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英雄譚―名も亡き墓標―  作者: アマネ・リィラ
束の間の平穏―理由―
75/85

追章 弧狼の歩み


 大日本鉄道――日本列島を縦断するそれに身を揺らされながら、護・アストラーデはぼんやりと窓の外を眺めていた。シベリア復興の過程で彼もシベリア鉄道の復興を行ったことがあるが、やはり鉄道というのは便利な交通機関であると思う。

 特に大日本帝国の鉄道はその技術の高さ故かシベリアのそれよりも随分速く、同時に快適だ。まあ、シベリアはその国土の広さと永久凍土とも呼ばれる土地柄もあり、速さよりも頑丈さを求められるので一概には言えないのだろうが。


「……つっても結局、技術的な差は大きいんだろうな……」

「どうかしたか?」


 思わず呟いたその言葉に、正面に座る男が問いを発してきた。薄い蒼のかかった黒髪の男――ソラ・ヤナギ。護と同じ《七神将》の第七位を預かる男で、役割としては主に護のサポート。軍師的な働きをする人物だ。

 かつては敵同士として殺し合い、そのこともあって一度はぶつかったが……今は『共通の目的』のために協力している。といっても戦友と呼べるかというとそうではなく、『取引相手』というイメージが強い。

 そんな微妙な距離感を持つ暫定的な相棒に護は、何でもねぇよと首を振った。すると、ソラの横に座っていた少女――神道詩音がこちらへスケッチブックを見せてくる。


『長旅ですし、お疲れなのでは?』

「そんなことはねぇよ。昔はもっと厳しい状態でシベリアを転々としてたし、列車に乗れるなんざ逆に楽で仕方ねぇくらいだ」

「まあ、当時は統治軍がお前らを追っていたしな。気の休まる時なんてほとんどなかったんじゃないかねー?」

「その統治軍にいた奴の台詞じゃねぇな」

「つっても俺がお前らと接触したのはスラム駆逐の時が最初だしな。それ以前のことは知らんよ」


 ソラは彼の手元にある本へと目を落としながら飄々とそんな言葉を返してくる。とりあえずわかったことはこの男と口で争っても意味がないということなので、それ以上は言わないでおいた。

 護はソラとの会話を打ち切ると、ソラの隣へと座る詩音へと視線を移す。そのまま護は口を開いた。


「人のこと心配するのはいいけど、お前は大丈夫なのか? 十歳の子供に丸一日鉄道に乗ってるのは辛いだろ?」

『いえ、大丈夫です。鍛えてますから』


 小さいガッツポーズと共にそんなことを言う詩音。護はふーん、と頷いた。


「詩音といいヒスイといい、最近の子供は随分とタフだな」

「そりゃお前さんの周囲が異常なだけだと一応言っておくぞ。ウチのガキ共なら間違いなく今頃退屈で騒いでるかもしくは疲れて寝てるかのどっちだ」

「お前子供いたのか?」

「孤児院の子供だ。今はリィラが何とかしてくれてるはず。俺は『死んだ人間』だし。……お前さんには前に話したはずだけどな」

「そうだったか?」


 言われて、少し思い出す。そういえばそんなことがあった気がする。……ついさっきまで忘れていたが。

 まあ、正直そこまで興味があることでもないのでどうでもいい。互いに深く干渉しないというのは暗黙のルールだ。

 護・アストラーデとソラ・ヤナギ。

 大日本帝国の誇りであり、武力の象徴である《七神将》。二人でその第七位、末席を預かっているのだが、先に述べたように生温い仲間意識はない。互いに互いの目的のため、相手を利用しているだけだ。

 その名前からわかるように、二人は大日本帝国の人間ではない。護はシベリア連邦、ソラは聖教イタリア宗主国の人間だ。もっとも二人はその生い立ちから祖国に対しての情が薄く、『国』という単位では自らの祖国を本当にどうでもいいと思っている。

 二人が最初に今度は味方同士だといわれて再会した際にぶつかった後、言わずともわかった共通点はそこだ。そして、そうであるならばここにいる理由も推測を立てることはできる。

 ――人質。

 護などはまさにそれだ。《武神》の絶対的な力を見せつけられ、その上で祖国を――彼にとって何よりも大切な者たちを人質に取られた。自分がここにいれば、あの圧倒的な暴力にアリスやヒスイ、レオンやレベッカといった彼の『日常』が晒されることはないという。

 受けるしか、なかった。

 あの時、護・アストラーデは現実を認識した。朱里・アスリエル――《赤獅子》は帰還することなく、ただその結果だけを《武神》が引き連れてきた。その上で《武神》を相手に徹底的に叩き潰され、そして、護は考えてしまったのだ。

 前に進んで何ができるのだ、と。

 普段の彼が思い浮かべるはずのないことを、考えてしまった。

 その結論が――これだ。

 沈み込んでいく思考。それを切り払ったのはソラの言葉だった。


「……ま、俺の事なんざどうでもいいことだよ。問題はこの後だ」

「問題、か」

「九州地方。俺たちが預かる場所で、今は藤堂玄十郎……先代の《七神将》第一位であり、《武神》直系の祖父が暫定的に管理している『抵抗の地』」


 その話は何度もソラから聞かされた。天音からは一言、『あなたならどうにでもできますよ、少年』という言葉を貰ったのだが、天音がわざわざわかり難いが忠告をしてきたということは『そういう場所』であることも示している。

《七神将》は本来、七人で七つに区切られた大日本帝国を統括・管理する役目を負っているという。その区分は北より順に、東北、北陸、関東、近畿、四国、中国、九州の七地方だ。昔は『帝国議会』なるものが《七神将》と共に政治面で管理していたようだが、現在は違う。《七神将》のみが管理している。

 この辺りの説明については、一応は同僚となる他の《七神将》――神道木枯と紫央千利の二人から聞いた。《武神》はそもそもこちらにあまり興味がないようだったし、水尭彼恋はそもそも対人能力が著しく欠如しており、ソラはともかく護は未だまともに会話をしていない。本郷正好は《七神将》の中では一番遠慮がなく話しやすい相手なのだが、どうも稀にこちらに微妙な表情を向けてくる。出木天音は今更だ。あの人とまともに渡り合えるとは思っていない。

 その際、結果として刀術の手ほどきをしてくれた木枯より護は一つの物語を聞かされた。それは九州における『抵抗の物語』だ。

 今より約六年前、大日本帝国『御三家』の一角『本郷家』と政治機関である『帝国議会』がクーデターを起こした。その理由は聞かされなかったが、その際に彼らの本拠地となったのが九州地方だという。それは『本郷家』の本家が九州に存在したからであり、当時の本郷家当主にして《七神将》の一角を預かっていた女性が管理していたのが九州であったからでもある。


