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英雄譚―名も亡き墓標―  作者: アマネ・リィラ
欧州動乱編―選択―
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第十三話 〝人として〟


 深夜。ヴァチカン市国の最奥に、その人影はいた。

 一人は、聖教イタリア宗主国を預かる王であり、世界最大宗派『聖教』のトップでもある教皇。

 一人は、眼帯を着けた年若い青年。


 銃声が――轟いた。

 鮮血が、部屋を濡らす。


 どさりという、何かが倒れる音が室内に響いた。教皇――ある意味においてこの世界で最も神に愛され、加護を受けているはずの存在。それほどの存在が、たった一発の銃弾で倒れ伏す。

 その表情には驚愕があり、目を見開いて瞠目している。信じられない、といった表情だ。


「……別に、聖教が悪いとかそんなことは思わない。信じてる奴は信じてるんだろうし、救いになる奴は救いになってるんだろうからさ」


 青年――ソラ・ヤナギは、倒れ伏した教皇を見下すようにしながら言葉を紡ぐ。


「けどさ、神様ってのは多分……どうしようもないほどに平等で、公正な存在なんだよ。

 富んでいようと、貧しかろうと、強かろうと、弱かろうと、幸福だろうと、不幸だろうと、憤っていようと、哀しんでいようと、笑っていようと、哭いていようと……ただ見守るだけの存在なんだよ。

 ははっ、素晴らしい存在だな神様って。誰も救いやしないんだから。

 ――そんなもん、必要ねぇよ。消えろ。うぜぇ」


 ダンッ、という乾いた音が再び響く。

 その弾丸は最早物言わぬ体となった教皇へと吸い込まれ、その体を痙攣させる。

 その様子を見て、ソラはため息を一つ。その死体へ背を向けた。しかし、不意にその背中に向かって声がかけられる。


「――独断専行だな」


 現れたのは、厳しい表情を浮かべた女性だ。ソラはその人物の登場に、僅かに眉をひそめる。

 ――出木、氷雨。

 かの《女帝》の義妹にして、《七神将》と同等の権利を預かる吉原の頭領。ソラは彼女に宣戦布告に近い宣言を受けており、それ故にあまり親しい仲ではない。

 今二人がいるのは、ヴァチカンの中心。それも教皇が過ごす部屋だ。いくら大日本帝国の人間とはいえ、こんな時間には通常、入り込むことなどできはしないのだが――


「どうやってここへ?」

「貴様と同じ方法だ」

「俺は知り合いの伝手ですよ?」

「外壁を伝って入って来ただけだ」

「それはそれは」


 氷雨の言葉に、肩を竦めて応じる。ヴァチカンの中央に存在するこの宮殿は相当な高さの外壁を有している。物理的に人が昇れるような高さではないのだが、その辺りの常識については諦めた。世界とは本当に広い。知れば知るほどに、絶望的なことばかりがわかってしまう程度には。

 とはいえ、ソラもかつての知り合いを脅して中へと入った身だ。朱里に一度だけ会おうと思っただけだったが、気が変わった。

 そして気付いたら――これだ。

 後悔はない。しかし、達成感もない。

 あるのは、酷く冷めた感情だけ。


「……それで? 局長に報告でもされるのですか?」

「それもいいが……その行為にはそこまで意味がない。元々、私がそこの俗物を斬るつもりだった」


 カチン、という音を響かせ、氷雨が刀を鞘に納める。そんな彼女の様子を見て取り、ソラは銃をしまうと肩を竦めた。


「成程。ま、そんなことだろうとは思ってましたけどね」

「ほう? 負け惜しみか?」

「勝ち惜しんでいようと負け惜しんでいようとどっちでもいいですよー、と。……局長、やる気なんでしょう? いや、この場合は帝か。局長はあくまで前線指揮官みたいだし」


 何をだ、と壁に背を預けながら氷雨が問うた。ソラはんー、と一度唸ってから言葉を作る。


「――第九次再征服活動、〝レコンキスタ〟」


 ごりっ、という鈍い音が響く。無造作に、ソラが死体の頭を踏みつけた音だ。


「十字軍、って言った方がわかり易いかもですね。向かう先はガリア連合。EU連合として軍を編成するのは難しい。できても権力争いで無駄な犠牲出すだけですしね。で、十字軍。一度限りの、『聖教』を中心とした軍隊で、『異教の地』たるガリア連合を制圧する――シナリオとしては、こんなところですかね?」


