第四話 静かな始まり
精霊王国イギリス軍がイタリアへ向かう際の短い海路。ガリア連合からの妨害があるものと思っていたが、特に何の問題もなくイタリアの土を踏むに至った。
ガリア連合軍はこれを黙認。イタリアの主要都市であるヴァチカンを中心とした北部に陣を構築する。
対し、イギリス軍は南部に陣を構築。即座に攻め入ることはせず、睨み合う形を選んだ。これにより、状況は固着するものかと思われたが……一つの報告がイギリス軍の天幕へと届けられたことによって状況が変化する。
「報告します!! 〝第九次レコンキスタ〟が壊滅!! ガリア連合はその首都であるシャムスを放棄した模様!!」
「――どういうこと?」
その報告を受け、一人の少女――《姫騎士》と呼ばれるイギリス軍の中将、マリア・ストゥルタックが眉をひそめる。報告を行っている軍人は、続けて言葉を紡いだ。
「詳細は不明ですが、ガリア連合はシャムス全体に大規模な爆弾を設置していたようです。そして自軍ごと引き入れた〝レコンキスタ〟を爆破によって攻撃したものと……」
「自殺?」
「いや、それはないだろうね。〝レコンキスタ〟との連絡は?」
マリアの言葉を否定したのは、一人の青年だ。蒼雅隼騎。若輩ながら大日本帝国でも高位の座に就き、今回もマリアのサポートとして従軍している〝奏者〟だ。
そんな隼騎の問いに、はい、と頷きながら報告が続けられる。
「それが無線も通じず……最後に『罠だ』という言葉と、部隊が壊滅したという情報のみが届けられている状態です」
「現地に人は?」
「送ってあります。しかし、状況がわかるのは少し先かと」
「……そうなると、向こうはこれを見越してイタリアへの奇襲攻撃を行ったんだろうね」
「でも、故郷を爆破なんて……」
「こっちの常識が、そのまま相手にも通じるとは限らないよ。……おそらく本隊は別の場所にいる。それこそシベリアかドイツかエトルリアか……」
隼騎が思案顔を浮かべる。そんな彼の姿を見て、ならば、と近くにいた男が声を上げた。
「ここで待っていては敵の増援が増えることによって不利になっていきますぞ、閣下」
閣下、というのはマリアのことだ。イギリスの第三王女であり、中将という立場。更にはイギリス最強の神将騎である〈ナイト・オブ・キングダム〉の〝奏者〟でもある彼女の人望はイギリス軍内でも非常に高い。
そう、女性であるにも拘らずだ。
これが、『大戦』において常に高い生存率を示し続けていた名将の人望である。
「はい。その意見はもっともです。私としてもそうしたいのですが……情報が足りません」
「敵軍の規模は、こちらとほぼ同数ですな。そうなると――」
「――二つの〝世界〟。それがここにいるかが重要だね」
隼騎の言葉に、室内の全員が頷く。報告がすでに挙がっている、ガリア連合にとって主力である二つの神将騎――〈ワールド・エンド〉と〈ワールド・イズ・マイン〉。共に破格のスペックを有する神将騎であり、前者に至っては大戦においてかの《武神》とも渡り合ったと謳われている。
「『名持ち』の中でも特に強力な二機。それだけならまだしも、三国同盟からの援軍には――」
「――〈ブリュンヒルデ〉の姿があった」
呟くようなマリアの言葉に、空気が重くなる。『世界最強の神将騎』――〈ブリュンヒルデ〉。《武神》は退けたと言うが、その程度でその強さが変わるわけではない。
《戦乙女》の強さは、世界中を巻き込んだ大戦の中心部にありながら中立を貫き通したエトルリア公国の存在が証明している。彼の国が健在であることが、そのまま〈ブリュンヒルデ〉の強さに繋がるのだ。
「しかし、ドイツは何を考えているのか。EUより脱退しただけではなく、シベリア・エトルリアはまだしもガリア連合とまで手を組むとは……」
「元々EUは一枚岩じゃなかったもの。この状況はある意味当然よ」