「祖国に逆らった一族が統治し、そして、敗北した場所」

『私はあまり詳しくありませんが、当時それを鎮圧したのは《七神将》になったばかりの暁様と先生だったと聞いています』

「《武神》と《女帝》か。後詰めに《剣聖》含めてバケモンがいくらでもいる国相手によくもまぁ、逆らおうなんて思ったもんだよ」


 護の言葉に反応した詩音へ、シニカルに笑いながらソラが言う。その口調は、どこか自嘲の混じったものだった。


「譲れねぇもんがあったんだろ?」

「それは敗北がわかった上でも貫くことか、護?」

「その質問はそのままテメェに返してやる」

「辛辣だねー」


 特に堪えた様子もなくソラが肩を竦める。その様子は飄々としていて、どうも本心がわかり辛い。まあ、護は元々自分が他人の機微を悟ることのできない人間だと知っているので、だからどうということでもないのだが。

 わからないならわからないままでいい。ただ、自らの主張だけは必ず告げる。それが護の方針だ。


「ま、どちらにせよ面倒臭いわな。藤堂玄十郎――大戦時代の『最強』が睨みを利かさなきゃならないような土地だ。俺たちをすんなり受け入れてはくれないだろうな」

『ですが、問題ある方々は一ヶ所に集められていると窺いましたが……』

「詩音、俺たちはどこに向かってると思う? 北部の藤堂玄十郎がいる場所? 大きく違う。詩音、俺たちの監視を命じられているならわかるだろ?――俺たちは、大日本帝国に忠誠を誓っていない」


 詩音の目が見開かれた。そのまま彼女は咄嗟に腰の小太刀へ手を伸ばそうとする。だが、それをソラが両手を挙げて降参の意を示すことで押し留めた。護は特に動いていない。動く必要がないからだ。以前の自分ならば反射で刀の柄でも握っていただろうが、今の自分はただぼんやりとソラと詩音のやり取りを見ているだけ。

 鈍ったのか、と思う。だが、短い期間とはいえ刀術を教えてくれた木枯には『以前よりも研ぎ澄まされている』と言われた。違いがわからない。

 まあ、結果論だが刀に手を伸ばさなくて正解だとは思う。無用な騒ぎは必要ない。


「警戒しなさんな。お前さんは阿呆じゃないし、馬鹿でもない。正直俺も尊敬するくらいに頭がいい。それに『神道家』の跡取りで、実力も十分。そんな将来有望な子供を俺たちみたいな外来の補佐に回す? 怪し過ぎて笑えないっての」

『……気付いていたのですか?』


 詩音が小太刀から手を離し、睨むようにしてソラを見る。ヒスイと違って感情表現が豊かだな、と護はどうでもいいことを考えた。だが、これはヒスイが特殊なだけ。正直詩音も色々と歪んではいるだろう。

 もっとも、何を以て『正常』とするのかはわからないのだが。


「気付かない方がおかしいってのと、他人と仲良くしておくのは重要だって話だけはしておこうかね。お前さんが今後人を率いる立場になるなら、まずは覚えておくべきことが一つある。それは出来るだけ下の人間――それも『底辺』と呼べる人間と自身の素性を隠した状態で交流を持っておくことだ」

『底辺、ですか?』

「そ、底辺だ。良いとこのお嬢様には想像し辛いかもしれんし、本来なら知るべきでもないとは思うが……今から向かう場所のことを考えたら知っといたほうがいい」


 その口調は穏やかで、ソラは笑っている。電車の到着まで時間があることもあり、おそらくは時間潰しの意味も兼ねているのだろう。他の客の目がないことも幸いしている。

 だがその口元は笑っていても目は欠片も笑っていない。それに気付いたからこそ、護はソラへと言葉を飛ばした。


「ソラ。あんまり脅すなよ」

「事実を語るだけだ。何の問題がある?」

「〝Need not know〟――『知る必要のないこと』はどこにだってあるもんだろうが」

「だが、知らなければ死ぬ。これはそういう話だ。むしろただ死ねるならどれだけ幸運か、ってそういう話でもある。俺は少なくとも俺の部下を死なせる気はない。スパイだろうとなんだろうとな。敵対すんなら容赦はしないが」

「面倒な話だな」

「むしろ今までお前がこういうことを考えてなかったのが驚きだよ」

「代わりに考えてくれる奴がいたからな。必要なかった」

「それが今度は俺の役目ってことか? 笑えないねぇ」

「なら代わりに神将騎に乗るか?」

「冗談。最前線は俺の戦場じゃない。会議室と指揮官室が俺の戦場だ」

「だったらそれでいいだろ。適材適所。お前が言った言葉じゃねぇか」

「わかってるけど不満は出るしなー」


 肩を竦めてそんなことを口走るソラの本心は見えない。見る必要もない。敵で味方でもないのだ。ある程度の緊張感は必要になる。

 そして気を許さない方が、色々とやり易い。

 口を閉じる護。それを見届けると、ソラはそれじゃあ、と詩音に向かって言葉を紡いだ。


「簡単な勉強講座だ。わからないことがあるなら言って――いや、軽く手を挙げてくれりゃいいか。そんなに難しい話をするつもりでもないけど。いいか?」


 問いかけに詩音が小さく頷く。ソラは微笑を浮かべ、それじゃあ、とその論理を語り始めた。

 大日本帝国が誇る二人の知将、《女帝》と《帝国の盾》さえも認めるその謀略の術を。

 護は、目を閉じてその言葉に耳を傾けた。



◇ ◇ ◇



「底辺、ってのはどうしても存在するし、してしまう。帝の――陛下の目指す世界でもだ。本当に個々人の才能を全て管理できるってんならある程度救済もできるだろうが、やっぱりどうしても零れ落ちちまうのは出てくる。俺はそういう奴を何人も見てきたし、俺自身がそもそもから零れ落ちた命だ」


 親に捨てられたという事実が、そのまま零れ落ちた証だ。必要とされなかった命。始まりから間違った命。

 それが、ソラ・ヤナギという存在。


「この世界はな、表面張力が起こるくらいに水の溜まったバケツみたいなもんだ。もう水は溢れる寸前。ちょっとの衝撃で零れるくらいだな。だってのに『誕生』なんて現象で人が増える。その水の量は知らんが、限界のとこに水を叩き込まれれば零れるのは道理だ。それが所謂『零れ落ちた命』ってヤツだな。

 じゃあその零れ落ちた命ってのは何なのか、って疑問が浮かぶ。俺はそれを『死』だと思ってるし、実際間違ってないんだろう。生物が死んでいくのは道理だ。それはどうしようもないことで、今更それをどうこう思うような神経はしてない。まあ、相手にもよるが。

 で、『底辺』についてだ。これだが、俺は『次に死ぬ人間』だと定義してる」


 ソラが煙草を口に咥え、火を点けた。紫煙を窓の外へと吐き出す。相変わらず、不味い味だ。


「要領が悪い奴も才能がない奴も運が悪い奴も、どうしても出てくるし出てきてしまう。こりゃもう真理だ。世界が平等じゃない以上、仕方ない。特にあれだ。〝奏者〟なんてふざけたもんがいるのが余計にそうさせてる。才能、って言葉をどうしようもなく絶対的にしちまってるわけだな」