 肩を竦め、ソラが言い切る。氷雨が、ふん、と鼻を鳴らした。


「賢しい小僧だ。知っていて、それでも協力していたというのか? 自らの故郷が疲弊する未来が見えているというのに」

「……そこなんですよね。そう、ずっと引っかかってたわけです。俺と皆さんの感覚の違い。ようやくわかりましたよ、いや、本当ようやくだ。うん」


 何度も自分で頷く。気付いてみたら簡単なこと。しかし、当たり前過ぎて気付かなかったこと。


「――俺、この国嫌いなんですよ」


 窓の淵に腰を預け、懐から煙草を取り出しながら。

 ソラ・ヤナギは言い放つ。


「消えてくれてもいいと思ってるし、逆にだからどうしたとも思う。消えるんなら消えてくれればいいし、滅びるんなら滅びてくれていい。存続するなら目障りだけど、まあ、どうでもいいかな」

「……それは『嫌悪』ではなく『無関心』だろう?」

「『好意』の反対は『無関心』ですよ?」


 これは真実だ。好きも嫌いも、どちらも相手を見据えた上での感情である。それ故に、この二つはそのベクトルが違うだけで真逆と言うことではないのだ。

 故に、『好意』の反対は『無関心』となる。相手を見る、という行為の反対は、『相手を見ない』ということだ。


「まあ、結局はできることなんて知れていますがね。俺の感情に、意味はない。……それじゃ、俺はこれで。なんか帝が考えてることがあるみたいで、呼び出されてますから」

「ふん。親友が処刑されるというのに冷静なことだ」


 嘲るような口調だった。それは氷雨としては挑発のつもりだったのだろう。しかし、ソラには通用しない。


「まあ、あの程度で死ぬはずがないですしねー」


 言い切り、部屋を出て行こうとするソラ。その背に、氷雨が待て、と声をかけた。


「貴様、まさか裏切るつもりか?」

「その言葉には前提条件が抜けていますよ? 俺が『何から』裏切るのかが抜けています。……そもそも、あなたは俺のことが嫌いなはずだ。俺の言葉を信用なんてできないでしょうに」


 言い切り、ソラが部屋を出て行く。その姿が見えなくなるまで、氷雨は何も言わなかった。

 そして、しばらく佇む氷雨。彼女は、一言だけ呟いた。


「……食えん男だ。やはり、義姉上のことを考えれば生かしておくのは得策ではないか……?」


 そうして、彼女もまたその場から姿を消す。

 残されたのは、神の加護を一身に受けていたはずの男の死体。それだけだった。



◇ ◇ ◇



 ――選べる選択肢は、決して多くない。

 そして、どれを選ぶことが一番正しいかはわかり切っている。

 護・アストラーデはシベリアの人間だ。しかも、一国民ではなく『英雄』としての存在。その自分が、シベリアを危険に晒すことになる選択肢は選べない。


「……選択肢としては、亡命……か」

「まあ、それしかないだろうね」


 長い、どうしようもないほどに長い沈黙の後に紡がれた言葉に反応したのはアルビナだった。彼女は何かを思案するような表情で、護の発した言葉に捕捉を加えていく。


「咲夜・アスリエル……朱里・アスリエルの妹で、両親はすでに他界。お嬢ちゃんが《赤獅子》に言われた『頼む』という言葉の意味が咲夜・アスリエルを示しているのなら……取れる選択肢としては、それが最上だろうね」

「……でも、それは難しいんです、よね……?」


 ぎゅっ、と両手の拳を握り締めながら、アリスは言った。その言葉にも、アルビナが頷く。


「アタシとしては《赤獅子》が『異端』なんて呼ばれてる状況がすでに納得できないんだけどねぇ。そこまで上手く立ち回れるなら、もっと別の場所に立っていただろうし。……話が逸れたね。真実や事実がどうあれ、現実として《赤獅子》は異端者として処刑されようとしてる。異端審問自体が時代錯誤な気がするけど……まあ、言い出せる雰囲気でもない。今更それを覆すのは不可能だ」

「だが、異端審問なんて歴史の教科書に載るようなことだろ? 今更そんなことして大丈夫なのか?」

「これが他国を巻き込んだことなら話は別だけどね。今回はあくまでイタリアの人間である《赤獅子》が、イタリアの王によって裁かれてるんだ。形が宗教裁判というだけで、実質はただの自国内における裁き。更に言うとね、他国の人間はこう思ってるはずさ。――〝《赤獅子》が消えるのは僥倖〟、ってね」