マリアが言い切る。そのまま彼女は、静かに言葉を紡いでいった。
「私たちだって女王陛下から『〝レコンキスタ〟の消耗を待て』と命令を受けているわ。私たちの場合はもうそれどころじゃなくなったけど、今後の状況次第では他の国も同盟側につく可能性がある」
「そうなればEUは瓦解して、ガリア連合の勝利になる。……イタリアは『教皇』を擁する国だ。放置はできない」
「そもそも先代が暗殺されて、今は代理がいるのよね? その安否が不明なのが本当に厄介」
「我々はともかく、他の国々は黙っておらんでしょう」
「さて、どうしたものかしら」
マリアがため息を零す。その隣で、隼騎がそれなら、と言葉を紡いだ。
「僕が一度偵察に行ってくるよ。もうすぐ陽が落ちる。そうなれば忍び込むことも可能だ」
「ちょっと待って。いくらなんでもそれは……」
「こういうのが僕の役目。それはマリアも知ってるでしょ?」
問いかけると、マリアは押し黙る。彼女自身、大日本帝国で隼騎とともに敵陣への侵入という任務を経験したことがあるためだ。
「夜明けまでには戻って来るよ。もし、戻って来なかったら……僕のことは無視して攻め込んでほしい」
「嫌よ」
「即答だね。でも、それだと色々と困るんだけど……」
「だったら帰ってきて。それで問題はないはずよ」
「……了解」
隼騎は頷く。その後、周囲にいるイギリスの将軍たちへ視線を向けた。
「お聞きになられた通りです。僕は内部情報の調査へ参ります。教皇代理の安否など、状況がわかり次第戻ってきますので……」
「よろしくお願いします」
その場の全員が軽く頭を下げる。隼騎も一つ頷くと、では、と言葉を紡いだ。
「不安定な状況ですが……それぞれの最善を尽くしましょう」
◇ ◇ ◇
聖教イタリア宗主国首都、ヴァチカン。
世界最大宗派『聖教』の総本山であり、イタリアの本拠地。電撃作戦によってそこを占拠し、イタリアの北部をほぼ掌握したガリア連合は諸手を上げて三国同盟からの増援を受け入れた。
無論、状況は楽観視できない。この場に来ているのはイギリス軍のみとはいえ、一部のイタリア軍はイギリス軍と合流を果たしている。ガリア連合がイタリア軍全てを駆逐できていない以上、当然であると言えるのだが。
――しかし、非難の視線を受けると思っていた同盟軍は予想外の市民からの歓迎を受けることとなった。
そう、友好。
イタリア市民はあろうことか、諸手を上げて彼らを受け入れたのだ――……
「正直、気持ち悪いですね。どういうことなんですか?」
「情報戦、という奴だよ。集団意志というものを操作するのは難しくない。それこそ個人の意見や意志、主義主張を変えることは骨が折れる。キミも私の考え方を曲げることなどできないだろう?」
「どうでもいいものを曲げる必要もありませんから」
「くっく、辛辣だねぇ」
冷静に言い放つアリス・アストラーデの言葉に、ドクター・マッドが愉快そうに笑う。二人がいるのは即席で用意された会議室だ。とりあえずの方針が決まり、他の者たちが出て行った中で二人だけが会議室に残っている。
「大体、あなたも忙しいんじゃないんですか? 技術責任者でしょう?」
「ならば〈ブリュンヒルデ〉を弄らせてくれるのかね?」
「冗談でしょう? 許可を出せば危険とわかっていて踏み込むほど耄碌はしていません」
「つれないねぇ。改造して上げようというのに。それはもうピーキーに」
「結構です。必要ありませんので。あなたが作った例の武器は使ってあげますから、それで我慢してください」
「それは嬉しいね。良いデータを頼むよ」
「それは約束できませんね。壊すかもしれませんし」
二人の視線はぶつかることも交わることもない。アリスは遠くに影だけが伺えるイギリス軍の本陣を。ドクターは手元の書類を眺めながら言葉を紡ぐ。