 視界の端で護が反応したのが見えたが、気にしない。


「俺はな、詩音。そんなどうしようもない連中の中で育ったし、シベリアではそういう連中を率いてきた。だからわかるんだよ。《七神将》は確かに強いし重要だ。敵として見るなら逃げる以外の選択肢が思い浮かばんが、味方となればこれ以上ないくらいに頼もしい。そりゃそうだ。俺にしてみりゃ朱里が何人もいて、更に互いが互いをフォローできる別方向の将だってんだからな。

 けどな、詩音。指揮官がいなけりゃ部隊は瓦解するが……『底辺』がいなけりゃ、部隊は組むことさえできないんだぞ?」


 それが真理だ。当たり前の事であり、同時に、忘れがちなこと。

 一人の英雄の陰には、名も亡き英雄の死体が無数に存在しているのだから。


「兵隊、って駒が無けりゃ将なんざ裸の王様となんら変わらない。むしろそれより性質が悪い。詩音、お前さんは生まれながらの強者だ。生まれついてより強くなることを望まれ、同時に強くなる才能もあった。それが幸か不幸かどうかは知らんし興味もない。それはお前さん自身が定めることだからだ。

 だが、生まれついての強者ってのはだからこそ『弱者』を知らない。

《剣聖》なんざその典型だろうな。自身が強者であることに誇りを持っているし、それが当然とも思ってる。ああ、別に責めてるわけじゃない。ああいう人も必要だ。『憧れ』ってのは強くなる理由としても上等だしな。

 もう一人の……《武神》については知らん。生まれついての強者なんだろうし、生物の格付けとしちゃあ俺が見てきた人間の中では飛び抜けてバケモンだ。だが、アレはそれ以外に何かを感じる。詳しくは知らないけどな。

 で、そういう奴はさ、弱い人間の気持ちがわからない」


 その言葉に、詩音が僅かに視線を泳がせた。考えているのだろう。だが、それは後にすればいいことだ。必要なのは、情報を全て伝えること。

 教え、導く。それが先達の役目であり、役割なのだから。


「だから聞く必要がある。それだけだ。話を聞けばそれが縁となり、それが次へと繋がる。時間がかかるし無駄も多いが、いざという時これほど役に立つこともない。今のとこ中国地方と近畿地方、四国地方辺りには俺の知り合いいっぱいいるぞ。手紙のやり取りも頻繁にしてるくらいだ。

 で、そういう奴は『真選組』にも大勢いる。最初は警戒されたけどな。むしろあの場所はどうにも『そういう連中』を受け入れてるところがあったからある意味でやり易かった。

 そこから知ったんだよ。お前さんが俺たちの監視をしてる、ってな」


 笑みと共にそう言うと、詩音は苦い表情を浮かべた。それを見、ソラは苦笑する。実力はあってもやはり幼い。自分たちの監視は未熟者でも大丈夫と侮られたか、それともわかったところで問題ないと思われたか。前者なら歓迎するが、どうせ後者だろう。それに本命の監視は別にいるはず。

 詩音には戦場を経験させたいのだろう、とソラは思った。自分と護が九州である程度軍の整備を終えたら、ガリアに向かうことがほとんど決定されている。そこに詩音も出陣させ、本物の戦場を経験させる気だ。

 十歳の少女を戦場に駆り出すことについて、何も思わないわけではない。ソラの経営する孤児院には詩音と同じくらいの年齢の子供もいるし、あの子供たちが戦場に出ることなど想像もしたくない。

 だが、詩音は戦場に出る。そういう才能があり、そういう役割があるからだ。

 いずれ敵になるかもしれない少女。だが、今は味方。故に、ソラは己の知識を詩音に授ける。

 ――部下を死なせないことは、彼にとって絶対に譲れない信念であるが故に。


「ま、主な理由はそれ。詩音、お前さんが指揮官になるなら覚えておきな。一兵卒の話の方が、時には何よりも重要になることがあるってことを」


 そして、ソラは車窓から外を見る。煙草はもう吸い切ってしまっていた。

 ぼんやりと流れていく景色を眺める。詩音は何かを考え込んでいるようで、真剣な表情で俯いている。護はそもそもこちらに興味を示していない。

 そんな二人を一瞥し、ソラは思う。何故、詩音にこんな話をしたか。

 理由は単純だ。これから向かう先が、彼の言う『底辺』が集まる場所だからである。


 南九州区域。かつて本郷家の本家があった場所であり、最後まで抵抗を続けた場所。

 六年の月日が流れても、未だそこにはかつて国に逆らった者たちが生きている。

 だから、ソラは詩音にこんな話をした。

 ――ソラたちが向かっているのは、かつての反逆の徒が集まる部隊の駐屯地なのだから。



◇ ◇ ◇



 ガシャン、というガラスの割れたような――というか、実際にガラスが割れた音が室内に響き渡った。容赦など欠片もない、それこそ相手が死んでしまうことさえも在り得る鉄パイプの投擲の結果がもたらしたものだ。

 だが、幸いというべきか狙われた側の方には当たらなかった。余裕で避けていたところを見るとこちらが心配する必要がないように思えるが、事はそう単純なことではない。

 ……鉄パイプを投げてきた男の顔面を思い切り殴っている姿を見ると、心配するのもバカらしくなってくる。揉め事を起こすな、というここに入る前の忠告はすっかり忘れているようだ。


「どうした? 口先だけか?」


 鉄パイプを投げつけられた方――背中に『死』という紅の文字を背負った男が不機嫌そうにそう言葉を紡いだ。それは挑発であり、それを受けた室内の者たちに激昂の空気が漂う。

 まあ、元々空気自体は険悪だった上にこうして乱闘まで起こってしまっている状態だ。ソラは目の前の事態に対してオロオロと困った姿をしている詩音を横目に、小さくため息を吐いた。

 二人は乱闘の中心から離れた場所にいる。何人かはこっちに気付いていて視線を何度か寄越しているが、片方は困惑しているだけの十歳の女の子。もう一人は興味なさげ且つやる気もなさそうとくれば、現在進行形で無傷のまま二十人抜きをしている方に結局視線を向けていく。

 ――事の発端は、ここ第九南九州隊舎に現在大暴れ中の護・アストラーデが他へ挨拶に行く前に訪れたことから始まる。

 本人曰く、『事務局だの軍務局だのに興味はねぇ』とのこと。まあ、そちら方面はソラの担当であるし護には向いていないのでどうでもいいのだが……何がいけなかったというと、護の第一声がいけなかった。


『何だ。ただの穀潰しの集まりか』


 隊舎に入るなり、いきなりそんなことを言ってのけた。そこからはもう予測通りの展開である。声の出せない詩音が必死に止めようとしたが、それはソラが止めさせた。どうせ止まるような男ではないし、そもそも止めなくていいとさえソラは思っている。