 その言葉に、アリスがはっと顔を上げた。護も表情を険しくする。


「……だからどこも介入しねぇってことか?」

「極論、EU含めてガリア連合でさえ《赤獅子》を救うメリットがない。対し、本来なら《赤獅子》を救うことで――というより、《赤獅子》が生きて健在であることで一番のメリットを受けるイタリアが自国の英雄を殺そうとしてる。何ともまぁ、滑稽な話だよ。《赤獅子》朱里・アスリエルには敵しかいない」


 まあ、それだけ《赤獅子》が強過ぎたってことだろうね――アルビナは、苦笑を漏らしながらそう言った。それに対し、どういうことだ、と護が問いかける。


「《赤獅子》の強さは俺も知ってる。身に染みて理解させられたからな。けど、強過ぎるってのはどういうことだ?」

「……聖教イタリア宗主国――いや、イタリア軍か。聞いたことはないかい? イタリア軍は『最弱の軍隊』なんて呼ばれてるってことを」


 煙管に火を点けながら、苦笑と共にアルビナが言う。護は、聞いたことはある、と頷いた。


「レオンが言ってた気がするな。統治軍も、イタリア軍が主体ならもっと楽だった……とか」

「くっく、前から思ってたけどあの坊やも容赦がないねぇ。まあ、だからこそ二年も五人しかいないレジスタンスで戦い続けて来れたんだろうけどね。……イタリアってのは、昔からどうも戦争に弱い国でね。国の気風とかもあるんだろうけど……全体的に見て戦績が良くないのも確かだよ。それを支えてきたのが、イタリア最強――いや、〝EU最強の英雄〟である《赤獅子》だ」


 アルビナは語る。朱里・アスリエルという男がどれほどの英雄であるかを。


「朱里・アスリエルに敗北はない。シベリア連邦でも、あの男は実質的な戦闘において無敗と語り継がれてる。……その意味と、強さ。あんたたち三人にはわざわざ語るようなことでもないだろう?」

「確かにな。……思い出したくもねぇが」

「……〈毘沙門天〉で大佐から逃げることができたのは、本当に……幸運でした」

「…………」


 ヒスイは無言だが、EUで――それもドクター・マッドの下でイタリア軍に参加していた彼こそ、《赤獅子》の凄まじさは肌で知っているだろう。

 そんな三人の反応を見、紫煙を吐きながらアルビナは続ける。


「本来なら、イタリアという国こそが朱里・アスリエルを守るべきなのさ。最大の戦力であると同時に、国の守護神こそが《赤獅子》なんだから。なのに、この状況。本当に――」

「――本当に、頭が悪いとしか言いようがないわよねぇ?」

「――――ッ!?」


 不意に聞こえてきた声に、その場の全員が驚愕と共に振り返った。閉じていたはずの窓。そこがいつの間にか開いており、一人の女性が窓辺に座っている。


「誰だテメェ!?」


 側にあった刀を手に取り、護が声を張り上げる。そんな護に、現れた女性は口元に寄せた指先を左右に揺らすことで応じた。


「アタシが誰かなんて、アナタがどこの誰であるかと同じくらいにどうでもいいことよぉ? ねぇ、シベリアの英雄――《氷狼》護・アストラーデ?」

「…………テメェ」


 刀の柄を握り締め、臨戦体勢に入る。いつでも抜ける――言外にそう語る護を止めたのは、横から手を差し出してきたアルビナだった。彼女は険しい表情を浮かべ、乱入者を見つめている。


「落ち着きな、英雄。……あれは、そう簡単に斬れるような生易しい相手じゃない」

「……知り合いか?」

「互いにもう会いたくないと思う程度にはね。……久し振りだねぇ、《殺人鬼》?」

「アハッ、懐かしいわねぇ。相変わらず『蝙蝠』をしてるみたいじゃない?」


 クスクスと、乱入者が笑う。そうしてから、その乱入者は護に視線を向けた。


「それにしても、酷いわねぇアナタ。ついさっき、アタシと会ったのに」

「何だと?」

「……まぁ、アタシの目的はアナタじゃなかったからどうでもいいけどね」


 肩を竦め、窓から降りる乱入者。その一連の動きを見、護は知らず刀の柄を握る力を強めた。隙がない。言動はふざけているが、相応の実力があるということは容易に理解できる。

 そんな乱入者の態度を見て、ふん、とアルビナが鼻を鳴らす。


「どういうつもりだい? アタシはあんたがどうなろうと興味はないし、関わろうとも思っていない。それはあんたも同じだろう?」

「確かにそうねぇ。アタシはアナタについては何とも思っていないし……信じる者が何もない人間なんて、相手にするだけ無駄」

「なら、状況を掻き回しに来たのかい? だったら帰りな。ここには大日本帝国もいる。アンタも知ってるだろうが、虎徹の坊やは今度出会ったらもう逃がす気はないと思うよ」

「知ってるわよ。それに、状況を掻き回すのも今回は遊び半分じゃないわ。朱里・アスリエル……あの男については、アタシも少し縁があるの。ここで死なれるのは、少し困るわ」


