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疾走と弾丸  作者: 榊かえる
27 弱虫おおかみとおこりんぼうの赤ずきん
206/208

27-4

 洗い物と翌日の仕込みを終えて、網屋は一人掛け用のソファーに座ると煙草に火をつけた。溜息と共に、ごく僅かな薄い煙が立ち上って宙に消える。


 喫煙量が増えたな、と、網屋は悟っていた。いつから増えたのか、などというのは分かりきった答えである。そして、そうなる前は明らかに喫煙量が少なかったということも。

 完全に癖となってしまった右手の動き。持ったままのオイルライター。蓋を何度も開け閉め。掌の中でその重さを確かめて、それに気付き、今度は大きな溜息。濃く吐き出される煙。


 苦いな、と、感じる。吸いたいような吸いたくないような。だが勿体無いのでこれだけは吸っておこうか、とりあえず……


 と、そこまで考えたところでスマホが鳴った。相田からの着信は音を変えているのですぐ分かる。であるので、いちいち確認もせずに出る。


「どしたー」

「あー、先輩、すんません。俺、そっちの部屋に忘れ物しちゃった」

「え、マジで? 探すよ」

「いや、大丈夫。場所の見当ついてるから、俺がそっち行った方が早い」


 煙草を灰皿に捩じ込み、勢いよく立ち上がる。


「ってかね、もう部屋から出ちゃった。モシモシ、アタシまーくん。今アナタの部屋の前にいるの」

「はええな! ハイハイハイ、ちょっとお待ち下さいよーっと」


 インターホンも見ずにスマホを持ったまま玄関へ。靴を踏み石のように踏んづけて解錠。すぐさま、ドアが開いた。


「こんばんは」


 そこにいたのは、相田ではなかった。光に透けると真っ赤に見える髪。意思の強そうな真っ直ぐに見つめてくる瞳。伸びた背筋。


「ヒッ」


 思わず、みっともない声が出た。体を引っ込めるとか、ドアを閉めるとか、そんなことを考えるよりもはるかに速く彼女の足が隙間に挟み込まれる。

 持ったままのスマホから相田の「戦略的撤退!」という声が漏れて、ブツリと切れた。凄まじい速さで飛び出してゆく奴の車。


 一瞬の出来事であった。何が起こっているのか把握する暇もなく車両は砂埃と共に遠ざかり、目の前には阿修羅の如きひとりの女。その名を、神流椿。


「突然失礼します。お聞きしたいことがあって。中、入らせてもらいますね」

「ひゃい」


 驚きと恐れで声がひっくり返り、ひどい返事が飛び出したが相手は知らぬ顔。ああ、来客用のスリッパとか用意しとけばよかった、という考えが湧いてきたのは後の方から。


 丁寧に抜いだブーツを揃えて、小さく「お邪魔します」と彼女は頭を下げる。こういう時はドアの鍵は閉めるべきか? 閉めるのは良くないのか? いや開けっ放しの方が駄目だよなええとどうしようどうしよう……


「あっ、ええと、そこのソファーどうぞ! 煙草臭いかもしれないけど! いやこの部屋自体が煙草臭い? 換気扇回してるからちょっと我慢してねごめんね!」


 換気扇を確認し、ドアの鍵も勢いで閉め、無駄にきょろきょろしながら網屋はうろつく。檻の中で異常行動をする動物のように。

 灰皿の蓋を被せ、もう一度台所の換気扇を消して付けて、「お茶」と言いかけたが椿に「大丈夫です」と止められる。

 どうして良いか分からず、食卓の椅子を引っ張ってきて座り、「ええと」などと口走っている間にも、さっきまで自分が座っていたソファーは少し生暖かいのではなかろうか良くないのではなかろうかしかし今更どうしよう、などと意味もない考えが廻る。


「……本当に、突然すみません。どうしても、聞きたいことがあって」


 椿の視線は真っ直ぐだ。それに気付き、ようやく網屋は慌てるのをやめた。


「はい」

「単刀直入に聞きます。どうして、うちの店に来ないんですか」

「それは……」

「飽きちゃいました?」

「いやいやいやいや、それはない、絶対に。ないです。毎日でも飲みたいですコーヒー。なんだかんだでブレンドが一番好きです」

「そっか、良かった」


 ふと、椿の視線が逸れる。少しだけ、うつむいたからだ。


「嫌われたわけじゃ、ないんだ」


 膝の上に乗せた両手が強く握りしめられている。吐息のように零れ落ちた言葉に網屋は一瞬だけ身をすくめ、自分も同じように強く拳を握っていることに気付いた。


 答えねばならない、と、頭の中で誰かが叫ぶ。眼の前にまでやってきたこの人に、本当のことを。

 口の中が乾燥して、うまく開くことができない。声が詰まって、うまく喋ることができない。それでも、網屋はどうにか言葉を絞り出す。


「……もう、誰も巻き込んじゃ駄目だって、そう、考えたから」


 喉の奥が痛い。千五百メートルを走り切った後のような。

 説明が色々足りないが、網屋にはこれが限界だった。恐怖心が頭をもたげる。掌に食い込む爪の感触が、それを阻む。


「網屋さんの仕事、ですか」

「うん」

「相田は?」

「あいつを巻き込んだこと、後悔してる。今更こんなこと言っても、仕方ないけど」

「うちの店に来るだけで、巻き込まれるような事態なんですか」

「可能性は否定できない。だったら、どんなに小さな可能性だって潰しておいた方が良い」


 つい先刻に相田へ告げた内容とほぼ同じ。網屋としてはそれが最良の答えである。


「いいです」

「へ?」

「巻き込んでください、私も」

「いや、でも、知ってるでしょう? 俺の仕事。そもそも、そっち方面じゃない人を巻き込んでいいような仕事じゃないんだよ?」

「知ってます」

「だったら」

「知ってて言ってます。うちの店に来ない理由だって、多分その辺なんじゃないかって見当ついてました。うっすらと、ですけど」


 顔を上げた椿の、眼尻に光るものがあったような気がして、網屋は少しだけ身を強張らせる。彼女がぶつけてくる視線に怯んだというのもあった。

 今の自分は臆病だ、ひどく。


「こんなこと言ったら、網屋さんを困らせるだけだってことも分かってます。だけど……」

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