 ……護の実力を理解させるには一番手っ取り早い。


 自分は頭脳労働専門だ。ここの隊員たちの中でも最弱とは言わないが下の方であろうとは思う。大日本帝国に来てわかったことだが、この国の軍人――『侍』とも呼称される彼らはとにかく個人の戦闘能力が高い。軍隊とは集団の力だ。とはいえ、個人の実力が高ければそれだけ結果を求めることができるというのも真理である。

 この大日本帝国という国家の根幹に『強さ』についての概念がなければこうはいかない。世界最強国家――《七神将》ばかりに目がいってしまうが、成程やはりバケモノ国家だ。


「……とはいえ」


 吐息を漏らす。ここにいるのは結局、燻っているだけの連中だとソラは聞いているしそう思っている。反逆者でありながら、当時《七神将》に入ったばかりであった《女帝》と今の《武神》の二人を中心とする軍隊に叩き潰された者たち。

 通常、将が敗北すれば侍たちは『切腹』なるものを行う場合があるという。要は自殺だ。ソラにはその感覚がわからないが、『生き恥を晒したくない』という理由からくるらしい。

 実際、忠誠心の厚い者たちはそうしたという。だが、そんな者たちは一割にも満たない。

 何故か?

 命を懸ける理由があっても、死ぬ理由はなかったからだとソラは考える。この二つは似ているようで、大きく違う。

 そして一度は反逆者となった彼らは再び軍属へと戻り、その上で不満を貯めている。

 行き場のない感情を持て余している。

 それを『誇り』などというものからくるものだと考えると、ソラは一生自分には理解できないものであると定義するしかない。恥も外聞も捨て去り、ただ生き残ることに特化した成れの果て。それがソラ・ヤナギなのだから。

 ――だけど、まあ。

 護・アストラーデならば。

 心折れながら、それでも前を見ようと今ももがき続けている彼ならば。屈辱であろうとなんであろうと、自身よりも強い者に――心の中で敵と認識しているはずの《剣聖》に教えを乞おうとする彼ならば。

 きっと、『誇り』の意味もわかるのではないかと思う。

 彼が最初にここへ来たのもまた、そんな彼の気質が理由ではないかと思うのだ。


「まあ、心配しなさんな」


 心配そうに護たちを見る詩音の頭を軽く撫でる。こちらを監視し、同時に抑止するためにここへ派遣されたのであろう少女。あの日置き去りにした孤児院の子供たちと年齢が近いせいで、どうもこうした扱いをしてしまう。

 それもまたあの謀略の王――帝の策略なのだろうが、まあ、仕方ない。


「アレがアイツの持ち味だろうし。しばらく待っとこう」


 そう呟いた時、護が三十六人目の隊員を殴り飛ばしていた。

 これで隊の三分の一がやられたことになるな……思考の片隅で、そんなことをソラは思った。



◇ ◇ ◇



 第一声があまりに不用意だったことは間違いない。だが、思考の前に口から出た言葉はそのまま本心であるだろうとも思う。

 反逆の徒。それを聞いた時、護は思った。ああ、同じだと。

 絶対的な力に挑み、無様にも敗北し、その結果として従わざるを得なくなった。生き恥――父から聞いたその言葉は自分には無縁と思っていたが、今の自分ならその意味も少しはわかる。

 だが、だからこそ前に進むことに意味がある。

 一度折れたからこそ、立ち上がる意味がある。今度は折れぬために。敗北せぬために。

 知ったからこそ。

 超えなければならない敵が――『最強』がどれほどのものであるかを目にし、この身で体感したからこそ。生きているのだから、今度こそはと護は立ち上がった。

 なのに……ここにいる者たちはどうだ?

 反逆し、その頭を奪われ……その果てに、こんな場所でただ生きているだけ。

 牙を研いでいるのであればそれでもいい。今の護がそれだ。《剣聖》に頭を下げ、教えを乞うたのもそれが理由だ。向こうはこちらの意図に気付いているのだろうが、知ったことではない。最終的な目的が果たせれば、そのほかはどうなろうと――それこそ命さえもどうでもいい。

 だからこそ、苛ついた。

 目の前の者たちは……まるで、一時期の自分を見ているようだったから。


「――甘えてんじゃねぇよ」


 もう何人を殴り飛ばしたのかは覚えていない。刀は使っておらず、徒手空拳で戦っている状態だ。流石に無傷とはいかず、相手を殴り続けたせいで両の拳は割れ、血が噴き出している。体もあちこちが痛い。

 だが、倒れる程ではない。痛みはあるがそれだけだ。今までの戦いは、これよりもずっと辛かった。

 文字通り――血反吐を吐くほどに。


「何が反逆者のならず者集団だよ。ただ不貞腐れてるだけじゃねぇか。生き恥、とか言ってるけどな。今のお前らの方が遥かに見てて見苦しいぞ?」

「んだとテメェ……! テメェみてぇな若造に何がわかる!」


 立ち上がったのは、一際体格のいい男だった。体格だけで言えば護よりも二回り、いや三回りくらいは大きい。護は雰囲気からここの隊長だろう、と当たりをつけた。

 まあ、だからといってどうというわけでもないのだが。


「テメェの国を捨てたような売国奴に何がわかるってんだ! 俺たちはな、あの人に……ッ、姫さんのために死のうって決めたんだよ! それを奪われて! 逆らえば家族を奪われるって脅されて……! どうしろってんだ!」

「ごちゃごちゃうるせぇ。口喧嘩の段階なんざとっくに過ぎてんだろうが」


 鈍い音が響き渡る。男の顔面に向かって全力で拳を叩き込んだためだ。不意打ちだったその一撃に反応できず、男は後退。たたらを踏んでどうにか持ち直すと顔を押さえた。周囲の者たちが声を上げる。


天元(てんげん)さん!」

「テメェ卑怯だぞ!」

「止めろ馬鹿共!!」


 一気に護目掛けて襲い掛かろうとした隊員たち。それを天元、と呼ばれた男が一喝することで止めた。天元は構えを取ると、口から血の混じった唾を吐き捨てる。


「この小僧はお前らよりも強い。それに、これは喧嘩だ。お前らが殴りかかった時点で言葉なんてもう何の意味もねぇんだよ。これは俺のミスだ。あの小僧は喧嘩を実践したに過ぎねぇ」


 直後、天元が床を蹴って肉薄してきた。速い、と思うと同時に足を振り上げる。顎に入った感触と、同時、こちらも顎へと拳を叩き込まれた感触。

 激しい音を立て、二人は机と椅子を巻き込みながら吹き飛んだ。視界がスパークし、思考が歪む。殴られた衝撃で感覚が狂ったか。

 だが、立ち上がらなければならない。護はすぐさま立ち上がると、同じように立ち上がってきた天元を見た。

 一度深呼吸をし、再び構えを取る護。その姿を見、天元が言葉を紡いだ。


「小僧、訳ありか?」

「ああ?」

「テメェと、この状況を見て笑ってるそこのクソガキ。神道の小娘まで出てくりゃ推測くらいはする。だがな、小僧。俺たちはゴロツキと呼ばれようとクズ呼ばわりされようとこの国の侍だ。テメェらみたいな自分の国から逃げてきたような野郎に命を預けるなんてできるわけがねぇ」