「まあいい。兵器など壊れてどうにかなるものばかりだ。壊れたことに対しての責任は持てんがね」
「いいですよ。死ぬのは私の責任ですから」
「実にわかり易くていい話だ。……さて、キミの疑問についてだが。私はほんの僅かに後押しをしたに過ぎんよ」
「後押し?」
「そう、後押しだ。元々、イタリアはガリアとの戦争が始まる前から不安定な国だったのさ。貴族の横暴が目立ち、軍の横暴が目立ち……《赤獅子》――朱里くんが立派な人間であればあるほど、逆に連中の醜い部分が目立ってしまっていたのだよ」
イタリアは伝統ある国だ。そう言えば聞こえはいいが……実際は腐敗した貴族政治がまかり通る国家だったといえる。
実力よりも家柄。『平等』などという概念などどこにもなく、国家権力とマフィアが繋がっていることなどイタリア国民にとっては周知の事実。ストリートに溢れる、捨てられた子供たち。一歩裏路地に出れば、常に身の危険が付きまとう。そしてそれらは改善されるどころか悪化の一途を辿っていく。
それでも国が保てていたのは、イタリアがEUの主要国に数えられていたことと、『聖教』のトップである『教皇』を擁していること。そしてそのほとんどが《赤獅子》を中心としたものとはいえ、大戦において確かな戦果を上げていたという事実。
だがその全ては、半年前の『処刑』によって覆った。
「危ういバランスは、全て『処刑の日』に崩れ去った。横暴な処刑人。民衆を蔑ろにした政策。〝レコンキスタ〟などという、歴史上において『聖教最大の恥』とまで呼ばれる軍隊の派遣。最早民衆はイタリアという国を見限ろうとした」
そこに現れたのが三国同盟だ――ドクターは笑いながらそう言った。
「大日本帝国が処刑の場に現れた中、朱里くんを救い出そうと動いたのは誰だ? そう、《氷狼》だ。シベリアの英雄。敵であったはずの彼が朱里くんを助け、逆に国は彼を殺そうとした。
結果として、二人とも戦死したわけだが……さて、ここで問題だ。その二人を殺したのは誰だ」
「……大日本帝国、ですね」
「そう! そうだ!! 大日本帝国なのだよ!! くっ、はははははははははははははっっっ!! イタリアという国家は処刑さえも人任せにしたのだ!! そんな国をどうやって信じろというのだね!?」
笑い声を上げるドクター。彼はだからこそ、と楽しげに言葉を紡ぐ。
「私の打つ手が花開く。個々人の主義を変えることが難しくとも、全体としての意見の調節は容易い。元々、人というのは流され易い生物だからねぇ。時間はかかったが、世論は簡単に曲がったよ。一部では戦死した《氷狼》を神格化している者もいるくらいだ」
「護さんをですか?」
「彼は自国の英雄を救い出そうとして散った、『もう一人の英雄』だからねぇ。好きだろう、こういう話は? キミは読書家だと聞いたが」
「虫唾が走る程度には好きですよ」
「それはいい言葉だ」
「ええ、いい言葉です。……要は、私たちがヒーローだと勘違いしているんですね?」
「それは上からの物言いだね。彼らは彼ら自身の意志で信じているんだ。そこに『違う』ということはない」
「はは、真っ黒ですね。相変わらず」
「それはキミの方だろう? 身も、心も。初めて会った時は、まさかここまで堕ちるとは思っていなかったよ」
「違いますよ。私は元々堕ちていたんです。一時、そこから逃げていただけで」
自分自身のエゴのため、《裏切り者》となったあの日に。
とっくに――堕ちていたのだ。
「とはいえ、別に今更前に進む気もありませんが」
その笑顔は冷たい。目も、口元も笑っている。
なのに、どうしようもなく――冷たかった。
「逃げるな、と言われたのではなかったのかね?」
「色々考えましたが、前に進むには遅すぎるという結論が出たので。だったら逃げます。どこへでも」
「逃げて相手に勝てるのかね?」
「立ち向かえば勝てるのですか?」