 肩を竦め、口元に笑みを浮かべながらそんなことを口にする《殺人鬼》。だが、護は警戒を崩さない。態度も口調もふざけているが、この女の目が欠片も笑っていないのだ。

 それに、雰囲気。どことなく、雨の中で見た白衣の男――仮面を着けたあの男と似た、どうにも気を許せない雰囲気が鼻につく。

 だがそれを呑み込み、さりげなくアリスの傍まで移動してきていたヒスイ共々いつでも庇える位置へ移動すると、護はそれこそ射殺すような視線を相手に向けた。


「目的は何だ?」

「――共闘の申し出」


 護の問いに、《殺人鬼》と呼ばれた女が笑いながら即座に答える。


「アタシの名前は、神道絶。《赤獅子》とは協力――契約関係にあるわ。別にあの男の人生に干渉する気はないけど、こっちの目的を果たさないうちに死なれるのは困るの。……どうかしら?」


 笑みを浮かべながら、絶は言う。護は、アルビナへ視線を向けた。アルビナは険しい表情のまま、何も言わない。視線をずらすと、アリスやヒスイは護を見つめ返してくるだけだ。こちらに判断を任せるということだろう。

 故に護はため息を一つだけ零した。そのまま刀の柄から手を離すと、鋭い視線を絶に向ける。


「そっちの情報を全て話せ。全てはそこからだ」

「いいわよぉ、別に。それに、興味もあったしね」


 クスクスと、絶が笑う。


「――出木天音の後継者、どれほどのものなのか……ね?」



◇ ◇ ◇



 ヴァチカン市国、中央広場。

 かつては実際に魔女狩りを始めとした異端者の処刑が執り行われていた場所であり、現在は人々にとって――特に信心深い者にとっては参拝に訪れるはずだったその場所に、無数の人影が集まっていた。

 そこにあるのは期待や興奮といったものからは程遠い、戸惑いや困惑といった色合いが強い。


「……本当に、《赤獅子》様が……?」

「俺、戦場であの人に救われたことがある……」

「《赤獅子》様が異端なんて……神様、ご慈悲を……!」


 聞こえてくる言葉に、異端として告発された一人の男を貶すものはない。あるのは困惑と、救いを求める言葉だけ。

 ――『異端者』朱里・アスリエルの処刑――

 それが、この場に集う者たちに与えた衝撃の言葉だ。幾度となく訪れた、イタリア本土を巻き込むことさえあった大戦。その中で、《赤獅子》という英雄は常に最前線でイタリアを守ってきた。

 弱小と呼ばれる軍隊でありながら、それでもたった一人で最前線を支え続けてきた男。

 その男が処刑されるという事実を、未だイタリアの民たちは受け入れられない。


 ざわりと、広場にざわめきが広がった。


 両の手を鎖に繋がれ、ボロボロの身体でボロボロの衣服を纏った一人の男。まるで奴隷のような姿を見せるその男からはしかし、卑しさなど微塵も感じない。

 鮮やかな、まるで血のように紅い髪。正面を見据える紅蓮の瞳。

 その全てが、威風堂々たる姿。

 そこにいるのは、処刑されようとする罪人ではない。誇り高き、一人の英雄。


「《赤獅子》様だ……!」

「まさか、本当に……!」

「どうしてあの方が……!」


 広がるざわめき。そのほとんどが、朱里が処刑されることを受け入れていないものだ。

 しかし、動くことはできない。世界最大宗派、『聖教』――そのトップたる教皇と、『聖人』とも呼ばれる『十二使徒』。その者たちに逆らうことはできないのだ。

 朱里・アスリエルが、処刑台を昇って行く。

 ざわめきは、ずっと……続いている。



◇ ◇ ◇



 不思議な感覚だった。今から処刑されようとしているというのに、恐れという感情が生まれて来ない。

 あるのは、戦場に立つ時と変わらない感情。

 何もない――無の境地。


「…………」


 目の前に立つ、無駄に豪奢な衣装を纏う老人を見据える。『十二使徒』の一人で、確か『マタイ』の座を預かる老人だ。言葉を交わしたことはないが、英雄と呼ばれる自分のことを鬱陶しがっていたのを覚えている。