「だろうな。そんくらい予想してるよ」


 天元が構えを解いたのを見て、護も構えを解いた。そのまま、面倒くさそうに言葉を紡ぐ。


「あんたたちを率いるのは俺の仕事じゃねぇ。あそこにいるソラの仕事だ。俺を信頼できないってんならそれでもいい。俺のやることは何も変わらねぇんだからな」


 そう、変わらない。最後は結局、自分一人ででもやり遂げるつもりのことだ。むしろ他人は出来るだけ巻き込みたくない。

 天元は、ふん、と鼻を鳴らすとこちらに背を向けた。それに従うように、隊舎にいた者たちは全員が出て行く。おそらく自室に戻ったのだろう。

 それを見送ると、護は大きく息を吐いた。直後、右手に痛みが走る。


「…………ッ?」


 痛みに呻きつつ、右を見る。見ると、詩音がこちらの手を握っていた。その手の中には救護キットがある。どうやら手当をしてくれるつもりらしい。

 思い出すように痛みが出てきた手を差し出すと、詩音が手当てを始めてくれた。丁寧な手つきだ。まあ、あの神道家で育ったのならある意味当然かもしれない。護は《剣聖》神道木枯から直接稽古をつけてもらったが、そうでない日は達人しか入門を許されない『神道流』の下位にある道場で鍛錬をしてきた。

 今までは父から教えられたものを中心におぼろげに振るっていただけの刀が、鍛錬によって形にはなってきたと思う。

 そんなところに生まれた時からずっといるのだ。応急処置は自分に対しても他人に対しても学ぶ機会はいくらでもあったに違いない。

 そんなことを思いながら詩音を見る護。その彼に、ソラがさて、と言葉を投げかけた。


「とりあえずファーストコンタクトは終了。個人的には成功、かねぇ?」

「あれで成功? 失敗の間違いだろ?」

「だからお前さんはガキなんだよ。世の中の動きってもんを知らん。上の人間が下の人間の顔色伺ってどうする。空気は読んでもいいが、顔色伺ったら最悪だ。そんなもん上司でもなんでもない。そういう意味であれはあり。まあ、後は任せとけ」

「ああ、頼む。俺にできることはなさそうだからな」


 正直、人間関係というものは苦手だ。この場では売り言葉に買い言葉で殴り合いをしたが……もっとやりようはあったのではないかとも思う。

 だがまあ、終わったことは仕方がない。次を考えなければ。


「で、俺はどうすりゃいい?」

「ああ、それについてだが……俺に策ありだ」


 笑みを浮かべてソラが言う。その表情と雰囲気がどことなく《女帝》出木天音が悪戯を思いついた時の表情に似ているのだが……これは言っても仕方ないのだろう。

 故に護はそうか、と呟いて頷くだけだった。そんな護に、だが、とソラが言葉を紡ぐ。


「その前に……掃除だな」

「…………」


 室内の惨状を見渡す。自分でやったとはいえ、室内は荒れ果てていた。


『頑張りましょう』


 詩音の書いたその言葉に、護は苦笑するしかなかった。



◇ ◇ ◇



 片付けそのものは比較的早く終了した。だが、厄介だったのは掃除である。護が暴れた場所は食堂なのだが――詩音などはそんなとこで暴れないで下さいと彼女にしては珍しく苦言を述べていた――ソラにしてみればここが本当に食堂なのかどうかを疑うレベルだった。

 埃は溢れるように溜り、清潔感は零。結局三人がかりで夜まで掃除をしてようやく体裁を整えることができたというレベルだ。

『こんなところで食事をすれば病気になります』とは、掃除を始める前の詩音の台詞であり、ソラも全面的に同意した部分だ。護は厳しい表情をしていたが、少なくともこの状況を好意的にはとらえていないだろう。

 そして、今目の前にしているものについても。


「……ここが厨房? ゴミ置き場の間違いじゃねぇのか?」

「いんや、厨房で合ってるぞ。俺も認めたくはないけどな」

『こんなところで、本当に』


 護と空の言葉に応じる詩音の雰囲気にも動揺が混じっている。護は厳しい表情のままだ。その気持ちはわからなくもない。それどころかソラはその気持ちに全面的に賛同している。これは、正直酷過ぎる。

 ごろつきの集まり、とこの部隊のことについてソラは虎徹から聞かされていた。問題があるものを片っ端から送りつけた果てにできた場所だと。

 その感覚にソラは覚えがある。統治軍第十三遊撃小隊――公式には存在しないとされた、彼がかつて率いた部隊の名だ。あそこにいた者たちも『問題がある』とされ、正規部隊から追いやられた者たちばかりだった。懐かしい……そんな悔恨は一瞬で霧散する。

 もう、あの場所は戻らない。敗北し、全てが失われた。

 彼女とも――リィラとも、会うことは叶わない。

 そう誓ったからこそ、ここにいるのだから。


「……ま、何でもいいか」

「どうした?」

「何でも。ちょっとばかし予想以上の状態だったからどうしようか考えてただけ?」

「何で疑問形なんだよ。……そうだな。とりあえず掃除だ。というより、ここはコックの一人もいねぇのか?」

『いないようですね。以前はいたようですが、横領が発覚して退職したとこの資料に』

「どれどれ……食費横領ってお前、セコいなこの横領コック」


 詩音より手渡された資料を見、思わずため息を零してしまう。この部隊の予算から考えても大した額でもないだろうに横領とは。どんな国にも汚点というものはあるものである。

 まあ、そうでなければ『真選組』などという警察と極道を合わせたような機関があるわけがないのだが。

 詩音と共にうんうんと頷く。この少女は本当に利発的だ。おそらくこちらと同じことを考えていたのだろう。

 末恐ろしいねぇ、とソラが内心で呟く。そんな中で護がいきなり厨房の中へと入って行った。そのまま彼は異臭に顔をしかめながらも器具に触れ、片付けを始めていく。


「おいおい、まさか今から掃除でもするつもりか?」

「それ以外の何に見えるんだよ? ここが使えねぇと食堂を綺麗にした意味もねぇし、そもそも明日の朝食も食えねぇ。間に合うかどうかはわかんねぇけど……つか、時間も時間だな。量もわかんねぇし……先に買い出しに行くべきか……?」


 うーん、と唸りながらも護は手を動かしている。確かにここが使えないと食堂の意味はないし、実際前のコックが横領でクビになった時からはずっとこのままだったのだろう。

 今の時間からして、確かに急いで買いに行けば残り物くらいは食材も揃うように思う。むしろソラにとってはこれぐらいの時間に安売りした食材を買うのが日常だった。そうでもしないと孤児院の経営が危なかったのだ。まあ、その辺はリィラに任せていたのだが。


