た笑みを浮かべながら、憲政が雛鶴に迫る。
段蔵は、雛鶴に手出し無用と言われているようで、動くことができない。
ポチは叫んだ「このままじゃ、ちっちゃいおっさんにご主人様が手篭めにされるわん。刎友、助けるんだわん」と。
(しょうがないなあ。ポチ、ボクの言う通りにしゃべってみろ)
そして、おっさんはポチにごにょごにょと台詞を伝えた。
「わかったわん。えーと・・・。憲政様、盗跖(中国の伝説的盗賊)の犬が尭帝(古代中国の聖人)に向かって吠えたのは不敬と世間では言うが、飼い犬は飼い主以外には吠えるものだ」
「ああん?『跖狗吠尭』のことを言っているのか?お前は盗跖の犬か」
「雛鶴姫の犬だわん」
「あっそう。でも、用があるのはおまえじゃなくて主人の方な。さて、雛鶴といったか?其方には、今夜何をして貰おうかな。それに、わしの女になれば、政虎殿への便宜を図ってやらんでもないぞ」
「さすが憲政様、忠臣の娘にも分け隔てなく変態行為を強いるとは。三国一の愚将の名に恥じぬ振る舞いですな」
「よっ、日本一の恥さらし」
「よせやい、褒めても何も出ぬぞ」
「いや、全然褒めておりませぬ」
周囲の側近(小幡氏や大石氏)と訳の分からぬやり取りをした憲政は、再度雛鶴に迫った。
「ちょっとおっさん、憲政が止まらないわん。このままじゃ、ヤバいわん」
(よし、ポチ。そのまま、段蔵に何とかしてくれと訴え続けろ)
「段蔵には、ポチの言うことは分からないと思うけど、とにかくやってみるわん。段蔵、何とかするわん」
「うん?ポチは、おれに向かって何を訴えているんだ?あっ、そういうことか。憲政様は凄いですね、犬と話せるとか。おれにはポチが何を言っているか、全然分かりませんよ」
段蔵のひとことにより、周囲が騒ぎ始めた。
「まあ、飼い犬に悪口を言われたとか訳の分からない理由で、小さい女の子を自分のものにしようとするなんて、恥ずかしくないのかしら?」
「いや、関東管領山内上杉家には、犬と会話できる不思議な力があるかもしれんぞ(笑)」
「やーい、犬管領」
「よっ、頭の中はお花畑」
「跖狗吠尭とは、善悪を問わず主人に尽くすことの喩えですかな。しかし、犬がその様な難しい言葉を知っているとは思えませぬが」
「おい、側近たちまで一緒になってわしを愚弄するではない。皆がわしを蔑むから、思わず興奮してしまったではないか」
「うわー、このちっちゃいおっさん頭おかしいわん。罵られて気持ちよくなっているわん」
「ええい、いらぬ注目を集めてしまったではないか。娘よ、こっちに来い」
憲政は、雛鶴の腕を掴んで引き寄せた。
すると、雛鶴の胸元から例の扇(母から譲られた叔母の扇)が落ちた。
「むむっ、その扇は何処で手に入れた」
憲政の問いに対し、雛鶴は「この扇は亡き叔母『千代』の形見の品で、母から譲られたものだ」と憲政に説明した。
「ふむう。そういえば、其方は千代に似ているな」
「叔母と姪の関係ですから、似ているのは当然と思いますが。というか、憲政様は叔母上様のことをご存じなのですか?」
「えーと、あーと、うーんと・・・。わしは知らんぞ。保土田千代のことなんぞ、見たことも聞いたこともないわ」
(どう考えても、憲政様は叔母上様のことを知っているわ。でも、ここで指摘するとややこしいことになりそうだし、黙っておきましょう)
雛鶴は沈黙したが、凄まじい存在感を持つ何者かが、周囲に神力をまき散らしながらこちらに近づいてきた。
おっさんは確信した。
(ああ、上杉政虎(謙信)が現れたな)と。