 その老人――マタイは朱里を見ると、ちっ、と舌打ちを零した。そのまま、手に持っていた拷問用の鞭を振るう。


「何だその態度は!?」


 皮膚が破裂するような音が響き、左頬に焼けるような痛みが走る。続いて、体中に何度も痛みが走った。


「這い蹲れ!! 枷を受けよ異端者が!! 貴様は裁きを受ける身なのだ!!」


 近くにいた教皇親衛隊の者たちが朱里を押さえ込み、首と手を同時に拘束する枷をつける。朱里の部下であったその者たちは、朱里にしか聞こえない声で「申し訳ありません」、と血を吐くように呟いた。

 しかし、それは気にするようなことではない。彼らには彼らの守りたいものがあり、それを守るためにこうして自分を押さえ込んでいるのだ。

 そうして押さえ込まれながらも、朱里はマタイを見据えた。それを見、ふん、とマタイが鼻を鳴らす。


「反抗的な目つき……まさに異端。裁きが足りんと見えるな」


 再び、叩き付けるように鞭が振るわれる。額の皮膚が裂け、流れ出た血が右の視界を覆った。

 ミシリという、何かが軋んだような音が響いた。視界の端に、控えていた親衛隊の者たちが武器を取ろうとしているのが映る。だが、彼らはギリギリのところで踏み止まった。この場には、『イタリア軍』という教皇たちにとって言いなりになっている者たちもいるのだ。迂闊には手が出せない。

 本来なら親衛隊は教皇の命令を忠実に実行する部隊なのだが……朱里・アスリエルは幾度となく彼らを救い、同時に導いてきた。任務と感情の狭間で、彼らは揺れているのだ。

 そんな親衛隊の様子を見て、マタイが笑みを浮かべた。鞭を手に持ったまま、親衛隊の方へと視線を向ける。


「どうした? まさかこの異端者を庇うつもりか? 何か申すことがあるならば申してみよ。ガリア連合という強大な敵を前に、この異端者はあろうことか敵と通じていたのだ。これを処刑することに何の間違いがある?」


 再び、何かが軋むような音が響いた。

 朱里を押さえ込んでいた者たちが、血が滲むほど強く拳を握り締めている。食い縛った歯の間から、血が滴っていた。


「《赤獅子》様嘘だよな……? 俺を、俺たちを救ってくれたのに……」

「あんなに血が……惨すぎる……。我が国の英雄に……」

「おにいちゃんどうしてぶたれてるの? 『えいゆう』なんだよね? わるいことしたの?」

「俺、もう、見てらんねぇ……!」


 広がるざわめき。それを耳にし、嗚呼、と朱里は思う。


 ……父の言っていた通りに……俺は、生きられたのか……?


 思い出すのは、父の言葉。まだ幼かった自分に、父はかつてこう告げた。


〝お前が生まれた時、私たちは嬉しくて、嬉しくて……笑っていた。お前が産声を上げて泣いている横で、笑っていたんだ。いいかい、朱里。人は泣きながら生まれてくる。笑顔に囲まれながら、その中心で泣いているんだ。朱里がどんな人生を歩むかはわからない。けれど、いいかい? 必ず、最後は笑っているんだよ?

 笑顔に囲まれ、泣きながら生まれてくるからこそ……死ぬ時は、涙を流す人に囲まれながら、笑って逝くんだ。いいね?〟


 今の自分は、どうだろう?

 どれだけの人間が、泣いてくれるのだろう?


 ……いや、そうじゃない。そんなことは、後でいい。

 必要なのは、もう一つ。父から受けた、あの教え。

 ――笑って逝くこと。

 そのために必要なのは、なんだろう?


「なんだ? 申し開きでもあるのか?」


 立ち上がった自分に、マタイがそんな言葉を投げかけてくる。右の視界は朱に染まってしまい、見ることができない。だが、こちらを見つめる無数の視線を受け止めるのは左の視界があれば事足りる。



「俺は、語らなければならない。英雄と呼ばれたからこそ。戦場で多くの命を奪ってきたからこそ。異端と呼ばれるからこそ。だからこそ、俺は〝人〟として語らなければならない」



 朱里の言葉に、広場が静まり返った。決して大きな声ではないというのに、その声は全ての者たちへと行き届く。


「俺にはもう、わからなくなった。なってしまった。だから、問わせて欲しい。『聖教』とは……〝神〟とは、何だ?」


 戸惑いが広がったのがわかった。朱里は、尚も続ける。

 ずっと抱き続けてきた、己の中に産まれた問いを。


「俺は、小さなパン屋に産まれた。食うことに困るほどに貧しいわけではなかったが俺が毎日手伝わなければならない低出には余裕がない小さな……本当に小さな、街の片隅にあるような店だった」