『私が買いに行きましょうか?』


 手を挙げ、詩音がそんなことを言い出した。確かに分散するというのは一つの手だ。だが、護は微妙な表情を浮かべる。


「流石にこの時間に一人で外に出すのは、ちょっとな」

「まあ、前例もあるしなぁ」


 護の言葉にソラは頷く。イタリアで詩音が誘拐され、それをきっかけに多くの事が起こったのは記憶に新しい。ソラは最後の決定的な場面に立ち会ってはいなかったが、護とヒスイ――この二人が詩音を助け出したということは聞いている。

 詩音もそのことを思い出したのだろう。僅かに表情を変え、しかし首を左右に振った。


『もうあのような不覚はとりません』


 不覚、という言葉にソラは苦笑してしまう。どこまでもあの二人の子供なのだと、そう認識する。武士道――ソラには何の意味も見出すことができない言葉だが、成程意味はあるのだろう。

 こんな幼い子供に、戦場の恐怖を忘れさせることができる程度には。

 だがまあ、今はまだこの場所は戦場ではない。ならば、ソラの紡ぐべき言葉は一つだけだ。


「俺が一緒に行くよ。何を作るつもりだ?」

「日本料理にについてはそれなりに知識がある。とりあえず、白米と味噌、魚を……百人分か。白米は多めに頼む」

「おいおい。ここの連中全員分を作るつもりか?」

「結果的にそれが一番安上がりだよ。それにここの設備はそういう使い方に特化してる」


 その言葉を実感するのは難しいが、意味はわかる。広々とした厨房は、確かに多人数に対して料理をするために造られているもののように思えた。

 護がその場でメモを書き、こちらに手渡してくる。だが、そこに書かれている分は明日の朝食分のみ。それに気付き、詩音が片付けを続けている護へとスケッチブックを向けた。


『明日の昼食以降の分は……?』

「どうなるかがわかんねぇからな。下手すりゃ不味くて誰も食べないなんてこともあるかもしれねぇし、必要なくなるかもしれねぇ。逆に必要になるんなら大型発注でもした方が効率がいい。だろ?」

『成程』

「道理ではあるな。だが、お前がそんなことに頭を回すとは思わなかったぞ」


 くっく、とソラは笑いながらからかうように言う。護は肩を竦めた。


「覚えさせられたんだよ。口うるさい……元親友にな」



◇ ◇ ◇



 翌朝。食堂の奥から漂ってくる朝食の香りに隊員たちが騒ぎ始めた。

 それは実に食欲をそそる匂いで、元々はシベリア人である護が作ったものであるとは思えないほどの完成度と共にそこにある。一晩で一先ずとはいえ片付けを終えたこともそうだが、その料理の腕前にソラと詩音は驚いたが、護としては大したことではない。

 父親から日本料理については学び、母親からはシベリア料理について教えられた。幼少期に友達がおらず、家にいることの多かった護は自然と家事の手伝いをするようになっており、その結果だ。

 結局詩音と一緒に百人分の朝食を作り終えた頃には夜明けの時間だった。詩音は厨房の隅で仮眠をとっており、ソラは寝ていたのか朝になって降りてきた。そのまま、他の隊員たちが驚いている手前で一人料理を食べ始めている。


「お前、箸持つの下手だな」

「んー? 仕方ないだろ、それは。そもそも俺イタリア人だし」

「俺もシベリア人なんだが」

「お前さんは半分日本人。俺は純粋なイタリア人。オーケー?」

「日本に来たのは三か月前が初めてだけどな。言葉は知ってたとはいえ」

「俺覚えるのに苦労したぜ、日本語」


 話しながらもソラは食事の手を進めている。行儀が悪いのだが、護にそれをいちいち指摘するつもりはない。護自身、礼儀作法についてはそこまでうるさくないのだ。シベリア王宮では色々と教えられたが、あまりに作法が面倒過ぎて結局アリスやヒスイのいるあの家で食事をしていた。

 そういえば自分が作る時は日本料理で、アリスが作る時はシベリア料理だったな……そんなどうでもいいことを思い出し、苦笑する。やはり、未練があるのかと。

 だが、護の追憶はそれ以上行われなかった。彼の思考を遮るような声が聞こえてきたからだ。


「おい、小僧。これはどういうことだ?」


 言葉を発したのは、天元――昨日護と唯一互角に殴り合いをした男だった。彼は机の上に置かれた料理――白米、味噌汁、魚の照り焼きといった料理を指さしている。他の隊員たちも困惑気味だ。

 そんな天元に、護はああ、と軽い調子で頷いた。


「俺と詩音で作った朝食だ。一応隊員全員分は用意してる。食いたかったら食ってくれ」

「お前さんは食わないのか?」


 ソラが問いかけてくる。護はああ、と頷いた。


「俺は詩音が起きてきたら一緒に食べるつもりだ。子供に一人で飯を食わせるのはいくらなんでも薄情だろ」

「ご立派。まるで父親だな」

「腕っ節が強くても十歳の子供だ。当然のことだよ」


 肩を竦める。そうしてから護はもう一度隊員たちを見た。まだ困惑しているらしい。


「食わないんだったら下げるぞ? 別に毒なんて入れちゃいねぇし、外に行けば飯屋もある。食うか食わないかは好きに決めてくれ」


 直後、激しい音が食堂に響き渡った。その場にいた隊員たちが一斉に貪るように朝食を口に入れ始める。それを見て微笑む護に、ソラが楽しそうに言葉を紡いだ。


「昔を思い出すねぇ。孤児院もこんな感じだった」

「昔、って程時間は経ってないだろ?」

「そうでもないさ」


 ソラが大日本帝国に来たのは護よりも前だが、一年は経過していないと聞いている。それ故にそう言葉を紡いだのだが、ソラは小さく首を左右に振ることで護の言葉を否定した。


「もう取り戻せないなら、それは過ぎ去ったモノだ。思い返すことしかできず、その場所で新たな思い出を紡げないなら……それはもう、昔でしかない」

「そうか。成程な。……俺も似たようなもんか」

「お前の場合、俺よりも腹括ってると思うぞ? 理由なんざ知らんし知る気もないが、《氷狼》とまで呼ばれたお前の実力を俺は自分自身の身で理解して、その上で気質を知っている。そんなお前が昔以上に鋭い雰囲気を纏ってるんだ。そこには覚悟があるんだろ?」

「どうだろうな。ただ折れただけかもしれないぞ?」

「そんな奴が《剣聖》に教えを乞うなんてことをするとは思えないけどなー」


 笑いながら言うソラ。何となくだが、これ以上話をすれば余計なことを口走ってしまいそうだった。それ故に、護は隊員たちに向かって声を張り上げる。


「白米ならおかわりがある! 欲しい奴は並べ!」


 そこからの動きは一瞬だった。その場のほとんど全員が一斉に列を作ろうとし、しかし、やはりというべきか騒ぎ出す。


「テメェ押すんじゃねぇ!」

「テメェこそここの飯なんざ食えたもんじゃねぇなんて言ってたじゃねぇか!」

「昨日あのガキに殴りかかってたくせに掌返すの早過ぎんだろ!」


 流石に男連中、それもまともなものを食べていなかった者たちが百人も揃うと凄まじい。よく見ると、数少ない女性隊員たちはこちらに並ぶべきかどうかを本気で悩んでいる様子だ。