言葉がぶつかる。だが、互いのそれは相手に向けられているようでいて、そうではない。
ただただ、適当に言葉を交わしているだけだ。
「勝利の女神なんて存在しませんから。……結局のところ、私は間違えたんですよ」
どうしようもないほどに間違えた――そんな風に、アリスは言う。
「私の世界には、善も悪もなかった。ただただ平らな荒野に、私が一人立っているだけでした。そんなシンプルな、とても簡単な世界だったのに……私は、望んでしまったんです。
彼を。人の温もりを。求め方なんて知らないくせに。人にさえなれない、出来損ないのくせに。
私は――望んでしまった。
あの日、選択の日に、私はどうしようもないほどに間違えたんです。間違えてしまった。私も彼も、逃げれば良かった。国なんて捨てて、銃なんて捨てて。その先に幸福があったかどうかはわからないけれど、それでもそうすべきだったのに……そう、できなくて」
それが、最初の間違い。
アリスという〝迷い子〟が、決定的に道を踏み外した瞬間。
「私たちはですね、ドクター。善意と悪意を選ぶ瞬間に、〝悪意〟を選んでしまったんです。どうしようもない現実の前に、悪意に立ち向かうために悪意を選びました。偽善さえも斬り捨ててしまったんです。
それが、私の罪。私たちの贖えない原罪。私たちは私たちの渇望のために……人を殺してきた。
私は弱かったから。悪意に対して善意を返すなんてことはできなかった。悪意を受け入れ、溜め込んでいくことしかできませんでした。
後悔はしました。絶望もしました。何度も何度も立ち止まって、結局私は一度も前へ進むことはできませんでした。私は私の欲のために戦おうとしたのに……その覚悟さえ、曖昧だった」
逃げて、逃げて、逃げ抜いて。
それでも逃げ切れなかったのが――私。
〝アリス〟という名の、〝罪〟の形。
「彼と再会した時、本当はあの時に逃げるべきだったんです。あの時がやり直せる最後のチャンスだった。ありとあらゆる全てを投げ捨ててでも、私たちはそうするべきだった。だって、私たちは――私は、そのためだけにありとあらゆる全てを捨てようとしていたんですから。
でも、もうそんなことはできない。
やり直せる機会も、振り返れるチャンスもいくつもあった。なのに、私たちはその悉くを間違えました。
なら、もう……選べる道は一つしかない。
逃げた結果が、逃げ続けた結果が今の私なら。なら……今更前に進むなんて言えるわけがない」
「別に私は、私自身が聖人君子だと思っているわけではない。だがね、アリス君。一つだけ言っておこう。力を望めば、その代償に人は何かを失っていく。それはもう摂理だ。法則だ。この法則が働かないのは空想の『物語』の中の出来事のみ。故にキミは、再び何かを失うだろう」
「そうですね。今度は……何でしょう。護さんを失って、命を失って……次は、何でしょう?」
「〝帰る場所〟といったところか、もしくは〝心の拠り所〟か……いずれにせよ、逃げ道さえもキミは失う」
「逃げることができなくなった時は、私が死ぬ時ですよ」
「ならばいい。……さて、それではキミに私はこう言葉を紡ごう」
立ち上がり、ドクターは諸手を広げて言葉を紡ぐ。
「――ここから先は、〝失う〟時間だ」
◇ ◇ ◇
蒼雅隼騎は、細心の注意を払って宮殿へと潜入を果たしていた。
時間は深夜。本来なら夜は『聖教』が敬う『主』の見守る時間ではないため、宮殿の灯はそのほとんどが落ちているのが常だ。しかし、今ここにいるのは『聖教』の信徒ではない。
(……見回りはいるけど、この感じならどうにかできそうだね)
一人だけの単独行動には慣れたものだ。特別管理官――他国との調停役であり、諜報役。昔はアルビナがこなしていた役目を、隼騎は引き継ぐ形で何度も行ってきた。
気配を殺し、耳を澄ませる。音は……ない。