 思い出すのは、温かな日々。あの頃が、人生において一番幸せだった


「妹が生まれて、家族が増えて……俺は学校に通えない日が少しずつ増えていった。妹は病弱で、治療に金が必要だったからだ。妹はそれをずっと気に病んでいたが……気にするようなことじゃない。俺は、俺たちは幸せだった。毎日必死で働いて、それでも暮らしが楽になることはなかったが……幸せだったんだ。本当に、幸せだった。

 俺は、人付き合いが苦手だった。友達などと呼べるような相手はほとんどいない。しかし、家族はそんな俺にも愛情を注いでくれた。出来の悪い息子だ。それでもいつも笑って、ずっと、ずっとそんな日々が続けばいいと。贅沢など望んじゃいない。当たり前の日々が毎日続くこと。それだけでよかった。それだけでよかったのに。

 ――――――――神様とやらは、それさえも許してはくれなかった」


 マタイが、ピクリと反応する。朱里は、それでも尚、淡々と語り続けた。


「妹の病気が悪化し始めた頃、俺は自分が〝奏者〟であることを知った。……悩んだ。本当に悩んだよ。俺が命を懸ければ、咲夜を――妹を救える。だが俺は、その代償として〝人殺し〟になってしまう」


 あの時は、毎日それだけを考えていた。どうすればいいのか、何が最上なのか。

 ……今思えば、きっと自分でも気付いていたのだ。終わりがもう、近付いていることに。


「両親は、『何とかしてやる』と言ってくれた。だが――両親は死んだ。俺と咲夜の目の前で。事故に見せかけて殺されたんだ」


 ざわめきが広がる。朱里はそれでも尚、感情に任せて言葉を紡ぐことはしない。

 ただ、ただ淡々と。

 事実のみを――告げていく。


「教えてくれ。――神とは、何だ? 父も、母も、妹も。罪など犯してはいない。ただ、毎日を必死に生きて、俺と咲夜を守ろうとしてくれていただけだ。なのに何故、こんなことになった? 毎日、明日が少しでも良い日になるようにと――ただそれだけを、祈り続けていたのに」


 そこで、朱里はマタイを見つめた。睨むわけでも、見据えるわけでもなく。

 ただただ真っ直ぐに、その目を射抜く。


「教えてくれ、聖人。神とは、救いとは何だ? どうして俺は、この手で人を殺さなければならなかった?」

「だっ、黙れッ!! 異端者が!!」


 鞭が振るわれ、激痛が体を襲う。しかし、朱里はその場から微動だにしない。

 今更、体の痛みで悲鳴を上げるほど……朱里・アスリエルは弱くない。


「異端がどうという話はしていない。むしろ俺が異端だというのなら、それを改心させてみせろ。〝汝、隣人を愛せ〟――戦争を起こす理由として、『敵は隣人に非ず』とお前たちは言ったな? 神様とやらの教えを捻じ曲げているのは、お前たちではないのか?」

「なんだとこの異端めが!! 口を閉じろ!!」

「閉じはしない!! 閉じてたまるものか!! 俺は咲夜を見捨てれば良かったのか!? たった一人の家族を、俺にとってはもう取り戻せないあの日々を共に過ごした家族を!! 大切な人を!!――それが神の教えだというのか!?」

「貴様ッ!! 我らが主を侮辱するか!!」

「神とは!! こんなちっぽけな人間の言葉さえも受け入れられないほどに狭量な存在なのか!? ならば何故神は俺たちを、人間を〝完璧なモノ〟にしなかった!? 自由を求めた!? 罪を犯すことさえも可能とした!? 俺は奴隷じゃない!! 俺は〝人〟だ!! ならばもう、誰にも屈することはしない!!」


 声を張り上げ、吠える。マタイは、ちっ、と舌打ちを零した。


「おいっ!! 民衆たち!! この異端者に石を投げよ!!」


 ざわめきが、広がる。


「どうした!? 投げなければ貴様たちもまた背教者とみなすぞ!!」


 マタイの言葉に、いくつかの呟きが漏れる。投げるのか、投げないのか……そんな、迷いの言葉が。

 その呟きを聞き、朱里は一度目を閉じた。迷い、戸惑い――それもまた、一つの〝自由〟。


「投げるのなら、投げろ。俺は全てを受け入れる。俺に石を投げることで家族が、大切な人が救えるのならば。石を投げろ。それが必要な時もある。俺自身がそうだった。俺は間違っていると知りつつ、咲夜を守るために多くの人間を殺してきた。今更、そんな俺が身を守ることが許されるはずがない。