 そんな様子を観察しながら、護は思う。見たところ派閥のようなものはなさそうだ。天元、という男がリーダーのようだが――まあ、ソラによるとあの男が一番この中で階級が高いらしいのだが――それ以外では男女で微妙に分かれてるだけで、特に派閥のようなものはないように思える。

 かつての大戦で参加させられた首都防衛隊はいくつもの派閥があって酷いものだった。アリスも自分も人付き合いが苦手なせいでどの派閥にも入れず、主に食事の面で常に苦労していた記憶がある。そういう面倒なものがないのは実に歓迎できる。

 ……まあ、それよりも今は目の前のことだ。


「うるせぇ! いいからちゃんと並べ! 指示に従えねぇんだったら飯抜きにするぞ!」

「ふざけんな小僧!」

「ふざけてんのはどっちだ! 食堂に階級はねぇ! けどな、決定権は飯を作る人間にあるんだよ!」


 怒鳴ってきた隊員に対し、護も怒鳴り返す。

 これは護自身が経験して来たことでもあるし、人を率いる上で必要なこととしてここに来る前に天音から教えられたことでもある。人は結局、食べることからは逃れられないのだ。

 ならば、胃を掴めば勝ち――天音が言っていたことを実践したのだが、こんなものでいいのかとも思う。まあ、見た感じ成功しているようだが。


「いいから並べ! 嫌なら食うな! 以上!」



 …………。

 ……………………。

 ………………………………。



 結局彼らは綺麗に列を作ることに成功した。流石に軍人である。途中で起きてきた詩音にも手伝ってもらい、全員の分を出してから護も詩音と共に食事を摂った。とはいえ、護の食事は早い。ほとんど一瞬で、今は丁寧に食事を続けている詩音の隣で食器を運び入れている途中だ。二人の食事は厨房の内側で行われている。


「……美味い飯なんざ、どれぐらい振りだろうなぁ……」


 不意に、そんな呟きが聞こえてきた。詩音も食事が終わったらしく、こちらを手伝ってくれている。それに礼を言いながら、護は下げられてくる食器を流し台へと運んでいく。

 食器を持ってくる度に、ありがとう、という言葉を誰もが紡いでいく。護としては頷きを返すしかなく、一緒に料理をした相方である詩音も戸惑った様子だ。


「普段の食事はどうしてたんです?」

「ああ、近場で適当にな。けど、あんまり美味くねぇし……美味いもん食おうと思うと高くてな」

「なーる」


 昨日殴り合いを演じた護としては、既に溶け込んでいるソラに驚きを禁じ得ない。しかし、同時に彼ならばとも納得する。味方となってからは三か月ほどだが、ほとんどを一人で過ごしている護とは違ってソラは常に誰かと共にいた。見る度に違う人物と言葉を交わしている。

 それが役目だ、と彼は言っていた。軍師としての役目だと。

 だがやはり、護は思ってしまう。それもまた、才能だと。

 人と関わる才能。自分には、ないものだと。


「けどな、やっぱりお前たちを上だと認めることはできねぇよ」


 ソラに向かってそう言葉を紡いだのは、天元だった。その言葉はソラに向かって紡がれているが、彼の視界の外にいる護にも当然のように向けられている。


「俺たちは挑み、敗北した。しかし、まだ生きている。生きているならば……まだ」

「――何かができる」


 天元の言葉を引き継ぐように言った護に、周囲の視線が集まる。厨房では詩音が食器洗いを始めているので、早めに戻らなければならない。

 故に、言いたいことは全部言っておく。どうせ口下手だ。その上人間関係も下手。細かいことはソラに任せればいいと護は思っているし、事実、その認識に間違いはない。ソラ自身がそれを請け負うと言っているからだ。

 故に、護・アストラーデは彼の論理を口にする。


「あんたらに何があったかなんて知らないし、知ろうとも思わねぇ。必要だったらそのうち知るだろうしな。その逆に、俺たちの事情もあんたたちにとってはどうでもいいことだ。違うか?」


 返事はない。それを肯定と受け取り、護は言葉を続ける。


「ここは、あんたたちの故郷なんだよな?」

「……全員ではないがな」

「羨ましいな、そう言えることは」


 微笑を一つ。護は、呟くようにそう言った。


「俺にも故郷はあるが、それはもう消えたものだ。『祖国』なんて言葉に意味も意義も俺は見出すことができねぇ。だからさ、あんたらはそれでいいんじゃねぇのか?

 あったさ、俺にも。俺なんかにも。帰りたい場所も……帰りたい場所くらい、あったんだ。

 けど、俺はそこにはもう戻れない。俺は俺自身の手でそれをぶち壊した。俺の弱さが、それをしてしまった。だから俺は――ここにいる」


 この言葉の意味を理解できている者はいないだろう。しかし、理解など必要ない。

 全てを抱え、それでも往くと――決めたのだから。


「従えない、ってんならそれでもいい。勝手に戦ってくれ。だが、それでも俺はあんたたちの上官で、不本意だろうが何だろうが命を預かる立場にある。だから、俺より先に死ぬことだけはしないでくれ。――以上だ」


 言い切り、厨房へと向かう。先程の話を聞いていたのだろう。詩音がこちらに視線を送ってきたが、その前にすることがあるとして無視した。

 黙々と、食器の片付けを進めていく。食堂からは話し声が聞こえてくるが、意識的に追い出した。

 そして、一時間ほどの時間が経った頃。ようやく片付けも終わりを迎えた時、不意に詩音がこちらへとスケッチブックを向けてきた。


『怖くはないのですか?』


 それは、何に対する感情としての問いかけだったのか。

 それがわからぬまま、護は言う。


「そんな理由で足を止めることはもうできないからな。進むしかねぇよ」



◇ ◇ ◇



 言うだけ言って出て行くな――ソラは護に対してそんな言葉を紡ぎたくなった。あれではいくらなんでも言葉が足りなさ過ぎる。

 まあ、そこをフォローするのが自分の役目だ。ソラはため息を零すと、捕捉しときますよ、と言葉を紡いだ。


「まず大前提として、『アレ』は人質をとられてここにいる」


 厨房の方を指差しながら紡いだ言葉に、隊員たちが怪訝な表情を浮かべた。


「なんだと? それは……」

「あんたたちと一緒? いやいや、そんな生易しいもんじゃない。アイツはな、《武神》に正面からたった一人で挑んで、そして敗北した。その上で言われたんだとさ。『ここにいる者たちの身を守りたくば、こちらへ来なさい』――だそうだ。本当、怖いもんだよ。