(教皇の部屋に行ってみよう。何かあるかもしれない)
ヴァチカンには公的にも秘密裏にも何度となく訪れている。全ての把握とはいかずとも、大体の位置取りは把握していた。
教皇の部屋に辿り着く。前に来た時は、ここで裏取引をしたものだが――……
「……誰もいない?」
静かに扉を開けると、明かりが点いたままで――しかし、中には誰もいなかった。特に荒らされた様子はない。隼騎は一度息を吐くと、慎重に周囲を調べ始める。
「ガリア連合はここを利用していないのか……? いや、この部屋には宮殿の地図があるはず」
宮殿内部は増改築を繰り返され、更に建築段階でも迷路のような造り方をしているせいで初見ではほぼ間違いなく迷う。地図さえあれば、教皇を含め重要人物が幽閉されている場所もわかるはずだが……。
「地図はどこに……うーん……」
その時、探し物に夢中だったせいで隼騎は気付くことに遅れた。
撃鉄を起こす音が響き渡るまで、背後に人が立ったことに。
「…………ッ!!」
「見ぃひん面しとるなぁ、自分。その黒髪……大日本帝国の人間か?」
振り返ることはできない。気配で感じる。こちらの攻撃が届かない距離に相手はいて、逆に相手の銃撃は届く距離。
両手を挙げ、隼騎は無抵抗の意志を見せる。相手は更に言葉を重ねてきた。
「何しに来た、なんて聞くんは野暮なんやろうけど……一応聞いとこか」
「答えのわかっている問いをわざわざするのは、マナー違反では?」
「こういうのは様式美やろ。――どうせ、自分は死ぬんやし」
直後、隼騎は勘で左へと飛んだ。全力で地面を蹴り、窓を目指す。
だが、それは阻まれた。相手が放った銃弾。それが右脚の脛と、左の脇腹を貫通する。
「逃がさへんよ」
足が止まったのは一瞬。しかし、その一瞬で相手はこちらの前へと回り込む。
放たれたのは蹴打。重い一撃。ミシミシと、骨が軋む音がした。まるで金属の棒で殴られたかのような感触。受け止めた左腕が、感覚を失っていく。
「殺されたくないんやったら、大人しく捕まりや」
「そういうわけには……ッ、いかない!」
連撃。続けて放たれた蹴りを、身をギリギリまで低くすることで避ける。視界が歪む。右足の激痛が、意識を奪おうと責めてくる。
その全てを無視し、右脚へと力を込めた。軋む体。眼前、立ちはだかるのは――一人の女性。
振り抜いた右拳が届かないのはわかっていた。当然のように相手は避ける。だが、その瞬間に左腕に隠していたナイフを取り出す。
激痛。鈍い汗の感触と、悪寒が全身を侵していく。
振り抜く。遠心力。握力が足りず、ナイフが掌から抜けた。
――しかし、手から離れたナイフが、女性の腕を僅かに掠める。
「…………ッ!!」
女性が引き金を引く。体を貫く衝撃。だが、それと同時に。
――ガラスを引き裂くような音が、響き渡った。
…………。
……………………。
………………………………。
「……逃がしてしもたか」
自身の愛銃を見ながら、ポツリと女性――リィラは呟く。逃がすつもりはなかったが、中々素早い。気が付けば逃げられてしまっていた。
「ご無事ですかソレイユ隊長!?」
「追え! 逃がすな! 相手は手負いだ!」
「警戒の指示を出せ!」
周囲で騒ぐ部下たちの声を聞きつつ、銃をホルスターに収める。本格的な実戦、それこそ白兵戦による殺し合いはこの足になって初めてだったが、想定以上に動いてくれた。やはりあの男、変態のくせに腕は大したものである。
とりあえず、これで懸念材料は一つ減った。〝彼〟と相対した時、体が動かないでは話にならない。
部下の方へ視線を向ける。正直自分が誰かを率いるなど――それも一度は捨てた祖国であるガリアの人間を――滑稽だが、それもまあ彼の言う『ままならない世界』なのだろう。
「取り逃がしたようじゃな」
「……総帥」