 救われる人間がいるなら、救われるべきなんだ。だが、その選択は己の心で、その魂で選び取れ。それさえできないのであれば、何もするな。俯き、口を閉ざし、陽の当たらぬ場所で過ごしていけ。それもまた――選択だ。

 俺は陽の当たる場所を目指した。妹の命を人質に取られ、漆黒の暗闇で生きながら。それでもずっと、出口を探してきた。両手を、全身を血で染めて。それでも、俺はそうすることを選んだ。選ぶこと、決めること――それは、人が人であるための条件。俺は〝人〟だ。選択から逃げはしない。他人に預けることなど絶対にしない。そう、決めてきた」


 広場のざわめきは収まらない。痺れを切らしたように、マタイが叫んだ。


「ええいっ!! 何をしておるかッ!! 投げよ!! 打ち据えよ!!」


 石が――飛ぶ。

 そしてその全てが、朱里の身体に当たっていく。

 決して強い力ではない。しかし、無数の投石が、朱里の体を打ちつけていく。

 朱里は逃げない。微動だにせず、その全てを受け止めている。

 マタイが、笑い声を上げた。


「は、ははっ!! 異端者が!! 貴様の言葉などに惑わされはせん!! 愚かなものだな!!」


 高々と笑うマタイ。その笑い声が響く中で、投石が止んだ。朱里が、ゆっくりと瞳を開く。

 数多の戦場を駆け抜けてきた、紅蓮の獅子のその瞳。それが広場を見回し、そして、彼は語った。



「――お前たちを、誇りに思う」



 その言葉に、広場のざわめきが――止んだ。


「お前たちは選んだんだ。〝人〟として、〝自由〟があることを証明したんだ。俺がこの国を守ってきたと、ほんの僅かでもそうできたと、できていたと自惚れていいのならば。俺の選択には意味があった。お前たちを護れたことが、俺にとっての誇りとなる。

 そうだ。俺はそれだけで……笑って逝ける」



 ありがとう。



 紡がれた言葉は、たった一言。

 マタイが舌打ちと共に、朱里の首を撥ねるようにと指示を出す。今度は親衛隊の者たちではなく、イタリア軍の者たちが朱里を取り押さえた。


「《赤獅子》様!」

「《赤獅子》様の言葉が!」


 広場から声が上がる。しかし、今更それでは止まらない。


 ……すまない。


 今更だけど、今更だから。

 朱里は、その言葉だけを紡いだ。その口元には、笑みが刻まれている。

 ――しかし。



「ここで死ぬのは、まだ早い」



 振り下ろされた刃を弾き飛ばし、イタリア兵を薙ぎ払いながら。

 二人の男女が、処刑台へと舞い降りた。

 一人は、世界全てを嘲笑するような笑みを浮かべた女。

 一人は、漆黒の髪と蒼い瞳を携えた、どこか餓狼の如き雰囲気を纏う男。

 朱里にとって見覚えのある、その二人の名は。

 神道絶。

 護・アストラーデ。

 絶は朱里を助け起こすと、手に持っていた刀で朱里の拘束を全て切り裂いた。久し振りの解放感に、僅かに体がふらつく。


「大丈夫?」

「……お前たち、どうして」

「――理由は後だ」


 朱里の問いに答えたのは護だった。《氷狼》と呼ばれるその男は、構えた日本刀の切っ先をマタイへ向ける。


「悪いが、この処刑を止めさせてもらうぞ」

「な、何だ貴様らは!! 異端者に加担するというのか!?」

「それもまたこの男の言う『選択』だろうが。それにな、俺は神様なんてクソ野郎のことなんざ、信じちゃいねぇんだよ」


 吐き捨てるように護は言い、その暴言にマタイが表情を変える。護は、広場中に聞こえるように声を張り上げた。


「もう一度言おうか?――神なんざクソ喰らえだってんだよボケ共が!!」


 ――時が、止まった。

 世界最大宗派『聖教』の総本山たるヴァチカン市国。その中心で、あろうことかその全てを否定する言葉を紡いだ青年に、注目が集まる。

 そして、その沈黙を破ったのは……神を否定した青年だった。


「何だよ。天罰の一つでも起こるかと思えば。……自分を否定されても、テメェらの言う神様とやらは何もしてこねぇんだな」

「き、貴様ッ……!!」

「――神なんてのはな、いるとしたらただの傍観者なんだよ。誰も救いやしねぇ。貧しかろうが富んでいようが強かろうが弱かろうが大きかろうが小さかろうが関係ねぇ。見てるだけなんだ。そんなもん信じて何になる?」