 自分を倒した敵に、そんなことを言われるんだぞ? 普通は折れる。目の前で、自分自身の身を以て、『守れない』なんて現実を叩き付けられたんだからな。

 けど、アイツはここにいる。逃げることもせず、恥も外聞も捨てて必死にもがいてる。だから俺はあれと一緒に《七神将》になった。あれなら命を預けられるし、預かることもできる。まあ、向こうは預ける気なんてないだろうがな」


 苦笑を零す。あの男がこちらを信用していないのは丸わかりで、ソラとしては当然のようにも思えてしまう。敵同士だったのだ。こちらに限っていうならもうどうでもいい相手だが、向こうはそうもいかないだろう。こちらが憎んでいる、若しくは敵意を抱いていると思っているはずだ。

 ……まあ、そう思わせるような立ち振る舞いをしてきたのだが。実直な人間というのは融通が利かなくて困る。


「アレは本気だよ。本気で目の前の現実に、俺たちが勝てなかったモノにもう一度挑もうとしてる」

「そんなこと、できるものか」


 言ったのは、天元だ。壮年の戦士を思わせる雰囲気を纏うその男は、絞り出すように言葉を紡ぐ。


「姫君でさえどうにもならなかった。坊ちゃんが向こうに身を投げ出してくれなければ、俺たちは皆殺しにされていた」

「成程、その『坊ちゃん』とやらに生かされたわけだ」

「そうだ。……あんな小僧にどうにかできるような相手ではない」

「どうかな? 俺としてはアイツが最後の切り札だと思ってるし、そこで勝てるかどうかが全ての賭けの焦点だと思ってるんだが?」


 笑みを浮かべるソラ。そんなソラに対し、天元が無理だ、と言葉を紡いだ。


「お前は知らないんだ。《武神》と呼ばれるあの怪物が、どれほどの存在なのか。勝てるはずだった。なのに、たった一人で戦局を覆すなど……」

「――だから諦めたのか?」


 その言葉に反応したのは、天元だけではなかった。周囲の隊員たちが一斉にソラを睨む。百人の殺気を孕んだ瞳。波の胆力をした者なら逃げだしたくなるようなそれを、しかしソラは平然と受け止める。


「俺は諦めんよ。今度、俺の中で清算しなけりゃならんことがあるから関東に行くが……それが俺の予測通りの結果を生めば、本格的に動くつもりだ。結果を見るのがどれだけ先になるかは知らんけど」


 それはもう決めたことだ。護にも近いうちに話すつもりだ。

 彼もまた、同じことを考えているだろうから。


「お前は、どうなんだ? お前も人質をとられたのか? だから――」

「いんや、別に?」


 立ち上がりつつ、欠伸と共に言葉を紡ぐ。


「俺は死んでないといけないからな。故郷には帰れない。そういう道を選んで、そして、誘われたからここにいる。それだけだったら一応は命の恩人だし、協力もするんだけどな。……けど、やっぱり違うって思っちまった」


 帝の思い描く世界を聞いて。

 考えて、考えて考えた果てに。


「子供が夢を見れない世界に、価値はない」


 自分は夢を見れなかった。だからわかる。わかってしまう。

 夢を見ることさえも許されない世界。そんなものに、意味はあるのかと。


「俺が戦う理由はそれだけだ。ついて来れないならそれでもいい。俺もアイツも、結局は個人の私怨が根底にある。去るのなら今のうちだ」


 そう言い切ると、ソラは隊舎を出て行く。その中で、苦笑と共に呟いた。


「……なんか、苛々しちまったなぁ」


 苦笑を零す。もっと冷静に、折りを見て話すという選択肢があったはずだ。むしろ本来の自分ならそうしていたはず。こんなのは自分らしくない。

 何故だろう、と思うが……答えはわかっている。

 ――見苦しかったのだ。

 一人は、たった一人で戦場に立ち、敗北し……心折られながらも前を向いているというのに。

 ここにいる者たちは、前を向くことなく俯いたままでいる。

 それがどうしようもなく――腹立たしかったのだ。


「らしくないらしくない。けどま、あの連中に欠片でも『反逆の心』ってもんが残っているのなら……」


 振り返る。ボロボロの外観をしたその建物へ、ソラは小さく呟いた。


「――国を崩す、手駒が揃う」



◇ ◇ ◇



 そして、三か月後。

 目の前に整列した者たち――自分の部下である者たちを見渡し、護・アストラーデは一度大きく息を吐いた。

 衝突があった。殴り合いも言い合いも何度したかわからない。最初は百人だったのに、結果として遠征に向かうのは二千人もの規模になった。第九南九州隊舎の者たち以外にも、かつての戦争で反逆者となり、または反逆の意志を持つ者をソラが集めたのだと言っていた。

 だが、だからといっていきなり行動を起こせるわけではない。力は必要だ。あの怪物を――《武神》を超えるほどの力が、どうしても必要なのだ。

 だから、今は戦う。この国のために。大日本帝国のために。

 大切な者たちを――守るために。


「言いたいことは、二つだけだ」


 肩を並べることはおそらくない。自分は常に最前線にいるだろうからだ。

 ここにいる者たち全てを背負い、護・アストラーデは戦う。


「一つ目。――俺の許可なく死ぬことを許さない」


 全てを救い、守り切る。

 その信念は今もまだ、胸の内に秘めている。


「二つ目。――俺は決してお前たちを見捨てない」


 死ぬなと。死なせないと護は宣言した。

 そして、孤高の餓狼がその身を翻す。

 晒されるのは――『死』の一文字。


「往くぞ――ガリアへ」


 新たなる戦場へ。

 守ると決めた全てを守るために。

 護・アストラーデが踏み出していく。


 その果てに、何が待っているかも知らずに。

あけましておめでとうございます。……遅い? すみませんホント……。

とまあ、色々あったわけですよ。私も就活生ですし、大学も頭悪いとこですから大変で。まあ、やるしかないわけですが。



ではでは、というわけで護とソラの現状です。相変わらずソラは色々考えてるし、逆に主人公である護くんは相変わらず悪い意味でブレがない。

ただ、初期の頃と比べたら成長したのではないかなー、と。あれだけ盛大に圧し折られたら当然かもですが。

ちなみに詩音は目に見える監視ですが、もちろんあの二人に関しては他にも監視者はいます。隠れて見ている人がいるわけですね。当然ですが。ただ、三か月かけて帝に対抗する気概を持つ人間を集めた護たちに対し、帝は特に今のところ何も思っていません。正直、今の二人など問題視していないのですね。まあ、それもまたある意味当然なのですが。


ではでは、次はちょっと二話に分けて過去の話をしたいと思います。主にイギリスと日本の関係について、これまであんまり登場してないキャラたちを中心に。

……それでも天音と帝辺りは登場して暴走していそうですが。


それでは、感想ご意見お待ちしております。

ついでに一つ。拙作で好きなキャラクターとかはいますか? 今後の参考にしたいので、できれば教えて頂けると幸いです。


ありがとうございました!!

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