現れたのは、ガリアの伝統的な衣装を身に纏う褐色の女性だった。その女性の姿を認めると、周囲の者たちが慌てて敬礼する。
――ガリア連合総帥、ダウゥ・アル・カマル。
EU連合に牙を剥くことを決めた、ガリアの中心。
「まあ、間者一人ぐらいで今更騒ぐ必要もないと思うがのう。大日本帝国となると、やはり誰もが平静ではおれんか」
「あなたも《武神》に敗れたんですし、その恐ろしさはご存じでは?」
「くっく、言いよるのぉ小娘。……まあ良い。ドクターが探しておったぞ。お主はここの司令官じゃ。その役目、しかと果たしてくれることを期待しておる」
「ウチにできることなんて、前線に立つことだけですよ」
「十分じゃ」
リィラの言葉に、鷹揚に頷きながらダウゥは言う。
「絶望を知り、前へ進める者。これから大日本帝国と戦う上で一番必要なのはその意志じゃからな」
「絶望、ね」
「相手は絶望そのものじゃ。立ち向かえぬ者は全てガリアの地で切り捨てた。だからこそ、我々はここまで来た」
「……ウチの目的は、どこへ行こうと変わりません」
ダウゥへ背を向け、軽く手を振りながらリィラは言う。
「あの子たちを巻き込む可能性を呑み込んででも、このイタリアを戦場にしたんですから」
守りたいと思った、子供たちの笑顔を失う可能性を受け入れてでも。
彼と、もう一度出会うために。
――そのために、脚さえも捨てたのだから。
◇ ◇ ◇
賑やかな声が聞こえてくる。足下で起こっているはずなのに、まるで遠くの世界で起こっているかのような感覚。
中庭で星を眺めていたアリスは、ふと、呟くように言葉を紡いだ。
「……逃げたいのであれば、逃げればいいのではありませんか?」
アリスの背後。少し離れたところに、右手に拳銃を構えた青年がいる。風に乗ってやってくる宮殿内の騒ぎから察するに、この青年が侵入者なのだろうが……アリスにとっては、正直どうでも良かった。
別に指示が出ているわけでもなければ、この場には拳銃の一つさえ持ってきていない。戦う必要が見いだせないし、そもそも戦う意味もない。
故の、言葉。アリスにとってはある種親切心からの言葉だったのだが―――
「――貴様は、何だッ……!?」
震える声で、相手はそんな言葉を口にした。そこで初めて、アリスはその青年に興味を持つ。
黒髪の青年。護と同じ髪の色をしたその青年は間違いなく大日本帝国の人間だ。負傷しているらしく、血が滴って地面を濡らしている。
「何だ、と言われましても。ただの人間ですよ」
「黙れッ!! どうして、何で、何で……総大将と同じ人間がこんなところに……!?」
声は震えている。その瞳には明確な『恐怖』が宿っており、その体も震えている。
アリスが立ち上がる。その瞬間、青年が引き金を引くが――弾丸は、アリスに当たることはなかった。
「……まあ、とりあえず邪魔なので消えてください」
激しい水の音が響く。中庭にあった用水路――そこへ、アリスが青年を叩き込んだ音だ。ご丁寧に腹部への打撃まで行っている。
用水路が一瞬、朱に染まるが……すぐに本来の色を取り戻す。アリスは空を見上げると、ポツリと呟いた。
「火薬の匂い……うん、そっか、この匂いが……」
微笑み、彼女は言う。
最早、戻れぬと理解しているからこそ。
「――戦いの、始まる匂い」
というわけで、隼騎くんがやられました。
ちなみにイタリアへ来ているシベリアの主要メンバーはアリス、ヒスイ、咲夜、絶の四人。次回はイタリアでの三国同盟・ガリア連合VS精霊王国イギリスという形になります。
どんどんアリスが吹っ飛んでいきつつありますが……これは変わったわけではなく、現段階においては『戻った』と表現する方が正しかったりします。
第一部における『君死に給ふことなかれ』の時の彼女の状態。そこへ戻ってしまいました。
さてさて、感想・ご意見お待ちしております。
ありがとうございました!!