「黙れッ!! 異端の仲間が!! おい、この者たちを捕らえろ!! いや、この場で処刑しろ!!」


 動き出す、イタリア軍の兵士たち。本来ならこの場で真っ先に動くべきなのであろう親衛隊の者たちは、黙り込んで動けずにいる。

 朱里の言葉と、マタイの言葉。どちらを信じ、何を選ぶべきか。

 そう――〝選択〟。

 こんなところにも、人が人として生きていくための条件がある。

 朱里は、視界の中にそんな親衛隊の姿を見る。だからこそ、彼もまた叫んだ。


「親衛隊!! ここが〝選択〟の時だ!! 選べ!! お前たち自身で!! お前たち自身のために!! 選べるのは、たった一つだけだ!!」


 そして――彼らは動く。

 手に持った銃を構え、朱里たちへと銃を構えていたイタリア軍の兵士たちを容赦なく撃ち抜いた。

 マタイが驚愕の表情を浮かべる。親衛隊の中の一人が、朱里たちに向かって声を張り上げた。


「お逃げください隊長!! 我々が時間を稼ぎます!!」


 その表情に、悲壮感はない。朱里は迷い、しかし、決断する。


「――いずれ、また」

「はい。――お先に」


 その言葉を受け、絶が朱里と共に処刑台を飛び下りた。護もその後を追い、殿を務める。

 広場は混乱する民衆でごった返していた。普通なら、抜けることなどできない状態。しかし。


「…………ッ!?」


 道が――開ける。

 朱里たちを送り出すように、そして、彼らを追う者たちを押し留めるように。

 人々が、銃撃戦の始まった混乱の最中でも、彼らを救うために道を開く。

 それもまた……彼らの〝選択〟。


「――ありがとう」


 再び、朱里はその言葉を呟いた。痛む体を叱責し、駆け抜ける。その朱里に、絶が並走しながら言葉を紡いだ。


「妹さんについては、すでに手は打ってるわ。アタシたちは急いで国外に脱出。合流するわよ」

「シベリアに亡命することになってる。不都合はあるか《赤獅子》」


 背後から殿を務める護がそんなことを言ってくる。この男とはそれなりに因縁があり、互いにそれは清算できていないのだが……きっと、彼もまた彼の中で〝選択〟をしたのだろう。

 ――ならば、こちらもまた選択をしなければならない。


「感謝する。恩は必ず返すぞ。それと、俺の名前は朱里だ、《氷狼》」

「護だ。護・アストラーデ」


 背後からの簡潔な言葉に頷き、そして、朱里は広場を出る。

 視線の先にあるのは、教皇が座す宮殿。ここから横へ逸れれば、抜けることもできるが……朱里は、それを選択しなかった。


「二人共、一つだけ迷惑をかける」


 何を、と聞かれる前に、朱里は言った。


「――俺の相棒を、取り返しに行く」


 背後から聞こえてくる、追え、という叫び声。

 その全てを背負い、ボロボロの身体で。

 紅蓮の獅子が、駆けていく。


 ――〝本物〟が待つ、その場所へ。



◇ ◇ ◇



「愉快も愉快。ふふっ、あははっ、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ♪」


 響く笑い声は、少女のもの。

 本来なら教皇が座すべきその玉座に、一人の少女が座っている。

 青い少女だ。青い髪と青い瞳。おおよそ通常ではありえないほどに鮮やかな色彩を持つその少女が、壊れたように笑っている。


「〝ヒト〟とはやはり、斯くも面白いですねー。だからこそ、問いましょうか。特別に、《七神》を交えず言葉を交わすチャンスをあげます」


 ねぇ、と少女が笑った。その視線の先には、三つの人影。

 手を差し伸べるように、少女はその手を伸ばし。

 悪戯を思いついた子供のように、微笑んだ。


「ねぇ、人間。質問に答えなさい。――〝自由〟とは、本当に必要なものですか?」

というわけで、EU編クライマックス。ここからノンストップでございます。


朱里の言葉は、演説の基本を用いてみました。所謂具体例、実体験のエピソードを交えるといったものです。これ、意外と重要ですよ?


とまぁ、そんなこんなで帝登場。次回、彼女の真実の一端が紡がれます。


ではでは、感想ご意見お待ちしておりますれば。


ありがとうございました!!

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